四季彩センチメンタル

深水千世

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背中のぬくもり

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「じゃあ、引越し業者は明日の十一時に来るのね?」

「あぁ」

 短く答える夫……いや、元夫は寂しげに笑う。

「ねぇ、一杯どう?」

 今日は私たち夫婦だった二人が一緒にいる最後の晩だ。一週間前に離婚届を出し、夫が引越しを明日に控えている。

「一杯だけなら」

 彼は腫れぼったい目をして、頷いた。少し疲れているようだ。
 テーブルの上に置かれた『カティ・サーク』を手にし、彼はぼそりと言った。

「旅立ちに相応しい酒かもな」

 そのウイスキーのラベルには帆船の絵が描かれている。彼の好きなウイスキーの一つだった。
 私は答えることなく、グラスに満たされたウイスキーを口に滑らせながら、彼の顔を観察するように見つめた。
 彼の目の形。まつ毛の長さ。ほくろの位置。鼻筋。そして、私によくキスしてくれた唇の厚さ。こうして彼の顔をじっくり見たのはいつ以来だろう。
 皮肉なものだ。最後になって、まるでこの心に刻むように、彼の顔を見つめている。
 一杯だけ飲んで二人ともベッドに潜り込んだ。元々、一つしかないベッドだ。離婚していたってそこで寝るしかない。まぁ、昔よりはちょっと離れて寝るけれど。

 私は背中に彼の気配を感じながら、どうして離婚なんてことになったんだろうと他人事のように思った。
 確かに正反対の二人だった。趣味も合わないし、職種も休みもバラバラ。だけど、ずっと二人でいられればいいと思えた。すれ違いが生まれたのは、子どもが欲しいと私が言い出したときだった。

「俺は子どもなんていらない。今の仕事が大事だし、子どものために時間を犠牲にしたくない」

 それを聞いたとき、唖然としたものだ。おかしいもので、結婚したということは当然、子どもを産んで育てる人生を歩むものだと思っていた。
 けれど、彼が望んでいたのは二人だけの生活だった。結婚する前にそういう話をしておかないほうが間抜けだと友人には怒られたけれど。
 何度話しても、その溝は埋まらなかった。そうするうちに、どんどん心が離れていき、とうとう離婚することになった。

「お前は俺より優しい男を見つけて、子ども産んで、幸せになれ」

 離婚届にサインをしたあとの、彼の声が甦る。私は布団を握りしめ、目を閉じた。私はあなたと幸せになりたかったのよ。そう叫びたいのを堪えながら。

 新婚の頃、よく二人で寝ていると彼は背中から抱きしめてくれた。のしかかる腕が重いなんて文句を言いながらも、その重みこそが嬉しかった。温もる背中。耳に届く寝息。体の底から安心が沸き起こる瞬間。『愛されている』という安心。
 でも、今、私は冷えきっていた。彼との隙間から秋のひんやりした夜気が滑り込み、私の背中を撫でる。
 なんて孤独なんだろうと思った。二人でこうして隣り合って寝ているのに。いや、だからこそ。
 どうしたら、彼と一緒にいれただろう? お互いが満たされた気持ちで、一緒にいることに喜びを見出せただろう? 私はどう彼と接してくればよかったんだろう?

 音もなく涙が鼻をたどる。彼も、こんな風に考えたことがあるんだろうか? 彼は私をまだ愛しているんだろうか? そうだとしたら、子どもが欲しいと言った私の幸せを願って自ら離れたということになる。
 でも、子どもが欲しいと願うことは罪なのだろうか。いつか、彼はこう呟いた。

「お前は、子どもが欲しくて俺と結婚したの?」

 そうじゃない。けれど、素直に否定できなかった。彼の子どもだから欲しいのに、子どもはいらない彼から離れることを承諾した私は矛盾している。
 自分で自分がわからない。そのことが、自分の首を締めつけるようだった。胸が狭くなって、涙が溢れて息が出来なくなる。
 でも、それはやはり、彼を愛していたからだと思いたい。今更かもしれないけれど。

「ねぇ」

 擦れた声で彼を呼んだ。返事はないけれど、まだ寝ていないことくらいわかる。

「前みたいに、ぎゅっとして」

「俺たち、離婚したのに?」

「最後だもの。お願い」

 彼は「仕方ないな」と困ったように漏らしながら、それでも体の向きを変えて腕を伸ばしてくれた。寄り添う胸が背中に伝わる。じんわりと温もり、伝わる重み。
 私は唇を噛み締め、全神経を集中させるようにそれを感じていた。こうして、背中から抱きしめられて眠りに落ちることは、とても幸せなことだったんだ。初めて、そう知った気がした。

 思えば、私はいつも手が届かない人ばかり好きになる。今度こそ、この手の中に幸せがあると信じていた。だけど、私たちは何かを怠ってしまったんだろう。何かを誤ってしまったんだ。
 途端に、薄暗い寝室が大海原に見えた。明日から、この背中のぬくもりはなくなる。またこんなぬくもりを見つけられるかしら? あてのない長旅のような不安。まるで大海原にぽつんと一人漂って彷徨うようだ。
 背中は温かいのに、目の前のシーツはギクリとするほど冷たかった。まるで冬の海のように。遠くにカティ・サークの帆船が見える気がした。

 翌日、引越し業者が落ち葉を踏みしめて段ボールの山を運び出したあと、私は彼が車に乗り込むのを見ていた。彼はこちらを向いて、ほんの少し笑った。あれは『ごめんな』という顔なのか、それとも『幸せにな』という顔なのか。
 いや、きっとそんな簡単なものじゃない。いっときは夫婦だったんだから、とても一言では表せない感情だ。今の私がそうなんだから。彼に、この顔はどう映っていただろう。
 ガランとした部屋で、私はぼそりと呟く。

「行っちゃった」

 いつもより沢山の壁が見えるアパートで、やけに私の声が木霊する。
 大海原に一人、体も心も冷えきって水に浮かぶ私。別れをくれた彼の優しさを踏み台にして、私は背中のぬくもりを探す旅に出る。それがたとえ、見つからないものであっても。一周回って、やっぱり彼の手の中にあったとしても。
 足を踏み出すときだ。テーブルに残されたカティ・サークの帆船から「ヨーソロー」という声が聞こえる。
 私は涙をぐっと押し込んだ。忘れがたいぬくもりを覚えてしまった背を伸ばして。
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