千尋の杜

深水千世

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出逢い

この世界は知らないうちに動いている

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 石段を降りきったとき、彼女は左へ、僕は右へ行かねばならなかった。

「じゃあ、またね」

「明日、ここで」

 そう約束を交わし、にっこり微笑みあう。
 そのとき、聞き慣れた声がした。

「千尋!」

 二人とも同じ名前なものだから、一斉に振り返った。小走りに駆け寄ってくる僕の母の姿が見えた。

「遅いから心配したわよ」

 そう言ってから、女の子に「あら、こんにちは」と優しく声をかけた。

「千尋のお友達?」

 その途端、チヒロは無言で脱兎のごとく駆け出した。

「まぁ、なぁに、あの子。挨拶もしないで」

 気分を害した母に、僕は慌てて弁解する。

「お母さん、違うの。あの子、可哀想なんだよ」

 彼女から聞いた話を聞かせると、母は「ふぅん」と少し唸り、僕の手を取った。

「千尋はあの子と友達なのね」

「うん。明日も遊ぶ約束をしたよ」

 母は、にっこり微笑む。

「そう。お友達ができてよかったね」

 このとき、母のあたたかい手を握った僕の胸の奥に沸き起こったのは、女の子への同情だったんだと思う。母のぬくもりがない暮らしなんて、僕には想像できなかったのだから。

 この話は、夕食のときに母から祖父に伝えられた。すると、祖父が瓶ビールを手酌しながら「あぁ」と顔をしかめる。

「ほら、すぐそこの青い屋根の家。川端さんとこの孫娘だ」

「え? あのお宅、お孫さんがいらっしゃったの?」

 驚く母に、祖父が深いため息を漏らして瓶を置く。

「あそこの一人娘が隣の県の市議会議員と不倫してな。手切れ金もらって暮らしてたんだけど、金が底をつきて戻ってきたらしい」

「まぁ、それでお父さんがいないなんて……」

 祖父は哀れみを浮かべた目をしている。

「それがよ、今朝になって娘が、孫を置きざりにしていなくなってよ。おまけに家の金を持ち出して逃げたんだと。川端さんの奥さんが泣いてるのが外まで聞こえてきたわ。もう帰ってこないだろうよ」

 今思えば、なんとも情報の早いことだ。祖父が神職などしているから相談でも受けたのか、それとも田舎独特のネットワークの賜物なのか、今でもわからない。だが、あの女の子は終わりのない留守番を課せられたのだということはなんとなくわかった。
 思わず俯いていると、祖母が祖父を叱りつける。

「なんですか、あなた。千尋の前でそんな話」

 祖父がハッとして、気まずそうに頭をかいた。

「すまんな、千尋。今のは忘れるんだぞ」

 僕は素直に「うん」と頷いたものの、あとで『不倫』やら『手切れ金』という言葉の意味を辞書で引こうと決意しながら、箸をすすめる。
 その隣で母親がため息を漏らした。

「可哀想に。千尋ね、そのお孫さんと今日、お友達になったらしいの」

「えぇ?」

 怪訝そうな顔をしたのは祖母だった。その声に、僕はむっとして祖母を睨む。

「あの子、とってもいい子だよ。僕と同じ、チヒロっていうの」

「んまぁ、やだやだ。あんな恥かきっ子と同じだなんて」

 まるで毛虫でも見るような顔で言った祖母に、祖父が「言いすぎだ」とたしなめる。しかし、勝ち気な祖母はこう言い捨てた。

「何が言いすぎですか、みっともないには違いないでしょう」

 僕は立ち上がり、思いっきり箸をテーブルにたたきつけた。

「ばあちゃんのバカ! そんなこと言うばあちゃんのほうがよっぽど嫌だ!」

 僕が反抗的な態度を示したのは、これが初めてだったと思う。祖母は顔を真っ赤にして何も言えずにわなわな震えていたし、祖父は箸を持ったまま呆気にとられていた。隣に両親もいたが、どんな顔をしているのか怖くて見れなかった。
 引っ込みがつかなくなった僕は、部屋に駆け込んで布団にくるまってしまったのだった。

 その夜、布団の中でいつしかうとうとしていた僕を揺り起こしたのは、父だった。

「千尋、風呂に行こう」

「……うん」

 僕は目をしばしばさせて、父に連れられて風呂に行った。少し開いたドアの隙間から、居間に母と祖父がいるのが見えた。

「ばあちゃんは?」

「お前にあんなこと言われたから、がっかりして寝ちゃったよ」

 しょんぼりした僕の頭を、父は乱暴に撫でる。

「ばあちゃんはな、口が悪いけど、気は悪くないんだ」

「本当? だったら僕、あの子と遊んでいい? 約束したんだ」

 父は脱衣所で僕の服を脱がせながら、「もちろん」と力強く答える。

「約束したなら、守らなくちゃいけないね。だけど、千尋もばあちゃんにひどいことを言ったんだから、明日、謝れるね?」

「うん」

 やがて、湯船の中で父はこう言った。

「なぁ、千尋。いろんな人がいて、自分が思っているより、この世界は知らないうちに動いているもんさ。いつかお前もわかるんだろうけど、わからないうちが幸せなのかもな」

 その声にはなんともやりきれない響きがあったのだった。
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