琥珀色の日々

深水千世

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第八章 歓喜の歌が響くとき

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 私はいつもメーカーズマークというバーボンを飲む。琥珀亭の創業者である蓮太郎にすすめられて以来、ずっとこの酒をボトルキープしている。
 たまには他の客に合わせて別の酒を飲むこともあるが、最後を飾るのは決まってメーカーズマークだ。

 この琥珀亭の常連には、私のようにずっと同じ酒ばかり飲む連中も多い。その中の一人が近所の古本屋の主人、片桐だった。

 そんな彼が琥珀亭に一人息子を連れてきたのは、山桜が満開を迎えた頃だった。

「おや、今夜は仁志も一緒かい。久しぶりだね」

 隣に座った息子のヒトシに声をかける。彼は破顔して、何度も会釈をしてくれた。

「お久しぶりです。お凛さん、元気そうでなによりです」

「五年ぶりかね。月日が経つのは早いものだ」

 茶色のセルフレームのメガネを指で押し上げ、仁志は「本当ですね」と相槌を打った。
 仁志に最後に会ったのは、彼が結婚した直後だったと思う。
 あの頃はひょろっとしていて、見るからに頼りなげな印象だった。こんなんで家庭を持って大丈夫かと思ったが、今夜の彼は落ち着いた物腰をしていた。男を変えるのは女とよく言うけれど、家庭を持ったことで、彼もずいぶん変わったらしい。

「お凛ちゃん、聞いてくれよ」

 息子の隣に座った片桐は、おしぼりで手を拭きながら、とろけそうな顔をしている。

「なんだい、だらしのない顔をして」

「なんとでも言ってくれ。それより、俺に孫ができるんだ!」

「へぇ! そいつはおめでとう!」

 思わず笑顔になると、片桐も仁志も照れくさそうに頭をかいた。親子で同じクセがあるんだね。思わず笑ってしまったよ。

「おめでとうございます。片桐さんもお祖父ちゃんになるんですね」

 片桐のキープボトルである『オールドパー』を出しながらマスターの尊が笑う。祝いの言葉に礼をした仁志は『ジントニック』をオーダーした。
 小さい頃から知っている仁志が父親になるなんてね。なんだか感激して、何度も頷いてしまった。

「そうか、結婚して五年目か。それは奥さんも喜んでいるだろうね」

「えぇ。そうなんです」

 仁志はグラスに氷が入れられる様を目で追いながら、ぼそりと呟いた。

「本当にホッとしてます。なかなか子どもができなくて、うちのかみさんも悩んでましたから」

 真輝がオールドパーを、尊がジントニックをカウンターに乗せた。

「今日はみんな飲んでくれ。俺のおごりだ」

 上機嫌な片桐の音頭で、祝杯が交わされた。
 グラスの鳴る音が心地いいね。こういう夜は本当に素晴らしいよ。

 一口目を味わったジントニックをコースターに戻しながら、仁志が片桐に静かに言った。

「親父、今日はさ、礼を言いたくて飲みに誘ったんだ」

「なんだ? 礼なら俺のほうが言いたいぞ。孫の顔が見れるんだからな」

「うん、それなんだけどさ」

 仁志がふっと眉を下げた。

「親父もお袋も、本当はもっと早くに孫の顔が見たかったろう? ......特にお袋はさ」

 片桐の妻は仁志が結婚して一年後に亡くなっている。確か病気だったと思うがね。

「かみさんがさ、ずっと気にしているんだ。お袋に孫の顔を見せてやりたかったって」

「えっ」

 片桐は当惑した顔で言葉を詰まらせた。

「だって、それは仕方ないだろう。お前たちが結婚したときには、もうあいつは発病していたんだし」

 だが、仁志は「それでも気にしているんだ」と、肩を落とした。

「お袋が入院しているときもだけど、親父はこの五年間さ、一度も『孫はまだか』って言わなかったよな」

「あぁ、まぁな」

「それがさ、かみさんにはすっごく有り難かったんだってさ。俺からあいつに代わって礼を言うよ。......ありがとな」

 仁志が眉尻を下げ、ジントニックのグラスを両手で包み込んだ。

「親父には黙ってたけど、一時期、あいつ情緒不安定だったんだよ」

「えっ、全然そんな風には見えなかったけど」

「隠してたからな。ほら、あいつ相談薬局でバイトしてるだろ? お客は地元の顔見知りばかりだからさ、『赤ちゃんは?』とか『お子さんはまだ?』とか訊かれることが多くて、そのたびに苦しんでいたんだよ。一時期は家でわぁわぁ泣いて喚き散らしてさ」

 仁志がそこまで言うと、すっと声をひそめた。

「それがもう、見てて痛々しいくらいでさ」

 まぁ、容易に想像はできる。
 客にしてみれば世間話のつもりか、可愛い赤ん坊が見たい気持ちからかもしれない。自分が経験した出産と育児の素晴らしさを伝えたいだけかもしれない。
 けれど、子どもが欲しくてもできない女性にすれば、それはむき出しの刃物になることがある。

「そりゃあ、心がえぐれるような気持ちにもなるだろう。まして、身内でもあるまいし」

 私がそう言うと、仁志も頷いた。

「あいつも同じようなこと言ってました。『身内でもないのに、ズカズカ心に入り込んで無神経すぎる』って。そういうことを言ってくる人の目が、まるでワイドショーを観る目に見えたんだそうです。お客にしたら何気ない世間話でも、かみさんには好奇心というか、野次馬根性に映ったようで」

「そうだったのかぁ」

 片桐は丸い鼻をポリポリとかいた。

「ずいぶんと苦しんでいたんだなぁ」

「うん。だから、親父たちが何も言わなかったのが本当に救いだったらしいんだ。あいつ、いつも『有り難い』って泣いてたよ」

「仁志、礼なら唄子に言うんだな」

 片桐が『ウタコ』と言ったのは、彼の妻の名だ。

「どうして?」

 きょとんとする仁志に、彼が目を細める。

「嫁さんに絶対『子どもはまだか』って訊いちゃならんって言ったのは、唄子だからな」

 片桐がカウンターの向こうを見やった。どこか遠くを見るような、感傷的な目だった。

「唄子も子どもがしばらくできなかったんだよ」

「えっ、そうなの?」

「お前の嫁さんと同じように苦しい時期もあったんだ。だから、お前たちが結婚したときに、俺はあいつからそう言われたんだよ」

 そう言うと、片桐はばつが悪そうな顔になる。

「実はな、正直に言うと、俺は早く孫の顔を唄子に見せてやりたかった。死ぬ前に一度でもって焦ったりしたよ。でも、唄子にはそれがわかっていたんだなぁ。『私と同じ苦しみを嫁さんに与えるつもりか』ってえらい剣幕で叱られてなぁ」

「そうか」

 仁志が唇を噛んだ。

「あのお袋がなぁ」

 私は在りし日の唄子さんを思い出した。私がバイオリン教室を開いてからの付き合いだが、朗らかで気持ちのいい人だった。いかにも彼女らしい話だと私はしんみりしちまった。
 ふと訪れた沈黙を打ち破り、片桐が気を取り直したように尋ねた。

「ところで、名前は決めたのか?」

「親父、気が早いなぁ」

 仁志は呆れたように笑ったが、こう言った。

「かみさんとは、家族の誰かから一字もらおうかって話してるけど」

 私は思わず仁志をからかう。

「なんだい、仁志。親父には『気が早い』なんて言っておきながら、自分も気が早いじゃないか」

「本当ですね」と、仁志が照れたようにまた頭をかいた。

「お凛ちゃんところの孫は、どうして『大地』になったんだい?」

 片桐の言葉に、私は首をすくめる。

「さぁ、知らないよ。私は決まってから報告されたからね。夫婦で決めたことだから口出ししなかったんだ。まぁ、良い名前だと思ったしね」

「お凛ちゃんらしいや」

 苦笑いの片桐に、仁志が問う。

「親父はつけたい名前あるのか?」

「俺か? ううん、そうだなぁ」

 片桐はちょっとはにかみながら、もじもじした。そして、噛み締めるようにゆっくりと一つの名前を口にした。

「響」

「ヒビキ?」

「音が響くって書いて、ヒビキがいいなぁ。そうしたら俺、『オールドパー』をやめて『響』を毎晩飲むよ」

「えぇ?」

 仁志が眉間にしわを寄せる。

「ウイスキーの名前かよ。やっと授かった孫に酒の名前をつけるのか?」

 『響』は日本が誇るブレンデッドウイスキーだ。香り高く、繊細でかつ芳醇な味にファンも多い。

「いくら親父が酒好きだからっていってもさ、あんまりじゃないか」

 気分を害した表情を隠さない仁志に、片桐が慌てて弁解した。

「違う、違う。すまん、言い方が悪かった! 名前は酒の『響』からとったんじゃないんだ」

「じゃあ、なんだよ?」

 仁志が口を尖らすと、片桐はやや照れたように呟いた。

「お前が『孫ができたぞ』って教えてくれたときなぁ、俺の頭にその言葉が、こう......なんていうか......鐘みたいに響いたんだ。まるで天使が鐘を鳴らす響きが木霊してるみたいでなぁ。あの感動が忘れられなくてなぁ」

 この親父は古本屋で小説ばかり読んでるせいか、見かけによらずロマンチストだ。私は思わずにやりとしてしまう。

「親父、相変わらずだな」

 不機嫌だった仁志も、思わず噴き出していた。

「響かぁ......片桐響......画数はどうかなぁ?」

 思案顔で腕組みをする仁志の背中をぽんと叩き、私は笑い飛ばしてやった。

「画数なんて気にしていたらキリがないよ。それに、女の子なら嫁に行けば苗字も変わるじゃないか」

「嫁か......嫌だな」

 私の言葉を耳にして本気で顔をしかめた仁志に、思わず笑ってしまった。

「本当に気が早いのは親父ゆずりだね。まぁ、私も響に一票だ。片桐の親父が『響』を飲むのも賛成だね」

 私は迷わず片桐の肩をもった。仁志の向こうで、片桐の顔がパッと輝く。

「『響』の香りはブラームスの交響曲第一番第四楽章をイメージして作られたんだよ。あの曲はブラームスが敬愛したベートーベンの『運命』と同じように『暗黒から光明へ』という構造をしているそうだ」

「暗黒から光明へ、ですか」

「そう、苦しんできた奥さんが光に包まれて赤ん坊を抱いている姿にぴったりじゃないか」

 第四楽章の壮大な旋律を口ずさみ、思わず微笑んだ。

「それに第四楽章の主題はベートーベンの『歓喜の歌』を意識しているからね。親父の頭に鳴り響いたのは『歓喜の歌』だったに違いないよ」

「お凛ちゃん......!」

 『助太刀ありがとう』と言いたげな片桐がこれ以上ないくらいキラキラした目を向けてきた。

「それに、親父が『響』を飲めば琥珀亭も喜ぶだろう」

 私がにやりとすると、思わず尊が笑った。片桐が今飲んでいるものより、値が上がるからね。片桐がそれに気づき、「これは参ったな」と笑う。
 その隣で、仁志が「ふむ」と天井を見上げた。

「響か。いいかもしれないなぁ」

「まぁ、かみさんと決めることだね。大変な想いをして産んでくれるんだから」

 その言葉に、仁志が天井から視線を戻して笑う。

「はい。立ち会い出産なんで、俺も失神しないように頑張ります」

 笑いが仁志を包んだ。穏やかな、幸せに満ちた笑いだった。
 私はブラームスの交響曲がまだ流れる頭で想う。あの悠然とした旋律のように押し寄せる感動を、いつか彼は味わうだろう。小さな小さな温もりをその腕に抱いたとき。

 その後、仁志の妻は女の子を出産した。
 体は小さいが、蹴る足は力強いと、片桐が琥珀亭で目尻を下げっぱなしで話していたよ。

 名前は『響歌』と決まったそうだ。響く歌と書いて、キョウカ。
 『響』という文字に『歌』を足したのは、もちろん片桐の頭に鳴り響いた『歓喜の歌』から......だけじゃない。元々言っていたように、家族から一字をもらったんだ。そう、唄子さんの『唄』を『歌』にしてつけたんだよ。

「良い名前じゃないか」

 私は琥珀亭で赤ん坊の写真を見せびらかす片桐に、素直に言ってやった。

「そうだろう? 俺はにやにやが止まらないよ」

「安心しな。締まりが無い顔は元からだよ」

 片桐のキープボトルは『オールドパー』から『響』へ変わった。
 やっとオールドパーのラベルに描かれている男みたいに、じいさんになったのにね。

 オールドパーのラベルに描かれているじいさんは、152歳まで生きたと言われる男だ。片桐は冗談まじりに122歳で再婚した逸話にあやかりたいなどと言っていたがね。

「今こそオールドパーを飲んで長生きを願ってもいいんじゃないのかい? 孫の顔をずっと見ていたいならさ」

「お凛ちゃん、いいんだよ」

 片桐はグラスを持ち上げ、その馥郁たる香りを鼻一杯吸い込んだ。そして「はぁ」と、気持ち良さそうに吐き出し、うっとりする。

「俺はもう、これ以外の酒なんて飲めないよ。あの歓喜の歌は忘れられん。あの世で唄子にどう伝えていいかもわからないくらい、素晴らしかった」

 そして、こうも言った。

「初めて聞いた孫の泣き声は、まるで天使の歌声だったよ。あれが響いたとき、涙が出た」

 私は喉を鳴らして笑った。片桐のこういうところが好きなんだ。すっかり髪が薄くなっても、ロマンチックを忘れない。というより、夢見がちな少年がそのまま大人になったようで、微笑ましいんだ。それは私にはない個性だしね。

 彼の賛美と陶酔は、私のメーカーズマークにも歓喜の歌を寄せてくれた。その夜の酒は、天にも昇る美味さだったよ。
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