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むずかしいのは第一歩
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日向が目を覚ますと、夜明け前だった。部屋にはひんやりと薄い闇と仄かな白さが漂っている。
ひやりとした空気に身震いし、彼女はのろのろとベッドから起き上がった。頭がずしりと重く、だるい。
「あぁ、倒れたんだ」
そう思い出すと、鈍い頭痛に顔をしかめた。
すぐに浴室に行き、熱いシャワーを浴びた。起きるには早いのだろうが、二度寝する気分になどなれない。文章はここでいくら焦っても何も変わらないと言ったが、そうだとしてもじっとしていられなかった。
そっと部屋を抜け出し、暗い廊下を進んでいった。壁に連なる本の背表紙を目で追いながら、ため息を止められない。
彼女が向かったのは、植物園の井戸だ。そこにあると思われる姿を見るのは少し怖い。だが、行かずにはいられないのだ。
真朝は井戸の縁に腰を下ろして、ぼんやりしているようだった。
「おはよう」
声をかけてみたものの声は届かず、真朝は焦点の定まらない目でじっとしているだけだ。
「どうしてここにいるのかしらね、私たち」
彼女は母に問う。あの濃霧に包まれた日まではすべてがいつも通りだったのに。
日向の『いつも通り』は、なんてことない平凡な日々だ。朝起きて、学校へ行き、お通しを作って、仕事から帰った母のために夜食を用意してから寝る。
スナックに来るお客さんを見ていると、様々な人生が垣間見える。そういうものを見て育った彼女は、穏やかな暮らしが一番だと自分に言い聞かせ、生きてきた。それなのに人一倍穏やかではない目にあっているなんて皮肉なものだ。
ため息を漏らしたとき、物音が近づいてくるのが聞こえた。
「おや、珍しい。人がいるだ」
少し訛りのある声がした。
顔を上げると、生垣の向こうから一人の少年が現れた。浅黒い肌は日焼けのせいだろう。膝のところに継ぎ接ぎがあるズボンと、皺だらけのシャツで身を包み、帽子を浅くかぶっている。
彼は、こんもりと土を盛った一輪車を押しながら、歩み寄ってきた。
「おはようさん。おいらはディコンだ。よろしくな」
「おはようございます……あの、日向です」
「あぁ、メアリーお嬢さんが噂しとった料理人ってあんたかい。こんなところで何をしているんだ?」
「あの、母の様子を見にきました」
「へぇ……この人か」
一輪車を置いて、彼はしげしげと真朝を見つめる。
「なんていう名前だ?」
「サカキマアサです」
「へぇ! マアサ?」
彼はぱっと顔を輝かせる。
「おいらの姉ちゃんと同じ名前だ」
「へ?」
「姉ちゃんはマーサって名前なんだ」
ディコンにメアリーにマーサ。その名前を聞いて、彼女は「あぁ」と手を打った。
「もしかしてあなたは『秘密の花園』のディコンね?」
「そうだよ。ときどき、庭仕事を手伝っているんだ。今日は薔薇の手入れさ」
彼は一輪車の土を少しとると、指で擦り合わせた。
「ちょうどよかった、あんた料理人なんだろう? 今度から、生ゴミを捨てずに庭に運んでくれるかい? この先に穴を掘っておくから、そこに放り込んでくれればいいよ。肥料にしたいんだ」
「わかったわ」
ディコンの花が咲いたように明るい顔を見ていると、なんだか胸があたたかくなる。なるほど、メアリーがほだされるわけだと、一人納得していた。
「小さいとき、秘密の花園をよく絵本で読んでた。あなたに会えて嬉しいわ」
「この館は本だらけですごいだろう? おいらは本には興味がないけれど、本好きなら退屈しないだろうね」
「私、昔は絵本が好きだったの。でも小学生のうちから家事と勉強ばっかりで、本なんて読んでる場合じゃないって自分に言い聞かせて……」
そう言うと、日向が力なく項垂れた。
「私、いつの間にか本が好きだったことを、すっかり忘れてたわ」
真朝は家事や勉強を強いたことは一度もない。日向自身からすすんで、自分のことを後回しにしたのだ。大好きな絵本が読めなくなってもいいから、真朝に楽をしてほしかった。そして、こちらに目を向けてほしい一心でもあった。
ディコンが首を傾げる。
「おかしな人だな、あんた。好きなことを忘れるなんてあるもんかい」
「……私は怖かったの」
彼女は自分自身をそうやって幾度となく殺してきたのだと、今になって気づいた。
手に職をつけようと思ったのも、純粋に母を仕事から解放させて自由にしたいというよりは、母の気を引きたかったのだと思う。少なくとも、自分自身の夢ではなかったように思えて仕方ないのだ。
何故なら、母がここにいることで『お母さんがここにいては意味がないじゃないか』と自然に思うのだ。
母がいなければ意味がない。そう、常に張り詰めていたものが、途端に緩んだ気がした。
彼女はすっと顔を上げた。
「ねぇ、ディコン。どうして母はここに来たのかしら? なんとかして元の世界に戻せないかしら」
「さぁな。おいらにはわからない」
「……そうよね」
彼女は真朝の足元にしゃがみこむ。膝を抱える姿を、ディコンがきょとんとして見ていた。
「私、夜明け前のこの時間が大嫌い。夜と朝の間の薄暗くて寒い時間は、いつもお母さんがちゃんと戻ってくるか不安でたまらなかった」
ずずっと鼻をすすり、彼女は膝に顔をうずめた。
「お母さんはお酒を飲まない人だったけど、だからこそ帰ってこないことが不安だったの」
すると、ディコンがそっと彼女の肩をさすってくれる。
「なぁ、あんた。子は親の鏡って言うからな。おいら、あんたはちゃんと愛されていたと思うよ」
「なんでそんなことがいえるの?」
「だってな、そこにいるあんたのおっかさんが悲しそうだからだよ」
「え?」
真朝を見上げたが、日向の目にはただぼんやりしているようにしか見えなかった。
「そうなのかしら?」
思わず首を傾げると、ディコンが大きく頷いてくれた。
「そうともさ。あんたは目が見えるくせに大事なもの見えてないんだな。まるで昔のコリン坊ちゃんみたいだよ」
母親を亡くし、不器用な愛情のからまわりにとらわれていたコリンとその父親を思い出した。長いこと絵本を読んでいないが、そういえば自分と似ていないでもないと苦虫を噛み潰したような顔になる。
「ねぇ、ディコン。私、あなたに訊いてみたかったの」
「なんだいね?」
「お母さんに愛されているか不安になることはないの?」
「コリン坊ちゃんといい、あんたといい、変な気を回すもんだ」
ディコンは日焼けした顔をくしゃっとさせた。
「あんたは知らないだろうけどね、絵本は見ているよ」
「え?」
「文章から聞いてないかい? 本の登場人物ってのはね、その本の持ち主の性格や個性の影響を少なからず受けるんだ」
「へぇ。じゃあこの館の本はちょっと文章さんっぽいのね」
「うん。で、おいらたち登場人物は本の数だけ大勢いるけれど、同時に一人の人物でもある」
日向は合点がいった。道理でこの館の本から飛び出たはずのピーターが、自分の絵本のピーターを知っていたはずだ。
「あんたの絵本のディコンは見ていたよ。朗読するおっかさんがあんたを優しい目で見ていることも、寝てから仕事に行くときに髪を撫でて『ごめんね』って囁いていることもね」
それを耳にした途端、胸がぐっと狭くなり、涙がこぼれた。そばにいる真朝の手をとろうとしたが、魂だけの彼女の手は握れない。それでも日向はその肩にそっと額を寄せた。
「……ありがとう、ディコン」
彼は肩をすくめて、一輪車に手をかけた。
「おいらは嬉しかったんだよ、麗《うらら》」
『麗』という名前で呼ばれ、彼女は驚いて顔を上げた。ディコンはちょっと照れくさそうに鼻の頭をぽりぽりと掻いている。
「おいら、よく覚えてる。小学生の頃、あんたは本が好きだったのに、おっかさんが本を買おうとしても『いらない』って拒んでいたろう?」
「あぁ、そういえば……」
あれはいつだっただろう。よく覚えていないが、真朝がよく本屋に連れて行ってくれた時期があった。
「好きなものを買っていいのよ」
そう言われても、頑なに首を横にふった。それは、真朝に余計な出費をさせたくなかったし、本を読んでいる暇があるなら真朝のために掃除くらいはしなければと思い詰めてもいた。
ディコンが思い出し笑いをして、こう教えてくれた。
「けれど、あんたのおっかさんは、あんたが『秘密の花園』を一度は手にとって物欲しげにしてから、棚に戻すのをちゃんと見てたんだよ」
日向は顔が赤くなった。
表紙いっぱいに描かれた花が可愛らしくて、本当は読んでみたかったのだ。だから、母がクリスマスに『秘密の花園』をプレゼントしてくれたときは本当に嬉しかった。あのときは何故、あの本が欲しいと知れたのか不思議で仕方なかったことを思い出す。
「おいら、あんたのおっかさんが一人でこっそり本屋に来て、棚から真っ先に『秘密の花園』を手に取ったとき、嬉しかった。おいらたちは本が好きな人のところに行くのが何よりの幸せなんだから」
日向が申し訳なさそうに呟く。
「でも私、自分が本好きなことを長らく忘れていたわ」
「いいんだよ。ここでいくらでも読めばいいさ。あんたがずっとここにいるか、それとも死後の世界に行くのか、元の世界に戻るのかわかりゃしない。けれど、それまでは少なくともおいらたちと一緒にいればいいよ」
「できれば早く元の世界に戻りたいけれど」
「それならそれでいい。そこでもおいらたちはそばにいるからね」
「ありがとう、ディコン」
「この館に来られたのも、本好きだからだと思う。だから、おっかさんの目も気にせず、自分の思うように動いていいんだ。おいらたちは本好きの味方だからね」
「思うように?」
「そうさ。あんたは自分がどうしたいか考える癖をつけたほうがいい。メアリーお嬢さんみたいにね」
そう言い残し、彼は一輪車を押して去っていく。
残された日向はそっと真朝を見つめた。なんの感情も宿らない母と裏腹に、日向の目には強い光が宿り始めた。
それからすぐ、日向はしんとしずまりかえった厨房に足を踏み入れた。ひんやりした空気の中、人影を見つけて目を丸くした。
「エドガーさん」
思わず、名を呼んだ。彼は厨房にある大きな窓から外を眺めていたが、ゆっくりと振り返る。
「おはようございます」
歩み寄ると、自分の靴が乾いた音をたてた。天井が高いせいか、驚くほど木霊する。
「おはようございます。……時空を漂っているのに、ここには朝昼晩があるって変ですね」
「この館は常に靄の中です。けれど、それでは面白くないと文章様が一日の流れや四季、天候を作っているのです」
そういえばそんなことを言っていたようにも思うが、いまいち実感がわかない。彼方にある青空は本物にしか見えなかった。
戸惑っていると、エドガーがくすりと笑った。
「この館は文章様次第なのですよ」
鈍い金色の瞳が不敵な輝きを浮かべていた。
「はぁ」
ふと、昨日はあった姿がないのに気づいた。
「そういえば、ピーターは?」
「あなたが倒れたあと、本の世界に戻りましたよ」
日向は思わず俯く。
彼が自分を『麗』と呼ぶとき、心の奥に喜びが沸き起こるのを感じていた自分がいる。その一方で『日向』という名前に強い執念のようなものを感じていた。
文章にどちらの名で呼ばれたいか問われたとき、咄嗟に『私は麗と呼ばれたい』と感じた。だが、無意識にその願望を押し込めた自分がいる。
多分、その理由はまだ靄の中に落ちているんだろうと、日向は人知れず唇を噛む。
彼女はある決意を胸に、冷蔵庫に歩み寄ったのだった。
文章がブランチの席に指定したのは、薔薇が咲き誇る庭の真ん中にある東屋だった。
木目が美しいテーブルにランチョンマットが敷かれ、エドガーがカートから料理を移していた。文章の背後には栞が控えている。
日向は文章の真向かいに座り、彼の様子をじっと伺う。すみれ色の瞳が、フレンチトーストを見て輝いた。
「嬉しいね。僕の好物だ」
日向は固唾をのんで、フレンチトーストに手を伸ばす彼の様子を見守っていた。
フレンチトーストにはキャラメルシロップを隠し味に入れてある。サラダはレタスとカリカリにしたベーコン、そしてチコリ。添えられた果物は苺とオレンジ、ヨーグルトは無糖。紅茶はアールグレイ。
これが文章のお気に入りのメニューらしかった。
「うん、いいブランチだね」
アールグレイのカップから漂うベルガモットの香りを吸い込み、すこぶる上機嫌に見える。
日向は話しかける機会をうかがっていたが、文章が先にこう切り出した。
「日向、君はお願いしたいことがあるんだろう?」
すべてを見透かすような声に言葉に詰まりながらも、彼女はゆっくり頷いた。
「言ってごらん。だから、こうして僕の好物をそろえたんだろう?」
「はい」
日向がぎゅっと膝の上で両手を握り締めた。
「教えてください。あなたはどうして登場人物を呼び出せるんですか? 一体、あなたは何者なの?」
文章が「ふむ」と唸って、ティーカップを置いた。
「まぁ、長い付き合いになるかもしれないからね。ある程度は話しておいてもいいかもしれない」
そして椅子に背を預け、一呼吸置いた。
「僕は想像したことを大抵現実にできるという話はしたね?」
日向がこくりと頷く。
「僕はとある代償のもとに、その力を手に入れた。いつか、その代償がなんなのか話すこともあるだろうが」
そう言ったとき、ざあっと風が吹いて辺りの薔薇を揺らす。葉が擦れる音に紛れて、彼の「ここには何もない」という独り言が漏れた。
「正岡子規が『宇宙は吾に在り』と言ったように、僕の想像は無限大に広がる。けれど、広がるほどにちっぽけな存在だと痛感するんだ」
文章が悲しげな目をした。
「僕はここから動けない。時空を漂い、どこへ行くのかすらわからぬ、時間の流れも意味を持たない世界に閉じ込められている。おまけに、それがいつまで続くかわからないんだ。その恐怖は君も味わったばかりだろう?」
「えぇ」
日向がごくりと生唾を飲み込んだ。
「だから、僕は心が折れないためにも、まるで自分が時間の流れに身を置いているかのように、朝昼晩、そして季節を自分の想像力で生んでいる。本当は御飯も食べたくなったら、想像すれば『北風のテーブルかけ』のように出てくるだろうし、登場人物の誰かに作ってもらってもいい。けれど……」
すみれ色の瞳が、日向をまっすぐ射抜く。
「僕は僕の想像にはないものを食べたいんだ。登場人物たちは僕の本だからね。僕のことをなんとなくでもわかってしまう。それこそ食べたいものだって」
登場人物はどこかみな持ち主に似ると教えてくれたディコンの顔がよぎった。
「僕の想像の産物ではない君が作るなら、どんなものが出てくるかわかりゃしない。そういうものを僕は欲しいんだよ。だって、僕は孤独だから」
「ねぇ、えっと……文章……様?」
一応、ここに置いてもらっている身としては、エドガーのように『様』をつけるべきだろうか? そう戸惑った日向に、文章が苦笑した。
「君は『文章』でいいよ」
「そう、なら、文章。あなた、家族はいるの?」
文章はどう見ても二十代の風貌をしていた。兄弟はいなくても、親は存命だと考えるほうが確率の高い年代だ。だが、ここにはエドガーと栞という二人の使用人しかいない。
文章の苦笑は、切なさを帯びた。
「いないよ。みんな、とっくに行ってしまった」
思い切って、日向はこう切り出した。
「家族を失ったことのあるあなたならわかってくれると思うの。私は母をあのままにしたくない。どうにかして、母を元の世界に戻せないかしら?」
しかし、文章は「残念ながら」と首を横にふる。
「彼女は今、体を持たないから手を引いていくこともできない。声も届かないからここが居場所ではないことも気づかせることはできない。今までもあんな風に紛れ込んだ者がいたけれど、体がない者は黙って勝手に消えていく」
ふと、日向が問う。
「じゃあ、体がある者は?」
そう、自分のような者だ。いつか自分も帰れるときがくるのかと、淡い期待が膨らむ。
「同じだよ。挨拶くらいはしていくけどね。帰るときがくれば、来たところから帰っていくんだ。今の君は帰りたくても帰れる気がしないんだろう?」
「えぇ」
「では、まだそのときじゃない」
がっくりと項垂れる日向に、文章が同情の視線をくれた。
「体を持って迷い込む者は何故ここに来るか、僕にだってわからない。ただ、ある共通点はある」
「共通点?」
「そう……水だ」
文章はそっとアールグレイを一口味わってから、小さなため息をこぼす。
「だから僕は雨が嫌いなんだけど」
「どういう意味?」
「水というのは異なった世界を繋ぎやすいものらしくてね。ある者は湖に溺れて流れつき、ある者は山で霞に包まれているうちにいつしかたどり着いた。井戸に落ちてきた者もいれば、ボートに乗ったままうちの池にいつの間にか漂っていたこともある」
「それじゃ私は?」
そう口にして、すぐにハッとした。
「そうだ、霧!」
あの日、記録的な濃霧が道央全域を襲っていた。もしかしたら自分は霧に導かれたのだろうか?
しかし、文章は肯定することはなかった。
「君はここに来る直前の記憶を失っているだろう? そこがはっきりしない限り、確証がないものをそうだとは言えないね。それに、霧に濡れたからといって、あんなにびしょ濡れになるものかい?」
「そういえば……」
はたと気がつき、日向は言葉を失った。
思えばあのとき、いつの間にか髪も下着も濡れるほどずぶ濡れになっていた。体の芯まですっかり冷えてかじかんでいたはずだ。
「でも、思ったより霧の中を歩いていたのかも」
「僕は根拠なしに断言する性格ではないのでね」
そう言って、文章が肩をすくめる。
「あなたって理屈っぽいのね」
思わず憎まれ口をきくと、彼は飄々とした笑みを浮かべるだけだ。彼はまるでするりと逃げていく影法師のようだと思い、日向が小さなため息を漏らした。
「ねぇ、私は単に知りたいの。自分を納得させたいのよ」
強い眼差しを文章に向け、日向はこう切り出した。
「お願い。登場人物を貸してください」
「……それで?」
「また自分のいた世界に行って、自分と母に何が起こったか見てきたいんです。私は母から何かを渡されて『捨てて』と言われたはず。なのに、それが何かもわからない」
彼女の持ち物といえば、ジーンズのポケットに突っ込んであった携帯電話だけだ。
「あれはなんだったのか知らなくちゃいけない気がするんです。ここにいる理由が知りたいんです。ほら、あなたが言ってた……エブリなんたらってやつを」
文章がくっと唇を吊り上げた。
「『Every why has a wherefore』かな?」
「そう、それです」
彼は小さく唸って何事か考えていたが、やがてゆっくり頷いた。
「そうだね、チョーサーも『Everything must have a beginning』と言っていることだし」
「だから、日本語でお願いって言ったでしょ?」
「あぁ、なにごとも、まず始めなければならぬという意味だよ」
そう言う文章は、面白がるような顔になっていた。
「で、誰を呼び出すのかな?」
「誰って言われても……」
本を読まない日向は答えにつまって眉をしかめてしまった。
「道がつながっているなら、空を飛ばなくてもいいんだけどな。飲み屋街ならフィリップ・マーロウが適任だと思うんだけどね」
彼も少し困った様子で、背後に控えていた栞に声をかける。
「ねぇ、栞。君は一体誰が適任だと思う?」
すると、少女は表情ひとつ変えずにこう即答した。
「そうですね、『西遊記』の孫悟空でしたら連れて行ってくれることでしょう」
「なるほど、あの子か」
「三蔵を一緒に呼び出して命じてもらったほうがいいとは思いますが」
「ふむ、そうしよう。あれはお師匠様一筋だからね」
栞が本を取りに行っている間、文章が呼び鈴を手に近づいてきた。
「君の体は連れて行けないからね。昨日のように意識だけ取り出そう」
「そういうものなの? 体ごと帰れれば手っ取り早く済む話なのにね」
唇を尖らせると、文章が苦笑した。
「それはそうだが、君には帰り道が見えないんだから、本当はここにいるべき時なんだよ。くれぐれも元の世界に戻っても変に干渉しないようにね」
釘を刺すと、彼はチリィンと呼び鈴を鳴らす。
金属音が響いた瞬間、また耳の奥を痺れが襲う。すぐにおとずれるめまいと体の揺れは、昨日とまったく同じだった。目を開ければ、椅子に腰掛けている自分を見下ろす自分がいる。
文章が細い顎をさすりながら「ふむ」と唸った。
「君が早くその状態に慣れれば、道案内なんていらないんだよ」
「こんな幽霊みたいな体になって、一日や二日でスーパーマンみたいに飛べるわけないでしょ」
「その憎まれ口がきけるうちはまだまだ余力があると思うがね」
むっとした日向が眉間に皺を寄せる。
「あんたは減らず口ね」
「君とはそこが似ているようだね」
どうも、自分が大変な思いをしているのをよそに、涼しい顔をしている彼が、だんだんと腹立たしくなってきた。だが、それが筋違いだということもわかっているし、こうして快く協力してくれていることもわかっている。だのに、こうして言い返せるということは、少しはここに慣れてきたのかもしれないと、日向は思う。
おまけに『似ている』と言われて、嫌な気がしないのも不思議だった。
そうこうしているうちに、栞がすぐに一冊の本を手に戻ってきた。
文章が呼び鈴を二度鳴らすと、ピーターが現れたときのように白い靄が巻き起こり、二つの人影になった。が、一方は子どものように小さい。そしてみるみるうちに、目の前に一人の神々しい僧と二本足で立つ猿になった。
僧は真新しい衣服に金襴の袈裟をまとっている。毘盧帽をかぶり、九環の錫杖を手にしていた。
隣に立っている猿が孫悟空だった。彼は木綿の衣服を身にまとい、三蔵のそばに寄り添っていた。頭には金色の輪があるし、なにせ二本足でしっかり立っている。
「お久しぶりですね、三蔵殿」
文章が呼び鈴をポケットにおさめると、僧が微笑んだ。
「話は聞いておりましたよ。悟空の力が必要だとか」
「えぇ。彼女のいた世界に少し出かけて欲しいのです」
「それはわかりましたが……また悟空に苦労をかけることになりますね」
三蔵が気遣うように、傍らに控える孫悟空を見る。すると、孫悟空がくりっとした目で視線を返した。
「お師匠様はこの子の力になってやりたいと思うのでしょう?」
子どものような声だったが、口調はしっかりしている。
「えぇ。それはもちろん」
「なら、俺、行ってきます。お師匠様はゆっくり文章とお茶でもいただいて待っていてください」
「ありがとう。頼みますよ」
孫悟空が頷いた途端、何か白いものがよぎったかと思うと、気がつけば彼のそばに雲が漂っていた。
「うわぁ、もしかしてこれが『きんとうん』?」
感動すら覚えながら日向が見入っていると、孫悟空がすたすたと歩み寄った。
「俺の肩につかまって。あんたは雲には乗れないから」
「は、はい」
そうは答えたものの、彼に比べれば遥かに大きい自分が体重を預けても平気だろうかと躊躇した。
だが、すぐに杞憂だと思い知らされる。悟空の体がぴょんと雲に飛び乗り、楽々と日向の体を抱きかかえたのだ。
びくびくしながら、その双肩に手を乗せると、悟空が笑った。
「そんなんじゃ落ちちゃう。もっとしっかり」
「こ、こう?」
まるで抱きつくように腕をまわすと、小さな手がしっかりと日向を掴んだ。
「それではお師匠様、いってまいります」
「悟空、頼みましたよ。そのお嬢さんに危ないことのないよう」
「はい、心得てます」
そう言うや否や、雲が動き出す。
ひゅっと息が止まり、しばらく日向は呼吸ができなかった。それくらい、彼の雲が早かったのだ。
あっという間にゴマ粒のようになった雲を見上げ、文章が笑う。
「ふむ、行ったね。三蔵殿、よければお茶でも運ばせよう」
三蔵も端整な顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがたいことです。けれどもその前に、あなたのおばあ様に経文を誦するとしましょう」
「……それはそれは」
文章が口元をひきつらせた。
「やはり、元の持ち主というのは特別なものですか」
「そうではございません。ですが、博士が己の身をかえりみず、あなたを守ろうとしたことを、私は忘れがたいのです」
気品に満ちた口元に、ほんの少し寂しそうな気配が漂う。
「私の命を救おうとした母を思い出すからかもしれませぬ」
三蔵には左の足の小指がない。三蔵の母は悪党から彼を守るため、筏を組んで生まれたばかりの彼を川に流した。そのとき、いつか巡り合うための目印として小指を噛み切ったのだった。
文章の目は憂いを帯びる。
「僕は未熟者でね。祖母のおかげでこうして日々を過ごしているが、まるで無間地獄におとされたような気もするよ」
そして、彼はある塔に目を向ける。ひときわ高い塔の頂上を見つめ、こう漏らした。
「女は弱し、されど母は強し」
一方、日向たちは白い靄の中を進んでいた。あっという間に漂流館は小さくなり、見えなくなる。
「く、苦しい」
やっとそれだけ言うと、悟空が「すまん」と慌てて詫びる。
「雲を少しゆっくり走らせるよ」
呼吸が楽になったものの、あたり一面真っ白で、速度が緩んだのかいまいちわかにりくかった。
「いいかい、目をつぶって、あんたのいた世界を思い浮かべて。そうすればそっちに行けるから。記憶の欠片もその近くにあるはずだよ」
言われるまま、日向はぎゅっときつく目を閉じた。
住み慣れたアパート、学校、母のスナック、いろんなところを思い出したが、結局は母の顔しか思い出せなくなった。
真朝が文章の館にやってきたということは、病院にいる彼女の容態はおもわしくないのだろう。じりじりと焦りが浮かび、きつく唇を噛んだ。
そのとき、目をつぶった暗闇の向こうに光の粒が見えた。なんだろうと思った途端、それは一気に膨らんであっという間に光に飲み込まれる。それは、彼女がばら撒いてきた記憶の一つだった。
ひやりとした空気に身震いし、彼女はのろのろとベッドから起き上がった。頭がずしりと重く、だるい。
「あぁ、倒れたんだ」
そう思い出すと、鈍い頭痛に顔をしかめた。
すぐに浴室に行き、熱いシャワーを浴びた。起きるには早いのだろうが、二度寝する気分になどなれない。文章はここでいくら焦っても何も変わらないと言ったが、そうだとしてもじっとしていられなかった。
そっと部屋を抜け出し、暗い廊下を進んでいった。壁に連なる本の背表紙を目で追いながら、ため息を止められない。
彼女が向かったのは、植物園の井戸だ。そこにあると思われる姿を見るのは少し怖い。だが、行かずにはいられないのだ。
真朝は井戸の縁に腰を下ろして、ぼんやりしているようだった。
「おはよう」
声をかけてみたものの声は届かず、真朝は焦点の定まらない目でじっとしているだけだ。
「どうしてここにいるのかしらね、私たち」
彼女は母に問う。あの濃霧に包まれた日まではすべてがいつも通りだったのに。
日向の『いつも通り』は、なんてことない平凡な日々だ。朝起きて、学校へ行き、お通しを作って、仕事から帰った母のために夜食を用意してから寝る。
スナックに来るお客さんを見ていると、様々な人生が垣間見える。そういうものを見て育った彼女は、穏やかな暮らしが一番だと自分に言い聞かせ、生きてきた。それなのに人一倍穏やかではない目にあっているなんて皮肉なものだ。
ため息を漏らしたとき、物音が近づいてくるのが聞こえた。
「おや、珍しい。人がいるだ」
少し訛りのある声がした。
顔を上げると、生垣の向こうから一人の少年が現れた。浅黒い肌は日焼けのせいだろう。膝のところに継ぎ接ぎがあるズボンと、皺だらけのシャツで身を包み、帽子を浅くかぶっている。
彼は、こんもりと土を盛った一輪車を押しながら、歩み寄ってきた。
「おはようさん。おいらはディコンだ。よろしくな」
「おはようございます……あの、日向です」
「あぁ、メアリーお嬢さんが噂しとった料理人ってあんたかい。こんなところで何をしているんだ?」
「あの、母の様子を見にきました」
「へぇ……この人か」
一輪車を置いて、彼はしげしげと真朝を見つめる。
「なんていう名前だ?」
「サカキマアサです」
「へぇ! マアサ?」
彼はぱっと顔を輝かせる。
「おいらの姉ちゃんと同じ名前だ」
「へ?」
「姉ちゃんはマーサって名前なんだ」
ディコンにメアリーにマーサ。その名前を聞いて、彼女は「あぁ」と手を打った。
「もしかしてあなたは『秘密の花園』のディコンね?」
「そうだよ。ときどき、庭仕事を手伝っているんだ。今日は薔薇の手入れさ」
彼は一輪車の土を少しとると、指で擦り合わせた。
「ちょうどよかった、あんた料理人なんだろう? 今度から、生ゴミを捨てずに庭に運んでくれるかい? この先に穴を掘っておくから、そこに放り込んでくれればいいよ。肥料にしたいんだ」
「わかったわ」
ディコンの花が咲いたように明るい顔を見ていると、なんだか胸があたたかくなる。なるほど、メアリーがほだされるわけだと、一人納得していた。
「小さいとき、秘密の花園をよく絵本で読んでた。あなたに会えて嬉しいわ」
「この館は本だらけですごいだろう? おいらは本には興味がないけれど、本好きなら退屈しないだろうね」
「私、昔は絵本が好きだったの。でも小学生のうちから家事と勉強ばっかりで、本なんて読んでる場合じゃないって自分に言い聞かせて……」
そう言うと、日向が力なく項垂れた。
「私、いつの間にか本が好きだったことを、すっかり忘れてたわ」
真朝は家事や勉強を強いたことは一度もない。日向自身からすすんで、自分のことを後回しにしたのだ。大好きな絵本が読めなくなってもいいから、真朝に楽をしてほしかった。そして、こちらに目を向けてほしい一心でもあった。
ディコンが首を傾げる。
「おかしな人だな、あんた。好きなことを忘れるなんてあるもんかい」
「……私は怖かったの」
彼女は自分自身をそうやって幾度となく殺してきたのだと、今になって気づいた。
手に職をつけようと思ったのも、純粋に母を仕事から解放させて自由にしたいというよりは、母の気を引きたかったのだと思う。少なくとも、自分自身の夢ではなかったように思えて仕方ないのだ。
何故なら、母がここにいることで『お母さんがここにいては意味がないじゃないか』と自然に思うのだ。
母がいなければ意味がない。そう、常に張り詰めていたものが、途端に緩んだ気がした。
彼女はすっと顔を上げた。
「ねぇ、ディコン。どうして母はここに来たのかしら? なんとかして元の世界に戻せないかしら」
「さぁな。おいらにはわからない」
「……そうよね」
彼女は真朝の足元にしゃがみこむ。膝を抱える姿を、ディコンがきょとんとして見ていた。
「私、夜明け前のこの時間が大嫌い。夜と朝の間の薄暗くて寒い時間は、いつもお母さんがちゃんと戻ってくるか不安でたまらなかった」
ずずっと鼻をすすり、彼女は膝に顔をうずめた。
「お母さんはお酒を飲まない人だったけど、だからこそ帰ってこないことが不安だったの」
すると、ディコンがそっと彼女の肩をさすってくれる。
「なぁ、あんた。子は親の鏡って言うからな。おいら、あんたはちゃんと愛されていたと思うよ」
「なんでそんなことがいえるの?」
「だってな、そこにいるあんたのおっかさんが悲しそうだからだよ」
「え?」
真朝を見上げたが、日向の目にはただぼんやりしているようにしか見えなかった。
「そうなのかしら?」
思わず首を傾げると、ディコンが大きく頷いてくれた。
「そうともさ。あんたは目が見えるくせに大事なもの見えてないんだな。まるで昔のコリン坊ちゃんみたいだよ」
母親を亡くし、不器用な愛情のからまわりにとらわれていたコリンとその父親を思い出した。長いこと絵本を読んでいないが、そういえば自分と似ていないでもないと苦虫を噛み潰したような顔になる。
「ねぇ、ディコン。私、あなたに訊いてみたかったの」
「なんだいね?」
「お母さんに愛されているか不安になることはないの?」
「コリン坊ちゃんといい、あんたといい、変な気を回すもんだ」
ディコンは日焼けした顔をくしゃっとさせた。
「あんたは知らないだろうけどね、絵本は見ているよ」
「え?」
「文章から聞いてないかい? 本の登場人物ってのはね、その本の持ち主の性格や個性の影響を少なからず受けるんだ」
「へぇ。じゃあこの館の本はちょっと文章さんっぽいのね」
「うん。で、おいらたち登場人物は本の数だけ大勢いるけれど、同時に一人の人物でもある」
日向は合点がいった。道理でこの館の本から飛び出たはずのピーターが、自分の絵本のピーターを知っていたはずだ。
「あんたの絵本のディコンは見ていたよ。朗読するおっかさんがあんたを優しい目で見ていることも、寝てから仕事に行くときに髪を撫でて『ごめんね』って囁いていることもね」
それを耳にした途端、胸がぐっと狭くなり、涙がこぼれた。そばにいる真朝の手をとろうとしたが、魂だけの彼女の手は握れない。それでも日向はその肩にそっと額を寄せた。
「……ありがとう、ディコン」
彼は肩をすくめて、一輪車に手をかけた。
「おいらは嬉しかったんだよ、麗《うらら》」
『麗』という名前で呼ばれ、彼女は驚いて顔を上げた。ディコンはちょっと照れくさそうに鼻の頭をぽりぽりと掻いている。
「おいら、よく覚えてる。小学生の頃、あんたは本が好きだったのに、おっかさんが本を買おうとしても『いらない』って拒んでいたろう?」
「あぁ、そういえば……」
あれはいつだっただろう。よく覚えていないが、真朝がよく本屋に連れて行ってくれた時期があった。
「好きなものを買っていいのよ」
そう言われても、頑なに首を横にふった。それは、真朝に余計な出費をさせたくなかったし、本を読んでいる暇があるなら真朝のために掃除くらいはしなければと思い詰めてもいた。
ディコンが思い出し笑いをして、こう教えてくれた。
「けれど、あんたのおっかさんは、あんたが『秘密の花園』を一度は手にとって物欲しげにしてから、棚に戻すのをちゃんと見てたんだよ」
日向は顔が赤くなった。
表紙いっぱいに描かれた花が可愛らしくて、本当は読んでみたかったのだ。だから、母がクリスマスに『秘密の花園』をプレゼントしてくれたときは本当に嬉しかった。あのときは何故、あの本が欲しいと知れたのか不思議で仕方なかったことを思い出す。
「おいら、あんたのおっかさんが一人でこっそり本屋に来て、棚から真っ先に『秘密の花園』を手に取ったとき、嬉しかった。おいらたちは本が好きな人のところに行くのが何よりの幸せなんだから」
日向が申し訳なさそうに呟く。
「でも私、自分が本好きなことを長らく忘れていたわ」
「いいんだよ。ここでいくらでも読めばいいさ。あんたがずっとここにいるか、それとも死後の世界に行くのか、元の世界に戻るのかわかりゃしない。けれど、それまでは少なくともおいらたちと一緒にいればいいよ」
「できれば早く元の世界に戻りたいけれど」
「それならそれでいい。そこでもおいらたちはそばにいるからね」
「ありがとう、ディコン」
「この館に来られたのも、本好きだからだと思う。だから、おっかさんの目も気にせず、自分の思うように動いていいんだ。おいらたちは本好きの味方だからね」
「思うように?」
「そうさ。あんたは自分がどうしたいか考える癖をつけたほうがいい。メアリーお嬢さんみたいにね」
そう言い残し、彼は一輪車を押して去っていく。
残された日向はそっと真朝を見つめた。なんの感情も宿らない母と裏腹に、日向の目には強い光が宿り始めた。
それからすぐ、日向はしんとしずまりかえった厨房に足を踏み入れた。ひんやりした空気の中、人影を見つけて目を丸くした。
「エドガーさん」
思わず、名を呼んだ。彼は厨房にある大きな窓から外を眺めていたが、ゆっくりと振り返る。
「おはようございます」
歩み寄ると、自分の靴が乾いた音をたてた。天井が高いせいか、驚くほど木霊する。
「おはようございます。……時空を漂っているのに、ここには朝昼晩があるって変ですね」
「この館は常に靄の中です。けれど、それでは面白くないと文章様が一日の流れや四季、天候を作っているのです」
そういえばそんなことを言っていたようにも思うが、いまいち実感がわかない。彼方にある青空は本物にしか見えなかった。
戸惑っていると、エドガーがくすりと笑った。
「この館は文章様次第なのですよ」
鈍い金色の瞳が不敵な輝きを浮かべていた。
「はぁ」
ふと、昨日はあった姿がないのに気づいた。
「そういえば、ピーターは?」
「あなたが倒れたあと、本の世界に戻りましたよ」
日向は思わず俯く。
彼が自分を『麗』と呼ぶとき、心の奥に喜びが沸き起こるのを感じていた自分がいる。その一方で『日向』という名前に強い執念のようなものを感じていた。
文章にどちらの名で呼ばれたいか問われたとき、咄嗟に『私は麗と呼ばれたい』と感じた。だが、無意識にその願望を押し込めた自分がいる。
多分、その理由はまだ靄の中に落ちているんだろうと、日向は人知れず唇を噛む。
彼女はある決意を胸に、冷蔵庫に歩み寄ったのだった。
文章がブランチの席に指定したのは、薔薇が咲き誇る庭の真ん中にある東屋だった。
木目が美しいテーブルにランチョンマットが敷かれ、エドガーがカートから料理を移していた。文章の背後には栞が控えている。
日向は文章の真向かいに座り、彼の様子をじっと伺う。すみれ色の瞳が、フレンチトーストを見て輝いた。
「嬉しいね。僕の好物だ」
日向は固唾をのんで、フレンチトーストに手を伸ばす彼の様子を見守っていた。
フレンチトーストにはキャラメルシロップを隠し味に入れてある。サラダはレタスとカリカリにしたベーコン、そしてチコリ。添えられた果物は苺とオレンジ、ヨーグルトは無糖。紅茶はアールグレイ。
これが文章のお気に入りのメニューらしかった。
「うん、いいブランチだね」
アールグレイのカップから漂うベルガモットの香りを吸い込み、すこぶる上機嫌に見える。
日向は話しかける機会をうかがっていたが、文章が先にこう切り出した。
「日向、君はお願いしたいことがあるんだろう?」
すべてを見透かすような声に言葉に詰まりながらも、彼女はゆっくり頷いた。
「言ってごらん。だから、こうして僕の好物をそろえたんだろう?」
「はい」
日向がぎゅっと膝の上で両手を握り締めた。
「教えてください。あなたはどうして登場人物を呼び出せるんですか? 一体、あなたは何者なの?」
文章が「ふむ」と唸って、ティーカップを置いた。
「まぁ、長い付き合いになるかもしれないからね。ある程度は話しておいてもいいかもしれない」
そして椅子に背を預け、一呼吸置いた。
「僕は想像したことを大抵現実にできるという話はしたね?」
日向がこくりと頷く。
「僕はとある代償のもとに、その力を手に入れた。いつか、その代償がなんなのか話すこともあるだろうが」
そう言ったとき、ざあっと風が吹いて辺りの薔薇を揺らす。葉が擦れる音に紛れて、彼の「ここには何もない」という独り言が漏れた。
「正岡子規が『宇宙は吾に在り』と言ったように、僕の想像は無限大に広がる。けれど、広がるほどにちっぽけな存在だと痛感するんだ」
文章が悲しげな目をした。
「僕はここから動けない。時空を漂い、どこへ行くのかすらわからぬ、時間の流れも意味を持たない世界に閉じ込められている。おまけに、それがいつまで続くかわからないんだ。その恐怖は君も味わったばかりだろう?」
「えぇ」
日向がごくりと生唾を飲み込んだ。
「だから、僕は心が折れないためにも、まるで自分が時間の流れに身を置いているかのように、朝昼晩、そして季節を自分の想像力で生んでいる。本当は御飯も食べたくなったら、想像すれば『北風のテーブルかけ』のように出てくるだろうし、登場人物の誰かに作ってもらってもいい。けれど……」
すみれ色の瞳が、日向をまっすぐ射抜く。
「僕は僕の想像にはないものを食べたいんだ。登場人物たちは僕の本だからね。僕のことをなんとなくでもわかってしまう。それこそ食べたいものだって」
登場人物はどこかみな持ち主に似ると教えてくれたディコンの顔がよぎった。
「僕の想像の産物ではない君が作るなら、どんなものが出てくるかわかりゃしない。そういうものを僕は欲しいんだよ。だって、僕は孤独だから」
「ねぇ、えっと……文章……様?」
一応、ここに置いてもらっている身としては、エドガーのように『様』をつけるべきだろうか? そう戸惑った日向に、文章が苦笑した。
「君は『文章』でいいよ」
「そう、なら、文章。あなた、家族はいるの?」
文章はどう見ても二十代の風貌をしていた。兄弟はいなくても、親は存命だと考えるほうが確率の高い年代だ。だが、ここにはエドガーと栞という二人の使用人しかいない。
文章の苦笑は、切なさを帯びた。
「いないよ。みんな、とっくに行ってしまった」
思い切って、日向はこう切り出した。
「家族を失ったことのあるあなたならわかってくれると思うの。私は母をあのままにしたくない。どうにかして、母を元の世界に戻せないかしら?」
しかし、文章は「残念ながら」と首を横にふる。
「彼女は今、体を持たないから手を引いていくこともできない。声も届かないからここが居場所ではないことも気づかせることはできない。今までもあんな風に紛れ込んだ者がいたけれど、体がない者は黙って勝手に消えていく」
ふと、日向が問う。
「じゃあ、体がある者は?」
そう、自分のような者だ。いつか自分も帰れるときがくるのかと、淡い期待が膨らむ。
「同じだよ。挨拶くらいはしていくけどね。帰るときがくれば、来たところから帰っていくんだ。今の君は帰りたくても帰れる気がしないんだろう?」
「えぇ」
「では、まだそのときじゃない」
がっくりと項垂れる日向に、文章が同情の視線をくれた。
「体を持って迷い込む者は何故ここに来るか、僕にだってわからない。ただ、ある共通点はある」
「共通点?」
「そう……水だ」
文章はそっとアールグレイを一口味わってから、小さなため息をこぼす。
「だから僕は雨が嫌いなんだけど」
「どういう意味?」
「水というのは異なった世界を繋ぎやすいものらしくてね。ある者は湖に溺れて流れつき、ある者は山で霞に包まれているうちにいつしかたどり着いた。井戸に落ちてきた者もいれば、ボートに乗ったままうちの池にいつの間にか漂っていたこともある」
「それじゃ私は?」
そう口にして、すぐにハッとした。
「そうだ、霧!」
あの日、記録的な濃霧が道央全域を襲っていた。もしかしたら自分は霧に導かれたのだろうか?
しかし、文章は肯定することはなかった。
「君はここに来る直前の記憶を失っているだろう? そこがはっきりしない限り、確証がないものをそうだとは言えないね。それに、霧に濡れたからといって、あんなにびしょ濡れになるものかい?」
「そういえば……」
はたと気がつき、日向は言葉を失った。
思えばあのとき、いつの間にか髪も下着も濡れるほどずぶ濡れになっていた。体の芯まですっかり冷えてかじかんでいたはずだ。
「でも、思ったより霧の中を歩いていたのかも」
「僕は根拠なしに断言する性格ではないのでね」
そう言って、文章が肩をすくめる。
「あなたって理屈っぽいのね」
思わず憎まれ口をきくと、彼は飄々とした笑みを浮かべるだけだ。彼はまるでするりと逃げていく影法師のようだと思い、日向が小さなため息を漏らした。
「ねぇ、私は単に知りたいの。自分を納得させたいのよ」
強い眼差しを文章に向け、日向はこう切り出した。
「お願い。登場人物を貸してください」
「……それで?」
「また自分のいた世界に行って、自分と母に何が起こったか見てきたいんです。私は母から何かを渡されて『捨てて』と言われたはず。なのに、それが何かもわからない」
彼女の持ち物といえば、ジーンズのポケットに突っ込んであった携帯電話だけだ。
「あれはなんだったのか知らなくちゃいけない気がするんです。ここにいる理由が知りたいんです。ほら、あなたが言ってた……エブリなんたらってやつを」
文章がくっと唇を吊り上げた。
「『Every why has a wherefore』かな?」
「そう、それです」
彼は小さく唸って何事か考えていたが、やがてゆっくり頷いた。
「そうだね、チョーサーも『Everything must have a beginning』と言っていることだし」
「だから、日本語でお願いって言ったでしょ?」
「あぁ、なにごとも、まず始めなければならぬという意味だよ」
そう言う文章は、面白がるような顔になっていた。
「で、誰を呼び出すのかな?」
「誰って言われても……」
本を読まない日向は答えにつまって眉をしかめてしまった。
「道がつながっているなら、空を飛ばなくてもいいんだけどな。飲み屋街ならフィリップ・マーロウが適任だと思うんだけどね」
彼も少し困った様子で、背後に控えていた栞に声をかける。
「ねぇ、栞。君は一体誰が適任だと思う?」
すると、少女は表情ひとつ変えずにこう即答した。
「そうですね、『西遊記』の孫悟空でしたら連れて行ってくれることでしょう」
「なるほど、あの子か」
「三蔵を一緒に呼び出して命じてもらったほうがいいとは思いますが」
「ふむ、そうしよう。あれはお師匠様一筋だからね」
栞が本を取りに行っている間、文章が呼び鈴を手に近づいてきた。
「君の体は連れて行けないからね。昨日のように意識だけ取り出そう」
「そういうものなの? 体ごと帰れれば手っ取り早く済む話なのにね」
唇を尖らせると、文章が苦笑した。
「それはそうだが、君には帰り道が見えないんだから、本当はここにいるべき時なんだよ。くれぐれも元の世界に戻っても変に干渉しないようにね」
釘を刺すと、彼はチリィンと呼び鈴を鳴らす。
金属音が響いた瞬間、また耳の奥を痺れが襲う。すぐにおとずれるめまいと体の揺れは、昨日とまったく同じだった。目を開ければ、椅子に腰掛けている自分を見下ろす自分がいる。
文章が細い顎をさすりながら「ふむ」と唸った。
「君が早くその状態に慣れれば、道案内なんていらないんだよ」
「こんな幽霊みたいな体になって、一日や二日でスーパーマンみたいに飛べるわけないでしょ」
「その憎まれ口がきけるうちはまだまだ余力があると思うがね」
むっとした日向が眉間に皺を寄せる。
「あんたは減らず口ね」
「君とはそこが似ているようだね」
どうも、自分が大変な思いをしているのをよそに、涼しい顔をしている彼が、だんだんと腹立たしくなってきた。だが、それが筋違いだということもわかっているし、こうして快く協力してくれていることもわかっている。だのに、こうして言い返せるということは、少しはここに慣れてきたのかもしれないと、日向は思う。
おまけに『似ている』と言われて、嫌な気がしないのも不思議だった。
そうこうしているうちに、栞がすぐに一冊の本を手に戻ってきた。
文章が呼び鈴を二度鳴らすと、ピーターが現れたときのように白い靄が巻き起こり、二つの人影になった。が、一方は子どものように小さい。そしてみるみるうちに、目の前に一人の神々しい僧と二本足で立つ猿になった。
僧は真新しい衣服に金襴の袈裟をまとっている。毘盧帽をかぶり、九環の錫杖を手にしていた。
隣に立っている猿が孫悟空だった。彼は木綿の衣服を身にまとい、三蔵のそばに寄り添っていた。頭には金色の輪があるし、なにせ二本足でしっかり立っている。
「お久しぶりですね、三蔵殿」
文章が呼び鈴をポケットにおさめると、僧が微笑んだ。
「話は聞いておりましたよ。悟空の力が必要だとか」
「えぇ。彼女のいた世界に少し出かけて欲しいのです」
「それはわかりましたが……また悟空に苦労をかけることになりますね」
三蔵が気遣うように、傍らに控える孫悟空を見る。すると、孫悟空がくりっとした目で視線を返した。
「お師匠様はこの子の力になってやりたいと思うのでしょう?」
子どものような声だったが、口調はしっかりしている。
「えぇ。それはもちろん」
「なら、俺、行ってきます。お師匠様はゆっくり文章とお茶でもいただいて待っていてください」
「ありがとう。頼みますよ」
孫悟空が頷いた途端、何か白いものがよぎったかと思うと、気がつけば彼のそばに雲が漂っていた。
「うわぁ、もしかしてこれが『きんとうん』?」
感動すら覚えながら日向が見入っていると、孫悟空がすたすたと歩み寄った。
「俺の肩につかまって。あんたは雲には乗れないから」
「は、はい」
そうは答えたものの、彼に比べれば遥かに大きい自分が体重を預けても平気だろうかと躊躇した。
だが、すぐに杞憂だと思い知らされる。悟空の体がぴょんと雲に飛び乗り、楽々と日向の体を抱きかかえたのだ。
びくびくしながら、その双肩に手を乗せると、悟空が笑った。
「そんなんじゃ落ちちゃう。もっとしっかり」
「こ、こう?」
まるで抱きつくように腕をまわすと、小さな手がしっかりと日向を掴んだ。
「それではお師匠様、いってまいります」
「悟空、頼みましたよ。そのお嬢さんに危ないことのないよう」
「はい、心得てます」
そう言うや否や、雲が動き出す。
ひゅっと息が止まり、しばらく日向は呼吸ができなかった。それくらい、彼の雲が早かったのだ。
あっという間にゴマ粒のようになった雲を見上げ、文章が笑う。
「ふむ、行ったね。三蔵殿、よければお茶でも運ばせよう」
三蔵も端整な顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがたいことです。けれどもその前に、あなたのおばあ様に経文を誦するとしましょう」
「……それはそれは」
文章が口元をひきつらせた。
「やはり、元の持ち主というのは特別なものですか」
「そうではございません。ですが、博士が己の身をかえりみず、あなたを守ろうとしたことを、私は忘れがたいのです」
気品に満ちた口元に、ほんの少し寂しそうな気配が漂う。
「私の命を救おうとした母を思い出すからかもしれませぬ」
三蔵には左の足の小指がない。三蔵の母は悪党から彼を守るため、筏を組んで生まれたばかりの彼を川に流した。そのとき、いつか巡り合うための目印として小指を噛み切ったのだった。
文章の目は憂いを帯びる。
「僕は未熟者でね。祖母のおかげでこうして日々を過ごしているが、まるで無間地獄におとされたような気もするよ」
そして、彼はある塔に目を向ける。ひときわ高い塔の頂上を見つめ、こう漏らした。
「女は弱し、されど母は強し」
一方、日向たちは白い靄の中を進んでいた。あっという間に漂流館は小さくなり、見えなくなる。
「く、苦しい」
やっとそれだけ言うと、悟空が「すまん」と慌てて詫びる。
「雲を少しゆっくり走らせるよ」
呼吸が楽になったものの、あたり一面真っ白で、速度が緩んだのかいまいちわかにりくかった。
「いいかい、目をつぶって、あんたのいた世界を思い浮かべて。そうすればそっちに行けるから。記憶の欠片もその近くにあるはずだよ」
言われるまま、日向はぎゅっときつく目を閉じた。
住み慣れたアパート、学校、母のスナック、いろんなところを思い出したが、結局は母の顔しか思い出せなくなった。
真朝が文章の館にやってきたということは、病院にいる彼女の容態はおもわしくないのだろう。じりじりと焦りが浮かび、きつく唇を噛んだ。
そのとき、目をつぶった暗闇の向こうに光の粒が見えた。なんだろうと思った途端、それは一気に膨らんであっという間に光に飲み込まれる。それは、彼女がばら撒いてきた記憶の一つだった。
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