3 / 5
別れ
ばいばい
しおりを挟む
翌朝、僕は祖母に「昨日はごめんなさい」と頭を下げ、彼女は何も言わず頷いて応えた。彼女は世間体や体裁を気にする古風な女性であったが、根に持つ人ではなかった。
僕は父の言う通りに謝ったものの、祖母に悪いことをしたとは思えないままだった。むしろこれをきっかけに、祖母を好きになれなくなった。
そろそろ神社に行かなきゃと靴を履いたときだ。
「千尋」
母が僕の手に、そっと小さなビニール袋を握らせる。中には袋入りのアイスキャンディが入っていた。
「今日は暑いから、二人で食べなさい」
「お母さん、ありがとう」
顔を見合わせて笑うと、母がエプロンのポケットから輪になった紐を取り出して僕の手に乗せた。
「もし、あの子が知っていたら、あやとりでも教えてもらいなさい。神社には遊具がないから退屈しちゃうかも」
「僕、男の子なのに」
「いいのよ。おままごとでもなんでも、あの子が遊びたいことに付き合ってあげなさい」
「どうして?」
「きっと、あの子が笑うから。そしたら、お前も嬉しくなるはずよ」
約束通りに神社に行ったとしても、女の子とどう遊んでいいのかわからずに途方に暮れるだろうと、母は察していたのだろう。
僕は「うん」と頷いて玄関を飛び出した。アイスの入った袋を揺らして石段を駆け登る。いつも長くて遠い道だと思ったのに、その日の石段はとても短く感じたのだった。
境内であの子の姿を見つけたとき、思わず頬が緩んだ。今日はチェックのワンピースを着て、髪はおろされていた。
「おはよう」
あまりだらしない顔にならないように努めながら声をかけると、チヒロは顔を輝かせた。
「本当に来てくれたんだね」
「来るさ。約束は守るものだろ」
すっと、彼女の顔に翳りが走る。
「私のお母さん、守らない」
きっと、彼女の母は昨日も帰らなかったのだろう。
『もう帰ってこないだろう』という祖父の言葉が脳裏に響いた。だが、慌ててそれを打ち消すようにアイスを差し出す。
「これ、食べよ」
「いいの?」
「うん。一緒に食べよ」
ちょっと泣きそうだった顔が、少しだけ笑った。
僕らは拝殿に並んで腰を下ろし、蝉の声を聞きながらアイスを頬張った。急いで食べないとだらだらと溶けてしまう。そう慌てながらも、彼女の前では綺麗に食べたい見栄が邪魔をする。結局、二人ともアイスをぼとりと落としてしまい、笑いながら手水舎で手を洗った。
それから、『だるまさんがころんだ』と、しりとりをした。
母の言うように、ままごとを提案されたときも断らずに、仕事帰りのお父さんの役を立派にこなす。
チヒロは黙っていると冷たい顔をしているが、こうして遊んでいるときだけ、歳相応の明るさを見せた。僕は彼女の笑みが嬉しくて、あぁ、やっぱりお母さんの言うとおりだと誇らしく思ったっけ。
「あやとり、できる?」
僕は袋の中にしまいこんでいた紐を思い出し、彼女の前に差し出した。
だが、チヒロはそっと首を横に振る。
「ううん。わからない」
「そっか、僕のお母さんに教えてもらう?」
「……ううん。いい」
チヒロが俯く。
「どうして?」
「だって、お母さんが戻ってきたら教えてくれるかもしれないし」
今思えば、彼女は母親が戻ってこないことを知っていたのかもしれない。けれど、認めたくないのだろう。
なのに、僕はうっかり無神経にもこう口走ってしまったのである。
「帰ってくるの?」
その言葉に、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「帰ってくるよ! 千尋のバカ!」
そして立ち上がると、仁王立ちで僕を見下ろす。
「お母さんは本当は優しいんだから! 本当は私が好きなんだから!」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるようでもあった。
「千尋こそ、もうここには帰ってこないんでしょ? もう私とは会わないんでしょ?」
呆気にとられた僕は「なんで、そんなこと」と言うのが精一杯だった。
彼女の握りこぶしが震えている。一生懸命に涙をこらえているつもりだろうが、既に真っ赤になった目からたらりと一筋の光がこぼれた。
「お母さん、言ってた。お前が可愛くないから、お父さんが寄ってこないんだって。みんな離れていくんだって」
ぎょっとして、彼女を見上げた僕は、今度は心臓がひゅっと冷えるのを感じた。今まで気がつかなかったが、二の腕に青々とした痣がちらりと見えたのだ。そこには、僕の知らない日常があった。
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、私を可哀想な子だって言うの。だけど、可愛くないって言うの。だから、きっとお母さんも帰ってこないんだ。千尋だって、きっといなくなる。みんな、みんな、いなくなる!」
ざあっと風が吹き、鎮守の杜が揺れた。彼女は逃げるように石段に向かって歩き出す。なんて小さな背中だろう。そう思うと、泣きそうになった。あの子の長い髪が夏の風に揺れている。昨日と違っておろされているのは、髪を結ってくれる人がいないからじゃないか。そう気づいた僕は、咄嗟に参道を駆け、彼女の前に立ち塞がった。
「チヒロは可愛いよ!」
チヒロの濡れて光る目を見据え、きっぱりと断言する。
「僕、またここに来るから! 絶対、ここで君を待ってるから」
彼女の驚いた顔がふっと崩れ、笑みをこぼした。そして、こう囁いたのだ。
「……嘘つき」
その言葉と共に、白くて細い足がまた踏み出された。すれ違いざまに、彼女の声が儚く響く。
「ばいばい」
振り返ったが、彼女は一度も僕を見ることなく石段を降りていった。僕は突っ立ったまま、消えゆく背中を見ることしかできなかった。
西の空が茜色に染まり、母親が迎えに来るまで僕は動けなかった。母に一部始終を話すと、彼女はなにやら考えにふけっていたが、やがて僕の手を取った。
「ごめんね。お母さんが先にあなたにあやとりを教えていれば一緒に遊べたのにね」
そこで、ふと、あやとりの紐が消えていることに気がつく。きっと、チヒロが持って行ったのだろう。いつか、自分の母に教えてもらうことを夢見て。
僕はそう考えると、たまらず声を上げて泣き出した。そんな僕を、母は黙って抱きしめてくれた。
情けない話だ。本当に泣きたいのはチヒロのほうで、僕じゃない。あの子は泣かないように耐えているのに。傷だらけのずたずたの心を抱え、痣を背負いながらも立っているのに。それなのに。
その夜、母は祖父母と何事か話し合っているようだった。だが、その話し合いに参加させてもらうことは許されず、ただ明日の出発に備えて寝るしかなかった。
薄暗い天井にある丸い木の節を見つめ、タオルケットを握り締める。いつもはあの節がお化けの目に見えて怖かったのに、そのときはあの子の涙で一杯の目に見えた。
僕は父の言う通りに謝ったものの、祖母に悪いことをしたとは思えないままだった。むしろこれをきっかけに、祖母を好きになれなくなった。
そろそろ神社に行かなきゃと靴を履いたときだ。
「千尋」
母が僕の手に、そっと小さなビニール袋を握らせる。中には袋入りのアイスキャンディが入っていた。
「今日は暑いから、二人で食べなさい」
「お母さん、ありがとう」
顔を見合わせて笑うと、母がエプロンのポケットから輪になった紐を取り出して僕の手に乗せた。
「もし、あの子が知っていたら、あやとりでも教えてもらいなさい。神社には遊具がないから退屈しちゃうかも」
「僕、男の子なのに」
「いいのよ。おままごとでもなんでも、あの子が遊びたいことに付き合ってあげなさい」
「どうして?」
「きっと、あの子が笑うから。そしたら、お前も嬉しくなるはずよ」
約束通りに神社に行ったとしても、女の子とどう遊んでいいのかわからずに途方に暮れるだろうと、母は察していたのだろう。
僕は「うん」と頷いて玄関を飛び出した。アイスの入った袋を揺らして石段を駆け登る。いつも長くて遠い道だと思ったのに、その日の石段はとても短く感じたのだった。
境内であの子の姿を見つけたとき、思わず頬が緩んだ。今日はチェックのワンピースを着て、髪はおろされていた。
「おはよう」
あまりだらしない顔にならないように努めながら声をかけると、チヒロは顔を輝かせた。
「本当に来てくれたんだね」
「来るさ。約束は守るものだろ」
すっと、彼女の顔に翳りが走る。
「私のお母さん、守らない」
きっと、彼女の母は昨日も帰らなかったのだろう。
『もう帰ってこないだろう』という祖父の言葉が脳裏に響いた。だが、慌ててそれを打ち消すようにアイスを差し出す。
「これ、食べよ」
「いいの?」
「うん。一緒に食べよ」
ちょっと泣きそうだった顔が、少しだけ笑った。
僕らは拝殿に並んで腰を下ろし、蝉の声を聞きながらアイスを頬張った。急いで食べないとだらだらと溶けてしまう。そう慌てながらも、彼女の前では綺麗に食べたい見栄が邪魔をする。結局、二人ともアイスをぼとりと落としてしまい、笑いながら手水舎で手を洗った。
それから、『だるまさんがころんだ』と、しりとりをした。
母の言うように、ままごとを提案されたときも断らずに、仕事帰りのお父さんの役を立派にこなす。
チヒロは黙っていると冷たい顔をしているが、こうして遊んでいるときだけ、歳相応の明るさを見せた。僕は彼女の笑みが嬉しくて、あぁ、やっぱりお母さんの言うとおりだと誇らしく思ったっけ。
「あやとり、できる?」
僕は袋の中にしまいこんでいた紐を思い出し、彼女の前に差し出した。
だが、チヒロはそっと首を横に振る。
「ううん。わからない」
「そっか、僕のお母さんに教えてもらう?」
「……ううん。いい」
チヒロが俯く。
「どうして?」
「だって、お母さんが戻ってきたら教えてくれるかもしれないし」
今思えば、彼女は母親が戻ってこないことを知っていたのかもしれない。けれど、認めたくないのだろう。
なのに、僕はうっかり無神経にもこう口走ってしまったのである。
「帰ってくるの?」
その言葉に、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「帰ってくるよ! 千尋のバカ!」
そして立ち上がると、仁王立ちで僕を見下ろす。
「お母さんは本当は優しいんだから! 本当は私が好きなんだから!」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるようでもあった。
「千尋こそ、もうここには帰ってこないんでしょ? もう私とは会わないんでしょ?」
呆気にとられた僕は「なんで、そんなこと」と言うのが精一杯だった。
彼女の握りこぶしが震えている。一生懸命に涙をこらえているつもりだろうが、既に真っ赤になった目からたらりと一筋の光がこぼれた。
「お母さん、言ってた。お前が可愛くないから、お父さんが寄ってこないんだって。みんな離れていくんだって」
ぎょっとして、彼女を見上げた僕は、今度は心臓がひゅっと冷えるのを感じた。今まで気がつかなかったが、二の腕に青々とした痣がちらりと見えたのだ。そこには、僕の知らない日常があった。
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、私を可哀想な子だって言うの。だけど、可愛くないって言うの。だから、きっとお母さんも帰ってこないんだ。千尋だって、きっといなくなる。みんな、みんな、いなくなる!」
ざあっと風が吹き、鎮守の杜が揺れた。彼女は逃げるように石段に向かって歩き出す。なんて小さな背中だろう。そう思うと、泣きそうになった。あの子の長い髪が夏の風に揺れている。昨日と違っておろされているのは、髪を結ってくれる人がいないからじゃないか。そう気づいた僕は、咄嗟に参道を駆け、彼女の前に立ち塞がった。
「チヒロは可愛いよ!」
チヒロの濡れて光る目を見据え、きっぱりと断言する。
「僕、またここに来るから! 絶対、ここで君を待ってるから」
彼女の驚いた顔がふっと崩れ、笑みをこぼした。そして、こう囁いたのだ。
「……嘘つき」
その言葉と共に、白くて細い足がまた踏み出された。すれ違いざまに、彼女の声が儚く響く。
「ばいばい」
振り返ったが、彼女は一度も僕を見ることなく石段を降りていった。僕は突っ立ったまま、消えゆく背中を見ることしかできなかった。
西の空が茜色に染まり、母親が迎えに来るまで僕は動けなかった。母に一部始終を話すと、彼女はなにやら考えにふけっていたが、やがて僕の手を取った。
「ごめんね。お母さんが先にあなたにあやとりを教えていれば一緒に遊べたのにね」
そこで、ふと、あやとりの紐が消えていることに気がつく。きっと、チヒロが持って行ったのだろう。いつか、自分の母に教えてもらうことを夢見て。
僕はそう考えると、たまらず声を上げて泣き出した。そんな僕を、母は黙って抱きしめてくれた。
情けない話だ。本当に泣きたいのはチヒロのほうで、僕じゃない。あの子は泣かないように耐えているのに。傷だらけのずたずたの心を抱え、痣を背負いながらも立っているのに。それなのに。
その夜、母は祖父母と何事か話し合っているようだった。だが、その話し合いに参加させてもらうことは許されず、ただ明日の出発に備えて寝るしかなかった。
薄暗い天井にある丸い木の節を見つめ、タオルケットを握り締める。いつもはあの節がお化けの目に見えて怖かったのに、そのときはあの子の涙で一杯の目に見えた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【ペンギンのかくれんぼ】~永遠の愛を誓い合ったはずのポポとガガ。ある日愛するガガが失踪!ポポは毎日探し回るが…~【完結】
みけとが夜々
児童書・童話
シンガポールからやってきた2匹の茶色ペンギンのポポとガガ。
2匹はとても仲がよく、何をするにもどこへ行くにも常に一緒でした。
そんなある日、突然ガガがいなくなってしまいました。
ポポは毎日必死に色んなところを探し回りますが、どこにもガガはいません。
ある時、すずめさんがポポの元に現れて━━━━。
(C)みけとが夜々 2024 All Rights Reserved
あなただけを見つめる
雪原歌乃
児童書・童話
男勝りな女の子・葵の隣には、女の子のように華奢な男の子・陽太がいつもいた。
当たり前のように一緒にいて、離れることは決してないと思っていたけれど……。
温かくて少しほろ苦い、幼き日の小さな初恋のお話。
オレの師匠は職人バカ。~ル・リーデル宝石工房物語~
若松だんご
児童書・童話
街の中心からやや外れたところにある、「ル・リーデル宝石工房」
この工房には、新進気鋭の若い師匠とその弟子の二人が暮らしていた。
南の国で修行してきたという師匠の腕は決して悪くないのだが、街の人からの評価は、「地味。センスがない」。
仕事の依頼もなく、注文を受けることもない工房は常に貧乏で、薄い塩味豆だけスープしか食べられない。
「決めた!! この石を使って、一世一代の宝石を作り上げる!!」
貧乏に耐えかねた師匠が取り出したのは、先代が遺したエメラルドの原石。
「これ、使うのか?」
期待と不安の混じった目で石と師匠を見る弟子のグリュウ。
この石には無限の可能性が秘められてる。
興奮気味に話す師匠に戸惑うグリュウ。
石は本当に素晴らしいのか? クズ石じゃないのか? 大丈夫なのか?
――でも、完成するのがすっげえ楽しみ。
石に没頭すれば、周囲が全く見えなくなる職人バカな師匠と、それをフォローする弟子の小さな物語
死ぬ前にひとつだけ、あなたの願いを叶えます
須賀和弥
児童書・童話
「死ぬ前にひとつだけ、あなたの願いを叶えます」
「あなたの願いは何ですか?」
突然に現れた少女からの突然の死の宣告。
人は「死」を目前に何を望み、何を願うのか?
懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。
梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。
あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。
その時までは。
どうか、幸せになってね。
愛しい人。
さようなら。
月星人と少年
ピコ
児童書・童話
都会育ちの吉太少年は、とある事情で田舎の祖母の家に預けられる。
その家の裏手、竹藪の中には破天荒に暮らす小さな小さな姫がいた。
「拾ってもらう作戦を立てるぞー!おー!」
「「「「おー!」」」」
吉太少年に拾ってもらいたい姫の話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる