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番外編
絶望と恋心と(ユーレン/ジョエル視点)
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「エマ、様……」
提示された書類を持つ手が小さく震える。
知られてしまった。
私が悪魔の手先であり、全てを欺いていたことが、誰よりも知られたくなかったあの方に──
「ぐっ……⁉︎」
いきなり襟ぐりを掴み上げられて息が詰まる。私を冷ややかに見下ろすのは誰よりも憎い男──ジョエル・ヴァルク。
「気安くその名を呼ぶな。死期を早めるだけだぞ」
酷薄な微笑を湛えるその様は、はなはだ残忍で禍々しいほどに美しい。
「私がエマ様を、どう呼ぼうが……くっ! お前には、関係ない」
息を詰まらせながら睨み上げると、公爵はすっと目を細めた。
この男は何故私をこんな目で見るのだ? エマ様を易々と手に入れておいて、まるで恋敵でも見るような──
そこでハッとする。
恋敵?
そもそも二人は不仲ではなかったか?
エマ様は婚前この男が大嫌いだと公言していた。だからいずれ付け入る隙はあるはずだと目算していた。公爵だってエマ様には無関心で冷淡だったではないか。
だが公爵のこの目はなんだ? この男、まさかエマ様を──?
「エマは俺の妻だ。立場を弁えろ、ユーレン・アルバ」
「ぐあっ!」
椅子から蹴落とされて上から思い切り肺を踏みつけられた。息が詰まって冷や汗が頬を伝う。この男、本気だ。私に向かって放たれる殺気は本物だった。
公爵は剣を鞘から引き抜くと、ザクリと私の顔の真横に突き立てた。
「この手で殺せないのが残念だ。お前など肉片にしてもまだ足りないというのに」
ゾクリと背筋が粟立つ。深淵を思わせる瞳は沼のように底が見えず、得体の知れない闇を覗かせていた。
──何だ、この男は?
闇よりもなお濃い闇を纏わせる様は、さながら死神のようではないか。ジョエル・ヴァルクとはこんな男だったか?
本能が告げる。
この男には逆らうなと。心情的には最も従いたくない相手だというのに、剥き出す前に牙を折られるとは、なんたる屈辱か。
「お前自ら子爵に引導を渡せ。それが出来ないなら……分かるな?」
爪先で顎を上向かされた拍子に、首筋に鋭い痛みが走った。刃に触れて皮一枚切れたようだ。
「分かっ……た」
私を見下ろすジョエル・ヴァルクの恐ろしく陰惨な笑みに、抗う気持ちなど霧散した。
あれからどれだけの時が経ったのか。
ウラニ子爵は刑に処され、既にこの世にはないと伝え聞いた。
調査書を見るまで知らなかった私の実父。死んだと聞いても何の感慨も湧かなかった。元より親子の情などあるはずもなく、ただ従順な道具であるよう叩き込まれた、それだけの男。
私の脳裏に浮かぶのは、ひたすらエマ様のことばかり。
エマ様、エマ様。
さぞ私を軽蔑されていることでしょう。欺かれたと憤慨されていますか?
私の全ては偽りですが、この想いだけは本物でした。
私はあなたを……愛しています。
企みが成功すれば好きにしていいとの言葉に、私の心は決まったのです。
そうでもしなければあなたは、高嶺の花でいらっしゃるあなた様は決して私の手になど届かない。
今となっては全てが後の祭りですが。
叶うことなら一目でいいからお会いしたい。怒りをぶつけられても、罵られても構わない。一目エマ様のお顔が見たい──
「ユーレン……」
空耳かと思った。縋るように声の方へと視線を巡らせる。
「エマ……様?」
鉄格子の向こう側に、会いたくて焦がれて堪らないあの方が佇んでいた。
「何故……ここに?」
記憶の中よりも一層艶めかしくお美しいエマ様は、痛ましい眼差しを私に向けていらっしゃる。
「私に会いたがっていると聞いたから、最初で最後という条件で来たのよ」
誰に、など問うまでもない。
「あんなにも嫌っていらっしゃったのに、随分と睦まじくなられたのですね」
エマ様は一瞬苦しげに眉を顰めると、すぐに唇に美しい弧を描いた。
「言いたいことはそれだけ? ならば時間を無駄にしたわ」
「待って下さい!」
握り締めた鉄格子がガシャリと大きな音を立てた。エマ様は不快げに眉根を寄せる。
「まだ私に何か言いたいことでも?」
覚悟はしていたものの、エマ様の氷のような眼差しは想像以上に私の心を深く抉った。
胸苦しさに怯みそうになる心に叱咤する。これが最後なのだからと。
「明日をも知れぬ我が身なればこそ、ようやくお伝えすることができます。エマ様、あなたを愛したこの心だけは私の真実でした」
エマ様は眉一つ動かすこともなく静かに私を見据えていた。
「お前にはお前の立場、事情があったのは理解している。その言葉にもきっと嘘はない。でもね、お兄様を……カレンガ家を欺いて陥れた事は絶対に許せない。いずれここを出る事があっても、決して私達の前には姿を現さないで」
「エマ様……私は」
「真実を明らかにしてくれた、この一点だけは感謝しているの。今日ここへきたのは最後の旧情から、かしらね」
旧情……次はないのだとエマ様の瞳がはっきりと告げている。私はただ茫然と立ち尽くすことしか出来なかった。
「話は終わったか」
はじめから成り行きを見守っていたのだろう、ジョエル・ヴァルクがエマ様の元へ歩み寄り、やけに慣れた手つきで腰を抱き寄せた。
「ええ、もう話すことはないわ。ありがとうジョエル」
公爵を見上げると、エマ様は柔らかく微笑む。合わさる二人の視線には確かな情が通い合っていた。私が知る限りあり得なかった温かな情が。
そんな、バカな──
何かが足元からガラガラと崩れ落ちてゆく。密かに絶望の淵に突き落とされる私を見て、ジョエル・ヴァルクは確かに笑った。その顔が見たかったのだと言わんばかりに。
殺しはしない。
その癒ぬ絶望を抱えて生きていけ。
脳裏に響いた言葉は誰のものだったのか、もう私には分からなかった──
「慣れない場で緊張したか?」
「ええ、そうかもしれない」
微笑みながらも小さく震えるエマをそっと抱き寄せた。
「でも、あなたが居てくれたから大丈夫よ。ありがとう」
エマは甘えるように俺の胸元に頬を擦り付ける。ああ、可愛すぎて堪らない。ぐっと抱きすくめて首筋に顔を埋めると、鼻腔をくすぐる甘い甘いエマの香り。俺は無意識に甘噛みをしてそこを吸い上げた。
「ん……ジョエルだめ、そろそろ」
「ああ……帰したくないな」
エマはくすくすと笑いながら俺の背を撫でた。
「大袈裟ね。また数刻後には屋敷で会えるじゃない」
「……そうだな」
分かってはいても、顔を見てしまえば離れ難く、存在が恋しくて堪らなくなる。
「さっさと仕事を終わらせてくる」
「ええ、待ってる。早く帰ってきてくれたら嬉しいわ」
俺を見上げてにっこり微笑むエマ。ダメだ、気持ちが溢れ出して止まらない。
「……愛してる」
エマは僅かに頬を上気させると、素早く辺りを見回して俺に口付けた。
「私も、愛してるジョエル」
悪戯っぽく笑うとエマは軽やかに身を翻して馬車に乗り込んだ。
「今日はありがとう。また後で、ね」
「ああ」
一緒に乗り込みたい気持ちを必死に押し殺して俺は馬車の扉を閉めた。ほんの数刻の別れだというのに、押し寄せる寂寥に胸が軋む。
馬車が見えなくなるまで見送って、俺は執務室へと足を向けた。
ユーレンが収監されてから半年といったところか。あの男は毎日のようにエマに会わせて欲しいと訴えていた。
全てが明るみに出て、どれほど疎まれているか分かってるだろうに、なりふり構わずエマを求めるその姿にはどこか既視感があった。
全く忌々しいほどに──
ある晩俺は、エマにユーレンのことを話し、判断を委ねてみることにした。
「……良いわ、会いに行く」
「そうか」
「一言文句を言わないと気が済まないから、一度限りよ。本当なら顔だって見たくないもの」
怒りに震えるエマを抱きしめながら、俺は内心ほくそ笑んだ。
前世ユーレンがどれだけエマに恋着し、その身を捧げてきたか俺は知っている。ユーレンはエマを得たいがために、それこそどんな汚いことでもやってのけた。
そしてそれは今生も変わらない。
ウラニ子爵の一件のみならば、ユーレンは数年で自由の身となるはずだった。
だが俺は敢えてユーレンが関わった裏稼業の証拠も上奏書に添えた。
陛下は大層なお怒りようで、ユーレンは生涯日の目を見ることは叶わないだろう。
前世を思えば殺しても殺し足りない男だが、救いなき絶望の生が死より尚酷であることを、俺は身をもって知っている。
恋焦がれたエマがジョエル・ヴァルクのものである現実は、お前を深い絶望の谷へと突き落とすだろう。
ユーレン、殺しはしない。
その癒ぬ絶望を抱えて生きていけ──
「ジョエル?」
ハッと我に返ると、エマは不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。俺にだけ見せるその無防備さが愛おしくて堪らない。
「すまない。ユーレンをどう痛めつけてやろうか考えていたところだ」
「まあ……あなたが手を汚すことなんてないわ。そんなつまらないことに」
つまらないこと、か。
そんな言葉すらユーレンにとっては耐えがたい痛みとなるだろう。
「そうだな、エマとの大事な時間を下らないことに費やすのは勿体ない」
エマが嬉しそうに笑っただけで、俺の頭からユーレンのことなど消え失せた。
「ジョエル……」
誘うように開かれた唇を狂おしく貪りながら、二人ベッドに沈み込む。
心が過去に引きずられる今日はとても優しくできそうにない。余裕のない愛撫にきっとエマも察している。
「すまない……」
御しきれない本能のまま、エマの柔らかさに耽溺してゆく。愛おしさと狂おしさの間に激しく乱れる俺を、エマはただ優しく抱きしめ受け入れた。
ああエマ……愛してる、愛してる。
心は満たされる程に苦しい。
「愛してる、ジョエル……愛してるわ」
その存在を、生を、愛を。
執拗に確かめずにはいられない壊れた俺に、エマは何度も囁く。
壊れたあなたも、狂ったあなたも愛していると。
「おやすみなさい、ジョエル……」
その甘く優しい声音から、全身に深く染み入るようなエマの愛を感じながら、俺は柔らかな微睡に身を委ねた。
俺にピッタリと身を擦り寄せるエマの体温を感じながら──
提示された書類を持つ手が小さく震える。
知られてしまった。
私が悪魔の手先であり、全てを欺いていたことが、誰よりも知られたくなかったあの方に──
「ぐっ……⁉︎」
いきなり襟ぐりを掴み上げられて息が詰まる。私を冷ややかに見下ろすのは誰よりも憎い男──ジョエル・ヴァルク。
「気安くその名を呼ぶな。死期を早めるだけだぞ」
酷薄な微笑を湛えるその様は、はなはだ残忍で禍々しいほどに美しい。
「私がエマ様を、どう呼ぼうが……くっ! お前には、関係ない」
息を詰まらせながら睨み上げると、公爵はすっと目を細めた。
この男は何故私をこんな目で見るのだ? エマ様を易々と手に入れておいて、まるで恋敵でも見るような──
そこでハッとする。
恋敵?
そもそも二人は不仲ではなかったか?
エマ様は婚前この男が大嫌いだと公言していた。だからいずれ付け入る隙はあるはずだと目算していた。公爵だってエマ様には無関心で冷淡だったではないか。
だが公爵のこの目はなんだ? この男、まさかエマ様を──?
「エマは俺の妻だ。立場を弁えろ、ユーレン・アルバ」
「ぐあっ!」
椅子から蹴落とされて上から思い切り肺を踏みつけられた。息が詰まって冷や汗が頬を伝う。この男、本気だ。私に向かって放たれる殺気は本物だった。
公爵は剣を鞘から引き抜くと、ザクリと私の顔の真横に突き立てた。
「この手で殺せないのが残念だ。お前など肉片にしてもまだ足りないというのに」
ゾクリと背筋が粟立つ。深淵を思わせる瞳は沼のように底が見えず、得体の知れない闇を覗かせていた。
──何だ、この男は?
闇よりもなお濃い闇を纏わせる様は、さながら死神のようではないか。ジョエル・ヴァルクとはこんな男だったか?
本能が告げる。
この男には逆らうなと。心情的には最も従いたくない相手だというのに、剥き出す前に牙を折られるとは、なんたる屈辱か。
「お前自ら子爵に引導を渡せ。それが出来ないなら……分かるな?」
爪先で顎を上向かされた拍子に、首筋に鋭い痛みが走った。刃に触れて皮一枚切れたようだ。
「分かっ……た」
私を見下ろすジョエル・ヴァルクの恐ろしく陰惨な笑みに、抗う気持ちなど霧散した。
あれからどれだけの時が経ったのか。
ウラニ子爵は刑に処され、既にこの世にはないと伝え聞いた。
調査書を見るまで知らなかった私の実父。死んだと聞いても何の感慨も湧かなかった。元より親子の情などあるはずもなく、ただ従順な道具であるよう叩き込まれた、それだけの男。
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エマ様、エマ様。
さぞ私を軽蔑されていることでしょう。欺かれたと憤慨されていますか?
私の全ては偽りですが、この想いだけは本物でした。
私はあなたを……愛しています。
企みが成功すれば好きにしていいとの言葉に、私の心は決まったのです。
そうでもしなければあなたは、高嶺の花でいらっしゃるあなた様は決して私の手になど届かない。
今となっては全てが後の祭りですが。
叶うことなら一目でいいからお会いしたい。怒りをぶつけられても、罵られても構わない。一目エマ様のお顔が見たい──
「ユーレン……」
空耳かと思った。縋るように声の方へと視線を巡らせる。
「エマ……様?」
鉄格子の向こう側に、会いたくて焦がれて堪らないあの方が佇んでいた。
「何故……ここに?」
記憶の中よりも一層艶めかしくお美しいエマ様は、痛ましい眼差しを私に向けていらっしゃる。
「私に会いたがっていると聞いたから、最初で最後という条件で来たのよ」
誰に、など問うまでもない。
「あんなにも嫌っていらっしゃったのに、随分と睦まじくなられたのですね」
エマ様は一瞬苦しげに眉を顰めると、すぐに唇に美しい弧を描いた。
「言いたいことはそれだけ? ならば時間を無駄にしたわ」
「待って下さい!」
握り締めた鉄格子がガシャリと大きな音を立てた。エマ様は不快げに眉根を寄せる。
「まだ私に何か言いたいことでも?」
覚悟はしていたものの、エマ様の氷のような眼差しは想像以上に私の心を深く抉った。
胸苦しさに怯みそうになる心に叱咤する。これが最後なのだからと。
「明日をも知れぬ我が身なればこそ、ようやくお伝えすることができます。エマ様、あなたを愛したこの心だけは私の真実でした」
エマ様は眉一つ動かすこともなく静かに私を見据えていた。
「お前にはお前の立場、事情があったのは理解している。その言葉にもきっと嘘はない。でもね、お兄様を……カレンガ家を欺いて陥れた事は絶対に許せない。いずれここを出る事があっても、決して私達の前には姿を現さないで」
「エマ様……私は」
「真実を明らかにしてくれた、この一点だけは感謝しているの。今日ここへきたのは最後の旧情から、かしらね」
旧情……次はないのだとエマ様の瞳がはっきりと告げている。私はただ茫然と立ち尽くすことしか出来なかった。
「話は終わったか」
はじめから成り行きを見守っていたのだろう、ジョエル・ヴァルクがエマ様の元へ歩み寄り、やけに慣れた手つきで腰を抱き寄せた。
「ええ、もう話すことはないわ。ありがとうジョエル」
公爵を見上げると、エマ様は柔らかく微笑む。合わさる二人の視線には確かな情が通い合っていた。私が知る限りあり得なかった温かな情が。
そんな、バカな──
何かが足元からガラガラと崩れ落ちてゆく。密かに絶望の淵に突き落とされる私を見て、ジョエル・ヴァルクは確かに笑った。その顔が見たかったのだと言わんばかりに。
殺しはしない。
その癒ぬ絶望を抱えて生きていけ。
脳裏に響いた言葉は誰のものだったのか、もう私には分からなかった──
「慣れない場で緊張したか?」
「ええ、そうかもしれない」
微笑みながらも小さく震えるエマをそっと抱き寄せた。
「でも、あなたが居てくれたから大丈夫よ。ありがとう」
エマは甘えるように俺の胸元に頬を擦り付ける。ああ、可愛すぎて堪らない。ぐっと抱きすくめて首筋に顔を埋めると、鼻腔をくすぐる甘い甘いエマの香り。俺は無意識に甘噛みをしてそこを吸い上げた。
「ん……ジョエルだめ、そろそろ」
「ああ……帰したくないな」
エマはくすくすと笑いながら俺の背を撫でた。
「大袈裟ね。また数刻後には屋敷で会えるじゃない」
「……そうだな」
分かってはいても、顔を見てしまえば離れ難く、存在が恋しくて堪らなくなる。
「さっさと仕事を終わらせてくる」
「ええ、待ってる。早く帰ってきてくれたら嬉しいわ」
俺を見上げてにっこり微笑むエマ。ダメだ、気持ちが溢れ出して止まらない。
「……愛してる」
エマは僅かに頬を上気させると、素早く辺りを見回して俺に口付けた。
「私も、愛してるジョエル」
悪戯っぽく笑うとエマは軽やかに身を翻して馬車に乗り込んだ。
「今日はありがとう。また後で、ね」
「ああ」
一緒に乗り込みたい気持ちを必死に押し殺して俺は馬車の扉を閉めた。ほんの数刻の別れだというのに、押し寄せる寂寥に胸が軋む。
馬車が見えなくなるまで見送って、俺は執務室へと足を向けた。
ユーレンが収監されてから半年といったところか。あの男は毎日のようにエマに会わせて欲しいと訴えていた。
全てが明るみに出て、どれほど疎まれているか分かってるだろうに、なりふり構わずエマを求めるその姿にはどこか既視感があった。
全く忌々しいほどに──
ある晩俺は、エマにユーレンのことを話し、判断を委ねてみることにした。
「……良いわ、会いに行く」
「そうか」
「一言文句を言わないと気が済まないから、一度限りよ。本当なら顔だって見たくないもの」
怒りに震えるエマを抱きしめながら、俺は内心ほくそ笑んだ。
前世ユーレンがどれだけエマに恋着し、その身を捧げてきたか俺は知っている。ユーレンはエマを得たいがために、それこそどんな汚いことでもやってのけた。
そしてそれは今生も変わらない。
ウラニ子爵の一件のみならば、ユーレンは数年で自由の身となるはずだった。
だが俺は敢えてユーレンが関わった裏稼業の証拠も上奏書に添えた。
陛下は大層なお怒りようで、ユーレンは生涯日の目を見ることは叶わないだろう。
前世を思えば殺しても殺し足りない男だが、救いなき絶望の生が死より尚酷であることを、俺は身をもって知っている。
恋焦がれたエマがジョエル・ヴァルクのものである現実は、お前を深い絶望の谷へと突き落とすだろう。
ユーレン、殺しはしない。
その癒ぬ絶望を抱えて生きていけ──
「ジョエル?」
ハッと我に返ると、エマは不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。俺にだけ見せるその無防備さが愛おしくて堪らない。
「すまない。ユーレンをどう痛めつけてやろうか考えていたところだ」
「まあ……あなたが手を汚すことなんてないわ。そんなつまらないことに」
つまらないこと、か。
そんな言葉すらユーレンにとっては耐えがたい痛みとなるだろう。
「そうだな、エマとの大事な時間を下らないことに費やすのは勿体ない」
エマが嬉しそうに笑っただけで、俺の頭からユーレンのことなど消え失せた。
「ジョエル……」
誘うように開かれた唇を狂おしく貪りながら、二人ベッドに沈み込む。
心が過去に引きずられる今日はとても優しくできそうにない。余裕のない愛撫にきっとエマも察している。
「すまない……」
御しきれない本能のまま、エマの柔らかさに耽溺してゆく。愛おしさと狂おしさの間に激しく乱れる俺を、エマはただ優しく抱きしめ受け入れた。
ああエマ……愛してる、愛してる。
心は満たされる程に苦しい。
「愛してる、ジョエル……愛してるわ」
その存在を、生を、愛を。
執拗に確かめずにはいられない壊れた俺に、エマは何度も囁く。
壊れたあなたも、狂ったあなたも愛していると。
「おやすみなさい、ジョエル……」
その甘く優しい声音から、全身に深く染み入るようなエマの愛を感じながら、俺は柔らかな微睡に身を委ねた。
俺にピッタリと身を擦り寄せるエマの体温を感じながら──
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