漂流図書館の料理人

深水千世

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時計を戻すことはできない

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 かぐや姫と戻ってきた日向は、それから二日ほどは気が抜けていたが、三日目ともなると少しは平静を取り戻しつつあった。それでも、真朝を思い出すたびに胸が痛む。
 ブランチが済むと、彼女は生ゴミを入れたボウルを手に庭に向かった。庭の片隅に、堆肥用の穴が開けられているのだ。
 そこにボウルの中身を開けていると、背後から声をかけられた。

「よう、おはようさん」

 振り返ると、ディコンが剪定ばさみを手に歩み寄ってくるところだった。

「生ゴミ、ありがとう。いい肥料になるよ」

「いいえ、これくらいのこと。そうだ、この間は桃をありがとう。文章も喜んでいたみたいよ」

「はは、あれは栞に頼まれたんだよ」

「え、そうなの? そんなこと言ってなかったわ」

「あぁ、あの子は無愛想に見えて、実は結構気が利くし、文章が大好きなんだよ」

「ええ、なんだかそれはわかるわ」

 日向が微笑むと、彼は少し気遣うような目をした。

「おっかさん、帰ったんだな。無事だといいな」

 少しだけ胸の奥が狭くなったが、それでも日向が静かに頷いた。

「うん。きっと、無事だと信じることにしたの」

 すると、ディコンが深く頷いた。

「それがいい。そうでないと、いずれあんたが潰れるだろうからね」

 軽く頷いて見せてから、ふと手にしている剪定ばさみに目をやる。

「ディコン、今日も花の手入れ?」

「いや、栞に頼まれてバラを切りにいくんだよ」

「へぇ」

「館に飾る分と、あとは彼女のボタニカルアートのためにね」

「そういえば、ボタニカルアートを始めたって言ってたわね。それって植物画よね?」

「うん。なかなかの腕前だよ。見せてもらうといいさ」

「そうね、そうしようかしら」

「……あいつをよろしくな」

 ディコンが白い歯を見せて笑う。

「あいつは元々、文章のおっかさんの栞から呼び出されたって聞いたかい?」

「えぇ」

「そのせいか、まだ少し話すのが下手でね。でも、青い鳥の絵がついて金縁の上等な栞だよ。まるでコマドリを真っ青に染めたような綺麗な鳥なんだ」

 日向は「あぁ」と、頷いた。そういえば彼女は金髪で、深く澄んだ青い瞳をしていた。きっと元の姿の名残があるのだろう。

「栞は今、日本庭園の東屋にいるよ。一緒に行こう」

 少し戸惑ったが、かといって他にすることもない。日向が「わかったわ」とディコンと一緒に歩き出した。
 途中で花園に立ち寄ると、ディコンはそこにあったバケツにポンプ式の井戸から水を汲みあげ、色とりどりのバラを差し込んでいく。やがて、それを手にして今度は日本庭園に続く玉砂利の道を進んだ。

「なぁ、麗。あんたは自分を『日向』って名乗っているそうだね」

「え? えぇ。ここに来たときには本当にその名前だと思い込んでいたから……」

「でも違うってわかったのに、なんでまだ日向って名乗るんだ?」

 彼の言葉に思わずうつむいてしまう。それは母が本当に求めていたのは『麗』ではなく『日向』であると信じ、自分がその存在に成り代わりたかったからだ。
 そう言うと、ディコンが悲しげに顔を曇らせた。

「本当にあんたは大事なことが見えていないね。あんたのおっかさんは、ちゃんと麗も大事に思ってたよ。なぁ、愛情は増えるもんだよ」

「そうかしら?」

 ぽつりと呟く。心許なさに胸がふさがれた。だが、そんな日向の背中をディコンがぽんと優しく叩いた。

「そうさ。名前って大事なんだ。あんたは他人の人生を引き受けることはない。麗のままで生きるべきだよ」

「死ぬ一歩手前だけど?」

 ディコンが「そうだね」と肩をすくめた。

「もしかしたら、だからかもしれない」

「へ?」

「神様がさ、今まであまりに『日向』の分を生きてきたから、まっすぐ死なないでもう少し自分の『麗』として生きてこいって時間をくれたのかもしれないよ。だってさ、文章に呼ばれてここに来たことで、元の世界に戻れるかもしれない可能性が生まれたってのも、偶然じゃないと思うんだよ」

 ディコンが日向をまっすぐ射るように見つめた。

「だって、あんたは遠縁とはいえ文章のご先祖様なんだから」

 ぽかんと口を開け、数秒の沈黙が生まれた。やがて、日向の「ええ?」という大声が庭園に響き渡る。

「嘘でしょ?」

「本当だよ。栞に聞いてごらん。文章のおばあさんは榊家の出身だよ」

「へ? あの千歳様って呼ばれてた人? うちの家系から博士なんて出るわけないわよ」

「それがこの先出ることになるんだね。文章の『宮城』って苗字は、おばあさんの嫁ぎ先の家だよ」

「待ってよ、私が先祖っていうことは、文章ってもしかして未来の人間なの?」

「うん。すっごく先の未来だな。おいらにはどれくらい先かは見当もつかないけどさ。もしかしたらさ、元の世界に戻ったあんたのおっかさんの子孫だったりしてな」

 唖然としていると、道にいつしか小川が沿うように流れていた。竹林が小川の向こうに壁となって風を受けている。
 ディコンが案内してくれた日本庭園は岩と苔と小川で出来ていた。清水がひいてある上に苔むした石橋がかかっており、その向こうに東屋があった。
 ふと、東屋に向かってしゃがんでいる人影が見えた。栞がスケッチブックを手に、東屋の壁を睨めつけているのだ。

「あれは何を?」

「あぁ、多分、壁に這っている昼顔を写しているんだよ」

 ディコンが「おおい」と栞を呼ぶと、栞が立ち上がった。
 日向が思わず、目をむいた。ディコンを見つけた栞が小さく微笑んだのだ。

「あんたって笑えるのね!」

「何を言ってるの?」

 栞はいつもの仏頂面に戻っていた。

「あぁ、ディコン。薔薇をありがとう」

「いいんだよ。それから、麗が文章のことでききたいことがあるってよ」

「なに?」

「あ、あの、私が文章のご先祖様って本当?」

 やや興奮気味でたずねると、彼女は「ええ」と素っ気なく答えた。

「文章様のおばあ様は榊家の者よ」

「信じられない……。ここに来てもう驚くことはないと思うたびに、もっと驚くことが起こるわ」

「あなたの母親がここに来たのも、あなたを追ってきたというよりは、榊家の血がそうさせたんだと思うわ」

「どういう意味?」

 怪訝な顔をすると、栞がポケットから一枚の紙を取り出した。見ると、画用紙が、無造作に四つ折りにされている。

「これ、お守りにあげる」

 お守りにしてはずいぶんと手荒い扱いだと日向が苦笑しつつ、「どうも」と受け取って広げる。そこに描かれていたのは、艶やかな濃緑の葉が扇形になっている枝だった。

「これは?」

「私が描いた榊の枝よ」

 栞がすっと腕組みをする。

「文字には力があるの。口から出た言葉にもそうだけど、名前にもあるのよ。あなたの一族の名前の『榊《さかき》』というのは、神がいる神聖な場と人間世界との『境《さかい》』を示す木と書いて『境木《さかき》』となったのが今の漢字になったって説があるの」

「へぇ」

 自分の家の苗字だというのに、榊がどんな植物か初めて知った。栞が絵を顎で指し示し、こう続ける。

「そんな名前を持っているものだから、こうして世界と世界の狭間に引き寄せられやすいのね、あなたたちの家系は。旦那様は千歳様の要望でこんな漂う図書館を建ててしまうし」

「文章はこの図書館を建てたのはおばあさんだって言ってなかった?」

「科学者の旦那様も携わったのよ。千歳様は文章様の居場所を作ろうとしたのね」

 それを聞いた日向が、少しためらった後に切り出した。

「あの、ずっと訊きたかったんだけど、どうして文章はこんなところに閉じこもってるの? まるで幽閉されているみたい。あの不思議な想像力のせいなの?」

 栞はそっと首を横に振る。

「知りたかったら、文章様に訊くことね。あんたには教えると思うわ。今なら書斎にいるはずよ。あの一番高い塔の下にあるわ」

 彼女が指さすほうには、ひときわ高い塔がそびえている。

「……本当に教えてくれるかな? 私、ご先祖様とはいえ、雇われの身なのに?」

「文章様が本当に欲したのは『料理人』じゃないと思うの。だって登場人物に毎日料理を作ってもらうことなんて、本当はいくらでもできるんだから」

 栞の青い目が、寂しそうに伏せられた。

「私は人間じゃないからよくわからない。けれど、エドガーが言ってたの。文章様が本当に欲しいのは、文章様を思いやってくれる料理なんだと思うって」

「どういうこと?」

「一流レストランや老舗料亭が出すような美味しく食べてもらうための料理じゃなく、料理人が出したいこわだりの味でもなくて、文章様の体のことや嗜好や気持ちを真っ先に思いやってくれる料理。つまりは、そういう愛情が彼の欲しいものなんだって。そして、それを与えることができる人は、あんたがここに来るまでこの館にいなかった。それだけの話よ」

 栞がふんと自嘲した。

「平凡な愛情よね。でも平凡を欲しながら、非凡な祖母を誇りにも思う矛盾に、あの人は苦しんでいるの。理解に苦しむわ」

 日向の横を、栞が素通りする。ディコンから薔薇の入ったバケツを受け取ると、背を向けたままこう言った。

「尊敬に似た愛情、気付きながらもすり抜けた悔い、行為がなく手に入らなかった行為は長く引きずるものよ」

「……それ、ことわざ?」

「いいえ、文章様の言葉よ」

 ざあっと風が竹林をなでる音が響き、栞は髪をなびかせて遠ざかる。ディコンがそれを見送りながらぽつりと呟いた。

「口では『理解できない』なんて言ってるけど、おいらや栞みたいに呼び出された者にも少しはわかるんだ。文章もおいらたちと同じように、自由を欲しながらも不自由に助けられた矛盾を抱えているのはね」

「じゃあ、なんであんな憎まれ口を?」

「悔しいんだよ。その愛情を与えるのが自分じゃないことが。自覚はないだろうけど、あの子はおっかさんの愛用品だったから特にそう思うんだろう」

 日向は拳を握りしめる。文章に近づけば近づくほど、彼の孤独が自分の知る孤独よりもはるかに深い気がしていくのだった。
 日向が厨房に戻って生ゴミを入れていたボウルを洗っていると、エドガーがやってきた。

「ちょうどよかった。文章様がお茶を一緒にいかがかと」

「つまり、お茶をいれてってことね」

 苦笑したものの、ぼそりと呟く。

「本当にちょうどよかったわ」

 きょとんとするエドガーを日向が見据えた。

「文章に色々訊きたいことがあるの」

 すると、彼が鈍い金色の目を細めて、柔和に微笑む。

「質問は一つずつをおすすめしますよ」

 日向がふっと噴き出した。

「そうするわ。文章は焼き菓子は好きかしら」

「えぇ、意外と甘党でございます」

「昨日焼いておいたカトルカールがあるわ。味が馴染んで美味しくなっているはずだから、それを切り分けてくれる?」

「わかりました」

 日向がやかんに水を入れながら、問う。

「エドガーはこの館にずっといることを不自由と思う?」

 少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに「いいえ」と静かに微笑んだ。

「我ら猫は家につくのです。私の居場所は今も昔もここしかないのですよ」

「そう……」

「人間から見れば不自由に映るかもしれませんね。けれどまぁ、たまに毛繕いできないのは不自由といえば不自由ですが、こうして人の手を使って文章様のお役にたてる自由にはかえられません」

 ティーポットに茶葉とお湯をいれ、カバーをかける。カートの上にカップやソーサー、そしてカトルカールと共に乗せ、日向はエドガーと書斎へ向かった。
 文章の抱える謎が明らかになるかもしれない。そう思うと、知らぬ間に手が汗ばんでいた。

 文章の書斎は天井が高く、そして四方を本棚に囲まれていた。奥には彼の机があるが、中央にはテーブルと革張りのソファが配置され、お茶を飲んだり人と面談するときはそこに身を沈めるのだった。
 日向はそのソファで文章と向き合っている。辺りには机のそばにある蓄音機から流れるもの悲しい旋律が響いていた。
 エドガーがカトルカールをテーブルに並べているのを見ていた日向は、ふと口を開いた。

「文章、この曲なんていうの?」

 ひどく悲しげな旋律だ。
 文章はその背中をソファに預けながら、目をつぶっている。彼はすみれ色の瞳をまぶたの奥に隠したまま、そっと呟いた。

「スターバト・マーテル。イエス・キリストが磔刑となったときのマリアが受けた悲しみを想う曲だ」

 子の苦しみを悲しむ母の歌。日向の脳裏によぎったのは、栞の小さな背中、そして真朝の顔だった。

「文章、お願いがあるの」

 スターバト・マーテルの響きの中、彼女はすっと背筋を伸ばした。

「あなたのことを教えて」

「何故?」

 気だるそうに文章が目を開ける。あの透き通るような色の瞳が日向を映した。

「あなたのための料理を作りたいからよ」

 ぴくりと、彼の眉が動く。

「誰かを思いやるにはね、その人自身を知らなきゃできないと思うの。食べ物の好き嫌いだけじゃなくて、どんな生き方をしてきて、どんな考え方の持ち主なのか。少しずつでいいから、私が心を砕いて料理をする相手のことを知りたいのよ」

 彼の口角がつり上がる。だが、それはすぐに元通りになり、彼は目をそらしてしまった。

「チェーホフの『三人姉妹』の中に、『すでに生きてしまった一つの人生はつまり下書きで、もう一つのほうが清書だったらねぇ』という一文がある。君もそうだろうけど、僕はもっとその言葉に同意する」

 お茶を出し終わったエドガーがカートを引こうとすると、彼の主が手でそれを制した。

「エドガー、君もここにいてくれ」

「……かしこまりました」

 エドガーはそう応え、足音もなく文章の傍らに立った。

「エドガーは人間ではない。それは聞いたそうだね」

 彼が話したのだろう。日向は静かに頷いた。

「では、そもそもの始まりから話そう」

 文章が紅茶を一口含んでから、静かに語り出した。

「君がいた世界からずっと先の話だ。某国で新種のウイルス感染が起きた。世界中どこにでも日本人がいるご時世だからね、一人の観光客がウイルスの潜伏期間中に帰国し、日本で発症したんだ。そしてあっという間に国内に広がった」

 日向の肌が粟立った。

「治療法が確立されるどころか、症状の詳細すら知られていない状況だ。僕の祖母は医学・薬学の権威として、新薬開発に急ぐことになった。爆発的に数が多いわけではない。けれど確実に死に至るし、消滅もしない。そうして数年後、僕の両親がそのウイルスにたおれた」

 日向はスターバト・マーテルがまったく耳に入らないほど、文章の話に引きずり込まれていた。

「僕はまだ幼かったが、そのときから祖母は新薬開発にいそしみながら、この館を建てた。そして祖父に頼んで両親の体を維持するための部屋を用意し、そこで二人を治療したんだ。同時に新薬開発のためのモルモットでもあったんだろうけれどね。だが、新薬ができたときには両親は間に合わず死んでしまい、今度は僕が発症した」

 日向が息をのむ。

「具合がよくないとは思っていたけれど、まさかそれがウイルスによる発症だとは夢にも思わなかった僕は、祖母が差し出した薬を飲んだ。それが新薬だと知らないままね。そして、そのまま倒れた」

 文章の白い指が持ち上げられ、そっとエドガーを示す。

「そのときこぼれた薬を舐めてしまったのが飼い猫の黒猫だった。それがエドガーだよ」

 思わずエドガーを見ると、彼は「猫に九生ありでございます」と、微笑んだ。

「ふふ、『A cat has nine lives』だね。まさか本当にこんな気が遠くなるような暮らしに付き合わされるとは思ってもいなかっただろうね?」

「悪い気はいたしません。こうして言葉も話せて、手足が動き、主のお世話をできるのですから」

 文章がふっと笑みを漏らし、日向を見つめた。

「その結果、僕たちの体は時間を止めてしまったんだ。僕らは動けなくなり、意識だけはある状態になった。ウイルスの症状からは解放されたけれども、新薬は失敗だった。それに、もう一つ、副作用があったんだよ」

「副作用?」

「そう。僕らは動きたくてもがこうとしたが、体がいうことを聞かない。そのうち自由に動く自分を想像したら、こうして具現化していた。つまり、想像したことが実現してしまう力は、どういうわけかその薬を飲んで身についたものだ」

 ぽかんと口を開ける日向の前で、文章は自分の胸をぽんと叩く。

「だからこの体は想像の産物でもあるけれど、分身でもあり、僕そのものでもある。エドガーもそうだ」

 エドガーがふふと笑みを漏らす。

「私は主たちと同じように人間の体があれば、少しはお役に立てるのにと願ったら、この体になっておりました」

「祖母はレオナルド・ダ・ヴィンチを尊敬していた。彼の数々の想像は後世になって実現している。想像できることは実現でき、現実になる。ジュール・ヴェルヌもピカソもヘンリー・フォードもそう言った。そういう力が現実のものになった」

 そう言う彼の口調には少し自嘲めいたものがあった。

「だけど、祖母は想像を現実にする力なんて望んでいたわけじゃない。突発的なものだ。祖母は結局、新薬開発を間に合わせることができなかった。実は祖父母も感染していたんだが、やっと出来た新薬を僕に飲ませて失敗を悟ると、僕の体を保管させて双方力尽きたらしい。僕がこれらを知っているのは彼女の日記を読んだからだけど、想像力を駆使してまた動けるようになったときには、館には誰もいなかった」

 文章が本棚を顎で指し示す。

「この本棚の向こうには隠し扉があって、この上の塔に続く道がある。そこには装置で保管されている僕とエドガーの体があるんだよ」

 彼は紅茶で舌を湿らせてから、こう続けた。

「もちろん、祖父母の仕業だ。僕は自分自身の奇妙な液体に沈められている体を正面から見たとき、ここでずっと終わりがくるかもわからない暮らしが始まるのだと悟った。そのときの絶望に応えて、エドガーが現れた」

 日向にはもうかける言葉が見つからない。ただ黙って、耳を傾ける他なかった。

「僕らは旅に出ることにしたんだ。この館ごと時空の狭間を漂い、いつしかこの体を元に戻すことができる可能性を求めて」

 それが『漂流図書館』の誕生だと、彼は言った。

「でも、死んだ人間に会うことはどんなに想像しても叶わなかった。過去に戻って家族と再会できたとしても、僕らはその世界では招かれざる客なのだから干渉もできないし、この状況を助けてもらえない」

 低い声で話す彼は、そっと手をもみ合わせる。まるで祈るように。

「僕は祖母を呪った。命を助けてくれようとしたことはありがたいが、拷問か幽閉のような暮らしを強いられたことに、文句も言えないんだ」

 ふっと、エドガーがわびしそうな目になる。

「それでも、僕はきっとこんな暮らしを強いられることには何か意味があったんじゃないかと思うことにした。僕が欲しいもの。僕にはなかったもの。そんなものを経験してから死ねばいい、とね。そして呼び鈴を鳴らして、僕は自分の欲しいものを心に浮かべたんだ。だから、君が来た。あたたかい料理と騒々しい日々を伴ってね」

 くっと笑うと、彼は日向を見据えた。

「僕は君が羨ましいんだ。君はここで長いこと過ごしても、いざ帰ってみたら湖に落ちた直後に戻るかもしれない。もっとも、江戸時代に行くかもしれないし、数百年後の世界に行ってしまう可能性もあるけれど」

「脅すのはやめてよ、もう」

 思わず口をとがらせる日向に、やっと彼は少しだけ微笑みを取り戻した。

「ただ、まだ母親と再会できるかもしれない希望はあった。君はその体を自由に動かせる。その足でどこにでも行ける。かたや僕とエドガーはたとえ祖母たちが生きている世界に戻ったとしても、この体を実際に動かして抱きしめることもできない」

 開いては閉じる彼の拳は、ひどく頼りなげだった。

「だけど、この想像上の僕だって僕だ。君が知りたいと願ってくれて本当に嬉しいよ。誰かが寄り添ってくれることが、僕の願いだったんだ」

 日向の目に、じんわりと涙が浮かんだ。目の前の彼は、置いてきぼりにされた孤独と戦っているのだと思うと、胸が苦しかった。
 文章がそれを察したのか『仕方ない』と言わんばかりに目を細めた。

「いくら大事に思っていても、表現の仕方が下手なのさ。僕と君の一族は」

「……そうね。本当にそうかもしれない」

 彼女はあのすみれ色の瞳にそっとほほえみかける。

「モーパッサンの『女の一生』はね、ヒロインの乳姉妹のこんな言葉で幕が下ろされる。『人生ってのは、皆が思うほどいいものでも、悪いものでもないんですね』とね」

 彼はぽつりと日向に問いかける。

「君は僕にそう思わせてくれるかい?」

 その姿はまるで、雨の中で置き去りにされた子犬のようだった。

「そんなの、お互い様じゃない」

 日向が肩をすくめる。

「私もここで初めて自分自身と対面してみるつもり。母のために生きるんじゃない。母に愛される自分のために生きるんじゃない。自分のためにもう少し生きてみたい。文章と一緒。その呼び鈴でここに来たことは、悪いことばかりじゃないわ」

「そうか」

 彼はすっと笑みを浮かべた。それは、少しばかり切ない笑みだった。

「先が分からないというものは、怖いことだね。でも同時に楽しみに思えるなら、僕の人生も悪いものではないんだろう」

 そのとき、栞が書斎に入ってきて、あの無愛想な調子でこう告げる。

「文章様、お客様です」

「また誰か迷い込んだのかね」

「えぇ。川か湖で流されてきたようですね。カヌーのパドルを握りしめて、館の北にある川岸で男が立っています」

「体はあるのかい?」

「はい。ですがひどく混乱しているようです。スペイン語で何かを喚いていますわ」

 文章の唇が「やれやれ、せっかくのカトルカールを食べ損ねた」と愚痴を漏らした。

「では、おもてなしをしなければね」

 彼が立ち上がり、日向に手を差し伸べた。

「行こう、日向」

 だが、彼女は静かに首を横に振る。怪訝そうな目をした文章にこうきっぱりと言い切った。

「私は麗よ。日向になりたかった私はもうあの世界に置いてきたわ」

「……よろしい、麗」

 すっと伸びた麗の手を取り、文章が小気味よい笑いを浮かべた。

「君も館の住人としてご挨拶しなければね。きっと客人は体が濡れて冷えているだろうから、熱いお茶でも用意してくれるかい?」

「えぇ、わかったわ」

 彼らは目を合わせてくすっと笑う。まるで再会を果たした旧友のような、親しみをこめた目だった。

 それから数日後、漂流図書館は午後の日だまりで包まれていた。厨房の窓からの光は斜めに廊下に差し込み、古ぼけた本の背表紙たちを輝かせる。流しでは夕食のために砂抜きしているアサリが時々、水を吹いていた。
 麗《うらら》はお茶をいれながら、ここに立つことが自然と自分に馴染んでいくのを感じていた。
 いつまでここにいるかわからない。けれど、それは元の世界にいるときも同じだったのに。
 皮肉なものだと麗は思う。だが、その顔は以前のような心許ないものや自棄になったものではなかった。
 こうしている間にも図書館は漂流していく。ゆらゆらと漂う心許ない場だというのに、ここに来て初めて彼女は自分の足が地についたような気がする。

 チリィンという、いつもの呼び鈴が響く。先ほど出した食器をさげに来いという合図だろうか。それともまたチェスの相手でもさせられるのだろうか。もしかしたら、アポロンの竪琴を一緒に鑑賞するかもしれないし、帽子屋とウサギを呼んでお茶会をするかもしれない。
 だが、もう何が起きても驚くまい。麗は真朝にそっくりな笑みを浮かべた。その顔は千歳とも、そして文章の母ともそっくりなことを彼女は知らない。
 そっとお茶をカートに乗せて、文章のもとへ歩き出した。甘い焼き菓子の香りが残る厨房にその足音を響かせて。
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