琥珀色の日々

深水千世

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第三章 十年目のアラウンド・ザ・ワールド

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 北国の木々が、やっと丸裸の枝を若葉で隠し始めた頃だ。

 おや、今日は随分若いのが来た。私は彼を一目見たとき、そう思った。

 琥珀亭のカウンターに座ったのは、愛想のなさそうな青年だった。歳の頃は三十......いや、二十代後半かもしれない。痩せた体をしており、姿勢が悪いせいでだらっとした印象だった。しかしながら、実直そうな目をしている。

「マスター、お久しぶりっす」

 ぶっきらぼうながらも人柄の良さが滲む声だ。

「お久しぶりです。水沢さん、今日は遅い時間なんですね。いつもは口開けが水沢さんってことが多いのに。なんだか、また痩せたんじゃないですか?」

 尊がおしぼりを出しながら心配そうに訊ねる。相手は「はぁ」と首をすぼめただけだった。

 尊の口ぶりからして、彼は何度かここに来たことがあるらしいが、面識がなかった。いくら私が常連でも、全部の客を知っている訳じゃない。一応これでもバイオリン教師という仕事があるから、飲みに来るのも遅い時間が多い。彼のように開店すぐに来るような客なら尚更、顔見知りになりにくい。

 尊が気遣うように尋ねた。

「なんだか、お疲れのようですね」

「最近、出張が多くて忙しいんですよ。今日も残業だったし、痩せもしますって。まぁ、もともと食べても太れないってのもあるんですけど」

「うちのオーナーと一緒ですね。羨ましい」

 琥珀亭オーナーの真輝、つまり尊の妻も痩せの大食いだ。尊は食べたら食べた分だけ肉になるタイプのせいか、『羨ましい』という言葉はため息混じりになっていた。それを知ってか知らずか、水沢という男は「はは」と笑った。

「とりあえずビールね」

 彼が言うと居酒屋にいるみたいだね。私は心の中で苦笑した。
 水沢は綺麗に泡の盛り上がったビールを持ち上げ、喉を鳴らして飲んだ。グラスを離すと「くはぁあ!」っと実に小気味良い声を上げた。CMにでも使えそうなくらい、美味そうに飲む男だ。

「いやぁ、やっぱりマスターの注ぐビールが一番だ」

 この水沢という男、一見するとぶっきらぼうだが、なかなか人なつこいところもあるようだ。

「ところで、マスター。今日はオーナーがいないんすね?」

 おや、この男は真輝が目当てだったかな? そう思ったが、違うらしい。彼の左手の薬指には、結婚指輪が光っているからね。

「すみません、本日は高校の同窓会でお休みをいただいてます」

 そう、この日のカウンターは尊一人だった。真輝は今頃、駅前の居酒屋で楽しく過ごしているだろう。

「そうか、ちょうど良かった。俺、マスターに訊きたいことがあったんです。だけど、オーナーの前じゃアレかなぁと思ってたところで」

「アレって、何ですか」

 面白がる尊とは対照的に、水沢の顔は至って真面目だった。

「あの、お二人はご夫婦っすよね?」

「はい。去年、結婚しました」

「新婚旅行って行ったんですか?」

「えっ? 新婚旅行?」

 ちょっと目を見開いたが、尊がにこやかに笑って答えた。

「いや、うちは行ってないんです」

「どうしてっすか?」

「妻は飛行機が大嫌いでして」

「本当に?」

「本当ですよ」

「じゃあ、結婚式は?」

「しました。ささやかなものですけど。式は挙げずに済まそうかって考えたんですけど、ほら、うちは商売なんで、あちこち付き合いのある店に出向いて挨拶する手間を省くって意味もあって」

 そこで尊はカウンターから身を乗り出し、水沢に声をひそめてこう付け加えた。

「本当は、俺の貯金じゃ式が精一杯で、旅行まで手が回らなかったところなんです。妻の飛行機嫌いに感謝しなきゃ」

 冗談なのか本当なのか知らないが、尊はにやりとした。すると、水沢が何を思ったか大きなため息を漏らす。

「そうっすか。奥さんが飛行機嫌いだったら良いですよね」

 飛行機嫌いの何が良いんだ? 私が興味津々で耳を大きくしていると、水沢はぽつりとこう言った。

「あの、マスター......相談にのってもらえます?」

 水沢がぼそぼそと話し始めた。

「俺、十年前にうちの奥さんと結婚したんですけど、それが高校を卒業してすぐだったんです。まぁ、つまり......子どもができちゃったわけで」

「へぇ、そうだったんですか。ご結婚、早かったんですね」

「この間まで高校生だったのに、すぐ父親になるっていうのも、変な気分でしたけどね。でも子どもができたのは嬉しかったなぁ」

「へぇ」

「とりあえず家族を養わなきゃならなくて、知り合いのコネで今の会社に入ったんです。だけど、安月給からのスタートで、式も挙げてやれなかったんですよ。でもね......」

「でも?」

「奥さんの両親が、娘のために結婚式の費用を出すって言い出したんです。うちの奥さんはウェディングドレスを着るのが夢だったんですよ。手縫いで仕上げたドレス見せられて『新婚旅行はなくてもいいから式だけはお願い』ってせがまれて」

「手縫い! よっぽど挙げたかったんですね」

「そうなんです。それでお腹が大きくなる前に、式だけは挙げたんですよ。うちの両親はその日暮らしなんで、費用を出すどころじゃなくて、申し訳ないやら有り難いやらって泣いてたけど」

 彼はビールで唇を湿らせ、こう続けた。

「何年かかかったけど、式の費用は向こうの両親に返したんです。けれど、問題はここからなんです」

「問題?」

 きょとんとした尊に、彼はカウンターに視線を落としながら言った。

「結婚式の後で奥さんの両親が『新婚旅行も費用はなんとかするから、海外に行っておいで』って言ってくれたんです。親心だとは思うんですけど、俺......すっごく悔しくて」

「いいじゃないですか」

「よくないですよ! 悔しいですよ。本当は俺が式も旅行も用意してあげたかったのに、金がないばっかりに。式は奥さんの夢だったから良いですけど、せめて旅行くらいは自分の力で行きたくて」

 ほう、男気のあるやつだ。私は耳をそばだてながら、にやりとした。

「でも、そんな情けないこと言えなくて、俺......咄嗟に嘘をついたんです」

「嘘?」

「飛行機が大の苦手で、旅行は勘弁してくれって言っちゃったんですよ。本当は平気なのに」

「へぇ」

「いや、もちろん、子どもが生まれるから旅行する金があったら貯金しようとも言いました。一応、向こうの両親も奥さんも納得してくれました。それで、新婚旅行は行かなかったんです」

「ふぅん。それで、どこが問題なんです?」

「この間ね、箪笥の奥にいろんな国の旅行のパンフレットがしまい込んであるのを見つけちゃったんです。それが随分と古いんですよ。日付を見たら、全部、十年前。そう、結婚した頃のものだったんですよ。あいつ、本当は旅行に行きたかったんだなぁって罪悪感がものすごくて」

 そう言うと、彼は苦々しく顔をしかめた。

「でも、今更言えないんですよ。飛行機、実は平気ですなんて。どんな顔して言ったらいいものか......」

「はぁ、十年も内緒にしてたら、さすがに言い出しにくいですね」

「そうなんですよねぇ。しかも来週、十年目の結婚記念日なんです。でも俺、何をしてあげたらいいか見当もつかないんです」

「奥さんに何かプレゼントでも用意してさしあげたら?」

「それが、あいつ欲しいものは何もないって言うんですよ」

「あぁ、そりゃ困りますね」

 尊は苦笑したが、他人事ではないらしい。

「わかりますよ。うちの妻も同じこと言います。俺も記念日ってどうしていいかわからないタイプで、いつもそこにいるお凛さんに相談してます。ね、お凛さん? どう思います?」

 突然、尊が私に話をふってきた。耳をそばだてているのに気づいていたらしい。

「いきなりのご指名だね」

 苦笑する私に、水沢がすがるような目で話しかけてきた。

「どうしたらいいですかね? 旅行に連れて行ってやりたくても今更言い出せないし、かといって他にどう祝おうか見当もつかないし......」

「ふむ」と小さく唸り、私はずっと考えていたことを口にした。

「あんた、お祝いが云々よりも、本当は飛行機が平気だって打ち明けたいだけなんじゃないのかい? 嘘をついた罪悪感が辛いんだろう?」

「......はい。実はそうなんです。一生懸命に俺を支えてくれる奥さんを見てると、悪いことしたなぁって辛いんですよ。こんな想いをするくらいなら、男のメンツなんて捨てれば良かったかもしれないっすけど、あの頃の俺にはそうできなかったんですよね」

 がくりと肩を落とす彼を見ていると、なんだか気の毒になってきた。

「じゃあ、とりあえずだね。奥さんをここに連れてこようじゃないか」

 私はにやりと笑う。奥さんに誠実でありたいと願う水沢のために、何かしてやりたかった。

「今日は真輝がいないが、あいつにも協力してもらって、記念日に何かサプライズでもしようじゃないか」

 尊が「ふぅん」と腕組みをする。

「お凛さん、それは良い考えですけど、どうやって飛行機嫌いを打ち明ければいいんです?」

「そこが、尊の腕の見せ所じゃないか。打ち明けやすいように場を作るんだよ」

 私たちは顔を寄せ合って、計画を練った。話し合いが終わったところで、水沢がおどおどする。

「それなら、なんとか言えるかなぁ」

「奥さんに嘘をついていたくないなら、覚悟するしかないだろ。そのために私もただ働きするんだからさ」

「......そうか。そうっすよね。じゃあ、よろしくお願いします」

 私は計画をすすめるために、いそいそと携帯電話を取り出した。

「もしもし、面白い話があるんだが、乗るかい? サプライズをするんだ」

 電話の向こうの相手は、計画の内容を聞く前から「うん! いいね、俺、サプライズ大好き。それで、今回は何をやらかすの?」と即答だった。

 面白くなってきた。私は計画を話しながら、胸を踊らせていた。

 結婚記念日がやってきた。
 琥珀亭の扉には『本日20時まで貸切』という私の書いた紙が張りだされいてる。尊と真輝、そして私が待つ琥珀亭に、水沢夫婦は開店と同時にやってきた。

 水沢の後ろから顔を出した奥さんは、水沢に負けず劣らず細い体つきをした綺麗な子だった。
 飾り気がなく地味な印象ではあるが、そこがまた好感が持てた。ベージュのワンピースに身を包み、淡いピンクのハイヒールを履いている。歩き方を見るとヒールの高い靴には不慣れらしく、この日のために精一杯洒落込んできたのがわかる。私は思わず微笑んでしまったよ。

「いらっしゃいませ。ようこそ、おいでくださいました」

 真輝が二人を出迎える。
 カウンターの中央にはキャンドルが優しく灯っていて、そこに座った二人を穏やかに照らした。

「すみません、なんだか......」

 恐縮する奥さんは、可愛らしい声で何度も頭を下げていた。

「十年目の結婚記念日、おめでとうございます。今日、こうしてお祝いすることができて光栄です」

 尊がにこやかに言うのを合図に、私がオードブルを運びだした。生ハムとオリーブのカナッペ、うずらの卵とチーズとミニトマトのピンチョス、チキンのフリッター......他にも朝から尊と真輝が丹精こめて作った料理がカウンターを埋めていく。

「そして、こちらは当店から」

 尊が小さなケーキを置いた。薄いピンク色をしたストロベリー味のショートケーキだ。

 その傍らで、真輝が手早くシャンパンを開けた。細長いグラスに注がれると、微かな泡がゆらゆらと舞い上がる。
 全員のグラスが用意されたところで、水沢がグラスを手に奥さんに向き直った。

「十年、いろいろ支えてくれてありがとう」

「カズ君......こちらこそ、いつもありがとう」

 おやおや、水沢はカズ君と呼ばれているらしい。照れくさそうな水沢が「乾杯」とグラスを持ち上げた。

 私は二人のグラスが半分くらいになるのを確かめてから、カウンターの影で携帯電話を鳴らした。

 しばらくして、琥珀亭の扉が開いた。

「こんばんは。音楽のお届けものです」

 入ってきたのは、私の孫の大地だ。その手にはチェロを抱えている。うちの孫は音大生なんでね。あらかじめ別室でスタンバイしてもらっていたのさ。

 料理とケーキを頬張っていた奥さんが目を見張った。水沢は計画を知っているものの、それでも「うわぁ」と歓声を上げた。チェロを間近で見る機会なんて、普通はそうそうないものだからだろう。

 大地は細身のスーツで正装していた。あらかじめ『大事な記念日なんだから、いつものジーンズで来るんじゃないよ』と言っておいたんだ。孫のスーツ姿は滅多に見れないものだが、これこそある意味、本当の『馬子にも衣装』だ。

 死んだ旦那にますます似てきたねぇ。
 妙に胸の中が熱くなるのを感じながら、店の奥に隠しておいた自分のバイオリンを取り出した。

 私が店の中央に歩み出ると、大地はボックス席の椅子を寄せて座る。そして、ライトを浴びて輝くチェロからエンドピンを引き出し、床に当てた。

「初めまして、奥様。私はこの琥珀亭の隣でバイオリン教室を主宰しておりましてね。こちらの私の孫の大地と、ささやかながら音楽をお贈りします。なに、BGMだと思ってお気軽にどうぞ」

 大地が左手と弓を構え、くりくりした大きな目で私に視線を送る。用意ができたようだ。

「それでは、エルガーの『愛の挨拶』を」

 ふっと吸い込む大地の呼吸に合わせて、私たちは演奏を始めた。大地はこういうサプライズが好きだからね、生き生きしてたよ。

 それにしても、我ながらベタな選曲だが......今日という良き日にこれほど相応しい曲はないじゃないか? 優しい、優しい旋律だよ。

 演奏が終わると、奥さんはとびきりの笑顔で拍手を贈ってくれた。

「ありがとうございます! 私、もう感動して......」

「お二人とも、おめでとうございます! いやぁ、良いですねぇ、こういうの!」

 大声でそう言いながら、大地がチェロを置く。まったく、人見知りしないところまで死んだ旦那そっくりだ。

 スタンバイしている間に腹が減ったらしく、大地は目を輝かせてカウンターの端に居座った。真輝が大地の分もオードブルとケーキをよそってくれる。私も大地の隣に腰を下ろした。
 これで、私のただ働きは終わりだ。やれやれ、肩の荷が下りた。
 さぁて、次は......。

「それでは、続きましては私たちから、カクテルを」

 そう言うと、今度は真輝がシェイカーを二つ取り出した。
 尊と真輝、それぞれが同時にカクテルを作り出す。カウンターの上にはジン、ペパーミント、パイナップルジュースが並んでいた。
 二人揃ってシェイカーを振ると、水沢が「おおう」と思わず声を漏らした。奥さんは目をキラキラさせて見蕩れている。まぁ、バーテンダーの腕の見せ所だからね。

 そして二人に同時に出されたのは、カクテル・グラスに注がれた緑色の『アラウンド・ザ・ワールド』だった。

 アラウンド・ザ・ワールドは鮮やかで美しい緑色をしていた。グラスの縁にはやはり緑色のグリーン・チェリーが飾られている。アメリカのバーテンダーが考案したとされる、食後にぴったりのさっぱりしたカクテルだ。

「こちらは『アラウンド・ザ・ワールド』でございます。どうぞ」

「すごい! 綺麗ねぇ」

 奥さんはあまりこういうバーに来ないのか、驚きながらグラスに見入っていた。水沢が「ほら、飲んでみて」と声をかけると、彼女は恐る恐るグラスを手に取った。

「うわぁ、美味しいです」

 その笑顔に、尊と真輝も嬉しそうな顔をした。
 すると、水沢が軽く咳払いして、奥さんのほうに向き直る。

「今度は俺からプレゼントがあるんだけど」

「えぇ? 今度は何?」

 サプライズの連続に興奮しているのか、彼女の頬が染まっている。
 水沢が目で合図すると、尊がカウンターの下から薔薇の花束と、リボンのついた紙袋を取り出した。それを受け取った水沢が、奥さんに手渡す。花束に歓声を上げる彼女に、水沢は恐る恐る言った。

「プレゼント、開けてみて」

「うん......」

 彼女が袋を開けて、「これ?」と驚きの声を上げる。

 そりゃ、そうだろうね。なにせ、袋から出てきたのは何十冊もの旅行のパンフレットの束だったからだ。

「カズ君、これって......」

 口をぽかんと開けた奥さんに、水沢は勢い良く頭を下げた。

「......ごめん!」

 奥さんの口がますます広がる。

「これ、お前が箪笥の奥にしまっていたパンフレットの行き先全部揃えてあるんだ。他にもいろんな国のやつを足してある。どこでも行きたいところを選んでくれ!」

「え? あの、え?」

「......本当はさ、そのパンフレットの行き先全部って言ってやりたいんだ。だけど、情けないけどそうは言えないからさ。せめてカクテルだけは『世界一周』しようと思ってお願いしたんだよ。一カ所でごめんな?」

「世界一周?」

 戸惑いのあまり言葉を失う奥さんに、真輝が優しく言った。

「奥様、こちらのカクテルは『世界一周』という意味なんですよ。旦那様のご希望で、是非奥様に召し上がっていただきたいと」

「だって、カズ君......飛行機乗れないでしょ?」

「ごめん。本当にごめん。実は......俺、平気なんだ」

「カズ君......」

「本当は飛行機なんて怖くもなんともないんだ。だけど、新婚旅行のとき、お前の両親に世話になりっぱなしの自分が情けなくて、せめて旅行はいつか自分の手で行きたくて、嘘をついたんだ」

 奥さんが無言で見守る中、彼は恐る恐る頭を上げた。

「ごめんな。俺、ずっとお前に嘘ついてたんだ。だけど......」

「もう、いいよ」

 水沢の言葉を、奥さんが打ち消した。

「......怒ってるか?」

 その答えを、その場にいた誰もが固唾をのんで待った。すると奥さんは「仕方のない人ねぇ」と苦笑したのだ。

「私、とっくに知ってたよ」

 今度は水沢が驚き戸惑う番だった。

「カズ君ってば、気づかないと思ってたの? カズ君が飛行機に平気で乗れることくらい、とっくにわかってたよ」

「どうして? なんで?」

「だって、出張で飛行機に乗らなきゃならないのに、一言も『嫌だ』とか『怖い』とか言わないで平気な顔してるんだもん」

「へ? あ、あぁ、あぁ」

 気が抜けたのか、水沢が変な声を上げている。私は隣で笑いを堪えている大地を肘で小突いた。

「そうかぁ、そうだよなぁ」

 水沢は椅子にへたりこむ。すると、奥さんが目を細めて彼を見つめた。

「やっと話してくれたね」

「うん、ごめんな。嘘ついてるのずっとわかってたんだな」

「カズ君がそれを気にしてるのも知ってたよ。でも、カズ君が嘘をついたのも理由があるだろうから、打ち明けてくれるのを待とうって決めてたの」

「本当敵わないや」

「私を誰だと思ってるの? カズ君の奥さんだよ?」

 真輝が小さく噴き出した。

「水沢さん、奥様のほうが一枚上手でしたね」

「本当に。はは、本当だ」

 たまらず、誰もが笑い出した。

「ごめんな。あのとき、本当は行きたかったんだろ?」

 すると、奥さんは何とも言えぬ顔をした。

「正直、あのときはね。でも、いいの。なにも旅先でなくても、私たちにはすぐにとびきりの思い出が出来たじゃない」

「え?」

「子どもが生まれてからは、毎日が新鮮だったでしょ。旅なんかよりずっと驚きの光景の連続だったもん」

「はは、そうだよなぁ」

 奥さんはふふ、と笑みを浮かべた。そして、私たちを見回して、深く深く頭を下げた。

「皆さん、ありがとうございました。とびきりの記念日になりました」

 そう言った彼女の顔は、誰よりも晴れ晴れとしていた。

 私は思う。きっと、結婚式の日も彼女はこんな顔をしていたんだろう、と。けれど、今日はそのときよりも、もっともっと美しい笑顔のはずだ。

 水沢夫婦は何度も何度も礼を言い、肩を寄せ合って帰って行った。
 残されたカウンターで、大地がネクタイを緩めながら言う。

「いいなぁ、あんな夫婦。俺も千里とああいう風になれるかなぁ?」

「何を言ってんだか。あんたは水沢よりも、もっと嫁の手のひらの上で転がされるよ」

 私はニヤニヤして孫に言ってやった。こいつの彼女の千里だって、なかなかのしっかり者だ。

「ひでぇや、ばあちゃん!」

 真輝と尊も高らかに笑う。その場にいた誰もが私の言葉に同意らしい。
 ふてくされた大地が、空になった『アラウンド・ザ・ワールド』のグラスを指でつついた。

「あの人たち、どこの国に行くのかな? さすがに世界一周は無理だろうけどさ」

 すると真輝が妙に自信たっぷりに言った。

「きっと、どこにも行かないと思うわ」

 きょとんとする大地に、真輝がにっこり微笑む。

「だって、我が家が一番ですもの」

 真輝らしい一言だ。大地は解せない様子だが。

「ふぅん、そういうもんなの?」

「そうよ。私は飛行機が嫌いなだけですけどね」

「そうだよなぁ」

 苦笑する尊に、真輝がにやっとした。

「あら、船旅ならいいのよ? 新婚旅行のときはなかったけど、今ならあなたのへそくりも増えたし、それでどこかに行く? スコットランドで蒸留所巡りでもどう?」

「冗談だろ? ていうか、あのとき貯金足りなかったこと、知ってたの?」

「だって、あなたの妻ですもの」

 琥珀亭にまた笑いが溢れた。ときには頬が痛くなるくらい笑うってのも、いいもんだ。たとえバーで酒も飲まずにただ働きしたとしてもね。

 私は今日初めての一杯を口に含ませて目を細めた。しんみり優しい味がしたよ。
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