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そんなことが日常と化していた。そんな日常は、学園以外にももちろんあった。アデライードが婚約してから、見える景色はそんなものだ。

街に出れば、笑顔溢れる人たちがいる。婚約するより、もっと以前までは、アデライードは落ち込んだ時には用もないのに街に出かけていた。

ジェルメーヌも一緒になって、カフェの席を陣取って行き交う人たちを見ては、楽しげにいつまでも話していた。そんな頃もあった。それだけで、嫌なことも、悲しいことも、何もかもリセットできた。また、明日から頑張ろうと思えた。

でも、今のアデライードは、街の人たちの笑顔を見に行こうと思う気力もない。それを見ても、心がほっこりすることもない。冷え切ったまま、温まることを忘れてしまったようだ。

全ては、アデライードにとって大事な人を亡くしたから、心も壊れてしまったかのように思われていた。アデライードも、出口の見えない迷宮に迷い込んでしまって、そこから出る気力もなくなっているような感覚を前までしていたが、今はそれすらなくなった。どんどん感覚が鈍くなってきている。

まるで、大事な人のことすら、どうでもよくなってきていることが最近は増えてきてしまっている。

もはや、アデライードの身体を何者かが乗っ取り始めたかのようになってきていたが、それを誰かに相談することも、怖いと思う気持ちもなかった。

この日は、その日常が少し違っていた。いや、全てが様変わりしたわけではない。その日から日常が増えただけとなっていくことになったが、初めてこんなことを言われたのだ。


「アデライード。もう少し、何とかならないのか?」
「? 何のことですか?」


王太子である兄のリシャールに突然、そんなことを言われてアデライードはわけがわからずに尋ね返した。

リシャールは、いつも突然だが、これでわかるほどの仲ではない。いや、仲が良くてもわからないはずだ。

王太子の側近で、これで理解できるのはオーレリアくらいのはずだ。他の側近たちは、理解できるまであれこれ聞かなくてはならないから、リシャールからしたら全く使えないと思っている。

全く使えないのが、自分だとは欠片も思っていないのだ。そういう人だから、オーレリアの側近たちがこぞって側近をやめたがっているのだが、それに全く気づいていない。

そんな人にこれだから、使えない人間は困るかのような目を向けられていた。アデライードでなければ、お前にだけは言われたくないと腹が立つところだろうが、ただリシャールのことをアデライードは見返しただけだった。

そんな感情も、この頃のアデライードにはなくなっていた。ただ、何とかしろと言うことがあったのは、わかった。それが、重要なこととは思えないが、今、きっちり聞いておかないとずっと言われ続けるだろうと思って、そう返した。


「はっきり言わないとわからないのか? 婚約者といる時くらい愛想よくしろ」
「……」


王太子とアデライードは、この通りあまり仲が良くない。母親が違う腹違いの妹が、王太子は気に入らないのは昔からだ。

そこから、アデライードがいかに気が利かないかを挙げ連ねた。それにアデライードは、婚約した時から変わっていないのに今更だと思ってしまったが、リシャールは今頃になって気づいた重大なことのように話してきた。

そんな王太子に今更そんなことを言い出すのかと呆れを通り越して、酷く残念な者を見る目をしながら、つまらなそうな顔を隠しもしなかったのはアデライードではなくて、第2王子である同腹の弟のバスティアンがしていた。

アデライードと違って、バスティアンはあからさまな態度を取ることが多かった。もっともあからさまな態度を取らないだけで、アデライードはずっと同じままなだけだったりするが、顔に出さないだけで久々に今更な話題を言うなと思っていた。

きっと、最近になって気づいたのだろう。オーレリアが、リシャールに愚痴ったとは考えられない。他の側近の愚痴か。周りで話しているのを耳にして、気を付けて見るようにでもなったのだろう。

これが、この国の王太子だ。残念なことこの上ない。

そもそも、婚約者と2人っきりでいたこともない。大抵、側に誰かしらがいる。あちらが忙しくしているから、2人っきりでいることなど婚約してから数えるくらいしかない。

それこそ、数年も経っているのに愛想よく今更したら周りが驚くと思うが、この王太子には重要な案件だったのだろう。

そこに気づくなら、執務で仕事をもっと精力的にして自分でしてくれればいいと思うが、それはオーレリアに丸投げすれば上手くいくから、やることがないのかも知れない。

愛想よくしろというなら、八方美人と化しているオーレリアにもの申してほしいところだが、リシャールが目についたのは、アデライードの愛想のなさだったようだ。

それもそうかも知れない。オーレリアにあれこれ注文をつけたら、代わりにやらせるのもへそを曲げてやってくれなくなるかも知らないのだ。

そんなことを昔のアデライードなら、あれこれ思いついたが、今のアデライードに瞬時にそんなことをあれこれ思いつく余裕はなかった。

すぐに反応したのは、アデライードではなかった。


「……なんだ。文句でもあるのか?」
「文句はないですよ。そもそも、興味ないので。先に失礼します」


バスティアンは、それだけ言うと食事を切り上げて部屋に戻ってしまった。アデライードのことなど見ようともせずに王太子が怒鳴り散らすのも何のそのでいなくなった。

ここに父である国王と王妃がいたら、そんなことしないだろうが、今日からしばらく外交で隣国に行っているため、子供たちだけで食事をすることになっている。

そうなると第2王子は、大概さっさと部屋に引っ込んでしまう。同腹とは言え、アデライードたちの母親は他界してしまっているため、ここで一緒に食事をするようになったのも、それからのことだ。

側妃であり王女と王子の母親が亡くなってから王妃が、国王に言ってアデライードたちも、ここに呼ばれるようになって、一緒に食事を取ることになったのだ。

王妃が、そう提案したことを父はよほど嬉しかったのか。アデライードたちもまじって食事をするのを楽しみにしているようだ。側妃が健在の時は、見向きもしなかったのに不思議だが、正妃があれこれ動くと大変だと思っている者と我が子が王太子になって余裕が生まれたのだろうと言う者がいた。大半は後者だ。

国王のお気に入りであり、寵妃だったのはアデライードたちの母の方だったのは、誰もが知っていることだ。

第2王子は、あからさまにこの食事会を面倒そうにしているが、父と王妃がいる時は、それをきちんと隠している。王太子にも、アデライードにも、隠す気がないだけだ。

それに比べてアデライードは、実母が亡くなってから笑わなくなっていた。楽しいと思うことも、面白いと思うことも、悲しいと思うことも、何もかも感じなくなって、それが日に日に酷くなってきていた。

王太子は、そのことに全く気づいていないようだ。一緒に食事を取るようになってからのアデライードしか知らないのだろう。

そもそも、王妃がなぜそんなことを言い出したのかもわかっていなくて、アデライードたちが一緒に食事を取ることが嫌で仕方がないようなのに変わりはない。それこそ、第2王子のように上手く隠すなんてする器用さもない。

バスティアンは、アデライードが知る限り昔からあんな感じだ。母が亡くなる前と後ではあまり変わっていない。……いや、以前より嫌われているかも知れない。きっと、頼りない同腹の姉に嫌気がさしているのだろう。いつまでも母の死を乗り越えられないのだ。情けなく思われても仕方がない。

そのため、弟が部屋に戻って残ったアデライードは、王太子に色々言われ続けることになるが、それすらアデライードは何とも思うことはなかった。


「大体、笑いもしないで、無表情のままなのも、どうなんだ? ジェルメーヌは、いつもにこやかで愛想だけはいいぞ」
「……」


訂正する。アデライードは、自分のことなら悪く言われようと何とも思わないが、ジェルメーヌのことをそんな風に言うのにはイラッとした。愛想だけがいいとこの王太子にだけは言われたくない。

アデライードは、まだ母親の死を受け入れきれていないだけだ。何年経っても、癒されなかった。気持ちが沈み、思考が暗い闇に囚われて抜け出せなくなりそうだ。

食欲もなくなり始めていて、美味しいと思うこともなくなっていた。そんなアデライードを見かねて、色々と食べさせようと周りがしているが、それすら食べる気にならなかった。

この日の王太子は、ネチネチと嫌なことを言い続けることを中々やめなかった。何かと気遣えない王太子にその後の夕食の度にあれこれ言われることになり、自分のことだけでなく、ジェルメーヌのことをあれこれ聞くことが一番辛かったアデライードは追い詰められ続けることになり、父である国王が外交から戻って来た日にアデライードは、ついに倒れることになった。

腹違いの兄と同腹の弟が、一緒に食事をしていれば、そのうち仲良くなると国王は思っていたようだが、逆に追い詰めることになっているとは思いもしなかったのだ。

この国王も、その辺が抜けていたと言える。


「王女が、倒れただと!? どういうことだ?!」


外交から戻って来た父は、アデライードのことを聞いて声を荒げた。それでも、倒れたと聞いて心配して事情を聞いたりとすぐに何があったのかと外交から戻って来て疲れているはずなのに王妃も一緒にアデライードのことを気にした。それすら、医者ではないからといって丸投げすることはなかった。

寵妃の娘であり、唯一の王女を国王は、大事にしていたのは、これだけでもよくわかった。

心労と過労、それに過度のストレスと栄養失調だと医者が診断したのを聞いて、王宮でのことはすぐに把握できたが、学園でのことは婚約者に聞くことになった。

オーレリアは、父親と一緒に呼び出されて、なんてことない風に答えた。それだけでは、埒があかずリシャールの婚約者のジェルメーヌがこれまた父親と一緒にやって来て、悲痛な顔をして答えた。

朝と夕方を王太子と第2王子と一緒に取っていたが、昼間は学園で婚約者と食べているかと思えば、生徒会の仕事で忙しい婚約者が時間が取れたら一緒に取ろうと言うので、取れるかも知れないからと食事を取れずに婚約者がやって来るかも知れないと婚約してから、そんなことを続けていて、昼を食べない日々が続いていた。

ジェルメーヌは、それに気づいて友人たちとどうにかしようとしていたが、いつの間にか習慣化してしまっていたと話したのだ。

それでも、朝のと夜はちゃんと食べているものと思っていたが、最近痩せすぎているから、放課後にカフェに誘ったりして、甘いものは食べていたと話をしたが、それでも栄養が足りるわけがないと泣いて悔やんだ。

オーレリアは、ジェルメーヌが泣くのにおろおろして、アデライードが倒れたと聞いても顔色一つ変えてはいなかった。

そのことで父親にオーレリアは叱責されても、気にしたのはジェルメーヌのことだけだった。

国王は、そんなのがアデライードの婚約者だったのかと呆れるばかりで、優秀だと聞いていたのに婚約者よりと王太子の婚約者をやたらと気にかけるのに腹を立てたのは、すぐだった。

更に王宮では、朝と夕方はアデライードは低血圧で食べる気がしないと言い、夕方は疲れて早く休みたいからと言っていたにも関わらず王太子にネチネチと色々言われ、少食と言うにはあまりにも食べていない日が続いていたこともわかった。

国王が外交しに行く前と今ではだいぶ痩せていた。このくらいの年頃の女の子は体重を気にするものと王妃が言うので、少食なのも仕方がないと思っていたことが、こんな形でそんなことはなかったとわかることになったのだ。

昼のことを聞いて、国王は婚約者だけでなく、王太子に聞いても埒があかず、ジェルメーヌに聞いて絶句した。

更には、王太子がケロッとした顔でアデライードに何をしていたかを話したのだ。それを一緒になって聞いていた王妃も、ぎょっとした。


「あなた、そんなことを王女にしていたの?」
「?」
「愛想よくしろだなんて、そんな酷いことを言っていたなんて……」


王妃は、顔色を青ざめさせた。流石にそんなことを今のアデライードに言う者はいない。


「は? 何が、酷いんですか? 王女なのにそのくらいできなくて、どうするんですか。母上まで、アデライードを甘やかすようなことを言わないでください。そんなことを周りがしているから、図に乗るんですよ」
「……お前、それを本気で言っているのか?」


国王は、王太子のことを冷めた目で見るようになったのは、この時からだ。いや、これまでも王太子としては足りないところがあると思って見ていたやうだが、中々王太子として認められなかった理由すらわかっていなかった。

それこそらこの時の王太子はまだ自分が何をしたかに気づきもせず、アデライードが倒れたことも大したことないと思っていた。

もっとも、大したことないと思っていたのは、アデライードの婚約者も同じようなものだったが。

オーレリアという側近がいなければ、王太子としては不十分だと思われていたことすら知りもしなかった。


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