精霊綺譚

深水千世

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精霊の墓守

精霊と人を結ぶ糸

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 テッドはそれから札を眺めることはあっても、決して使おうとはしなかった。そして、あの冥界の火酒は戸棚の奥にしまい込み、目につかないようにしてしまった。
 最初の頃はナディアがいたときの癖で誰もいないのに言葉を漏らしていたが、半年もたつと独り言すら出なくなった。
 彼は徹底的に自分を独りにすることで、何を望んでいるのかという心の声を聞き取りたかったのだ。

 ある日、彼は本棚がすっかり埃をかぶっているのに気がついた。ナディアがいない今では、神話の本を取り出すこともなくなっていた。
 なんとなく、辺りを見回した。不意にまた闇が現れ、そこからあの白い鳥とジゼルが顔をのぞかせないかという気がしたのだ。だが、しんと静まりかえった墓守小屋には、来訪者はないままだった。
 その日の夜更け、彼は久しぶりに神話の本を開く。
 いつだったかナディアに読み聞かせていた冥界の神話を目にし、彼はすっかり感慨深くなって窓の外を見やった。
 この墓地は人々の終焉の地だ。どこかで始まっていた幾つもの物語が終わる場所なのだ。けれど生命の流れは、淀まぬ限り続いていく。そのことが、彼の気持ちを以前より楽にしていた。

「もし、ジゼルが来なかったら、知らないままだったでしょうね」

 思わず呟くと、彼は以前とは違う淋しさに襲われた。ナディアがいないせいではない。心を許しあえる人間がいないせいでもない。ジゼルと話し込んだ、たった数夜が恋しくなったのだ。
 思わず顔を赤らめ、自分の髪をかきむしる。
 そして、戸棚の奥から火酒の瓶を取り出し、手の平で転がした。闇のような濡れ羽色の髪と、矢車菊を思わせる瞳を思い出しながら、彼はふと首を傾げる。
 ジゼルは今も次元の狭間を越え、四つの世界を渡り歩きながら、物語の中で永遠を願う想いを汲んでいるのだろう。グロリアと自分の想いをすくい取ってくれたように。
 テッドはふと顔を上げる。

「そうか、そうなのか」

 彼はジゼルに話をした数日間を思い出し、はっきりと自覚した。自分はいつの間にか、誰かにグロリアのことを話せるほど、前を向けるようになっていたのだと。そう気づいた彼は、自分の魂が震えているような気がした。

 その夜、彼は枕の下に札を挟んで横になった。心のどこかで、夢に出てくる姿は予想できていた。けれど、それでも背中を押して欲しかったのだ。そして彼は、思った通りの夢を見た。
 翌朝になると、テッドは街に向かった。普段ならよほどのことがない限り出歩かないが、この日の彼はまるで世界を目に焼き付けるようにして街を練り歩いた。
 いつもは避けて通る人混みを歩き、喧噪の中に身を置く。軒下に連なる洗濯物、商店の棚に置かれた食料品、そして今日を生きる人々の顔。そんなありふれたものを、胸に刻むようにじっと見ていた。彼の胸に清々するような、寂しいような奇妙な気持ちが沸き起こる。彼の中には、新たな決意があったのだった。
 墓場に戻ると、クィントン家から流れ出る小川の流れに、こう呟いた。

「グロリア、僕の選択を許してくれるかい?」

 彼はどんな形であれグロリアにまた巡り会ったとき『自分に正直に生きてきた』と、伝えたくなったのだった。
 そのとき、背後に妙な気配を感じて振り返ったテッドは、思わず息を呑んだ。そこにはあの神隠しの闇が現れ、そこからジゼルが勢いよく飛び出してきたのだ。

「セオドア!」

「また伝令ですか?」

 目を丸くしているテッドに、彼女は飛びついた。ジゼルの手が、彼の背中を必死にかき抱く。

「伝令の女王としてじゃない。ジゼルとして来たの」

「……どうして?」

「私、自分の言葉を伝えに来たの。初めて、忘れない力に感謝できたの。だって忘れなかったから、あなたの魂と巡り会えた。それに、あなたと時を刻めるのなら、何も忘れたくないの」

 その声は震えている。痛いくらい力をこめた両手から、ジゼルの想いが伝わるようだった。

「……お願い、私と一緒に生きて」

 テッドは驚きのあまり絶句していたが、彼女が泣いているのに気づいて、ふっと笑みを漏らした。

「僕はあなたに感謝します。魂になったグロリアに少しでも安らぎを与えてくれたこと、僕にその姿を伝えてくれたこと、それにこうして迎えに来てくれたことに」

 テッドはそっとジゼルを離すと、目の前で火酒を飲み干した。思わずむせかえって一人笑う。
 ジゼルは涙もそのままに、彼の様子を見守っていた。

「考えたんです。精霊と同じ老いの中で自分に何が出来るかを」

 テッドは少し頬を染めて、ジゼルに向き合った。

「もし人より少し長い寿命がもらえるなら、いつまでも嘆き悲しんで死んだように墓地に閉じこもるより、自分にしか出来ないことをしようと。あなたが語ることによって数々の想いが生き続けられるなら、僕は想いの主の墓標として本にしたいと考えました」

「本に?」

「そう。本にすれば、寿命が尽きても精霊の息吹を人間界に伝えることができます。でも、僕はなによりあなたの話をもっと聞きたいんです」

 ジゼルの顔がみるみるうちに赤くなるのに微笑み、彼はそっと手を取った。

「僕が語り部の口述を書き留めようと思い立ったとき、一番はじめにその語り部について記録したいと思いました。本来なら誰も語り継ぐことのない語り部の姿です。でも、その語り部だって精霊なのですから。自分のことを捨て置き、精霊たちの物語を紡ぐ彼女を、僕以外の誰が伝えられるでしょう」

 そう言うと、彼は微笑んだ。

「僕はジゼルと少しでも一緒にいたいんです」

 ジゼルが笑った拍子に、その目から涙がこぼれ落ちた。テッドはそれを指で拭い、あの札が見せてくれた夢と同じ顔にそっと口づけを落とした。

「あなたの隣を歩いていこうと思います」

「セオドア、精霊を受け入れてくれてありがとう」

 ジゼルの微笑みを見たテッドは、そのとき初めて彼女が美しいことを知った。
 彼女はすぐに冥界に戻り、彼のために食料を取りに行った。ジゼルが戻るまで墓守の仕事をしようと小屋の外に出た途端、テッドは思わず目を丸くする。

「これは……精霊の姿?」

 そこかしこに普段は見えない精霊の姿がうっすらと見えた。それは人間界に暮らす自然の精霊たちだったが、姿形は見えても、声までは聞こえなかった。

「火酒を飲んで精霊の世界と契約したから、精霊が見えるのかな。でも、どうして声は聞こえないんだろう?」

 首を傾げ、すぐに自分は王の魂を持たないからだろうと気づく。

「すごいな。人間だけではなく精霊も見えるって、こういう景色なんですか。ジゼルの目には人間界がこう映るんですね」

 妙に感心する彼の前を漂う精霊たちは、好奇心をむき出しにした顔でこちらを見ていた。

「……やれやれ、賑やかになりそうです」

 テッドが魂だった頃、時の女帝ナディアは彼にこう語った。

『お前は結び目。精霊と人をつなぐ糸の片割れ。お前は終焉の地の守り人となり、人々に安らぎを与える。その終焉の地からお前の天命は始まるのだ。愛しい人の天命を回す歯車となって』

 その言葉はこうして動き出した。
 彼は結び目となるべく、天命を胸に歩み出すことになったのだった。
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