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秋
コーヒーが溶かす雪
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妹に言わせると、俺の匂いは、コーヒーの匂いらしい。カフェを経営しているせいか、いつもコーヒーをいれているイメージがあるそうだ。
中粗挽きにした豆をドリップしていると、辺りが芳しい匂いに包まれた。朝の爽やかな光が溢れるリビングでは、妹の千晶がノートパソコンに向き合っている。
いれたてのコーヒーを差し出すと、千晶が「いい匂い」と、うっとりため息を漏らした。大学の論文は順調のようで、彼女は機嫌よく俺のコーヒーに口をつけた。
「千隼のコーヒーは最高よね。カフェの味がお家で飲めるって役得だわ」
「本当なら金をとるところだぞ」
苦々しく言うと、千晶が屈託なく笑う。
「このBGMを止めてくれるなら構わないわよ」
つい苦笑してしまう。二階から響いてくるのは、実にぎこちない『愛のロマンス』だ。このギター初心者にうってつけの練習曲を熱心に弾いているのは、末の弟の千尋だった。
「単なるBGMじゃないからな。青少年の恋は止められん」
「一年越しの片思いが叶ったからって、彼女と同じギター教室に通い出すとは思わなかったわ」
くくっと笑う千晶は愉快そうだった。
「あの何にでも興味なさそうだった千尋が朝から晩まで練習してるなんて。男を変えるのは女ね」
「まぁ、そういうことだな」
新聞を手にした俺に、千晶が意地悪い目をした。
「千隼も変わればいいのに」
「ん?」
新聞の一面に気を取られて生返事をすると、千晶がソファに身を預けて目を細めた。
「そろそろ、次の人見つけたら? 仕事だけの人生なんて、虚しいわよ」
放っておいてくれ。そんな言葉の代わりに眉間に皺を寄せて、コーヒーをすすった。コーヒーの苦さは俺を和ませるが、離婚の苦さは心まで麻痺させる。
俺が深雪と離婚して二年が経っていた。
今でも俺の心は、まるで雪原を彷徨った挙げ句、凍えて身動き一つ取れずに行き倒れたようだ。俺に雪解けをもたらすものが何か、一番知りたいのは俺自身だった。
つまずいてばかりの『愛のロマンス』が、俺のもつれた心みたいに聞こえる。「これがAマイナーで、これがEで、これがD」などと嬉しそうにコードを披露する弟の無邪気さに、目眩がしたもんだ。俺にもあんな時代ってあったかな。あったんだろうが、思い出せもしない。
深雪とは友人の紹介で出逢った。俺たちが付き合い始めた頃、あいつは花屋に就職したところだった。
もの静かで、微笑みながら佇むような女だ。まるでかすみ草みたいな彼女は、目立ちはしないけど誰かをほっとさせる。俺が喫茶店でコーヒーの修行をしている間も、カフェをオープンさせた時も、誰より陰で支えてくれた。
けれど、いつからか、俺は仕事に夢中で、彼女のことをおざなりにしていた。
次第に会話も減り、常に花で賑わっていた玄関もいつしか飾られることがなくなった。掃除と洗濯だけはしてくれたが、食事はお互い好きなものを自分で調達して食べるようになった。
家に帰るのが憂鬱にまで感じてきた頃だった。リビングのテーブルにぽつんと半分に折られたままの離婚届が乗っていた。緑の文字と罫線でできた欄には、既に深雪の名前と印鑑が押してあった。婚姻前の氏名に戻ったときのための本籍まで記入してある。
いつかはこの日が来ると思っていた。だけど、いざ目の前に書類を出されるとショックは大きかった。寒々しい気分で、立ったまま書類を見つめた。
婚姻届を出したときも思ったけど、ほんの紙一枚なんだ。だけど、その一枚が毎日に大きな違いをもたらす。俺がここに署名して捺印すれば、俺たちは他人になる。まぁ、気持ちの上ではもう既に夫婦とは呼べない状態だろう。
俺はペンと印鑑を用意し、ソファに腰を下ろした。名前を書こうとしたけれど、いざペンを手にすると、しばらく動けなかった。
俺たちは、こんな別れをするために結婚したんだろうか。何をどうしてやれば、こうならずに済んだんだろう。
虚無感がどっと押し寄せる。けれど、もう深雪は判を押しているんだ。片方だけが後悔しても、駄目なんだ。
俺は唇を噛み締め、書類を書いた。捨て印をして、印鑑をしまう。離婚届を手に寝室へ入ると、深雪がベッドに横になっていた。
彼女は俺が来た気配に、すぐに起き上がった。少し目が赤いのは、ずっと起きていたのだろう。もしかしたら泣いていたかもしれない。
「いつ出してもいいよ。お前の好きにしてくれ」
そっと二つ折りにした書類を差し出すと、彼女は戸惑いながら受け取った。
離婚届を開き、俺の名前を指でなぞる。その唇が微かに震え、彼女は声を上げて泣き伏せた。
そのとき、俺は初めて離婚届の証人の欄が空白だということに気づいた。同時に、これは彼女の賭けだったんだと悟る。自分を見て欲しいと願う深雪の、最後の賭けだ。
離婚を突きつけられて慌てて手をとって欲しい。『どこにも行くな』と言って欲しい。そんな深雪の千切れそうな心が最後にしがみついた術だったんだ。
俺は居たたまれない気持ちで、隣に腰を下ろした。そして、こう囁くことしか出来なかった。
「ごめんな。幸せにしてやれなかったな」
俺は深雪の求めていたものを何ひとつ知ろうともしなかった。無償の愛情や支えを当然のように浴びたまま。
離婚届けを出すと、俺は実家に戻り、彼女はアパートにそのまま住み続けることにした。荷物を運び出す俺に、彼女はぽつりと言った。
「部屋がガランとしてなんだか寒いね」
「そうかな?」
俺は首を傾げて苦笑した。荷物があったって、この家の空気が寒々しいのは今に始まったことじゃない。そうさせたのは俺なんだろうけれど。
けれど、それから数日たって開店前のカフェに立ったとき、なんとなくその言葉の意味がわかった気がした。
その日は水曜だった。いつもだったら深雪が花を持って飾りにきてくれる。だけど、これからは自分で花を買ってこなきゃならない。
カウンターにある花はもう変色して萎びていた。指でふにゃっとした花びらをなぞる。
なんだか、誰もいない店がガランとして見えた。俺と深雪で一から作り上げてきたカフェから、彼女の気配だけが忽然と消えたようだ。見渡すと、もの言わぬテーブルや椅子が人恋しそうに佇んでいる。時計の針の音がやたら響いていた。
なぁ、深雪。もうお前に「今日はアイツが来た」だの「この料理が評判よかった」だの、話すこともないんだな。
俺は初めて、半身をえぐられた気分になった。
俺が失ったものは、果てしなく大きい。日を追うごとに、その想いは確固たるものになっていく。
今まで、あいつがどれだけ尽くしてくれていたか、俺は気づいてもいなかった。
通帳を開いたとき、知らないうちに千円単位で貯蓄されているのを見て、思わず胸が詰まった。思えば寝具はいつもふかふかだったし、日用品は必ず予備があった。革靴は常に磨いてあった。常に俺が居心地よく過ごせるよう、小さなことでも気をつけていてくれたんだ。
俺が仕事に専念できるよう、彼女は何から何まで心配りをしてくれていた。それを今更ながら知るたびに、自分の心が凍てつくのを感じていた。俺はここまでしてくれていた彼女の何を見てきたんだろう。あんな涙を流させるために一緒にいた訳じゃないはずだ。
俺は、彼女に何をしてやれた? かすみ草のように小さく微笑みながら、俺の自由やカフェでの実力を引き出してくれていた彼女に。
俺の中に、深雪との思い出や、些細な一言が層をなして積もっていく。やがて、俺は深雪への罪悪感に埋もれて動けなくなった。熱を奪われ、自分の身勝手さに絶望し、その足を動かす気力さえ無くした。それは二年たった今も変わらない。俺に残ったものは仕事だけだ。
本当は怖いんだ。誰かが俺の中に積もる雪を溶かすとき、俺はまた同じ事を繰り返さないだろうか? ギリギリの心が送ってくるサインを見逃さずに、その手を引き留められるか?
妹の言う通り、仕事だけの人生だなんて御免だが、心が動かないうちはどうしようもないのだった。
秋雨が降る日曜日のことだった。
うちのカフェは図書館に続く坂道の下にあるせいか、普段から本好きの客が多い。この日もコーヒー片手に本を楽しむ常連客で賑わっていた。
ランチの慌ただしい時間が過ぎ、時計の針はいつしか午後三時を指していた。これから五時まではいったん店を閉めて、夜の部の仕込みに入る。
だが、店には一組の男女が残っていた。何度もうちの店に来ている高校生たちだ。図書館で勉強がてらデートしているようで、先月くらいからちょくちょく顔を見る。何度か制服で来たとき、学年は知らないが、弟と同じ学校だということはわかった。
どちらかというと男の子のほうが積極的で、いつも彼が一人であれこれ話し続け、女の子はにこにこ相づちを打っている。きっと彼女は内気なのだろう。破れ太鼓みたいだが、それでも嬉しそうなのが微笑ましいのだった。
ところが、この日はなんだか様子が違っていた。男の子は露骨に詰まらなさそうな顔で、ぼんやり外を見ている。彼のコーヒーはもう空になったまま久しい。
ふと、女の子のしどろもどろな声が聞こえてきた。
「あの、あのね」
彼女は真っ赤な顔で、思い切ったようにこう言った。
「あの、今度の日曜日よかったら……」
あぁ、どこかに誘おうとしてるんだな。
俺は彼女の健気さに微笑みたくなった。だが、男の子は必死の提案を最後まで聞くことはしなかった。
「悪いけど、俺たち別れよう」
彼女が目を見開き、「え?」と小さな声を漏らした。男の子はため息まじりに頭をかく。
「もう、疲れた。俺とお前って全然タイプ違うしさ。何を話してもただ笑ってるだけで反応ないし、人形といるみたい」
それはお前が彼女を見ていないだけだと、胸の内で毒づいた。
彼女は単に笑ってるんじゃない。このカフェに来ている間、その目が「嬉しい」と言葉なしに言っていた。染められた頬が「大好き」と囁いていたのを、何故目の前で見ていて気づかないんだろう。今だって健気に頑張っていたじゃないか。
「それに、デートもいつも図書館だろ。お前はカラオケもゲームもしないし、遊園地だって高所恐怖症だし。つまんないんだよな」
つまらないのはお前だよ。なんだか、だんだんと腹が立ってきた。自分のことばかりじゃないか、お前。
そこまで思って、俺は自分のことを棚に上げていることに気がついた。俺だって、深雪のことを何一つ汲み取ってやれなかったのだ。
彼女は遠目に見ても震えていた。ただ、唇を噛み締め、俯いている。彼はわざとらしいため息をつき、伝票を掴んだ。
「最後までだんまり? 本当、お前ってつまんないね。告白されて嬉しかったけど、それだけだったな」
彼は憮然とした様子でレジに向かってきた。思わず千円くらい水増ししようかと思ったが、やめといた。
彼は横柄な態度で釣りを受け取った。去り際に、ふっと彼女の背中を見た彼は、まるで醜いものを見たように眉をしかめたが、すぐに清々したと言わんばかりに口の端をつり上げた。
彼は接客業のアルバイトをしたほうがいい。カフェを出た彼の背中を見送りながら、俺は思わず眉間に皺を寄せた。そういう態度をされた人間の気持ちがよくわかるように、働いてみるといいんだ。
俺は入り口の札を『CLOSE』にひっくり返しながら肩をすくめる。これは俺の経験による私的意見だが、サービス業の人間にどんな態度をとるかは、家族や恋人にする態度に通じると思う。『金を払ってるから当然』は『親だから当然』『恋人だから当然』と似ているときがあると思うんだ。
きっと彼は、遠慮しなくていいと思うと、あぁいう態度を取るタイプなんだろう。彼女はきっと、別れて正解じゃないかな。
ふと女の子を見ると、その小さな背中が丸まっていた。拳を膝の上で握りしめ、ずっと俯いている。泣くのを必死に堪えているんだろう。俺は居たたまれなくなって、窓のロールカーテンを降ろした。
「あ、あの、もう閉店ですか?」
うわずった声で顔を上げた彼女に、俺は首を横に振った。
「いや、ゆっくりしていいよ。ただ、君のその顔、あんまり見せられたもんじゃないから」
彼女の顔がみるみるうちに真っ赤になった。テーブル席は窓際にあるせいで、道ゆく人から丸見えになる。俺はカーテン越しの穏やかな光の中、彼女に歩み寄った。
「我慢しなくていいよ」
向かいの椅子に腰を下ろして、なるべく穏やかな口調で言う。
「誰も見てないから。俺もここだけの話にしてあげるよ」
「えっ?」
「泣きたいんだろ? 思いっきり泣いてから、帰ればいいよ」
俺がそう言うと、彼女は小さな声を震わせた。
「聞こえてたんですね」
「うん、ごめんね。狭い店なもんで」
「あの、凄い好きだったんです」
「うん、そうみたいだね」
ぽとりと、大きな目から涙が落ちた。
「思い切って告白したら『いいよ』って言われて、凄く嬉しくて、一緒にいると頭が真っ白で、嫌われたくなくて、笑ってるしかできなくて、でも私、音痴だし、高所恐怖症だし、流行に疎いし、でもそれでも彼の好きなところに頑張って行ってみようって決めて、思い切って彼の好きなカラオケに行こうって言おうとしたんだけど」
立て板に水のごとく、よくもこんなに言葉が出てくると感心するくらい、彼女は一気にしゃべり出した。よほど感情を抑えていたらしい。鼻がみるみるうちに赤くなり、長いまつ毛は濡れて光っていた。
「なのに、それなのに……」
最後は声にならなかった。また唇を噛み締める彼女に、思わず手を伸ばし、そっと柔らかい頭を撫でた。
その途端、彼女は堰を切ったように泣き出した。鼻水を垂らして、顔を歪ませて「馬鹿」とか「あんな言い方ないよ」とか喚いていた。やれやれ、これじゃ『泣いた』というより『べそをかいた』って感じだ。
でも、俺にはそれがとても愛しく見えた。千尋と同じように、無我夢中で誰かに恋をしている姿が眩しい。立ち上がってティッシュの箱とくずかごを置いてやると、彼女は慌ててティッシュで鼻をかんだ。
俺はふっと笑みを漏らして、椅子に座った。俺も深雪にこうしてためこんだ感情を吐き出させて、聞いてやればよかった。ただそれだけだったのにな。深雪にできなかったことを、見ず知らずの高校生にしているなんて、妙な話だ。
「すみませんでした」
やっと泣き止んだ彼女は、すっかり腫れた瞼が重そうだ。
「いいよ。それより……」
俺は目の前の残された食器を顎で指し示す。あの男の子はドリアとコーヒーを平らげているのに、彼女はコーヒーだけ。しかも、ほとんど口をつけていない。
「口に合わなかった?」
軽くショックを覚えながら言うと、彼女は慌てて手を横に振った。
「あ、違うんです。あの、私、彼と会うだけで緊張しちゃって、朝から何も喉を通らなくて」
「じゃあ、今は大丈夫だね」
俺はふっと笑うと、彼女に手招きした。
「おいで。カウンターでコーヒーいれ直してあげるから」
「えっ、でも悪いです」
「冷めたコーヒーより、熱々がいいでしょ」
俺は彼女をカウンターに誘うと、お湯を沸かしてコーヒー豆を挽いた。濡れて膨らむ豆を眺めていると、彼女が匂いを吸い込む音が聞こえた。
いつも以上に丁寧にいれたコーヒーを差し出すと、彼女は礼をして口をつける。
俺も自分のコーヒーを飲みながら、その様子を見守った。香ばしい匂いに、彼女の表情がほぐれていくのが無性に嬉しい。
「美味しい。なんだか、ほっとします」
ありきたりな言葉なのに、最上級の賛辞に聞こえた。
「また飲みにおいで。君、本が好きでしょ? 図書館の帰りにでも寄っていきなよ」
「どうして本が好きだってわかるんですか?」
「いつも彼とここに来るとき、彼のバッグは薄っぺらいのに、君のだけ膨らんでた。本を借りていたのは君だけだろう」
「よく見てるんですね」
俺はカップを置き、目を丸くしている彼女に笑った。
「言葉で説明するよりも、人はそこにいるだけで自分を見せているもんだよ。服とか靴もそうだし、財布もそう。手も仕草も食べ方も、全部その人を反映させているんだよ」
「へぇ」
「だから、無口だからってつまらなくない。気にすることはないさ」
彼女がハッとする。だけど、俺はこれだけは言っておきたかった。
「嫌われたくないなんて無意味だ。素の自分を晒したままでいいんだよ。どのみち、君の服や体や動きが語ってる。その方が、相手との思い出もこじれない。遅かれ早かれ嫌われるなら、本当の自分じゃないのにって悔やまなくて済むほうがいい」
そう言いながら、深雪の後ろ姿が思い浮かんだ。じっと何かを待つ、無言の背中が暗闇の中に見える。
「男なんて馬鹿な生き物だから、黙ってたら何も気づかないよ」
そう、俺みたいにね。
「ためこまれて爆発されても、男にしたら『なんでその都度言わないんだよ』って思うのさ。遠慮しないで、直接口にしてくれなきゃ、すれ違ったまま修正できなくなることもあるさ。黙って我慢してないで、次の相手には本音でぶつかってごらん」
そこまで口にしたときだった。
「それ、マスターのことですか?」
彼女の言葉に、俺は思わず顔を上げた。彼女は眉を下げ、心配そうに俺を見ている。
「マスター、なんだか泣きそうです」
虚をつかれた。参ったな、立場が逆転だ。
俺は苦笑し、「さぁね」と言葉を濁らせた。なんだ、なかなか面白い子じゃないか。
「君、名前は?」
「環です」
彼女は小さく微笑んだ。それが、俺と彼女の出逢いだった。
環はちょくちょく店に顔を出すようになった。日を追うごとに、彼女のイメージは『ただ微笑む人形』ではなく、『屈託なく笑う子』に変化していった。少なくとも、俺の前ではそう見えた。
「マスターって、千尋君のお兄さんなんですか?」
彼女は弟と同じ学年だったらしい。ということは俺より十も年下だ。
「うちの弟は学校でどんな感じ? ちゃんとやってる?」
「なんだか、マスター、お父さんみたいですね」
声を上げて笑う環の顔は眩しかった。
あの男の子は馬鹿だ。環のこんな顔を見そびれたんだから。いや、引き出せなかったあいつの自業自得だと思いながら、俺は人知れずため息を漏らした。そう、自業自得なんだよな、俺も。
目の前で山積みの汚れた皿を見つめ、肩を落とす。一人で仕事をこなしてきたつもりだったのに、いざ本当に独りになると深雪が陰ながら手助けしてくれていたことがどんどん明るみになる。
あいつは花屋の仕事が休みの日は、店が混み合うと手伝いに来てくれていた。そんなことも忘れて、自分だけでこの店を切り盛りしていた気になっていたなんて俺はとんだ甘ったれだ。
このところ、有り難いことに客が増えていた。その分、仕事が回らない。ふと、俺は環の顔をのぞき込んだ。
「なぁ、バイトしない?」
「へ?」
「どうせ雇うなら、知ってる奴がいいし」
「……それ、マスターの悪いクセですね」
「何が?」
「頭の中で考えていることを話さずに口を開くから、いつも言葉が突拍子もないんです」
思わず笑ってしまった。深雪にも言われていたなぁ、それ。
結局、環は申し出を受けてくれ、うちの店でも初めてバイトを雇うことになった。
一週間もすると、環は大抵の業務をそつなくこなせるようになっていた。
「マスター、ポテト追加です」
環がにこやかに揚げ物をしている俺に声をかけた。
「了解」
そう答えながら、ふっと笑ってしまう。やっぱり、女の子は笑顔が一番だ。
環は仕事を覚えるのが早かった。レジを間違えることもない。ただ一つ難があるとすれば人見知りだ。初めて顔を合わせる人には、萎縮してしまうのだ。よくそれでバイトを引き受けてくれたもんだと、ありがたく思う。
「環、その笑顔を忘れるなよ」
「やっぱり、ぎこちないですか?」
苦笑しつつ、困った様子の環に頷く。
「お客さんにも、俺に笑ってるように笑えばいいんだよ」
「あ、はい」
環は一気に赤面しながら、逃げるように調理場を去った。俺には普通なのに、人見知りって大変だな。けれど環にはいいリハビリになるだろうと、なんだか親心みたいなものを感じつつ、オーダーを消化しにかかる。
仕事が終わると、俺は環に必ずコーヒーをいれるようになっていた。まかないを出すと言った俺に、彼女は「食事よりコーヒーがいいです」と返事したんだ。
この夜も、片付けの終わった店で俺は環とコーヒーを飲んでいた。いつものようにブラックを出すと、彼女がおずおずとねだる。
「あの、お砂糖とミルクもらってもいいですか? 実は甘いほうが好きなんです」
「てっきり、ブラックなのかと思ってた」
男の子と一緒に来ていたとき、彼女は必ずブラックをオーダーしたのだ。
「背伸びしてたんですよ。彼がいつもブラックだったから」
「もっと早く言えばいいのに」
環が申し訳なさそうに顔を赤らめた。
「だって、せっかくマスターがいれてくれたこだわりのコーヒーだから」
なんだか、くすぐったい気がした。
「馬鹿だなぁ。お前が美味しく飲むのが一番なんだよ」
へらっと笑う環は、安堵で口が緩んでいた。そうそう、そういう顔をもっと見せればいいんだ。そうすれば、きっと次はいい恋ができるさ。
その後、俺は彼女が入れた砂糖の量に唖然とした。なるほど、これはまかないがなくても充分カロリーがとれる。そんな小さな一面が、愉快でたまらなかった。
環は人を和ませる。深雪とのことで冷えきった俺の気持ちが、いつしかほぐれていくようだった。環が笑うと、俺も嬉しいんだ。でも、それは深雪を笑わせてやることができなかったことへの罪滅ぼしのような気もする。だけど、環は環だろ。それに、深雪は去年再婚したって聞いてる。いくら俺の中に今でも、あいつの降らせた雪が残っていたとしても、今更だ。
紅葉した街路樹の葉は儚く舞い散り、針金のような枝が丸見えだった。もう雪が降る季節がそこまで来ている。
開店前の店でほうきとちりとりを持ってため息を漏らしているときだった。
「マスター」
振り返ると、制服姿の環がいた。なにやら思い詰めた顔をしている。
「あれ、どうした? 今日はバイト休みだぞ。間違えたのか?」
そう笑った俺に、彼女は頭を横に振った。
「話したいことがあって」
「何?」
「先週の水曜日、マスターに頼まれて花を買ってきたの覚えてますか?」
もちろん、覚えている。たまたま買い忘れたんで、慌てて環にお使いを頼んだんだ。なんでもいいから見繕ってもらえって。
彼女が買ってきたのは、淡いピンクや赤の花束だった。今までは深雪の好みで寒色系の花が多かった。彼女がいなくなっても、惰性で同じような色の花を買っていたせいか新鮮だった。
いつもの花瓶にいけると、店の雰囲気が柔らかくなった気がする。「綺麗ですね」と声をかけてくれる女性客も多かった。
俺はあのとき、環が持って帰ってきた領収書を見てほっとした。そこには『関口花店』という名前があったからだ。深雪の勤める花屋ではなかった。
「それがどうした?」
きょとんとする俺に、彼女は意を決したように言った。
「私、マスターに伝言頼まれてたんです。最初は『プリマヴェーラ』って店に行ったんです。センスがいいって評判なのは知ってたから」
深雪のいる店だ。俺は呆気にとられて、仁王立ちになっている環を見つめていた。
「店員さんに事情を話したら、その人が笑って言うんです。『悪い事言わないから、よそのお店にしておくといいわ。千隼が嫌がるから』って」
深雪だ。いつの間にか、俺の口の中が乾き切っていた。
「深雪に会ったのか」
ぽつりと言うと、彼女は深く頷いた。
「理由を聞いたら、答えてくれませんでした。『千隼によろしくね』って言われて……気になって千尋君に訊いたんです。あの人が別れた奥さんだって」
「うん。それで?」
「帰り際にあの人から『たまには電話してと伝えてね』って言われて。でも、私、言い出せなくて」
俺はほうきとちりとりを置いて、環に歩み寄った。どうして彼女はこんなことで肩を震わせているんだ?
「まぁ、別れた女房の話なんて気まずいよな。ごめんな。でも気にしなくていいんだぞ? どうせ『よろしく』なんて社交辞令だし」
「違います。だって、すごく好きな人の話をする顔だった」
度肝を抜かれた。その言葉にもだけど、環が大粒の涙を流していたからだ。
「早く、あの人のところに行ってあげてください。千尋君から聞いたけど、全然会ってないんでしょ?」
「いや、環、ちょっと待て」
この子は何を口走ってるのか。もうとっくに終わったことだし、好きな人の話をする顔ってどんな顔だ?
「大体、お前はなんで泣いてるの?」
環が弾かれたように顔を上げた。ずびっと鼻をすすり、唇をへの字にしている。
「私、マスターのこと好きだから」
呆気にとられた。
「幸せになって欲しいから。いつか、私に言ってくれましたよね。黙ってないで相手にぶつかれって。それって、マスターが前の奥さんを想って言ったことじゃないんですか?」
環は涙でびしょ濡れの顔で俺を睨むように見ていた。
「行ってください。でないと、私、いつまでも辛いです。マスターはコーヒーみたいに私をほっとさせるけど、苦しくもさせるたった一人の人なんです。この気持ちにケリをつけられるのはマスターだけだから。大好きなんです」
彼女はそうまくし立てると、踵を返して走り去った。
俺はその場に突っ立ったまま、あとを追えなかった。俺を? 好きだって? いつの間に?
情けないよな。驚いて腰が抜けそうだったんだよ。
環はそれからバイトに来なくなった。
片付けも終わったカフェというのは、こんなに薄暗くて寒々しいものだっただろうか。帰り支度を終えた俺は一人でコーヒーを飲みながら、誰もいない店内を見回した。
不思議なことに、環とここでコーヒーを飲んだ日々はたった数ヶ月なのに、目の前に彼女がいないだけでガランとして見えた。
まるで、深雪が俺から去ったときのようだ。いや、もっと鮮烈かもしれない。
深雪を思い出して「あの馬鹿」と、口走る。なにが『たまには電話して』だ。とっくに再婚しておいて、俺に今更何を言いたいっていうんだ。
そのとき、店の電話が鳴り響いて思わずビクッとした。環かもしれない。
「もしもし?」
そっと出ると、「すみません、まだやってますかぁ?」と、明るい酔っぱらいの声がした。
「申し訳ございませんが、本日は営業終了しました」
俺は電話を切り、がっかりしている自分に気づいた。
「環……」
名前を呼んでみる。もちろん返事はない。あれから連絡すらない。それでも「はい、マスター」と応える声が耳に残っていた。
『あの人のところへ行ってください』と、彼女は言った。だけど、心からそれを望んでいる訳がない。俺はまた二年前と同じ局面にいるんだ。その手をとれるかどうか、試されている。悲鳴を上げそうな心がひねり出した最後の手段で。
翌日の午後、俺は三時きっかりに店を閉め駅前通りへ向かった。『プリマヴェーラ』の看板が遠目に見えて来ると、心臓が高鳴った。
彼女に会うのは二年ぶりになる。もう随分長いこと会っていない気がするが、それでも彼女がどこにいるかすぐにわかった。軒先で薔薇を補充している後ろ姿に、ぐっと胸が締め付けられる。
一時は『病めるときも健やかなるときも』なんて誓い合った仲だ。彼女がどんなに変わり果てようと、すぐにこの目は見つけてしまう。でも、そこにはあの式場で抱いた感情とは違うものがある。まるで戦友と再会するような気持ちだ。
「いらっしゃいませ」
気配を感じて振り返った深雪は、俺を見てハッとした。
「久しぶり」
思わず眉を下げて笑う。彼女は何も変わっていない。柔らかな顔も、目の下のほくろも、すべてそのままだ。強いて言えば少し髪が伸びた。
「会いにきてくれたのね」
彼女は小さく微笑んだ。
「元気そうだな」
胸元のネームプレートを盗み見ると、苗字が変わっている。再婚したって話は本当らしい。
「おかげさまでね。千隼はなんだか頼もしくなったわね」
「あぁ。いつまでも甘えてられなかったからな」
深雪がいなかったら、俺はきっとここまで来れなかった。それだけはわかる。
「ありがとうな、深雪」
「遅いのよ、まったく」
憎まれ口を言いながらも、深雪は嬉しそうだった。
「今日は店の花を見繕ってもらおうと思って」
「わかったわ。花瓶はいつもの?」
「あぁ」
流石に心得ている。彼女は何も聞かずとも、俺の希望通りの予算でちょうどいい量の花を選んでくれた。ハサミで長さを調節し、手際よく包んでくれた。
「このままいけてくれれば、大体高さも合ってると思うけど。気に入らなかったら調節してね」
彼女が選んだのはやはり寒色系の花だった。
「それからもう一つ小さな花束をくれ。同じ花を使って」
「あら、とうとう彼女でもできた?」
深雪は冗談っぽく笑うと、手早く小さな花束を作り上げる。会計を済ませた俺は、店用の花だけを受け取り、小さな花束を深雪に差し出した。
「これは、お前に」
「私、誕生日じゃないよ?」
「知ってるよ」
苦笑しながら、きょとんとしている深雪に花束を押しつけた。
「結婚していた間に俺にしてくれたことへのお礼と、再婚祝いだよ」
深雪の口がぽかんと開き、おずおずと花束をのぞき見る。
「おめでとう。今度こそ、幸せになれよ」
「本当に遅いのよ、千隼」
彼女はうっすら涙を浮かべ、泣き笑う。
「私、あなたといるときも幸せだったわ。本当よ」
前言撤回。彼女は変わった。その笑みは相変わらず朗らかだったが、今までなかった芯の強さが見えた。俺との日々がそうさせたのか、新しい旦那のおかげなのか知らないけれど。
「今度はためこまずに、相手にぶつかれよ。男なんて察しろって言われても気づかないんだから」
「そうしてる」
ふっと笑う深雪が、目を細めて花束の香りを嗅いだ。
「それ、お前の好きな花の色だろ?」
「えっ?」
「だって、いつも玄関とか店にこういう色の花ばかり飾ってたから」
「違うわよ、本当に千隼ってば」
彼女はカラカラと笑った。
「この色合いを好きだって言ったのはあなたよ」
「へ?」
記憶にない。呆気にとられる俺に、深雪がため息を漏らした。
「やっぱり、覚えてないのね」
「あなたが一度だけ私の花を褒めてくれたときがあったの。気まぐれかもしれないけど、そのときの花は寒色系でね。それ以来、私はあなたが好きな色なんだと思って、ずっとこういうのを選んできたのよ」
「そうだったのか」
拍子抜けする俺に、彼女は笑った。
「そうそう、あの子はどんなお花を買ったの?」
「あの子?」
「バイトさん」
「あぁ、ピンクと赤だったな」
「そう。今度は大事にしなさいね」
「え?」
「あの子、わかりやすいわね」
「そうか?」
俺は正直、気づいてやれなかったけど。思わず苦笑すると、深雪も何かを察したのか、つられて笑う。
「あの子、あなたをよくわかってるわ」
「どういう意味?」
「あなたの店ってね、本当は暖色系の花のほうが似合うの。私もあなたが寒色系の花を褒めたりしなければ、赤い花を飾ってたわ」
「そうなのか?」
花に疎い俺にはさっぱりわからない。第一、自分の好きな花の色が何なのかも思い浮かばない。
「寒色系は確かにあなたのイメージだけど、それは上っ面。本当のあなたは暖色系の花みたいな優しさを持った人。あの子はそれをわかってる」
環の笑顔が目に浮かんだ。一緒に過ごした日々の記憶を手繰る。俺を見る目が何を言おうとしていたか。俺に向けた頬が赤みを帯びていたときはなかったか。
「まったく、どいつもこいつも俺を試したがる」
思わず呟くと、深雪が「ごめん」と呟いた。
「あの離婚届のことよね? 本当は出すつもりなかったのよ」
「知ってたよ。でも、そうさせたのは俺だ。ごめんな」
「謝ることじゃないわ。ただ歯車がすり減って噛み合なくなっただけ。夫婦じゃなくなったけど、大切な人には変わらないわよ」
彼女は念を押すように、繰り返し言った。
「本当に大切よ。だからたまには電話して、元気でいるかだけでも知らせてね。心配だわ」
そうだな。俺は口の中でそう呟く。
ふと、目の前にある花に目が留まった。かすみ草が咲いている。あぁ、俺の好きな花の色は白だったのかもしれない。なんとなく、そう思った。
その夜、俺は環に電話した。携帯電話はしばらく鳴り続け、諦めようかと思った矢先に声がした。
「もしもし」
「環、今から店においで。逃げるんじゃないぞ」
それだけ言うと、通話を切る。なんだか脅迫めいた電話をしたくせに、一気に不安が押し寄せた。俺は一人カウンターの椅子に座り、祈るような気持ちで時計の針が動く音を聞いていた。
しばらくして、扉がゆっくりと開いた。環だ。そう思った途端、俺は立ち上がっていた。
環は何も言わず、おずおずと、まるで叱られるのを待つ子どものように歩み寄った。
俺は目を細めて、少し痩せた彼女を見た。その姿があるだけで、店が色づいて見える。俺はカウンターの上に置いていた花束を差し出した。それは、深雪の店で帰りがけに追加で買った白い花束だった。
「これ?」
「うん、お前に」
「どうして?」
「贈りたいから」
「だから、なんで? 私の誕生日、今日じゃないです」
こいつまで深雪と同じようなことを言う。苦笑すると、俺は花束を握らせた。
「女も言わなきゃわかんない? 男が花を贈りたいってどういう意味か」
環の顔が赤くなる。目が潤んで、そっと呟いた。
「聞かせてください。ちゃんと、マスターの口から」
思わず見惚れてしまった。その顔は俺が思っている以上に『女』だった。べそをかいていた高校生はどこにもいない。甘えた声で男の言葉を欲しがる、正真正銘の女だ。こうさせたのは本当に俺なのだろうか。
「傍にいてよ。頼むから」
あのとき、深雪には言ってやれなかった一言が自然に口をついて出た。
「どこにも行くなよ」
環は涙をこぼしながら、柔らかく笑った。相変わらず泣くと顔が歪むけど、どこか違う。あぁ、嬉し泣きだからか。そう思った途端、俺の心が温もった。
あんなに積もっていた雪から水が滴り落ち、春の陽射しの中から大地が顔を出したような気がした。コーヒーの色にも似た土には、白い花が咲いている。彼女の手の中で咲いている。
その後、俺たちは二人でコーヒーを飲んだ。いつもの香ばしい匂いは、いつしか俺たちの時間を思い出させる鍵になるだろう。
その深い香りよりも鼻先をくすぐるのは、環だ。キスをするたびに、コーヒーの香りがした。多分、あいつも同じように感じているだろうけど。
砂糖とミルクたっぷりのコーヒーの甘い香りが、俺を酔わせた。ベタベタに甘いコーヒーも悪くない。今度は環の真似をして山盛りの砂糖とミルクを入れてみようか。キスをした彼女が甘い味を感じるように。いや、やっぱりやめておこう。甘いのは環のコーヒーだけで充分だ。
俺はブラックを飲み続ける。これが俺の味だと環が魂に刻むまで。
これから先、どんなに俺の心に雪が降り積もろうとも、きっと大丈夫。彼女のコーヒーの香りが、あっという間に溶かしてしまうだろうから。
中粗挽きにした豆をドリップしていると、辺りが芳しい匂いに包まれた。朝の爽やかな光が溢れるリビングでは、妹の千晶がノートパソコンに向き合っている。
いれたてのコーヒーを差し出すと、千晶が「いい匂い」と、うっとりため息を漏らした。大学の論文は順調のようで、彼女は機嫌よく俺のコーヒーに口をつけた。
「千隼のコーヒーは最高よね。カフェの味がお家で飲めるって役得だわ」
「本当なら金をとるところだぞ」
苦々しく言うと、千晶が屈託なく笑う。
「このBGMを止めてくれるなら構わないわよ」
つい苦笑してしまう。二階から響いてくるのは、実にぎこちない『愛のロマンス』だ。このギター初心者にうってつけの練習曲を熱心に弾いているのは、末の弟の千尋だった。
「単なるBGMじゃないからな。青少年の恋は止められん」
「一年越しの片思いが叶ったからって、彼女と同じギター教室に通い出すとは思わなかったわ」
くくっと笑う千晶は愉快そうだった。
「あの何にでも興味なさそうだった千尋が朝から晩まで練習してるなんて。男を変えるのは女ね」
「まぁ、そういうことだな」
新聞を手にした俺に、千晶が意地悪い目をした。
「千隼も変わればいいのに」
「ん?」
新聞の一面に気を取られて生返事をすると、千晶がソファに身を預けて目を細めた。
「そろそろ、次の人見つけたら? 仕事だけの人生なんて、虚しいわよ」
放っておいてくれ。そんな言葉の代わりに眉間に皺を寄せて、コーヒーをすすった。コーヒーの苦さは俺を和ませるが、離婚の苦さは心まで麻痺させる。
俺が深雪と離婚して二年が経っていた。
今でも俺の心は、まるで雪原を彷徨った挙げ句、凍えて身動き一つ取れずに行き倒れたようだ。俺に雪解けをもたらすものが何か、一番知りたいのは俺自身だった。
つまずいてばかりの『愛のロマンス』が、俺のもつれた心みたいに聞こえる。「これがAマイナーで、これがEで、これがD」などと嬉しそうにコードを披露する弟の無邪気さに、目眩がしたもんだ。俺にもあんな時代ってあったかな。あったんだろうが、思い出せもしない。
深雪とは友人の紹介で出逢った。俺たちが付き合い始めた頃、あいつは花屋に就職したところだった。
もの静かで、微笑みながら佇むような女だ。まるでかすみ草みたいな彼女は、目立ちはしないけど誰かをほっとさせる。俺が喫茶店でコーヒーの修行をしている間も、カフェをオープンさせた時も、誰より陰で支えてくれた。
けれど、いつからか、俺は仕事に夢中で、彼女のことをおざなりにしていた。
次第に会話も減り、常に花で賑わっていた玄関もいつしか飾られることがなくなった。掃除と洗濯だけはしてくれたが、食事はお互い好きなものを自分で調達して食べるようになった。
家に帰るのが憂鬱にまで感じてきた頃だった。リビングのテーブルにぽつんと半分に折られたままの離婚届が乗っていた。緑の文字と罫線でできた欄には、既に深雪の名前と印鑑が押してあった。婚姻前の氏名に戻ったときのための本籍まで記入してある。
いつかはこの日が来ると思っていた。だけど、いざ目の前に書類を出されるとショックは大きかった。寒々しい気分で、立ったまま書類を見つめた。
婚姻届を出したときも思ったけど、ほんの紙一枚なんだ。だけど、その一枚が毎日に大きな違いをもたらす。俺がここに署名して捺印すれば、俺たちは他人になる。まぁ、気持ちの上ではもう既に夫婦とは呼べない状態だろう。
俺はペンと印鑑を用意し、ソファに腰を下ろした。名前を書こうとしたけれど、いざペンを手にすると、しばらく動けなかった。
俺たちは、こんな別れをするために結婚したんだろうか。何をどうしてやれば、こうならずに済んだんだろう。
虚無感がどっと押し寄せる。けれど、もう深雪は判を押しているんだ。片方だけが後悔しても、駄目なんだ。
俺は唇を噛み締め、書類を書いた。捨て印をして、印鑑をしまう。離婚届を手に寝室へ入ると、深雪がベッドに横になっていた。
彼女は俺が来た気配に、すぐに起き上がった。少し目が赤いのは、ずっと起きていたのだろう。もしかしたら泣いていたかもしれない。
「いつ出してもいいよ。お前の好きにしてくれ」
そっと二つ折りにした書類を差し出すと、彼女は戸惑いながら受け取った。
離婚届を開き、俺の名前を指でなぞる。その唇が微かに震え、彼女は声を上げて泣き伏せた。
そのとき、俺は初めて離婚届の証人の欄が空白だということに気づいた。同時に、これは彼女の賭けだったんだと悟る。自分を見て欲しいと願う深雪の、最後の賭けだ。
離婚を突きつけられて慌てて手をとって欲しい。『どこにも行くな』と言って欲しい。そんな深雪の千切れそうな心が最後にしがみついた術だったんだ。
俺は居たたまれない気持ちで、隣に腰を下ろした。そして、こう囁くことしか出来なかった。
「ごめんな。幸せにしてやれなかったな」
俺は深雪の求めていたものを何ひとつ知ろうともしなかった。無償の愛情や支えを当然のように浴びたまま。
離婚届けを出すと、俺は実家に戻り、彼女はアパートにそのまま住み続けることにした。荷物を運び出す俺に、彼女はぽつりと言った。
「部屋がガランとしてなんだか寒いね」
「そうかな?」
俺は首を傾げて苦笑した。荷物があったって、この家の空気が寒々しいのは今に始まったことじゃない。そうさせたのは俺なんだろうけれど。
けれど、それから数日たって開店前のカフェに立ったとき、なんとなくその言葉の意味がわかった気がした。
その日は水曜だった。いつもだったら深雪が花を持って飾りにきてくれる。だけど、これからは自分で花を買ってこなきゃならない。
カウンターにある花はもう変色して萎びていた。指でふにゃっとした花びらをなぞる。
なんだか、誰もいない店がガランとして見えた。俺と深雪で一から作り上げてきたカフェから、彼女の気配だけが忽然と消えたようだ。見渡すと、もの言わぬテーブルや椅子が人恋しそうに佇んでいる。時計の針の音がやたら響いていた。
なぁ、深雪。もうお前に「今日はアイツが来た」だの「この料理が評判よかった」だの、話すこともないんだな。
俺は初めて、半身をえぐられた気分になった。
俺が失ったものは、果てしなく大きい。日を追うごとに、その想いは確固たるものになっていく。
今まで、あいつがどれだけ尽くしてくれていたか、俺は気づいてもいなかった。
通帳を開いたとき、知らないうちに千円単位で貯蓄されているのを見て、思わず胸が詰まった。思えば寝具はいつもふかふかだったし、日用品は必ず予備があった。革靴は常に磨いてあった。常に俺が居心地よく過ごせるよう、小さなことでも気をつけていてくれたんだ。
俺が仕事に専念できるよう、彼女は何から何まで心配りをしてくれていた。それを今更ながら知るたびに、自分の心が凍てつくのを感じていた。俺はここまでしてくれていた彼女の何を見てきたんだろう。あんな涙を流させるために一緒にいた訳じゃないはずだ。
俺は、彼女に何をしてやれた? かすみ草のように小さく微笑みながら、俺の自由やカフェでの実力を引き出してくれていた彼女に。
俺の中に、深雪との思い出や、些細な一言が層をなして積もっていく。やがて、俺は深雪への罪悪感に埋もれて動けなくなった。熱を奪われ、自分の身勝手さに絶望し、その足を動かす気力さえ無くした。それは二年たった今も変わらない。俺に残ったものは仕事だけだ。
本当は怖いんだ。誰かが俺の中に積もる雪を溶かすとき、俺はまた同じ事を繰り返さないだろうか? ギリギリの心が送ってくるサインを見逃さずに、その手を引き留められるか?
妹の言う通り、仕事だけの人生だなんて御免だが、心が動かないうちはどうしようもないのだった。
秋雨が降る日曜日のことだった。
うちのカフェは図書館に続く坂道の下にあるせいか、普段から本好きの客が多い。この日もコーヒー片手に本を楽しむ常連客で賑わっていた。
ランチの慌ただしい時間が過ぎ、時計の針はいつしか午後三時を指していた。これから五時まではいったん店を閉めて、夜の部の仕込みに入る。
だが、店には一組の男女が残っていた。何度もうちの店に来ている高校生たちだ。図書館で勉強がてらデートしているようで、先月くらいからちょくちょく顔を見る。何度か制服で来たとき、学年は知らないが、弟と同じ学校だということはわかった。
どちらかというと男の子のほうが積極的で、いつも彼が一人であれこれ話し続け、女の子はにこにこ相づちを打っている。きっと彼女は内気なのだろう。破れ太鼓みたいだが、それでも嬉しそうなのが微笑ましいのだった。
ところが、この日はなんだか様子が違っていた。男の子は露骨に詰まらなさそうな顔で、ぼんやり外を見ている。彼のコーヒーはもう空になったまま久しい。
ふと、女の子のしどろもどろな声が聞こえてきた。
「あの、あのね」
彼女は真っ赤な顔で、思い切ったようにこう言った。
「あの、今度の日曜日よかったら……」
あぁ、どこかに誘おうとしてるんだな。
俺は彼女の健気さに微笑みたくなった。だが、男の子は必死の提案を最後まで聞くことはしなかった。
「悪いけど、俺たち別れよう」
彼女が目を見開き、「え?」と小さな声を漏らした。男の子はため息まじりに頭をかく。
「もう、疲れた。俺とお前って全然タイプ違うしさ。何を話してもただ笑ってるだけで反応ないし、人形といるみたい」
それはお前が彼女を見ていないだけだと、胸の内で毒づいた。
彼女は単に笑ってるんじゃない。このカフェに来ている間、その目が「嬉しい」と言葉なしに言っていた。染められた頬が「大好き」と囁いていたのを、何故目の前で見ていて気づかないんだろう。今だって健気に頑張っていたじゃないか。
「それに、デートもいつも図書館だろ。お前はカラオケもゲームもしないし、遊園地だって高所恐怖症だし。つまんないんだよな」
つまらないのはお前だよ。なんだか、だんだんと腹が立ってきた。自分のことばかりじゃないか、お前。
そこまで思って、俺は自分のことを棚に上げていることに気がついた。俺だって、深雪のことを何一つ汲み取ってやれなかったのだ。
彼女は遠目に見ても震えていた。ただ、唇を噛み締め、俯いている。彼はわざとらしいため息をつき、伝票を掴んだ。
「最後までだんまり? 本当、お前ってつまんないね。告白されて嬉しかったけど、それだけだったな」
彼は憮然とした様子でレジに向かってきた。思わず千円くらい水増ししようかと思ったが、やめといた。
彼は横柄な態度で釣りを受け取った。去り際に、ふっと彼女の背中を見た彼は、まるで醜いものを見たように眉をしかめたが、すぐに清々したと言わんばかりに口の端をつり上げた。
彼は接客業のアルバイトをしたほうがいい。カフェを出た彼の背中を見送りながら、俺は思わず眉間に皺を寄せた。そういう態度をされた人間の気持ちがよくわかるように、働いてみるといいんだ。
俺は入り口の札を『CLOSE』にひっくり返しながら肩をすくめる。これは俺の経験による私的意見だが、サービス業の人間にどんな態度をとるかは、家族や恋人にする態度に通じると思う。『金を払ってるから当然』は『親だから当然』『恋人だから当然』と似ているときがあると思うんだ。
きっと彼は、遠慮しなくていいと思うと、あぁいう態度を取るタイプなんだろう。彼女はきっと、別れて正解じゃないかな。
ふと女の子を見ると、その小さな背中が丸まっていた。拳を膝の上で握りしめ、ずっと俯いている。泣くのを必死に堪えているんだろう。俺は居たたまれなくなって、窓のロールカーテンを降ろした。
「あ、あの、もう閉店ですか?」
うわずった声で顔を上げた彼女に、俺は首を横に振った。
「いや、ゆっくりしていいよ。ただ、君のその顔、あんまり見せられたもんじゃないから」
彼女の顔がみるみるうちに真っ赤になった。テーブル席は窓際にあるせいで、道ゆく人から丸見えになる。俺はカーテン越しの穏やかな光の中、彼女に歩み寄った。
「我慢しなくていいよ」
向かいの椅子に腰を下ろして、なるべく穏やかな口調で言う。
「誰も見てないから。俺もここだけの話にしてあげるよ」
「えっ?」
「泣きたいんだろ? 思いっきり泣いてから、帰ればいいよ」
俺がそう言うと、彼女は小さな声を震わせた。
「聞こえてたんですね」
「うん、ごめんね。狭い店なもんで」
「あの、凄い好きだったんです」
「うん、そうみたいだね」
ぽとりと、大きな目から涙が落ちた。
「思い切って告白したら『いいよ』って言われて、凄く嬉しくて、一緒にいると頭が真っ白で、嫌われたくなくて、笑ってるしかできなくて、でも私、音痴だし、高所恐怖症だし、流行に疎いし、でもそれでも彼の好きなところに頑張って行ってみようって決めて、思い切って彼の好きなカラオケに行こうって言おうとしたんだけど」
立て板に水のごとく、よくもこんなに言葉が出てくると感心するくらい、彼女は一気にしゃべり出した。よほど感情を抑えていたらしい。鼻がみるみるうちに赤くなり、長いまつ毛は濡れて光っていた。
「なのに、それなのに……」
最後は声にならなかった。また唇を噛み締める彼女に、思わず手を伸ばし、そっと柔らかい頭を撫でた。
その途端、彼女は堰を切ったように泣き出した。鼻水を垂らして、顔を歪ませて「馬鹿」とか「あんな言い方ないよ」とか喚いていた。やれやれ、これじゃ『泣いた』というより『べそをかいた』って感じだ。
でも、俺にはそれがとても愛しく見えた。千尋と同じように、無我夢中で誰かに恋をしている姿が眩しい。立ち上がってティッシュの箱とくずかごを置いてやると、彼女は慌ててティッシュで鼻をかんだ。
俺はふっと笑みを漏らして、椅子に座った。俺も深雪にこうしてためこんだ感情を吐き出させて、聞いてやればよかった。ただそれだけだったのにな。深雪にできなかったことを、見ず知らずの高校生にしているなんて、妙な話だ。
「すみませんでした」
やっと泣き止んだ彼女は、すっかり腫れた瞼が重そうだ。
「いいよ。それより……」
俺は目の前の残された食器を顎で指し示す。あの男の子はドリアとコーヒーを平らげているのに、彼女はコーヒーだけ。しかも、ほとんど口をつけていない。
「口に合わなかった?」
軽くショックを覚えながら言うと、彼女は慌てて手を横に振った。
「あ、違うんです。あの、私、彼と会うだけで緊張しちゃって、朝から何も喉を通らなくて」
「じゃあ、今は大丈夫だね」
俺はふっと笑うと、彼女に手招きした。
「おいで。カウンターでコーヒーいれ直してあげるから」
「えっ、でも悪いです」
「冷めたコーヒーより、熱々がいいでしょ」
俺は彼女をカウンターに誘うと、お湯を沸かしてコーヒー豆を挽いた。濡れて膨らむ豆を眺めていると、彼女が匂いを吸い込む音が聞こえた。
いつも以上に丁寧にいれたコーヒーを差し出すと、彼女は礼をして口をつける。
俺も自分のコーヒーを飲みながら、その様子を見守った。香ばしい匂いに、彼女の表情がほぐれていくのが無性に嬉しい。
「美味しい。なんだか、ほっとします」
ありきたりな言葉なのに、最上級の賛辞に聞こえた。
「また飲みにおいで。君、本が好きでしょ? 図書館の帰りにでも寄っていきなよ」
「どうして本が好きだってわかるんですか?」
「いつも彼とここに来るとき、彼のバッグは薄っぺらいのに、君のだけ膨らんでた。本を借りていたのは君だけだろう」
「よく見てるんですね」
俺はカップを置き、目を丸くしている彼女に笑った。
「言葉で説明するよりも、人はそこにいるだけで自分を見せているもんだよ。服とか靴もそうだし、財布もそう。手も仕草も食べ方も、全部その人を反映させているんだよ」
「へぇ」
「だから、無口だからってつまらなくない。気にすることはないさ」
彼女がハッとする。だけど、俺はこれだけは言っておきたかった。
「嫌われたくないなんて無意味だ。素の自分を晒したままでいいんだよ。どのみち、君の服や体や動きが語ってる。その方が、相手との思い出もこじれない。遅かれ早かれ嫌われるなら、本当の自分じゃないのにって悔やまなくて済むほうがいい」
そう言いながら、深雪の後ろ姿が思い浮かんだ。じっと何かを待つ、無言の背中が暗闇の中に見える。
「男なんて馬鹿な生き物だから、黙ってたら何も気づかないよ」
そう、俺みたいにね。
「ためこまれて爆発されても、男にしたら『なんでその都度言わないんだよ』って思うのさ。遠慮しないで、直接口にしてくれなきゃ、すれ違ったまま修正できなくなることもあるさ。黙って我慢してないで、次の相手には本音でぶつかってごらん」
そこまで口にしたときだった。
「それ、マスターのことですか?」
彼女の言葉に、俺は思わず顔を上げた。彼女は眉を下げ、心配そうに俺を見ている。
「マスター、なんだか泣きそうです」
虚をつかれた。参ったな、立場が逆転だ。
俺は苦笑し、「さぁね」と言葉を濁らせた。なんだ、なかなか面白い子じゃないか。
「君、名前は?」
「環です」
彼女は小さく微笑んだ。それが、俺と彼女の出逢いだった。
環はちょくちょく店に顔を出すようになった。日を追うごとに、彼女のイメージは『ただ微笑む人形』ではなく、『屈託なく笑う子』に変化していった。少なくとも、俺の前ではそう見えた。
「マスターって、千尋君のお兄さんなんですか?」
彼女は弟と同じ学年だったらしい。ということは俺より十も年下だ。
「うちの弟は学校でどんな感じ? ちゃんとやってる?」
「なんだか、マスター、お父さんみたいですね」
声を上げて笑う環の顔は眩しかった。
あの男の子は馬鹿だ。環のこんな顔を見そびれたんだから。いや、引き出せなかったあいつの自業自得だと思いながら、俺は人知れずため息を漏らした。そう、自業自得なんだよな、俺も。
目の前で山積みの汚れた皿を見つめ、肩を落とす。一人で仕事をこなしてきたつもりだったのに、いざ本当に独りになると深雪が陰ながら手助けしてくれていたことがどんどん明るみになる。
あいつは花屋の仕事が休みの日は、店が混み合うと手伝いに来てくれていた。そんなことも忘れて、自分だけでこの店を切り盛りしていた気になっていたなんて俺はとんだ甘ったれだ。
このところ、有り難いことに客が増えていた。その分、仕事が回らない。ふと、俺は環の顔をのぞき込んだ。
「なぁ、バイトしない?」
「へ?」
「どうせ雇うなら、知ってる奴がいいし」
「……それ、マスターの悪いクセですね」
「何が?」
「頭の中で考えていることを話さずに口を開くから、いつも言葉が突拍子もないんです」
思わず笑ってしまった。深雪にも言われていたなぁ、それ。
結局、環は申し出を受けてくれ、うちの店でも初めてバイトを雇うことになった。
一週間もすると、環は大抵の業務をそつなくこなせるようになっていた。
「マスター、ポテト追加です」
環がにこやかに揚げ物をしている俺に声をかけた。
「了解」
そう答えながら、ふっと笑ってしまう。やっぱり、女の子は笑顔が一番だ。
環は仕事を覚えるのが早かった。レジを間違えることもない。ただ一つ難があるとすれば人見知りだ。初めて顔を合わせる人には、萎縮してしまうのだ。よくそれでバイトを引き受けてくれたもんだと、ありがたく思う。
「環、その笑顔を忘れるなよ」
「やっぱり、ぎこちないですか?」
苦笑しつつ、困った様子の環に頷く。
「お客さんにも、俺に笑ってるように笑えばいいんだよ」
「あ、はい」
環は一気に赤面しながら、逃げるように調理場を去った。俺には普通なのに、人見知りって大変だな。けれど環にはいいリハビリになるだろうと、なんだか親心みたいなものを感じつつ、オーダーを消化しにかかる。
仕事が終わると、俺は環に必ずコーヒーをいれるようになっていた。まかないを出すと言った俺に、彼女は「食事よりコーヒーがいいです」と返事したんだ。
この夜も、片付けの終わった店で俺は環とコーヒーを飲んでいた。いつものようにブラックを出すと、彼女がおずおずとねだる。
「あの、お砂糖とミルクもらってもいいですか? 実は甘いほうが好きなんです」
「てっきり、ブラックなのかと思ってた」
男の子と一緒に来ていたとき、彼女は必ずブラックをオーダーしたのだ。
「背伸びしてたんですよ。彼がいつもブラックだったから」
「もっと早く言えばいいのに」
環が申し訳なさそうに顔を赤らめた。
「だって、せっかくマスターがいれてくれたこだわりのコーヒーだから」
なんだか、くすぐったい気がした。
「馬鹿だなぁ。お前が美味しく飲むのが一番なんだよ」
へらっと笑う環は、安堵で口が緩んでいた。そうそう、そういう顔をもっと見せればいいんだ。そうすれば、きっと次はいい恋ができるさ。
その後、俺は彼女が入れた砂糖の量に唖然とした。なるほど、これはまかないがなくても充分カロリーがとれる。そんな小さな一面が、愉快でたまらなかった。
環は人を和ませる。深雪とのことで冷えきった俺の気持ちが、いつしかほぐれていくようだった。環が笑うと、俺も嬉しいんだ。でも、それは深雪を笑わせてやることができなかったことへの罪滅ぼしのような気もする。だけど、環は環だろ。それに、深雪は去年再婚したって聞いてる。いくら俺の中に今でも、あいつの降らせた雪が残っていたとしても、今更だ。
紅葉した街路樹の葉は儚く舞い散り、針金のような枝が丸見えだった。もう雪が降る季節がそこまで来ている。
開店前の店でほうきとちりとりを持ってため息を漏らしているときだった。
「マスター」
振り返ると、制服姿の環がいた。なにやら思い詰めた顔をしている。
「あれ、どうした? 今日はバイト休みだぞ。間違えたのか?」
そう笑った俺に、彼女は頭を横に振った。
「話したいことがあって」
「何?」
「先週の水曜日、マスターに頼まれて花を買ってきたの覚えてますか?」
もちろん、覚えている。たまたま買い忘れたんで、慌てて環にお使いを頼んだんだ。なんでもいいから見繕ってもらえって。
彼女が買ってきたのは、淡いピンクや赤の花束だった。今までは深雪の好みで寒色系の花が多かった。彼女がいなくなっても、惰性で同じような色の花を買っていたせいか新鮮だった。
いつもの花瓶にいけると、店の雰囲気が柔らかくなった気がする。「綺麗ですね」と声をかけてくれる女性客も多かった。
俺はあのとき、環が持って帰ってきた領収書を見てほっとした。そこには『関口花店』という名前があったからだ。深雪の勤める花屋ではなかった。
「それがどうした?」
きょとんとする俺に、彼女は意を決したように言った。
「私、マスターに伝言頼まれてたんです。最初は『プリマヴェーラ』って店に行ったんです。センスがいいって評判なのは知ってたから」
深雪のいる店だ。俺は呆気にとられて、仁王立ちになっている環を見つめていた。
「店員さんに事情を話したら、その人が笑って言うんです。『悪い事言わないから、よそのお店にしておくといいわ。千隼が嫌がるから』って」
深雪だ。いつの間にか、俺の口の中が乾き切っていた。
「深雪に会ったのか」
ぽつりと言うと、彼女は深く頷いた。
「理由を聞いたら、答えてくれませんでした。『千隼によろしくね』って言われて……気になって千尋君に訊いたんです。あの人が別れた奥さんだって」
「うん。それで?」
「帰り際にあの人から『たまには電話してと伝えてね』って言われて。でも、私、言い出せなくて」
俺はほうきとちりとりを置いて、環に歩み寄った。どうして彼女はこんなことで肩を震わせているんだ?
「まぁ、別れた女房の話なんて気まずいよな。ごめんな。でも気にしなくていいんだぞ? どうせ『よろしく』なんて社交辞令だし」
「違います。だって、すごく好きな人の話をする顔だった」
度肝を抜かれた。その言葉にもだけど、環が大粒の涙を流していたからだ。
「早く、あの人のところに行ってあげてください。千尋君から聞いたけど、全然会ってないんでしょ?」
「いや、環、ちょっと待て」
この子は何を口走ってるのか。もうとっくに終わったことだし、好きな人の話をする顔ってどんな顔だ?
「大体、お前はなんで泣いてるの?」
環が弾かれたように顔を上げた。ずびっと鼻をすすり、唇をへの字にしている。
「私、マスターのこと好きだから」
呆気にとられた。
「幸せになって欲しいから。いつか、私に言ってくれましたよね。黙ってないで相手にぶつかれって。それって、マスターが前の奥さんを想って言ったことじゃないんですか?」
環は涙でびしょ濡れの顔で俺を睨むように見ていた。
「行ってください。でないと、私、いつまでも辛いです。マスターはコーヒーみたいに私をほっとさせるけど、苦しくもさせるたった一人の人なんです。この気持ちにケリをつけられるのはマスターだけだから。大好きなんです」
彼女はそうまくし立てると、踵を返して走り去った。
俺はその場に突っ立ったまま、あとを追えなかった。俺を? 好きだって? いつの間に?
情けないよな。驚いて腰が抜けそうだったんだよ。
環はそれからバイトに来なくなった。
片付けも終わったカフェというのは、こんなに薄暗くて寒々しいものだっただろうか。帰り支度を終えた俺は一人でコーヒーを飲みながら、誰もいない店内を見回した。
不思議なことに、環とここでコーヒーを飲んだ日々はたった数ヶ月なのに、目の前に彼女がいないだけでガランとして見えた。
まるで、深雪が俺から去ったときのようだ。いや、もっと鮮烈かもしれない。
深雪を思い出して「あの馬鹿」と、口走る。なにが『たまには電話して』だ。とっくに再婚しておいて、俺に今更何を言いたいっていうんだ。
そのとき、店の電話が鳴り響いて思わずビクッとした。環かもしれない。
「もしもし?」
そっと出ると、「すみません、まだやってますかぁ?」と、明るい酔っぱらいの声がした。
「申し訳ございませんが、本日は営業終了しました」
俺は電話を切り、がっかりしている自分に気づいた。
「環……」
名前を呼んでみる。もちろん返事はない。あれから連絡すらない。それでも「はい、マスター」と応える声が耳に残っていた。
『あの人のところへ行ってください』と、彼女は言った。だけど、心からそれを望んでいる訳がない。俺はまた二年前と同じ局面にいるんだ。その手をとれるかどうか、試されている。悲鳴を上げそうな心がひねり出した最後の手段で。
翌日の午後、俺は三時きっかりに店を閉め駅前通りへ向かった。『プリマヴェーラ』の看板が遠目に見えて来ると、心臓が高鳴った。
彼女に会うのは二年ぶりになる。もう随分長いこと会っていない気がするが、それでも彼女がどこにいるかすぐにわかった。軒先で薔薇を補充している後ろ姿に、ぐっと胸が締め付けられる。
一時は『病めるときも健やかなるときも』なんて誓い合った仲だ。彼女がどんなに変わり果てようと、すぐにこの目は見つけてしまう。でも、そこにはあの式場で抱いた感情とは違うものがある。まるで戦友と再会するような気持ちだ。
「いらっしゃいませ」
気配を感じて振り返った深雪は、俺を見てハッとした。
「久しぶり」
思わず眉を下げて笑う。彼女は何も変わっていない。柔らかな顔も、目の下のほくろも、すべてそのままだ。強いて言えば少し髪が伸びた。
「会いにきてくれたのね」
彼女は小さく微笑んだ。
「元気そうだな」
胸元のネームプレートを盗み見ると、苗字が変わっている。再婚したって話は本当らしい。
「おかげさまでね。千隼はなんだか頼もしくなったわね」
「あぁ。いつまでも甘えてられなかったからな」
深雪がいなかったら、俺はきっとここまで来れなかった。それだけはわかる。
「ありがとうな、深雪」
「遅いのよ、まったく」
憎まれ口を言いながらも、深雪は嬉しそうだった。
「今日は店の花を見繕ってもらおうと思って」
「わかったわ。花瓶はいつもの?」
「あぁ」
流石に心得ている。彼女は何も聞かずとも、俺の希望通りの予算でちょうどいい量の花を選んでくれた。ハサミで長さを調節し、手際よく包んでくれた。
「このままいけてくれれば、大体高さも合ってると思うけど。気に入らなかったら調節してね」
彼女が選んだのはやはり寒色系の花だった。
「それからもう一つ小さな花束をくれ。同じ花を使って」
「あら、とうとう彼女でもできた?」
深雪は冗談っぽく笑うと、手早く小さな花束を作り上げる。会計を済ませた俺は、店用の花だけを受け取り、小さな花束を深雪に差し出した。
「これは、お前に」
「私、誕生日じゃないよ?」
「知ってるよ」
苦笑しながら、きょとんとしている深雪に花束を押しつけた。
「結婚していた間に俺にしてくれたことへのお礼と、再婚祝いだよ」
深雪の口がぽかんと開き、おずおずと花束をのぞき見る。
「おめでとう。今度こそ、幸せになれよ」
「本当に遅いのよ、千隼」
彼女はうっすら涙を浮かべ、泣き笑う。
「私、あなたといるときも幸せだったわ。本当よ」
前言撤回。彼女は変わった。その笑みは相変わらず朗らかだったが、今までなかった芯の強さが見えた。俺との日々がそうさせたのか、新しい旦那のおかげなのか知らないけれど。
「今度はためこまずに、相手にぶつかれよ。男なんて察しろって言われても気づかないんだから」
「そうしてる」
ふっと笑う深雪が、目を細めて花束の香りを嗅いだ。
「それ、お前の好きな花の色だろ?」
「えっ?」
「だって、いつも玄関とか店にこういう色の花ばかり飾ってたから」
「違うわよ、本当に千隼ってば」
彼女はカラカラと笑った。
「この色合いを好きだって言ったのはあなたよ」
「へ?」
記憶にない。呆気にとられる俺に、深雪がため息を漏らした。
「やっぱり、覚えてないのね」
「あなたが一度だけ私の花を褒めてくれたときがあったの。気まぐれかもしれないけど、そのときの花は寒色系でね。それ以来、私はあなたが好きな色なんだと思って、ずっとこういうのを選んできたのよ」
「そうだったのか」
拍子抜けする俺に、彼女は笑った。
「そうそう、あの子はどんなお花を買ったの?」
「あの子?」
「バイトさん」
「あぁ、ピンクと赤だったな」
「そう。今度は大事にしなさいね」
「え?」
「あの子、わかりやすいわね」
「そうか?」
俺は正直、気づいてやれなかったけど。思わず苦笑すると、深雪も何かを察したのか、つられて笑う。
「あの子、あなたをよくわかってるわ」
「どういう意味?」
「あなたの店ってね、本当は暖色系の花のほうが似合うの。私もあなたが寒色系の花を褒めたりしなければ、赤い花を飾ってたわ」
「そうなのか?」
花に疎い俺にはさっぱりわからない。第一、自分の好きな花の色が何なのかも思い浮かばない。
「寒色系は確かにあなたのイメージだけど、それは上っ面。本当のあなたは暖色系の花みたいな優しさを持った人。あの子はそれをわかってる」
環の笑顔が目に浮かんだ。一緒に過ごした日々の記憶を手繰る。俺を見る目が何を言おうとしていたか。俺に向けた頬が赤みを帯びていたときはなかったか。
「まったく、どいつもこいつも俺を試したがる」
思わず呟くと、深雪が「ごめん」と呟いた。
「あの離婚届のことよね? 本当は出すつもりなかったのよ」
「知ってたよ。でも、そうさせたのは俺だ。ごめんな」
「謝ることじゃないわ。ただ歯車がすり減って噛み合なくなっただけ。夫婦じゃなくなったけど、大切な人には変わらないわよ」
彼女は念を押すように、繰り返し言った。
「本当に大切よ。だからたまには電話して、元気でいるかだけでも知らせてね。心配だわ」
そうだな。俺は口の中でそう呟く。
ふと、目の前にある花に目が留まった。かすみ草が咲いている。あぁ、俺の好きな花の色は白だったのかもしれない。なんとなく、そう思った。
その夜、俺は環に電話した。携帯電話はしばらく鳴り続け、諦めようかと思った矢先に声がした。
「もしもし」
「環、今から店においで。逃げるんじゃないぞ」
それだけ言うと、通話を切る。なんだか脅迫めいた電話をしたくせに、一気に不安が押し寄せた。俺は一人カウンターの椅子に座り、祈るような気持ちで時計の針が動く音を聞いていた。
しばらくして、扉がゆっくりと開いた。環だ。そう思った途端、俺は立ち上がっていた。
環は何も言わず、おずおずと、まるで叱られるのを待つ子どものように歩み寄った。
俺は目を細めて、少し痩せた彼女を見た。その姿があるだけで、店が色づいて見える。俺はカウンターの上に置いていた花束を差し出した。それは、深雪の店で帰りがけに追加で買った白い花束だった。
「これ?」
「うん、お前に」
「どうして?」
「贈りたいから」
「だから、なんで? 私の誕生日、今日じゃないです」
こいつまで深雪と同じようなことを言う。苦笑すると、俺は花束を握らせた。
「女も言わなきゃわかんない? 男が花を贈りたいってどういう意味か」
環の顔が赤くなる。目が潤んで、そっと呟いた。
「聞かせてください。ちゃんと、マスターの口から」
思わず見惚れてしまった。その顔は俺が思っている以上に『女』だった。べそをかいていた高校生はどこにもいない。甘えた声で男の言葉を欲しがる、正真正銘の女だ。こうさせたのは本当に俺なのだろうか。
「傍にいてよ。頼むから」
あのとき、深雪には言ってやれなかった一言が自然に口をついて出た。
「どこにも行くなよ」
環は涙をこぼしながら、柔らかく笑った。相変わらず泣くと顔が歪むけど、どこか違う。あぁ、嬉し泣きだからか。そう思った途端、俺の心が温もった。
あんなに積もっていた雪から水が滴り落ち、春の陽射しの中から大地が顔を出したような気がした。コーヒーの色にも似た土には、白い花が咲いている。彼女の手の中で咲いている。
その後、俺たちは二人でコーヒーを飲んだ。いつもの香ばしい匂いは、いつしか俺たちの時間を思い出させる鍵になるだろう。
その深い香りよりも鼻先をくすぐるのは、環だ。キスをするたびに、コーヒーの香りがした。多分、あいつも同じように感じているだろうけど。
砂糖とミルクたっぷりのコーヒーの甘い香りが、俺を酔わせた。ベタベタに甘いコーヒーも悪くない。今度は環の真似をして山盛りの砂糖とミルクを入れてみようか。キスをした彼女が甘い味を感じるように。いや、やっぱりやめておこう。甘いのは環のコーヒーだけで充分だ。
俺はブラックを飲み続ける。これが俺の味だと環が魂に刻むまで。
これから先、どんなに俺の心に雪が降り積もろうとも、きっと大丈夫。彼女のコーヒーの香りが、あっという間に溶かしてしまうだろうから。
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