不死殺しのイドラ

彗星無視

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第3章エピローグ 別れと再会の物語

第65話 世界の果て、鮮烈ならぬ海魔

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「赤い皮膚、うねうねした触手……このイモータルとはまた違う不気味さ……まさか!」
「知っているのかベルチャーナ!」
「クラーケン、海に生息して船を襲うっていう伝説の魔物だよ! まさか実在するなんて……しかも見てあの見た目! 目玉がギョロっとしてて、うにょうにょした無数の手——うぅっ、気持ち悪い!!」
「そうですか……? お魚とは違う感じですけど、なんだか焼いて食べたら意外とおいしそうですっ」
「正気なのソニアちゃん!? あんなの食べられるわけないってー!」

 これも不死に蝕まれていた肉体が正常に戻りつつある証なのだろうが、最近のソニアは甘味以外の味もいくらか感じられるようになってきていた。
 おかげで食事が楽しいそうだ。その年相応な度合いを取り戻した食欲は、不気味な魔物にまで向けられていた。

「なんでもいいが、身構えろお前たち。迎撃せねば、こんな小さな船は簡単に沈むぞ」
「げ、迎撃って言ったって司教ぉ……あんな大きなの、海の上で倒すって言うんですか」
「元をつけろ元を。逃げ場がない以上そうするしかないだろう。イドラ、ソニア、間違ってもギフトを海に落とすなよ。回収は絶望的だ」
「ぁ……は、はい。えっと……わかりました」
「当たり前だ。あんたのギフトは落っことすことなんてなさそうで羨ましいね」
「フン。今は丁寧に錠までついているからな」

 軽口を叩き合いながらも、表情に余裕はない。
 クラーケンはあまりに巨大すぎた。頭の先から触手までを真っすぐ伸ばせば、全長だけならばヴェートラルにも迫るかもしれない。
 こんな巨大な魔物がいるなんて——
 イドラはしばし迷った末、左右の腰から下げた二本のナイフを両方とも取り出した。
 どこの町でも買えるような普通のナイフと、天から与えられた青い負数。それぞれを手の内で半回転させ、柄を逆手に握る。クラーケンの触手がイドラたちに向けて動き出したのは、それとまったくの同時だった。

「ゥ——ゥゥゥ————ッ」

 声というよりは、それは空気が漏れ出る音のようだった。
 そして攻撃と呼ぶには緩慢な、感触を確かめるような動き。だが絶対的な質量の差が、それを攻撃たらしめていた。

「うわっ……!?」

 触手のうち何本かが船に当たるだけで、船は大きく傾ぐ。
 二本のナイフを構えたイドラではあったが、足場の揺れに耐えるのが精一杯だ。

「イドラさん……どうしましょうっ、このままだと船ごと沈まされちゃいます!」

 ソニアも背負ったワダツミを抜きはしたが、船を襲う揺れにとても刀を振るどころではなかった。
 陸であればいざ知らず。海の上では、いかなイドラたちと言えど満足には動けない。

「うぅ~っ、地上ならあんなキショい魔物、簡単にボコボコにできるのにっ」
「……打つ手なしか? ベルチャーナ君」
「聖水はありますけどっ、海の上じゃあ近寄ることも……決定打に欠け——わ、わわっ」

 ドンッ、と再び船を揺らす衝撃。見えない海の中で、船に触手をぶつけてきたらしい。
 赤い手の群れは数を増し、取り囲むようにして徐々に船へ迫ってくる。ソニアは追い払おうと必死にワダツミを振るうが、クラーケンにしてみれば大した痛痒にもなりはしない。
 触手の一本斬り払おうと、すぐその空いたスペースをまた別の触手が埋めてしまうのだ。見える範囲だけでクラーケンの触手は百本や二百本はあり、ほとんどはただその場で海面から突き出て揺らめいているだけだが、いつ船を襲ってくるか知れたものではない。

「くそ、どうすれば……どうすればいい。僕のギフトじゃ、倒す方法なんて」

 芳しくない状況に、苛立ちと情けなさからイドラは歯噛みするしかなかった。
 不死殺しと呼ばれ、渓谷を埋めんとする大蛇のイモータルを仕留めた狩人が、不死身でもなんでもない魔物の一匹に苦しめられている。だが不死殺したるイドラは、だからこそ魔物に対する有効打を持たないのも事実。
 ハンドク砂漠で何度も襲ってきた砂中を往く魔物、シェイの群れもそれを捌いたのはほとんどソニアとベルチャーナだ。しかし彼女らも、これだけ巨大なものが相手ではこれまでのように鎧袖一触とはいかない。

「えいっ、やあ——……! きゃ、来ないでっ」
「ソニア! はあッ!」

 船の上にまで迫り、乗り上げようとする触手を払うソニア。だが物量に押され、ついには呑まれようとしていたところでイドラが助けに入った。
 左手に持つ逆手のナイフを突き刺し、その隙にソニアを下がらせる。
 しかし、それで稼げる時間はごくわずかだ。無数にあるうちのたかだか一本の触手を怯ませたところで焼け石に水、まさに四方を埋め尽くす大海の一滴ひとしずくと同義でしかない。

「うわーキショい! ウワー!」

 ベルチャーナも近寄る触手をとてつもなく嫌な顔をしながら協会支給のナイフで払ってはいるが、イドラと同様、一本ずつでしか対応できない程度のリーチしかない。
 だから複数本をひとまとめに刈り取れる、見た目にそぐわぬ細い腕に宿る力と太刀であるワダツミの長さを活かそうと、ソニア自身も奮闘していた。が、それでも抑えきれる量でないことは明白だった。

(ダメだ、僕たち三人じゃどうしようもない。こんななにもない海の上で……なすすべもないなんて!)

 クラーケンはいよいよイドラたちを海の藻屑とすることを決めたのか、ゆっくりと本体ごとイドラたちの乗る船体へと近寄ってきている。
 ゴッ——
 触手がまたぶつかったのか、ひときわ強く、船がひっくり返りかけるほどの揺れが起こる。転覆を避けられていても、このままでは船体の損傷で沈没は確定事項だ。
 魔物を不得手とするイドラでも、地上であればもっとやりようあっただろう。ベルチャーナも周りが地面であれば、聖水が海の水に溶けてしまうこともなく、うまく立ち回れた。ソニアもまた足場の不安定な船上でないのなら、未だその肉体にわだかまる不死の残滓による、常人を大きく超える力や敏捷さを活かせたはずだ。

 されど、そんな仮定もしに意味はなく。
 白と黄金の鮮烈な二色に彩られる怪物と違い、不死の理を持たずとも。世界の果て、広大にして無慈悲な海の上では、そこに棲む怪物にこそ利があった。
 この遠大なる青い水面のすべてが、イドラたちに牙を剥く罠となる。
 こんな魔物が世にいるなんて—— 
 後悔先に立たず。じわりじわりと迫りくる赤い壁のような触手の群れに、イドラは小さな帆船でここまで来た己の軽率さを呪った。

(もう、手は——)

 イドラに打開するすべはない。このまま、誰にも見つからない世界の果てで息絶える。
 そんなのは——どうしても受け入れられなかった。
 雲の上へ行け。追い続けてきたその遺言の真意を知れるかもしれない瞬間まで、あと一歩なのだ!
 そしてなにより、そんな自分の都合に巻き込んでしまっただけのソニアやベルチャーナまで犠牲になるのは間違っている。こんな末路は認められない。
 死ぬわけにはいかない。絶対に、死ぬわけにはいかない。

(手は……ある)

 手がない、ということもなかった。
 イドラにはない。ソニアにもない。ベルチャーナにもないだろう。
 だから、あとひとり。
 ひとつだけ残されている。手は手でも、禁じ手が。
 だがそれは——

(やるべきじゃない。許していいはずがない。……でも、そうしないと、僕のみんなもここで死ぬ!)

 懸命にワダツミを振るい、触手を近寄らせまいとするソニア。だが奮闘虚しく、少しずつ追い詰められた彼女の小さな背は、もうイドラのすぐそばにまで後退してきていた。
 既に船の半分ほどは、触手の群れに呑み込まれつつあった。触手の重さで船が傾く。
 毒を呑む決断が必要だった。
 心底苦い気分でイドラがそれを声に出そうとした時。同じタイミングで当人もまた、混乱と船のきしみと波音とを掻き消すような、人の上に立つ者の威厳を思わせるよく通る声を張り上げる。

「まったく、仕方のない。——私の拘束を解け、ベルチャーナ君!」

 二本の手と天恵を封じられ、苦境に陥る一行を静観していた男はそして、監視役に向かって詰め寄った。
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