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硝子の向こうから聞こえた言葉は

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「死にたい」
 無数に飛び交う言葉の中で、唯一、と言っても過言ではなかろう。この字列だけが私の胸裏にこびりつく。それはどこに行ったとしても、呪いのようにかけられた呪縛から解き放たれることはないのだと、齢二十半ばにして悟ってしまった。
 幼い頃から、いわゆる挫折というものは経験したことはない。勉強に困ったこともなければ貧困にも襲われたこともなく、決して裕福ではなかったが、食べるものがないということはなかったのだ。
 故に、途轍もなく不幸な人生だった。
 現実は小説よりも奇なりと言われるが、人生の面白さや趣深さと云うのは、苦悩や挫折、あるいは感嘆、悲哀により味付けをされる。少なくとも現実よりも淡白だとされる物語でもそうなのだ。それであるのならば、私の人生とは一体どれほどだろうか。本当の幸いなど、相対的である化のように見えたとしても、結局は絶対的に決められてしまっているが故に、生きている意味など見いだせるはずもない。
 今就いている仕事自体は嫌いではない。誰かのために奉仕しているこの状況は社会全体への奉仕に直結し、よりよくなるための一端を担うことだと自負している。むしろ、ここまで面白い職業もなかなか多くはないかもしれない。それでいても、やはり仕事というもの自体が好きなのだから、何をしていてもやはり愉しいし、面白いと思っている。
 
「仕事が楽しい、なんて変わってるね」
 未来も変わらずそう思った。心の底から発した言葉ではなかったけれども、なぜか口がそう動いた。
「未来さんも——そう思いますか」
 だから、この閻魔さんの言葉に対して何も返すことができなかった。直立不動のまま、ただ呆然と立ち尽くすばかりだ。


 昼下がりの休憩の時、珍しくその間に受け持っていた仕事に目処がついていた。息苦しい会社を一度出て今日は昼を食べよう。昼時になれば、飲食店はかなり混むのだということを改めて知る。
 はいったカフェテリアは程よくおしゃれでカジュアルな雰囲気が、お年寄りから学生までごった返していた。
 この店にはマンデリンのストレートがあったため、それをいただくことにした。木ぐみされた天井と、黒を基調としたレザーの質感が程よいリラックス効果をもたらす空間にいやされつつ、空いていた壁際の席へと腰を下ろす。
「何やってんの!」
 婦人とはとても思えないような怒号が私の耳を劈いた。
 その声のベクトルとは裏腹に、その一応便宜上婦人としておく彼女の先には、幼い娘が子供用の椅子を持ってきていた。
「なんで椅子動かしたの!?これじゃあ荷物置けないでしょ!!」
 爆撃に似た音が空間に爆ぜる。
 優れた脳細胞が、愚かすぎる猿人によって殺害されたのだ。それでも少女は水分を流すことはない。ただ黙って、子供用の椅子を持ったままだった。
 付き添いには老母がいた。老母はその愚かな婦人に対して何をいうわけでもなく、ただ少女に対して叱りつけている。一通りして二人は少女を置き去りにし、喫煙室へ向かって行った。
「黙ってどっか行くんじゃないよ!」
 汚い声が、空気を振るう。その捨て台詞を残して消え去った。
 私は 、これまで他人には興味がないと思っていた。それゆえに、殺人を犯したりするもの、特に計画的でなかったと供述するものの心情というのは、理解出来ていなかった節があった。
 だが、この時初めてそうした殺人衝動のようなものを胸中で発見することが出来たのだ。同時に気がついた真理について考察しようとした束の間に、今度は他方から声が聞こえてきた。
「」

 耳を全方位に意識してみると、それが何か特別なものでなかったということを知った。そうしたことは何も特異な事象ではなく、日常の一片でしかなかったのだ。
「こちらコーヒーでございます。」
 その声とともに、ウエイトレスが運んできた。注文したのが、もう何時間も何日も前であるかのような感覚だった。思考を一旦止めて心を落ち着けよと言い聞かせる。
「ありがとう」
 運んできてくれた礼を言おうとした瞬間、がしゃんと無遠慮に置いて彼女はそのまま過ぎ去ってしまった。呆然としていた時が、一体私の中に何を刻んだのか。言葉ではなく、質量を持った煙のような感情が、胸の奥底から這い上がってきた。口から上がるその以前に、テーブル奥のコーヒーで押し込もうとした。だが、口をつけるまでもなく手遅れであった。
 黒紅だったはずのカップの中身は、もう赤色が消えていた。ぬるいお湯を一口含み、そのまま席を立った。
 会社へ戻ると、いつもは聞こえるはずのない声が聞こえてくる。
「いやあ、ほんと仕事やめたい」
「それな」
「でも働かないと生きてけないしねえ」
「ほんとそれな」
「いやあ、やめてえ。死にたいわ」
 言葉の表層からは悲愴や無常といったような感情は聞こえてはこない。
「楽しい? そんなわけないでしょ」
 例に漏れずこう言うのは、同期の人間である。名前はもう覚えていない。いや最初からその人間の固有名詞など、覚える必要がなかったのだ。普段は記号めいた言葉でしか使わないのだから、不便さも毛頭ない。
「では、なんのために仕事をしてるのですか」
「あんねえ、みんなは生きていくために働かなきゃいけないんだから、辛くても仕方ないっしょ」
 まるで地球が静止しているかのごとく当然であるように、そう言われた。
「あんたは? なんで仕事してんの」
「———」
 一言だけ呟いて、私はその場を後にした。
 そして次の日、流れるようにして私は会社を辞めた。



「未来さんは———自分が不幸だと思ったことありますか」
「不幸ですか・・・・。確かに、くだらないことではありますけれど。今思うと、そんなに不幸ではなかったかもしれないです・・・・」
「そうですか———それは、何よりです」
「閻魔さんは、不幸だったんですか?」
「私は」
「勿論———。だからこうして今も、生きるとは何なのか。私自身未だ解っていないのです」


「閻魔大王。そろそろ、お時間が」
 代理補佐が呼びかける。勇み足で入りながらも落ち着いている。
「わかりました」
 そう云って、閻魔さんはさっきまで持っていたファイルを速やかに、そして何もなかったかのような振る舞いで、片付けて支度をした。
「それでは。この辺で失礼致します」
 突きささりもしない。無機的な表情の声。その風貌にお誂え向きの、淡白な振動が私の表面を透って行く。受け止める間もなく、ただただ、透き通る。
「閻魔さん!」
 それでもつかもうとした。掻き乱されたぐちゃぐちゃの頭でも、このままだと、何もない自分がたった一人。混濁の中から出してきたのは苦し紛れの童心だ。
「はい、何でしょう」
「私は———これからどうしたら、いいですか——————」
 限りなく私の部屋に近かった有機的な色のない空間は、ゆっくりと、失われえていた時間を戻すが如く、身体を眠りに着けるかのように、元の無機質な空間へと戻っていった。
 私が切望した言の葉の向こうに、閻魔さんは、それは———、と口が動いていたように感じた。答えのない命題。問いのない正解。決して手中には収まらないのにもかかわらず、質量だけは介在している。わかるけれどもわからない。見えるけれども見えていない。不変の真理など存在しない真理があるような、そんなパラドックスを抱えてしまった。
 飽和した思考から、どうしようもない眠気が襲ってくる。空間の戻った部屋は、布団が敷っぱなしだ。体をそのまま布団に預けて、瞼を閉じることにした。


 夢を見た。掌がじんわりと汗ばんでいる。体温がいつになく高い。スマホの時計は矢張り一日だけ進んでいた。毎日セットしているアラームがなる時刻よりはほど早い。瞼は落ちることなく、上体を布団から起こした。
 頭のうちにかかる靄はもう在りえない。冷たく漂う空気が一層思考をクリアにする。あたりを見渡しても、机や椅子も自分の分だけだ。布団を片付けて、早々に制服に着替える。鞄を手にして、自室を出て家の中で支度を済ませた。
 外学校へ向かう途中、朝露の香りに気がついた。太陽と、それが気化した香りが鼻腔を通る。重たい排気なんかではなく、冷たい緑が体内の血液と化合して行くような錯覚に陥った。有機的なアスファルトを踏みしめいくローファーが心地よい。Polyurethaneなんかよりも自分の足にしっかりと吸い付いて、体の一部のように感じられる。コツコツといった音が、広がるブルーと緑とグレーのコントラストにハーモニーを与えているようだ。
 今日は人が少ない。見ると、人は下を向いている。俯きざまに、耳には電子音を流して閉塞感に浸っていた。何も言えない。
 そんな道を後にして、一本道から外れてジグザグな道を歩いて行く。大きな通りではなく、枝分かれする小道を振り返ることなく、しっかりと踏みしめた。道端に見慣れない英字新聞が落ちてある。それを拾い上げようとしたけれども、風が舞い上がってどこかへ行ってしまった。
 その途中、スーツ姿の男性とすれ違った。一瞬だけ振り返り足を止めそうになったが、振り返ったその瞬間にはもう見えなくなっていた。

 男はまた歩みを止めた。
 ゆっくりと、その顔を上げる。
 見上げた視線その向こうは、どこかでも、誰かでも、未来でもない。その目は口よりも開く実に判然と物語っていた。
 吹き上げる風は枯葉と共にゴミが紛れていた。汚れた新聞は、そっけない答えを言うばかりである。
 語られたのは、その相応しくない数万の言葉であった。
 ふと見上げると、もうそこには誰もいなかった。
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