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第十章 雪国のオリビア
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バーに通ううち、常連同士で親しくなることもあるものだ。今夜、久しぶりに琥珀亭に現れた高梨もその一人だった。
「高梨さん、お久しぶりですね」
おしぼりを差し出す尊が言うように彼は去年の秋以来、この琥珀亭に顔を見せていなかった。
「どうも、お久しぶりです。ちょっと本社のほうに呼ばれていたもんで山形に長期出張してました」
高梨は人なつこい笑みを浮かべて、両手でおしぼりを受け取った。彼の言葉に訛りはないが、山形県の出身だ。
「元気そうで良かったよ」
そう声をかけると、私の隣で高梨が笑う。
「お凛さんはいつ見てもお凛さんですね」
「何を言ってるんだい、当たり前じゃないか」
思わず噴き出した私に、彼も高らかに笑う。
実に愛想のいい青年なんだ。歳は30を過ぎた辺りだったかね。
「そうそう、去年いただいたアレ、美味しかったですよ。ありがとうございました」
尊が思い出したように言い、深々と礼をした。
その言葉で去年の秋に高梨からおすそわけしてもらった物を思い出していた。
「うん、美味しかったねぇ。ありがとうね。本当はもっと早く礼を言いたかったのに、お前ときたら店に来ないんだから。お前が言う通り、歯ごたえが良かったし、からし醤油にぴったりだったよ。えっと、何ていったかな......変わった名前のやつ」
「はは、『もってのほか』でしょ?」
高梨が得意げにおしぼりを畳みながら笑う。
『もってのほか』とは山形名物の食用菊のことだ。淡い紫の花びらをむしって、酢を入れたお湯でさっと茹でる。それにからし醤油をちょちょっとつけて食べたんだが、キュキュッと鳴る歯ごたえと独特の風味が良い。秋の風物詩らしいが、北海道では珍しい。
「久々の故郷はどうでした?」
そう尊に尋ねられると、高梨は「まぁ、ね」と言葉を濁らせる。せっかく懐かしい故郷へ戻ったんだから、顔を綻ばせてもいいものを、どこか気まずそうな表情を浮かべていた。
「いつもならビールって言うところだけど、今日はカクテルにしようかな」
気を取り直すように、彼はそう言った。
「せっかくの久々のバーだからね。カクテルはお任せでお願いします」
『お任せ』された尊が作ったのは、うっすら白い酒に緑のチェリーが沈む美しいウオッカをベースにしたカクテル『雪国』だった。グラスの縁で砂糖が輝いている。
「このカクテルも山形生まれですからね」
尊が蘊蓄を垂らしながらカウンターに差し出す。この『雪国』は川端康成の小説が由来のカクテルだが、その生みの親は山形の伝説的バーテンダーだ。
「おお、これは粋なカクテルですね」
高梨が素直に頬を緩ませ、しげしげとグラスを見つめる。
「綺麗だなぁ。ほら、まるで雪の下で芽吹こうと春を待っている植物みたいだな。いや、雪をかぶる松の葉みたいにも見えるかな」
ずいぶんと詩的なことを言う。私は感心するような、呆気にとられるような奇妙な気分で笑った。近所の古本屋の主人もロマンチックな男だが、こいつも相当なもんだ。
高梨は、まるで絵を見るような目でカクテルを眺めていた。一口飲んで、彼は「美味いなぁ」とにこやかに唸る。
「故郷ってのは、なんだか良い響きだね」
生まれてから故郷を離れたことのない私が話しかけると、彼は「えぇ」と深く頷いた。
だが「仕事の合間にどこかに出かけたのかい?」という問いには、ちょっと表情を曇らせてしまった。
「それがね、今度はあまり出ないようにしたんです」
「何でさ? せっかく故郷に帰ったってのに」
「......だからですよ」
理解できない。そう言う代わりに首を傾げて見せた私に、彼はこう言った。
「俺ね、十三歳のとき、こっちに引っ越してきたんですけど、実は一度だけ里帰りしてるんです。祖父の法事だったと思うんですけど」
彼は目を細めて言った。
「そのときに思い知ったことがあってね」
高梨は少し唇の端に笑みを浮かべ、半ば、夢見るような顔になった。
「故郷ってのは良いもんですけどね、俺は特に夏の景色が恋しいです。こっちってカラッとしてて涼しいけど、あっちはめちゃくちゃ暑いんですよ」
「あぁ、そうなのか。雪国だから寒いイメージしかなかったよ」
「盆地ですからね。だけどね、神社の境内には太い幹の杉が木漏れ日を落として薄暗くてひんやりしてるんです。その中には蝉の声だけが木霊して。ほら、この辺りじゃ蝉の声なんてしないじゃないですか」
郊外に行けば蝉も鳴いているんだろうが、確かに中心街では見ない。
「道路には陽炎が揺らいでね、あれだってその場にいたらうんざりするけど、記憶の中では綺麗です。俺が住んでいたのは街から離れたところだったんです。国道や工業団地や民家の間を埋めるように果樹園と田んぼがあるところでね。田んぼの傍には水神様の石碑があって、水が湧いてた。そんな景色が身近にあったんです。川を漁れば泥鰌やら川魚やらタニシが採れました」
「ほう、古き良き日本の原風景だね」
「そうなんです。特にね、蛍が良いんですよ。この辺りだと蛍がいるだけで名所ですけど、俺が生まれ育った辺りじゃそこら中にいたもんです。夜になれば広がる田んぼが真っ平らな闇になるんです。その辺り一面に蛍の光がばらまかれて、目の前をふわふわしてる」
私は高梨をじっと見つめた。なんだか、その瞳の奥に蛍の光が揺らいでいるような気がするほど、彼は遠い目をしていた。
「だけど、水路があるのがわかるくらい田んぼの縁に光が集中してもいてね、まるで天然の百万ドルの夜景ですよ。ウシガエルの声が鳴り響く中、音もなく無数の光が舞うんです」
私はぼんやりと想像しながら聞いていたが、その蛍の光景に思わず笑みを浮かべた。
「私もそんな幽玄な景色を見てみたいものだ」
そう言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「北海道に転校してきたときは、ホームシックで大変でした」
高梨が苦々しく言った。
「ほら、こっちってイントネーションが低いけど、公用語に近いでしょ。あの頃は何故か訛りが恥ずかしかったんですよね」
「皆と同じでないと不安だったんだろう? 小さい頃はそういうこともあるから」
「だと思います。今じゃ話そうと思っても話せなくなりました。聞けばわかるんですけどね。勿体ないことしましたよ。俺、山形の言葉、好きなんです」
眉尻を下げ、彼が雪国をまた飲んだ。
「あの頃は携帯電話もなかったんで、山形の友達と文通してました。こっちに馴染むまでは、それが心の支えでしたよ」
「今じゃメールがあるけど、手紙ってのは味があっていいね」
ハイライトに火をつけながら目を細めると、彼が照れたように笑う。
「毎日、学校から帰ると真っ先に郵便受けを見てね。手紙があると嬉しくて」
彼は肘をついて、ため息を漏らした。
「あの頃はいつも『故郷に帰りたい』って思ってました。よく道を歩きながら考えたもんです。『この道を辿れば故郷に続くんだな』とか『この空は山形の友達も見てるんだな』ってね」
「お前はその頃からロマンチストだったんだね」
苦笑する私を、彼はにこやかな顔で肯定した。
「自分でもそう思いますよ」
不意に高梨がこう訊いてきた。
「お凛さんはオリビア・ニュートン・ジョンって知ってます?」
「あぁ。『Take me home, country roads』を歌った人だね。私はジョン・デンバーも好きだが」
「そう、それです!」
高梨の顔がパッと明るくなる。
「あの歌を聴いたときね、俺は心底身震いしましたよ。オリビアは俺のためにこの歌を歌ってくれたんだって」
思わず笑ってしまう。オリビア・ニュートン・ジョンの『Take me home, country roads』は『故郷に帰りたい』という邦題で、ウェストバージニアの母なる山々をのぞむ故郷に想いを馳せた歌だ。
高梨はウェストバージニアの山々に、山形の山脈を重ねたんだろう。そして『この道を辿れば故郷だ』と自分を慰めた日々を。
「俺の故郷はアメリカじゃないですけどね。あの歌が心にしんみりきました」
彼がそこで、ふっと肩を落とした。
「それからね、十年くらいして一度だけ祖父の法事で山形に戻ったときがありました」
高梨はほんの少し微笑み、まるで夢見るような顔になった。
「歌の中のシェナンドー川じゃないけど、俺の故郷にも川はたくさんあって。よく小さな川で遊んだもんです。雨が降ると川筋を変えるんですよ。そのたびに川の中を歩いて魚をとったなぁ。川の真ん中に立つと世界が広がって見えました」
「でもね」と彼が呟く。
「十年ぶりの川は舗装されて、どんなに雨が降っても表情を変えないようになってました。高いと感じた橋の手すりは『こんなに低かったんだ』ってくらい下にあって。広く感じた通学路はむしろ狭かった。好きだった山が、すっかり裸になってて」
「あぁ、そうか。やはり変わっていくものなんだね」
「もちろん、そのままの景色もありましたよ。山の麓の竹林は相変わらず凛として、かぐや姫でも出てきそうなくらいでした。ただね、俺は気づいたんです。今まで当たり前だった景色にギャップを感じてる自分に」
「ギャップ?」
「ええ。まず、空港から住んでいた街に向かうときに呆気にとられました。何故だかわかりますか?」
「いんや、想像もつかないね」
「山がね、怖かったんです」
「怖い? 山が?」
そんなことがあるものかという顔をした私に、彼は肩をすくめて見せた。
「この辺りは平野ですからね、空がぽっかり広がってるでしょう。そう、空が広いんです。向こうは山の合間の狭い空でしたから。こっちに転校してきたときは何もない空がガランとして寂しく感じたのに、十年ぶりに見る山はまるで巨人があぐらをかいて俺を見下ろして迫ってるようでした」
「そんなもんかね」
そう呟いて紫煙を吐く私に、彼はつられたようにポケットからセブンスターを取り出した。
ライターの音がし、彼は切ない顔で煙を吐く。
「......あぁ、でも『俺はもう山形の人間じゃない』って思い知ったのは、夜の光でした」
紫煙をくゆらせ、彼は切なそうに言った。
「法事の後、従兄弟の家で過ごしたんです。ホテルに戻るときにはもう夜中でした。玄関を出て、俺は空中に光が幾つか浮かんでいるのを見つけてぎょっとしました。ずっと動かず、何もないはずの空に光が浮かんでいるんです。何だと思います?」
「未知との遭遇かい?」
「はは......UFOじゃありませんよ。山の中にある施設か何かの灯りだったんです」
「なんだ、そうか」
「こっちじゃ空中に漂う光は星か飛行機くらいですからね。俺は闇の中に山があることを忘れている自分に気づいたんですよ。あのとき、心底思いました。俺の居場所はもうここじゃないんだって」
どこか諦めたような顔で、彼は頷いて見せた。
「転校したときと同じように、当時の俺は故郷に帰りたいってずっと思ってました。懐かしくて、恋しくて。だけど、もう故郷は俺の知っている故郷じゃなかった。......いや、故郷だと思った時点で、もう居場所ではなくなったんだって知りました。遠くにあるから故郷なんです。だから、良いんです」
「お前は室生犀星かい」
少しからかってやると、彼はにやりとして、雪国のチェリーを口に放り込んだ。若葉色をしたチェリーを噛み締め、彼は呟く。
「俺はね、故郷を夢見ることで何かから逃げていたんです。でも、故郷はそれを許してくれなかったんだなぁ」
今度は私がにやりとした。
「甘えちゃならんって教えてくれたんだよ。まるでお袋みたいなんだね、故郷ってやつは」
はは、と彼が目を細めた。
「考えてみると、そういうところがお凛さんみたいですね。だから、お凛さん好きですよ」
「何を言うか。私はお前のお袋じゃないよ」
彼は軽く笑うと、尊にこう言った。
「今度ね、俺が文通してた山形の友達がこっちに遊びに来るんですよ。ここに連れてきたいんですけど、とびきりのカクテル飲ませてくれますか?」
「もちろんですよ」
尊が微笑む。
「オリビアが高梨さんのために歌ったみたいにね、俺も腕をふるわせてもらいます」
高梨が嬉しそうに「ありがとう」と言った。
「故郷ってね、思えば山形で見た陽炎みたいです。遠くで揺らいで、見てるしかない。けど、友達を残してくれた」
私は黙ってメーカーズマークを飲む。
遠く離れた故郷のない私には、今の彼の心中は計り知れなかった。高梨の目には、今まで見た事のない光が宿っていた。思い入れのある街を外から見ることになった者だけが滲ませる何かを潜ませた光だった。
高梨はその三週間後に山形の友人を連れて琥珀亭にやって来た。
尊はライ・ウイスキーとドライベルモット、そしてカンパリを取り出した。彼が差し出したのは『オールド・パル』というカクテルだった。
透き通った赤色をしていて、アメリカで禁酒法が施行される前から飲まれていた古いカクテルだ。そして、その名は『古くからの仲間』とか『懐かしい友人』を意味する。尊らしい一品だった。
私はね、山形弁について語り合う二人を見て心底羨ましかったよ。故郷が遠くから高梨を温かく見守っている気がしてね。故郷は高梨の居場所ではなくなったけど、彼に心の支えと、今でも酒を酌み交わす親友の存在をもたらしたんだ。今の私にはないものを。
「お凛さん、静かですね」
気がつくと、真輝がこちらを見て不思議そうな顔をしていた。
「......なに、たまにはね」
死んだ親友と瓜二つの顔に微笑み返すと、メーカーズマークの氷をそっと指で回した。真輝の祖母のクセを真似てね。
「高梨さん、お久しぶりですね」
おしぼりを差し出す尊が言うように彼は去年の秋以来、この琥珀亭に顔を見せていなかった。
「どうも、お久しぶりです。ちょっと本社のほうに呼ばれていたもんで山形に長期出張してました」
高梨は人なつこい笑みを浮かべて、両手でおしぼりを受け取った。彼の言葉に訛りはないが、山形県の出身だ。
「元気そうで良かったよ」
そう声をかけると、私の隣で高梨が笑う。
「お凛さんはいつ見てもお凛さんですね」
「何を言ってるんだい、当たり前じゃないか」
思わず噴き出した私に、彼も高らかに笑う。
実に愛想のいい青年なんだ。歳は30を過ぎた辺りだったかね。
「そうそう、去年いただいたアレ、美味しかったですよ。ありがとうございました」
尊が思い出したように言い、深々と礼をした。
その言葉で去年の秋に高梨からおすそわけしてもらった物を思い出していた。
「うん、美味しかったねぇ。ありがとうね。本当はもっと早く礼を言いたかったのに、お前ときたら店に来ないんだから。お前が言う通り、歯ごたえが良かったし、からし醤油にぴったりだったよ。えっと、何ていったかな......変わった名前のやつ」
「はは、『もってのほか』でしょ?」
高梨が得意げにおしぼりを畳みながら笑う。
『もってのほか』とは山形名物の食用菊のことだ。淡い紫の花びらをむしって、酢を入れたお湯でさっと茹でる。それにからし醤油をちょちょっとつけて食べたんだが、キュキュッと鳴る歯ごたえと独特の風味が良い。秋の風物詩らしいが、北海道では珍しい。
「久々の故郷はどうでした?」
そう尊に尋ねられると、高梨は「まぁ、ね」と言葉を濁らせる。せっかく懐かしい故郷へ戻ったんだから、顔を綻ばせてもいいものを、どこか気まずそうな表情を浮かべていた。
「いつもならビールって言うところだけど、今日はカクテルにしようかな」
気を取り直すように、彼はそう言った。
「せっかくの久々のバーだからね。カクテルはお任せでお願いします」
『お任せ』された尊が作ったのは、うっすら白い酒に緑のチェリーが沈む美しいウオッカをベースにしたカクテル『雪国』だった。グラスの縁で砂糖が輝いている。
「このカクテルも山形生まれですからね」
尊が蘊蓄を垂らしながらカウンターに差し出す。この『雪国』は川端康成の小説が由来のカクテルだが、その生みの親は山形の伝説的バーテンダーだ。
「おお、これは粋なカクテルですね」
高梨が素直に頬を緩ませ、しげしげとグラスを見つめる。
「綺麗だなぁ。ほら、まるで雪の下で芽吹こうと春を待っている植物みたいだな。いや、雪をかぶる松の葉みたいにも見えるかな」
ずいぶんと詩的なことを言う。私は感心するような、呆気にとられるような奇妙な気分で笑った。近所の古本屋の主人もロマンチックな男だが、こいつも相当なもんだ。
高梨は、まるで絵を見るような目でカクテルを眺めていた。一口飲んで、彼は「美味いなぁ」とにこやかに唸る。
「故郷ってのは、なんだか良い響きだね」
生まれてから故郷を離れたことのない私が話しかけると、彼は「えぇ」と深く頷いた。
だが「仕事の合間にどこかに出かけたのかい?」という問いには、ちょっと表情を曇らせてしまった。
「それがね、今度はあまり出ないようにしたんです」
「何でさ? せっかく故郷に帰ったってのに」
「......だからですよ」
理解できない。そう言う代わりに首を傾げて見せた私に、彼はこう言った。
「俺ね、十三歳のとき、こっちに引っ越してきたんですけど、実は一度だけ里帰りしてるんです。祖父の法事だったと思うんですけど」
彼は目を細めて言った。
「そのときに思い知ったことがあってね」
高梨は少し唇の端に笑みを浮かべ、半ば、夢見るような顔になった。
「故郷ってのは良いもんですけどね、俺は特に夏の景色が恋しいです。こっちってカラッとしてて涼しいけど、あっちはめちゃくちゃ暑いんですよ」
「あぁ、そうなのか。雪国だから寒いイメージしかなかったよ」
「盆地ですからね。だけどね、神社の境内には太い幹の杉が木漏れ日を落として薄暗くてひんやりしてるんです。その中には蝉の声だけが木霊して。ほら、この辺りじゃ蝉の声なんてしないじゃないですか」
郊外に行けば蝉も鳴いているんだろうが、確かに中心街では見ない。
「道路には陽炎が揺らいでね、あれだってその場にいたらうんざりするけど、記憶の中では綺麗です。俺が住んでいたのは街から離れたところだったんです。国道や工業団地や民家の間を埋めるように果樹園と田んぼがあるところでね。田んぼの傍には水神様の石碑があって、水が湧いてた。そんな景色が身近にあったんです。川を漁れば泥鰌やら川魚やらタニシが採れました」
「ほう、古き良き日本の原風景だね」
「そうなんです。特にね、蛍が良いんですよ。この辺りだと蛍がいるだけで名所ですけど、俺が生まれ育った辺りじゃそこら中にいたもんです。夜になれば広がる田んぼが真っ平らな闇になるんです。その辺り一面に蛍の光がばらまかれて、目の前をふわふわしてる」
私は高梨をじっと見つめた。なんだか、その瞳の奥に蛍の光が揺らいでいるような気がするほど、彼は遠い目をしていた。
「だけど、水路があるのがわかるくらい田んぼの縁に光が集中してもいてね、まるで天然の百万ドルの夜景ですよ。ウシガエルの声が鳴り響く中、音もなく無数の光が舞うんです」
私はぼんやりと想像しながら聞いていたが、その蛍の光景に思わず笑みを浮かべた。
「私もそんな幽玄な景色を見てみたいものだ」
そう言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「北海道に転校してきたときは、ホームシックで大変でした」
高梨が苦々しく言った。
「ほら、こっちってイントネーションが低いけど、公用語に近いでしょ。あの頃は何故か訛りが恥ずかしかったんですよね」
「皆と同じでないと不安だったんだろう? 小さい頃はそういうこともあるから」
「だと思います。今じゃ話そうと思っても話せなくなりました。聞けばわかるんですけどね。勿体ないことしましたよ。俺、山形の言葉、好きなんです」
眉尻を下げ、彼が雪国をまた飲んだ。
「あの頃は携帯電話もなかったんで、山形の友達と文通してました。こっちに馴染むまでは、それが心の支えでしたよ」
「今じゃメールがあるけど、手紙ってのは味があっていいね」
ハイライトに火をつけながら目を細めると、彼が照れたように笑う。
「毎日、学校から帰ると真っ先に郵便受けを見てね。手紙があると嬉しくて」
彼は肘をついて、ため息を漏らした。
「あの頃はいつも『故郷に帰りたい』って思ってました。よく道を歩きながら考えたもんです。『この道を辿れば故郷に続くんだな』とか『この空は山形の友達も見てるんだな』ってね」
「お前はその頃からロマンチストだったんだね」
苦笑する私を、彼はにこやかな顔で肯定した。
「自分でもそう思いますよ」
不意に高梨がこう訊いてきた。
「お凛さんはオリビア・ニュートン・ジョンって知ってます?」
「あぁ。『Take me home, country roads』を歌った人だね。私はジョン・デンバーも好きだが」
「そう、それです!」
高梨の顔がパッと明るくなる。
「あの歌を聴いたときね、俺は心底身震いしましたよ。オリビアは俺のためにこの歌を歌ってくれたんだって」
思わず笑ってしまう。オリビア・ニュートン・ジョンの『Take me home, country roads』は『故郷に帰りたい』という邦題で、ウェストバージニアの母なる山々をのぞむ故郷に想いを馳せた歌だ。
高梨はウェストバージニアの山々に、山形の山脈を重ねたんだろう。そして『この道を辿れば故郷だ』と自分を慰めた日々を。
「俺の故郷はアメリカじゃないですけどね。あの歌が心にしんみりきました」
彼がそこで、ふっと肩を落とした。
「それからね、十年くらいして一度だけ祖父の法事で山形に戻ったときがありました」
高梨はほんの少し微笑み、まるで夢見るような顔になった。
「歌の中のシェナンドー川じゃないけど、俺の故郷にも川はたくさんあって。よく小さな川で遊んだもんです。雨が降ると川筋を変えるんですよ。そのたびに川の中を歩いて魚をとったなぁ。川の真ん中に立つと世界が広がって見えました」
「でもね」と彼が呟く。
「十年ぶりの川は舗装されて、どんなに雨が降っても表情を変えないようになってました。高いと感じた橋の手すりは『こんなに低かったんだ』ってくらい下にあって。広く感じた通学路はむしろ狭かった。好きだった山が、すっかり裸になってて」
「あぁ、そうか。やはり変わっていくものなんだね」
「もちろん、そのままの景色もありましたよ。山の麓の竹林は相変わらず凛として、かぐや姫でも出てきそうなくらいでした。ただね、俺は気づいたんです。今まで当たり前だった景色にギャップを感じてる自分に」
「ギャップ?」
「ええ。まず、空港から住んでいた街に向かうときに呆気にとられました。何故だかわかりますか?」
「いんや、想像もつかないね」
「山がね、怖かったんです」
「怖い? 山が?」
そんなことがあるものかという顔をした私に、彼は肩をすくめて見せた。
「この辺りは平野ですからね、空がぽっかり広がってるでしょう。そう、空が広いんです。向こうは山の合間の狭い空でしたから。こっちに転校してきたときは何もない空がガランとして寂しく感じたのに、十年ぶりに見る山はまるで巨人があぐらをかいて俺を見下ろして迫ってるようでした」
「そんなもんかね」
そう呟いて紫煙を吐く私に、彼はつられたようにポケットからセブンスターを取り出した。
ライターの音がし、彼は切ない顔で煙を吐く。
「......あぁ、でも『俺はもう山形の人間じゃない』って思い知ったのは、夜の光でした」
紫煙をくゆらせ、彼は切なそうに言った。
「法事の後、従兄弟の家で過ごしたんです。ホテルに戻るときにはもう夜中でした。玄関を出て、俺は空中に光が幾つか浮かんでいるのを見つけてぎょっとしました。ずっと動かず、何もないはずの空に光が浮かんでいるんです。何だと思います?」
「未知との遭遇かい?」
「はは......UFOじゃありませんよ。山の中にある施設か何かの灯りだったんです」
「なんだ、そうか」
「こっちじゃ空中に漂う光は星か飛行機くらいですからね。俺は闇の中に山があることを忘れている自分に気づいたんですよ。あのとき、心底思いました。俺の居場所はもうここじゃないんだって」
どこか諦めたような顔で、彼は頷いて見せた。
「転校したときと同じように、当時の俺は故郷に帰りたいってずっと思ってました。懐かしくて、恋しくて。だけど、もう故郷は俺の知っている故郷じゃなかった。......いや、故郷だと思った時点で、もう居場所ではなくなったんだって知りました。遠くにあるから故郷なんです。だから、良いんです」
「お前は室生犀星かい」
少しからかってやると、彼はにやりとして、雪国のチェリーを口に放り込んだ。若葉色をしたチェリーを噛み締め、彼は呟く。
「俺はね、故郷を夢見ることで何かから逃げていたんです。でも、故郷はそれを許してくれなかったんだなぁ」
今度は私がにやりとした。
「甘えちゃならんって教えてくれたんだよ。まるでお袋みたいなんだね、故郷ってやつは」
はは、と彼が目を細めた。
「考えてみると、そういうところがお凛さんみたいですね。だから、お凛さん好きですよ」
「何を言うか。私はお前のお袋じゃないよ」
彼は軽く笑うと、尊にこう言った。
「今度ね、俺が文通してた山形の友達がこっちに遊びに来るんですよ。ここに連れてきたいんですけど、とびきりのカクテル飲ませてくれますか?」
「もちろんですよ」
尊が微笑む。
「オリビアが高梨さんのために歌ったみたいにね、俺も腕をふるわせてもらいます」
高梨が嬉しそうに「ありがとう」と言った。
「故郷ってね、思えば山形で見た陽炎みたいです。遠くで揺らいで、見てるしかない。けど、友達を残してくれた」
私は黙ってメーカーズマークを飲む。
遠く離れた故郷のない私には、今の彼の心中は計り知れなかった。高梨の目には、今まで見た事のない光が宿っていた。思い入れのある街を外から見ることになった者だけが滲ませる何かを潜ませた光だった。
高梨はその三週間後に山形の友人を連れて琥珀亭にやって来た。
尊はライ・ウイスキーとドライベルモット、そしてカンパリを取り出した。彼が差し出したのは『オールド・パル』というカクテルだった。
透き通った赤色をしていて、アメリカで禁酒法が施行される前から飲まれていた古いカクテルだ。そして、その名は『古くからの仲間』とか『懐かしい友人』を意味する。尊らしい一品だった。
私はね、山形弁について語り合う二人を見て心底羨ましかったよ。故郷が遠くから高梨を温かく見守っている気がしてね。故郷は高梨の居場所ではなくなったけど、彼に心の支えと、今でも酒を酌み交わす親友の存在をもたらしたんだ。今の私にはないものを。
「お凛さん、静かですね」
気がつくと、真輝がこちらを見て不思議そうな顔をしていた。
「......なに、たまにはね」
死んだ親友と瓜二つの顔に微笑み返すと、メーカーズマークの氷をそっと指で回した。真輝の祖母のクセを真似てね。
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