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冬
ピンクのレース
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「これ、受け取ってください!」
下校中の私の前に立ちはだかったのは、華奢な女の子だった。
顔を真っ赤にし、俯きながら両手で綺麗にラッピングされた箱を差し出している。十中八九、中身はチョコレートだ。だって、今日はバレンタインデーなんだから。
心の中で『またか』と辟易しながらも、努めて穏やかに言った。
「返事はできないけど、それでもいい?」
バッグの中にはもう両手で抱えきれないくらいのチョコレートが入っている。今日は朝からこんなやりとりばかりだ。
「はい、構いません!」
語尾が震えているのが、なんともいじらしい。
彼女の顔をのぞき見て、しょっちゅう見る顔だなと気づいた。部活の帰りに遠巻きにこちらを見ている子だ。ぷっくりとした唇がほんのりピンクで、フェミニンだ。箱を持った手だって小さくて、可愛い。
彼女とは対照的に大きい手を差し伸べて、プレゼントを受け取った。嬉しそうに顔を上げた女の子は、うっすら涙まで浮かべている。
「気持ちは嬉しいよ。ありがとう。もう暗いから気をつけて帰ってね」
そうにっこり微笑むと、女の子が歩き出した私に声を張り上げた。
「は、はい! 薫子先輩もお気をつけて!」
私の名前は薫子。れっきとした女だ。それに、ここは女子校じゃない。紛れもない共学だし、男子の数のほうが多いくらいだ。なのに、私は女子から妙に人気があるらしい。
校門の近くにさしかかって、ふと振り返ると、さっきの女の子が口元に手を当てたまま感極まった様子で私をみつめていた。
その健気な姿に、思わずため息が漏れる。『いいね、可愛い女の子って』とひがみにもにた気持ちがよぎり、胸に重いものがのしかかった。
私は、別に髪が男の子みたいに短い訳じゃない。私を男らしく見せているのは高い身長と、手足の長さ、それに性格なんだろう。無駄に喋るのが嫌いだし、トイレに一人で行けない女子が理解できない。決して愛想はよくない。そのせいか、男にはさっぱりもてない。
言っておくが、私はきわめてノーマルだ。男嫌いではないし、かといって、女の子を毛嫌いするわけでもない。
第一、あのチョコレートをくれた女の子だって、本気で私を好きなわけじゃないと思う。彼女が男と腕をくんで歩いているのを見たことがある。
なのに、あんなことをされると、まるで自分が動物園のパンダか、ピエロにでもなった気分になる。もてて嬉しくないわけではないが、こっちの苦労も知らないで……と恨めしくも思うのだ。この大量のチョコレートのせいで、『薫子は女にもてる』というイメージがますます根強くなるのだから。
駅のホームに着くと、次の電車の時刻まであと二十分もあった。仕方なしにベンチに腰を下ろす。膝の上のスカートの皺を手で伸ばしながら、ため息を漏らした。
スカート、穿いてるんだけどな。周りから見たら私ってどう見えるんだろう? 普通の女の子じゃないの?
そんなことを考えてしょげていると、不意に聞き慣れた声がした。
「よう、薫子。今日は部活終わるの早いんだな」
ぐっと心臓が強ばる。同じクラスの水沢君が歩み寄ってくるところだった。その姿に、かあっと顔が赤くなるのが自分でもわかる気がした。だって、彼は私の好きな人だもの。
彼は私の顔などろくに見ずに、ベンチの隣に腰を下ろした。肩にかけたバッグが重そうなところを見ると、中にはチョコレートではなく、沢山の本がつまっているらしい。彼は活字中毒なのだ。
「うん。顧問がインフルエンザでね。ランニングだけだった。水沢君、今帰り?」
「あぁ、図書委員会があったから」
彼はニッと笑うと、目で私の膨らんだバッグを見た。
「今年も豊漁?」
「うん、そうだね」
「いいなぁ。俺は今年もゼロ」
「……一個、あげようか?」
「ばか。そういうのは両手合わせて感謝してから、ちゃんと自分で食え」
思わず、ふっと笑ってしまった。彼のこういう真面目なところが好きだ。
「そうだね」
でも、とても言えない。本当にあげたかったのは、女の子たちがくれたものじゃない。この中には私が用意したチョコレートも入ってるんだよ、なんて。
彼が冗談でもいいから『俺のチョコはないの?』などと言ってくれたら、少しは渡しやすいのに。
私には勇気がないのだ。普段は剣道では負け知らずだし、曲がったことには異論も唱える。なのに、たった一人の男にチョコレートを渡すことすらできないなんて情けないったらありゃしない。
「ねぇ、水沢君」
「うん?」
線路の向こうに広がる田んぼを見ながら、私が小さな声で言った。
「私って、そんなに男っぽい?」
「うん」
即答だ。
がっかりしていると、彼は呑気に背伸びしながら言う。
「かっこいいよな。剣道強いし、普段はクールに黙ってるかと思えばハッキリと自分の意見言えるしさ。この前さ、体型をからかってた男をズバッとやりこめたろ。あれ、気持ちよかったな」
彼はにこやかに私を見た。
「チョコをくれる女の子にも紳士的だしな。いらないってむげにしないから、偉いよ」
「だって、それは……」
言いかけて、口をつぐんだ。
本当は、可愛い女の子たちが妬ましいのだ。何故なら、ハッキリ言って彼女たちのほうがよっぽど勇気がある。そして、私が欲しいものを持っている。
小さな背格好、華奢な手、なにより女の子らしい柔らかい雰囲気。服装だって、ピンクやフリルやレースが似合う。私の私服と言えば、素っ気ないジーンズや寒色系の服ばかり。スカートなんて制服しか持ってない。
だって、周りは男らしい私を期待している。だからつい、仕草も振る舞いも男らしくなってしまう。がっかりさせたくないと、いい格好をしてしまうのだ。そのくせ、同時にすごく自己嫌悪する。
私が男らしく振る舞えば振る舞うほど、遠くなるものがある。それが、水沢君だ。
もし万が一、彼と付き合えたとしても『男みたいな女と付き合ってる変わり者』というレッテルが彼につくような気がしていたたまれない。
私だって、素直に甘えたりしてみたい。けれど、どうしたら甘えられるの? そもそも甘えるって何?
今まで誰にも言ったことがないけれど、このところそんなことばかり考えている。薄い唇を噛んで、俯いてしまった。
あの女の子みたいに、ぷっくり可愛い唇が羨ましい。あんなに健気にチョコを差し出せるんだから、私より彼女のほうがよっぽど強くて潔い。
水沢君はふっと笑って、俯く私を見つめた。
「お前、ばかだね」
「はぁ?」
容赦ない言葉にムッとすると、彼はまた笑う。
「まぁ、いいけど」
「よくない。どういう意味よ、それ?」
「別に」
それっきり、彼は黙ってしまった。
水沢君は、いつもこうだ。どこか達観しているというか、何を考えているのかさっぱりわからない。だからこそ彼のことが気になり出した。そして、いつしか彼を目で追うようになっていたんだ。
でも、このときばかりは苛立ちが私を呑み込んでいた。
「ねぇ、はっきり言えば? いつもそうやって何も言わないけど、中途半端にされると、こっちは余計気になるんだから」
思わず立ち上がって彼の前に仁王立ちする。
「それはこっちの台詞」
水沢君の苦笑にきょとんとしたときだった。
「うわぁ!」
男らしい叫び声が私の口から飛び出した。突風が吹いて、スカートが舞い上がったんだ。しかも、よりによって水沢君の目の前で。
慌ててスカートを押さえて水沢君を見ると、彼の目がまん丸になっていた。死ぬほど恥ずかしくて、さすがに顔に血の気が昇る。
あぁ、自分のバカ。なんでこういうときくらい「きゃあ」とか「やだぁ」とか可愛い声が出せないんだよ!
何も言えずにいると、水沢君が笑いをこらえながら呟いた。
「……ピンクのレース」
彼の顔面に私のバッグが直撃したのは、その三秒後だった。
やっと来た電車の一両目は空いていた。けれど、私は席に座ることなく、入り口付近でしゃがみこんでいた。自己嫌悪で今にも叫びそうだ。
あぁ、最悪だ。本当に最悪だ。好きな人の目の前でパンツを晒して、おまけに彼の顔を思いきりバッグでぶん殴った。しかも、今日のパンツは、よりによってたまにしかはかないピンクのレース!
いてもたってもいられなくて、ホームの反対側に駆けていったけれど、水沢君は追いかけてこないどころか呼び止めてもくれなかった。今頃は六両目くらいでムスッとしているだろう。
だって今日はバレンタイン。体育もないし、この日くらいは可愛い女の子でいたくって、自分のガラじゃないピンクのレースをはいてきたのだ。
本当は私だってピンクとかフリルとかレースを着てみたい。でも、駄目なのだ。私が着るとてんでおかしい。あのチョコをくれた女の子ならふわふわした雰囲気だから似合うかもしれないけれど、私が着ると本当に悲しいほど似合わない。
それでも、せめて誰も見ていないところだけは女の子でいたくって、着替えのない日は可愛い下着をこっそりつけるのが楽しみなのだ。
でも、まさか彼に見られるなんて想像もしてなかった。恥ずかしくて恥ずかしくて、息も出来ない。どんな顔をして彼に会えばいいんだろう。用意したチョコだって、無駄になってしまった。
すっかり悲しくなって、痛いくらい、バッグにぐっと顔を押しつけた。バレンタインチョコの特設売り場に行くことすら恥ずかしくて、友達に頼んでラッピングだけ買ってきて貰った。本を見ながら、ほぼ徹夜でトリュフを作った。けれど、成功したのはたったの三つ。不格好なやつはお母さんが笑いながら全部食べてくれた。でも、もう渡すどころの話ではない。友達とお母さんの協力も無駄になってしまった。
「うぅ」
思わず涙が溢れて、慌てて顔を手で拭った。
そのとき、いつも降りる駅の名前がアナウンスから流れた。よし、降りたら走って階段の陰に隠れよう。彼は次の駅で降りるはずだから、顔を見られないようにして、電車が走り去ってからホームを出よう。
ドアが開き、人混みで溢れる前に階段目指して走り出した。電車側から見えないように壁に背をあずけ、まるでかくれんぼでもしているみたいに息を殺す。
しばらくして、電車が動き出した。小さくなりゆく電車にほっとして、歩き出したそのときだった。
「お前、やっぱりばかだね」
「うわぁ!」
またもや色気のない叫び声が飛び出る。振り返ると、水沢君がにやにやして立っていた。
「なんで、ここで降りてんの!」
「だって、お前が逃げるから」
彼はすげなく言い、しみじみこう言った。
「本当、ばかだね」
「バカって言い過ぎ!」
「うん、でも……」
彼がにっこり笑った。
「ばかみたいに可愛いよ」
頭が真っ白になる。
「はぁ?」
「お前、さっきから『うわぁ』とか『はぁ』とか、色気ないな」
思わずぽろっと涙が溢れた。
仕方ないじゃない。だって、これが私だもん。どうしたら甘えられるの? どうしたらもっと可愛くなれるの? そんな言葉が声にならず、心の中でもやもやしていた。
すると、そんな私に、彼が眉尻を下げた。
「そういうとこ、もっと出せばいいのに」
ぐっと腕をとられて、気がつけば私は彼の腕の中にいた。
「いや、やっぱいいわ。無駄に色気あったって、ライバルが増えるだけだしね」
「……水沢君、もしかして、私のこと好きなの?」
ぽかんとしていると、彼が鼻で笑う。
「あのね、クラスでそれ知らないの、お前だけ。大体さ、図書委員会って明日だって気付いてないよね。お前に時間を合わせたって気づいてほしくて、わざと嘘を言ったのに、どんだけ鈍いの」
そして私の顔をのぞき込んで、にんまり笑った。
「それで、俺のチョコは本当にないの?」
どうしよう。私、この人に見透かされて一生、手のひらで転がされるかも。
彼はおずおず差し出した三つのトリュフをその場で頬張ると、そっと手を握ってくれた。
「家まで送る」
そう言った彼と並んで歩きながら、手に伝わる熱に嬉しさがじわじわと込み上げてきた。
「あのさぁ、薫子」
「うん?」
「ピンクのレースを見るのは、俺だけね」
そう言って彼は歩みを止め、油断した私に顔を近づけた。触れるだけのキスはチョコの味がした。
それから六年後。
私はウエディングドレスに身を包み、教会で同じように触れるだけのキスをした。
もちろん、ピンクのレースが沢山ついているドレスで。
下校中の私の前に立ちはだかったのは、華奢な女の子だった。
顔を真っ赤にし、俯きながら両手で綺麗にラッピングされた箱を差し出している。十中八九、中身はチョコレートだ。だって、今日はバレンタインデーなんだから。
心の中で『またか』と辟易しながらも、努めて穏やかに言った。
「返事はできないけど、それでもいい?」
バッグの中にはもう両手で抱えきれないくらいのチョコレートが入っている。今日は朝からこんなやりとりばかりだ。
「はい、構いません!」
語尾が震えているのが、なんともいじらしい。
彼女の顔をのぞき見て、しょっちゅう見る顔だなと気づいた。部活の帰りに遠巻きにこちらを見ている子だ。ぷっくりとした唇がほんのりピンクで、フェミニンだ。箱を持った手だって小さくて、可愛い。
彼女とは対照的に大きい手を差し伸べて、プレゼントを受け取った。嬉しそうに顔を上げた女の子は、うっすら涙まで浮かべている。
「気持ちは嬉しいよ。ありがとう。もう暗いから気をつけて帰ってね」
そうにっこり微笑むと、女の子が歩き出した私に声を張り上げた。
「は、はい! 薫子先輩もお気をつけて!」
私の名前は薫子。れっきとした女だ。それに、ここは女子校じゃない。紛れもない共学だし、男子の数のほうが多いくらいだ。なのに、私は女子から妙に人気があるらしい。
校門の近くにさしかかって、ふと振り返ると、さっきの女の子が口元に手を当てたまま感極まった様子で私をみつめていた。
その健気な姿に、思わずため息が漏れる。『いいね、可愛い女の子って』とひがみにもにた気持ちがよぎり、胸に重いものがのしかかった。
私は、別に髪が男の子みたいに短い訳じゃない。私を男らしく見せているのは高い身長と、手足の長さ、それに性格なんだろう。無駄に喋るのが嫌いだし、トイレに一人で行けない女子が理解できない。決して愛想はよくない。そのせいか、男にはさっぱりもてない。
言っておくが、私はきわめてノーマルだ。男嫌いではないし、かといって、女の子を毛嫌いするわけでもない。
第一、あのチョコレートをくれた女の子だって、本気で私を好きなわけじゃないと思う。彼女が男と腕をくんで歩いているのを見たことがある。
なのに、あんなことをされると、まるで自分が動物園のパンダか、ピエロにでもなった気分になる。もてて嬉しくないわけではないが、こっちの苦労も知らないで……と恨めしくも思うのだ。この大量のチョコレートのせいで、『薫子は女にもてる』というイメージがますます根強くなるのだから。
駅のホームに着くと、次の電車の時刻まであと二十分もあった。仕方なしにベンチに腰を下ろす。膝の上のスカートの皺を手で伸ばしながら、ため息を漏らした。
スカート、穿いてるんだけどな。周りから見たら私ってどう見えるんだろう? 普通の女の子じゃないの?
そんなことを考えてしょげていると、不意に聞き慣れた声がした。
「よう、薫子。今日は部活終わるの早いんだな」
ぐっと心臓が強ばる。同じクラスの水沢君が歩み寄ってくるところだった。その姿に、かあっと顔が赤くなるのが自分でもわかる気がした。だって、彼は私の好きな人だもの。
彼は私の顔などろくに見ずに、ベンチの隣に腰を下ろした。肩にかけたバッグが重そうなところを見ると、中にはチョコレートではなく、沢山の本がつまっているらしい。彼は活字中毒なのだ。
「うん。顧問がインフルエンザでね。ランニングだけだった。水沢君、今帰り?」
「あぁ、図書委員会があったから」
彼はニッと笑うと、目で私の膨らんだバッグを見た。
「今年も豊漁?」
「うん、そうだね」
「いいなぁ。俺は今年もゼロ」
「……一個、あげようか?」
「ばか。そういうのは両手合わせて感謝してから、ちゃんと自分で食え」
思わず、ふっと笑ってしまった。彼のこういう真面目なところが好きだ。
「そうだね」
でも、とても言えない。本当にあげたかったのは、女の子たちがくれたものじゃない。この中には私が用意したチョコレートも入ってるんだよ、なんて。
彼が冗談でもいいから『俺のチョコはないの?』などと言ってくれたら、少しは渡しやすいのに。
私には勇気がないのだ。普段は剣道では負け知らずだし、曲がったことには異論も唱える。なのに、たった一人の男にチョコレートを渡すことすらできないなんて情けないったらありゃしない。
「ねぇ、水沢君」
「うん?」
線路の向こうに広がる田んぼを見ながら、私が小さな声で言った。
「私って、そんなに男っぽい?」
「うん」
即答だ。
がっかりしていると、彼は呑気に背伸びしながら言う。
「かっこいいよな。剣道強いし、普段はクールに黙ってるかと思えばハッキリと自分の意見言えるしさ。この前さ、体型をからかってた男をズバッとやりこめたろ。あれ、気持ちよかったな」
彼はにこやかに私を見た。
「チョコをくれる女の子にも紳士的だしな。いらないってむげにしないから、偉いよ」
「だって、それは……」
言いかけて、口をつぐんだ。
本当は、可愛い女の子たちが妬ましいのだ。何故なら、ハッキリ言って彼女たちのほうがよっぽど勇気がある。そして、私が欲しいものを持っている。
小さな背格好、華奢な手、なにより女の子らしい柔らかい雰囲気。服装だって、ピンクやフリルやレースが似合う。私の私服と言えば、素っ気ないジーンズや寒色系の服ばかり。スカートなんて制服しか持ってない。
だって、周りは男らしい私を期待している。だからつい、仕草も振る舞いも男らしくなってしまう。がっかりさせたくないと、いい格好をしてしまうのだ。そのくせ、同時にすごく自己嫌悪する。
私が男らしく振る舞えば振る舞うほど、遠くなるものがある。それが、水沢君だ。
もし万が一、彼と付き合えたとしても『男みたいな女と付き合ってる変わり者』というレッテルが彼につくような気がしていたたまれない。
私だって、素直に甘えたりしてみたい。けれど、どうしたら甘えられるの? そもそも甘えるって何?
今まで誰にも言ったことがないけれど、このところそんなことばかり考えている。薄い唇を噛んで、俯いてしまった。
あの女の子みたいに、ぷっくり可愛い唇が羨ましい。あんなに健気にチョコを差し出せるんだから、私より彼女のほうがよっぽど強くて潔い。
水沢君はふっと笑って、俯く私を見つめた。
「お前、ばかだね」
「はぁ?」
容赦ない言葉にムッとすると、彼はまた笑う。
「まぁ、いいけど」
「よくない。どういう意味よ、それ?」
「別に」
それっきり、彼は黙ってしまった。
水沢君は、いつもこうだ。どこか達観しているというか、何を考えているのかさっぱりわからない。だからこそ彼のことが気になり出した。そして、いつしか彼を目で追うようになっていたんだ。
でも、このときばかりは苛立ちが私を呑み込んでいた。
「ねぇ、はっきり言えば? いつもそうやって何も言わないけど、中途半端にされると、こっちは余計気になるんだから」
思わず立ち上がって彼の前に仁王立ちする。
「それはこっちの台詞」
水沢君の苦笑にきょとんとしたときだった。
「うわぁ!」
男らしい叫び声が私の口から飛び出した。突風が吹いて、スカートが舞い上がったんだ。しかも、よりによって水沢君の目の前で。
慌ててスカートを押さえて水沢君を見ると、彼の目がまん丸になっていた。死ぬほど恥ずかしくて、さすがに顔に血の気が昇る。
あぁ、自分のバカ。なんでこういうときくらい「きゃあ」とか「やだぁ」とか可愛い声が出せないんだよ!
何も言えずにいると、水沢君が笑いをこらえながら呟いた。
「……ピンクのレース」
彼の顔面に私のバッグが直撃したのは、その三秒後だった。
やっと来た電車の一両目は空いていた。けれど、私は席に座ることなく、入り口付近でしゃがみこんでいた。自己嫌悪で今にも叫びそうだ。
あぁ、最悪だ。本当に最悪だ。好きな人の目の前でパンツを晒して、おまけに彼の顔を思いきりバッグでぶん殴った。しかも、今日のパンツは、よりによってたまにしかはかないピンクのレース!
いてもたってもいられなくて、ホームの反対側に駆けていったけれど、水沢君は追いかけてこないどころか呼び止めてもくれなかった。今頃は六両目くらいでムスッとしているだろう。
だって今日はバレンタイン。体育もないし、この日くらいは可愛い女の子でいたくって、自分のガラじゃないピンクのレースをはいてきたのだ。
本当は私だってピンクとかフリルとかレースを着てみたい。でも、駄目なのだ。私が着るとてんでおかしい。あのチョコをくれた女の子ならふわふわした雰囲気だから似合うかもしれないけれど、私が着ると本当に悲しいほど似合わない。
それでも、せめて誰も見ていないところだけは女の子でいたくって、着替えのない日は可愛い下着をこっそりつけるのが楽しみなのだ。
でも、まさか彼に見られるなんて想像もしてなかった。恥ずかしくて恥ずかしくて、息も出来ない。どんな顔をして彼に会えばいいんだろう。用意したチョコだって、無駄になってしまった。
すっかり悲しくなって、痛いくらい、バッグにぐっと顔を押しつけた。バレンタインチョコの特設売り場に行くことすら恥ずかしくて、友達に頼んでラッピングだけ買ってきて貰った。本を見ながら、ほぼ徹夜でトリュフを作った。けれど、成功したのはたったの三つ。不格好なやつはお母さんが笑いながら全部食べてくれた。でも、もう渡すどころの話ではない。友達とお母さんの協力も無駄になってしまった。
「うぅ」
思わず涙が溢れて、慌てて顔を手で拭った。
そのとき、いつも降りる駅の名前がアナウンスから流れた。よし、降りたら走って階段の陰に隠れよう。彼は次の駅で降りるはずだから、顔を見られないようにして、電車が走り去ってからホームを出よう。
ドアが開き、人混みで溢れる前に階段目指して走り出した。電車側から見えないように壁に背をあずけ、まるでかくれんぼでもしているみたいに息を殺す。
しばらくして、電車が動き出した。小さくなりゆく電車にほっとして、歩き出したそのときだった。
「お前、やっぱりばかだね」
「うわぁ!」
またもや色気のない叫び声が飛び出る。振り返ると、水沢君がにやにやして立っていた。
「なんで、ここで降りてんの!」
「だって、お前が逃げるから」
彼はすげなく言い、しみじみこう言った。
「本当、ばかだね」
「バカって言い過ぎ!」
「うん、でも……」
彼がにっこり笑った。
「ばかみたいに可愛いよ」
頭が真っ白になる。
「はぁ?」
「お前、さっきから『うわぁ』とか『はぁ』とか、色気ないな」
思わずぽろっと涙が溢れた。
仕方ないじゃない。だって、これが私だもん。どうしたら甘えられるの? どうしたらもっと可愛くなれるの? そんな言葉が声にならず、心の中でもやもやしていた。
すると、そんな私に、彼が眉尻を下げた。
「そういうとこ、もっと出せばいいのに」
ぐっと腕をとられて、気がつけば私は彼の腕の中にいた。
「いや、やっぱいいわ。無駄に色気あったって、ライバルが増えるだけだしね」
「……水沢君、もしかして、私のこと好きなの?」
ぽかんとしていると、彼が鼻で笑う。
「あのね、クラスでそれ知らないの、お前だけ。大体さ、図書委員会って明日だって気付いてないよね。お前に時間を合わせたって気づいてほしくて、わざと嘘を言ったのに、どんだけ鈍いの」
そして私の顔をのぞき込んで、にんまり笑った。
「それで、俺のチョコは本当にないの?」
どうしよう。私、この人に見透かされて一生、手のひらで転がされるかも。
彼はおずおず差し出した三つのトリュフをその場で頬張ると、そっと手を握ってくれた。
「家まで送る」
そう言った彼と並んで歩きながら、手に伝わる熱に嬉しさがじわじわと込み上げてきた。
「あのさぁ、薫子」
「うん?」
「ピンクのレースを見るのは、俺だけね」
そう言って彼は歩みを止め、油断した私に顔を近づけた。触れるだけのキスはチョコの味がした。
それから六年後。
私はウエディングドレスに身を包み、教会で同じように触れるだけのキスをした。
もちろん、ピンクのレースが沢山ついているドレスで。
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