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グノシエンヌの影
喫茶店にて
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翌日、千津は商店街の中を歩いていた。小さなビルの前に喫茶店の立て看板を見つけ、腕時計を見る。中川との約束の時間まであと五分。彼女は緊張した面持ちで階段に足をかけた。
呼び鈴の乾いた音がして、千津はレトロな雰囲気であふれた店内を見渡した。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは白い髭をたくわえた店主だった。
「あの、待ち合わせなんです」
「あぁ、どうぞ。こちらでございます」
案内されたのは、商店街を見下ろせる窓際の席だった。中川はコーヒーを持つ手を下ろし、挨拶代わりに眉を上げた。
「ごめん、待たせた?」
「いや、全然」
千津は店主にアメリカンをオーダーし、中川はそのやりとりを横目に煙草に火をつけた。
「それで、話ってなんなの?」
「久しぶりに会ったっていうのに、ずいぶんつっけんどんな言い方をするんだな」
苦々しく言うと、中川は「電話しても折り返してもくれないし」と文句を言った。
「大事な用ならまたかけてくるだろうと思ったのよ」
「俺はお前からかけてくれるのを待ってたの」
拗ねるような口調に、千津が鼻で笑った。
「恋人でもあるまいし」
中川が小さく笑う。
「……そうだったな」
「……そうよ」
少しの間、沈黙が訪れた。
唇を噛んでいる千津を見て、中川が煙草をくゆらせながら話題を変えた。
「最近、どうしてたんだ?」
「どうって……別に」
「別にってなんだよ。何もしてなかったのか?」
「そういうわけじゃないわよ。引っ越して、職探しの真っ最中よ」
「えっ、引っ越したの?」
「うん。まぁね」
和哉との別れが思い出されて思わず口元が引きつったが、千津はすぐに明るく振る舞って見せた。
「心機一転ってところよ」
「……ふぅん」
「それより、話ってなに?」
「ああ、うん」
中川はじっと千津を見つめ、「誰かから聞いたかもしれないけどさ」と、前置きしてから言った。
「お前の告発文、犯人わかったぞ」
「えっ」
思わず大声を出し、慌てて口を押さえた。
「まだ知らなかった?」
「知らない。だって……」
そう言いかけて、思わず俯いた。
会社を辞めてからも付き合いのある人間がいなかったことに今更ながら気づき、千津の胸が塞がれた。
会社では波風を立てないように気を遣い、穏やかで円満な人間関係を築いてきたと思っていた。けれど、同僚はあくまで同僚であり、会社を出ればそれまでで、友人と呼べるほどの付き合いができていなかったのだと思い知る。
今まで同僚や先輩、後輩との間で悩んだりストレスを抱えてきたことが急に虚しくもあり、ばかばかしくなった。
「それで、誰だったの?」
中川が紫煙を吐き出し、ゆっくり囁いた。
「……広瀬涼子」
その名を聞いた途端、千津の口があんぐりと開いた。
「お前と同じ課にいた後輩だろ。美人って評判だったけど、性格は不細工だな」
呆気にとられていると、中川は煙草の灰を落としながら言う。
「大野係長と不倫していたのは、彼女だったんだよ。今、会社でけっこうな騒ぎになってる」
「はぁ? だってあんなに合コンとか行ってたし、もてるって自慢してたよ?」
「不倫のカムフラージュだろ。係長がお前にちょっかいだしたのを見て、嫉妬したんだってさ。それで腹いせに告発文ででっちあげたんだ。合コンとか男に言い寄られたって自慢は、係長へのあてつけじゃないかな?」
それを聞いた千津は深いため息を漏らし、座席にもたれかかった。
「嘘でしょ……信じられない」
「わざわざこんな嘘つくかよ」
「それはそうだけどさ。それで、どうして告発文の犯人が広瀬さんだってわかったの?」
「大野係長の奥さんが探偵を雇って、広瀬と何年も不倫してることを突き止めたらしい。奥さんが逆上して本物の告発文を会社に送りつけたんだ。それで広瀬が前の告発文は自分が出したって白状した」
驚きの連続でもはや言葉が出なくなった千津に構わず、中川が淡々と話す。
「お前が不倫相手だって思わせることで、自分との関係から目を逸らそうとも思ったそうだ。昨日、その件が落ち着いたみたいなんで、真っ先にお前に教えたかったんだよ」
「だからって会社を抜け出すのはまずいんじゃないの?」
スーツ姿の中川を少し責めるような目で見る。平日の午後なのだから、休日ではないはずだ。だが、彼は涼しい顔をしている。
「いいんだよ、休憩時間だから。今日は出向で昼飯は外でとることにしてたんだから問題ないさ」
「わざわざ会わなくても、昨日のうちに電話で教えてくれてもよかったのに」
「うん、でもさ」と、中川がふっと眉を下げた。
「会いたかったんだ」
「な、なに言ってんのよ」
思わず顔を赤くする千津を、彼は真剣な目で見つめる。
「仕事帰りにしようかと思ったけど、夜に会ったら帰したくなくなるから」
ずるいよ。彼女がいるくせに、気持ちをつなぎ止めようとするなんて。
そう責めようとしたとき、店主が「お待たせしました」と、アメリカンを運んできた。慌てて口をつぐんで店主に黙礼する。気を取り直して一口だけ飲んでから、千津は身を乗り出して小声で尋ねた。
「……二人はどうなったの?」
「係長は奥さんと離婚した上に、支店に左遷されて昇格は見込めなくなった。広瀬涼子は騒動が起こって以来ずっと無断欠勤してそのままだったけど、昨日で退職したよ。二人の関係が今も続いているかは知らないな」
それを聞きながら、千津の脳裏にふっと正臣の姿が浮かんだ。正臣は、告発文は係長に好意を持っている人物の仕業かもしれないと言っていた。そう思い出したのだ。
思わず「……すごい」と、声が漏れた。中川が怪訝そうな顔になる。
「すごいって何が?」
「うん、先生が。ご名答だなって」
「へっ、先生? 誰のこと?」
「いや、こっちの話」
思わず笑った千津に、今度は中川が目を丸くした。
「なに笑ってんだよ。怒らないのか? あいつらに巻き込まれたせいで会社にいられなくなったんだぞ?」
「まぁ、それはそうだけど」
不思議なほど怒りは湧いてこない。ただただ、正臣の推理が当たっていたことが面白く感じるだけだ。
「なんだか、毒気が抜けちゃってね。正直、もうどうでもいいわ」
おかしいものだと思う。会社を辞めたときは自由と引き替えにすべてをなくしたような虚無感に心が重かった。だが、今ではとても些細なことのように感じる。そして、それは正臣のおかげであることは疑いようのないことだった。
そんな千津を、中川が複雑そうな顔をして見ていた。
「なんか、お前、ちょっと変わったな」
「そう?」
「そうだよ」
そう言うと、彼は何か眩しいものでも見るように目を細めた。
「前はそんな顔を見せたことなかった」
「そんな顔ってどんな顔よ」
「つまり、いい顔してるってこと」
「そう?」
「うん。会社を辞めたからかな? それとも、もともと本当は会社以外ではそういう顔をしていたのかな」
「えっ」
「思えばさ、会社での顔しか知らなかったもんな」
そう言うと、中川は冷めかけたコーヒーを手にした。つられるように千津もアメリカンに手をつける。ほろ苦い風味を感じながら、彼女は目の前の男をしげしげと見つめた。
「ねぇ、いつもここに来るの?」
「うん? 俺?」
「うん。喫茶店、好きなの?」
「あぁ、うん。こういう店って、純喫茶っていうのかな。なんだか昔から好きなんだ。休みの日は大抵ここに来て本を読んでる」
「……そうなんだ」
会社での顔しか知らないのはお互い様だ。中川が休日に何をして、どんな服を着るのか何も知らない。読書をすることも今初めて知った。自分も彼も、ほんの一部の顔しか知らないで、どうして好きだと思えたのか不思議だった。
彼は入社したての頃、自分を好きだったと言った。千津と中川はお互いの気持ちに気づかず、完全にすれ違ったということになる。
最初は千津が気づかず、彼は脈がないと諦めた。そして中川は千津が好意を抱き始めたことに気がつけず、他の女性を選んだのだ。
そう考えると、中川とは相容れない運命のような気もした。けれど、あの夜一緒に過ごした記憶が、本当にその程度の縁なのかと訴えてくる。
正臣は『心の声をきけ』と言った。中川と出会った頃にそうしていれば、何かが違っただろうか。
ふと、中川がはにかんだ。
「何をじっと見てるんだよ」
「さぁ、何でしょうね」
「なんだそれ」
ふっと噴き出す顔を見て、千津はぼんやり思う。あぁ、この照れたときの笑い方が好きだったな、と。
呼び鈴の乾いた音がして、千津はレトロな雰囲気であふれた店内を見渡した。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは白い髭をたくわえた店主だった。
「あの、待ち合わせなんです」
「あぁ、どうぞ。こちらでございます」
案内されたのは、商店街を見下ろせる窓際の席だった。中川はコーヒーを持つ手を下ろし、挨拶代わりに眉を上げた。
「ごめん、待たせた?」
「いや、全然」
千津は店主にアメリカンをオーダーし、中川はそのやりとりを横目に煙草に火をつけた。
「それで、話ってなんなの?」
「久しぶりに会ったっていうのに、ずいぶんつっけんどんな言い方をするんだな」
苦々しく言うと、中川は「電話しても折り返してもくれないし」と文句を言った。
「大事な用ならまたかけてくるだろうと思ったのよ」
「俺はお前からかけてくれるのを待ってたの」
拗ねるような口調に、千津が鼻で笑った。
「恋人でもあるまいし」
中川が小さく笑う。
「……そうだったな」
「……そうよ」
少しの間、沈黙が訪れた。
唇を噛んでいる千津を見て、中川が煙草をくゆらせながら話題を変えた。
「最近、どうしてたんだ?」
「どうって……別に」
「別にってなんだよ。何もしてなかったのか?」
「そういうわけじゃないわよ。引っ越して、職探しの真っ最中よ」
「えっ、引っ越したの?」
「うん。まぁね」
和哉との別れが思い出されて思わず口元が引きつったが、千津はすぐに明るく振る舞って見せた。
「心機一転ってところよ」
「……ふぅん」
「それより、話ってなに?」
「ああ、うん」
中川はじっと千津を見つめ、「誰かから聞いたかもしれないけどさ」と、前置きしてから言った。
「お前の告発文、犯人わかったぞ」
「えっ」
思わず大声を出し、慌てて口を押さえた。
「まだ知らなかった?」
「知らない。だって……」
そう言いかけて、思わず俯いた。
会社を辞めてからも付き合いのある人間がいなかったことに今更ながら気づき、千津の胸が塞がれた。
会社では波風を立てないように気を遣い、穏やかで円満な人間関係を築いてきたと思っていた。けれど、同僚はあくまで同僚であり、会社を出ればそれまでで、友人と呼べるほどの付き合いができていなかったのだと思い知る。
今まで同僚や先輩、後輩との間で悩んだりストレスを抱えてきたことが急に虚しくもあり、ばかばかしくなった。
「それで、誰だったの?」
中川が紫煙を吐き出し、ゆっくり囁いた。
「……広瀬涼子」
その名を聞いた途端、千津の口があんぐりと開いた。
「お前と同じ課にいた後輩だろ。美人って評判だったけど、性格は不細工だな」
呆気にとられていると、中川は煙草の灰を落としながら言う。
「大野係長と不倫していたのは、彼女だったんだよ。今、会社でけっこうな騒ぎになってる」
「はぁ? だってあんなに合コンとか行ってたし、もてるって自慢してたよ?」
「不倫のカムフラージュだろ。係長がお前にちょっかいだしたのを見て、嫉妬したんだってさ。それで腹いせに告発文ででっちあげたんだ。合コンとか男に言い寄られたって自慢は、係長へのあてつけじゃないかな?」
それを聞いた千津は深いため息を漏らし、座席にもたれかかった。
「嘘でしょ……信じられない」
「わざわざこんな嘘つくかよ」
「それはそうだけどさ。それで、どうして告発文の犯人が広瀬さんだってわかったの?」
「大野係長の奥さんが探偵を雇って、広瀬と何年も不倫してることを突き止めたらしい。奥さんが逆上して本物の告発文を会社に送りつけたんだ。それで広瀬が前の告発文は自分が出したって白状した」
驚きの連続でもはや言葉が出なくなった千津に構わず、中川が淡々と話す。
「お前が不倫相手だって思わせることで、自分との関係から目を逸らそうとも思ったそうだ。昨日、その件が落ち着いたみたいなんで、真っ先にお前に教えたかったんだよ」
「だからって会社を抜け出すのはまずいんじゃないの?」
スーツ姿の中川を少し責めるような目で見る。平日の午後なのだから、休日ではないはずだ。だが、彼は涼しい顔をしている。
「いいんだよ、休憩時間だから。今日は出向で昼飯は外でとることにしてたんだから問題ないさ」
「わざわざ会わなくても、昨日のうちに電話で教えてくれてもよかったのに」
「うん、でもさ」と、中川がふっと眉を下げた。
「会いたかったんだ」
「な、なに言ってんのよ」
思わず顔を赤くする千津を、彼は真剣な目で見つめる。
「仕事帰りにしようかと思ったけど、夜に会ったら帰したくなくなるから」
ずるいよ。彼女がいるくせに、気持ちをつなぎ止めようとするなんて。
そう責めようとしたとき、店主が「お待たせしました」と、アメリカンを運んできた。慌てて口をつぐんで店主に黙礼する。気を取り直して一口だけ飲んでから、千津は身を乗り出して小声で尋ねた。
「……二人はどうなったの?」
「係長は奥さんと離婚した上に、支店に左遷されて昇格は見込めなくなった。広瀬涼子は騒動が起こって以来ずっと無断欠勤してそのままだったけど、昨日で退職したよ。二人の関係が今も続いているかは知らないな」
それを聞きながら、千津の脳裏にふっと正臣の姿が浮かんだ。正臣は、告発文は係長に好意を持っている人物の仕業かもしれないと言っていた。そう思い出したのだ。
思わず「……すごい」と、声が漏れた。中川が怪訝そうな顔になる。
「すごいって何が?」
「うん、先生が。ご名答だなって」
「へっ、先生? 誰のこと?」
「いや、こっちの話」
思わず笑った千津に、今度は中川が目を丸くした。
「なに笑ってんだよ。怒らないのか? あいつらに巻き込まれたせいで会社にいられなくなったんだぞ?」
「まぁ、それはそうだけど」
不思議なほど怒りは湧いてこない。ただただ、正臣の推理が当たっていたことが面白く感じるだけだ。
「なんだか、毒気が抜けちゃってね。正直、もうどうでもいいわ」
おかしいものだと思う。会社を辞めたときは自由と引き替えにすべてをなくしたような虚無感に心が重かった。だが、今ではとても些細なことのように感じる。そして、それは正臣のおかげであることは疑いようのないことだった。
そんな千津を、中川が複雑そうな顔をして見ていた。
「なんか、お前、ちょっと変わったな」
「そう?」
「そうだよ」
そう言うと、彼は何か眩しいものでも見るように目を細めた。
「前はそんな顔を見せたことなかった」
「そんな顔ってどんな顔よ」
「つまり、いい顔してるってこと」
「そう?」
「うん。会社を辞めたからかな? それとも、もともと本当は会社以外ではそういう顔をしていたのかな」
「えっ」
「思えばさ、会社での顔しか知らなかったもんな」
そう言うと、中川は冷めかけたコーヒーを手にした。つられるように千津もアメリカンに手をつける。ほろ苦い風味を感じながら、彼女は目の前の男をしげしげと見つめた。
「ねぇ、いつもここに来るの?」
「うん? 俺?」
「うん。喫茶店、好きなの?」
「あぁ、うん。こういう店って、純喫茶っていうのかな。なんだか昔から好きなんだ。休みの日は大抵ここに来て本を読んでる」
「……そうなんだ」
会社での顔しか知らないのはお互い様だ。中川が休日に何をして、どんな服を着るのか何も知らない。読書をすることも今初めて知った。自分も彼も、ほんの一部の顔しか知らないで、どうして好きだと思えたのか不思議だった。
彼は入社したての頃、自分を好きだったと言った。千津と中川はお互いの気持ちに気づかず、完全にすれ違ったということになる。
最初は千津が気づかず、彼は脈がないと諦めた。そして中川は千津が好意を抱き始めたことに気がつけず、他の女性を選んだのだ。
そう考えると、中川とは相容れない運命のような気もした。けれど、あの夜一緒に過ごした記憶が、本当にその程度の縁なのかと訴えてくる。
正臣は『心の声をきけ』と言った。中川と出会った頃にそうしていれば、何かが違っただろうか。
ふと、中川がはにかんだ。
「何をじっと見てるんだよ」
「さぁ、何でしょうね」
「なんだそれ」
ふっと噴き出す顔を見て、千津はぼんやり思う。あぁ、この照れたときの笑い方が好きだったな、と。
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