精霊綺譚

深水千世

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精霊の墓守

精霊の約束

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 テッドはジゼルが象牙色の魂を懐にしまうのを見ながら、一抹の寂しさを覚えた。

「もう、あなたがここを訪れることはないのですね」

 束の間の訪問だったが、誰かと話す夜は確かに彼を癒していた。たとえ話す内容が切ないものであっても、それを受け止めてくれる存在は大きかった。

「あなたが冥界の火酒を口にすれば、私はあなたのために食料を運ぶでしょう」

 彼はまだ冥界の火酒を飲んでいなかった。

「それは悩みますね。僕はグロリアがいない人生を必要以上に長く生きるつもりなどなかったんですから」

 すると、伝令の女王が見透かすように言う。

「あなたが長く生きれば生きるほど、救われる物憑きの精霊も増えるでしょう。もっと見てみたいとは思わないの? それに、グロリアが次の生を迎える瞬間を待ちたいと思わない?」

 即座に否定できないテッドに、彼女は微笑んだ。

「そして、ナディアが幸せに歌う日々も見たいとは思わない?」

「私が?」

 訝しげなナディアに、ジゼルが頷いた。

「ナディア、あなたは母が自分を欲したことはわかっても、何故今更なのか、その理由がわからないんでしょう?」

「えぇ」

「精霊や人の抱える想いを伝えて歩く『語り部』としての道は、もともとは母の助言だったの。記憶を思い出に出来ないことが辛いなら、物語にすればいいと、母は言ったわ。私の物語の中で、報われぬ想いをした者たちも生き続け、誰かの人生を動かすかもしれない。なにより、人が精霊の存在を忘れぬように」

 ジゼルが凜とした声で続けた。

「人間と精霊は相互して生きている。人間が精霊の宿る自然を信じれば、精霊は強く生きる。そして精霊は人間を守る。だけど人間が自然を忘れるとき、精霊は忘れ去られ、その存在も加護も消えてしまう。人間は目に見えぬものを信じがたい生き物だから。そのために、私は語る。人と精霊を繋ぐために。歯車になるために」

 そう語るジゼルの目が、強くナディアを射た。

「そんな私に、母はあなたを持たせたいと願った。自分が知る中で最も愛した楽器を。今までも恋しがってはいたけど、この伝令の女王に相応しい楽器はあなただと心から思った。それがあなたの生まれた瞬間よ。母があなたに寄せた信頼と愛情の証」

 そして、白い手を差し伸べ、こう言った。

「……私と来て」

 ナディアが何か言いたげに口を開けて、テッドを見た。その目には迷いと、戸惑いが見える。

「行ってください、ナディア。自分のために」

 テッドはそっと彼女を抱きしめ、囁いた。

「ありがとう。僕はもう大丈夫。孤独じゃありません。僕は知りました。こうしている間にも、僕はグロリアやナディアと繋がっている。たとえ世界が違っても、同じ流れの中にいる。今までありがとう。僕のことが心配だったんですね。他の物憑きの精霊の魂と同じように」

「本当にあんたは何もわかっちゃいない」

 ナディアが腕の中で小さく呟いた。顔を上げたとき、その目に光るものがあった。

「心配だけで何年も一緒にいないわ。私たち、家族だったもの」

 テッドは答える代わりに微笑んだ。いつも自分のことを見守り、そっと傍にいてくれたのは他ならぬナディアだった。姉のように、母のように、祖母のように、そしてときには、恋人のように。
 でも、今度は自分が力になる番だ。

「素直になれない後悔ほど、辛いものはないでしょう? 僕はここで信じていますよ。ナディアが歓喜に歌う姿を」

「強くなったのね、テッド。嬉しいけど、寂しいわ」

 ナディアが感慨深そうに言うと、ジゼルに言った。

「ジゼル、約束して。私を連れてテッドに会いにくるって。彼の前で私を奏でてちょうだい」

 ジゼルが頷くのを確かめ、ナディアがもう一度テッドを抱擁した。

「私のテッド。私はあんたに約束するわ。私が歌うときは、心にあんたを」

「そう、それでいいんですよ、ナディア」

 テッドが頷いた途端、彼女の姿は光に包まれた。それはナディアが主の願い通り、ジゼルの物語を共に紡いでいく生き方を決意した瞬間だった。
 テッドの脳裏に、初めて彼女が現れた日のことが思い出された。光はみるみるうちに縮んでいき、テッドの手元に小さな魂が残された。ナディアの魂は、月長石に似た色をしていた。
 ジゼルが壁際にかけられた四弦の楽器を抱えた。そして、テッドの手からナディアの魂を受け取ると、連れてきた鳥に目配せをした。たき火のはぜるような鳴き声と共に、みるみるうちに闇が広がっていく。

「そうだ、これをあなたに」

 ジゼルは小さな札をテッドに手渡した。

「父とイグナス様からです」

 それは深い森の色をした札だった。葉と竪琴の文様が刻まれているだけで、文字はない。

「これを枕の下に置いて寝れば、望んだ相手の姿を夢として見ることができるそうよ。イグナス様が作り、父があなたの祖母の魂と共に、夢を渡る力をこめてくれたわ。ただし、使うかどうかはあなた次第。夢に見ることがあなたの心を満たさせるとは言いきれないから」

 テッドは静かに首を横に振る。

「ありがたくいただきますが、きっと使わないでしょう。僕はこの胸で思い出を抱いていれば充分です」

 それを聞いたジゼルが、ふっと柔らかく微笑んだ。

「グロリアの指輪の魂も、ナディアの魂も、いずれは生まれ変わる。楽しみね。希望があるから生きていける。死に向かって生きるには、希望がいる。精霊も人もおかしなものだわ」

 彼女はそう言い残し、闇に消えていった。
 ふっと闇が消えた瞬間、辺りはいつもの部屋の光景に戻る。テッドはそれを見届けると、力なく椅子に座り込んだ。ナディアのいない部屋には、夜風が窓を叩き付ける音だけが響いていた。
 やがて、彼は寝台に寝そべり、ただひたすら暗い天井を見上げた。いつもならとっくに就寝している時間だが、今夜は眠れそうになかった。

「僕は生かされてきたんですね」

 思わず独りごちた。
 グロリアの死によって、彼は孤独になったと思っていた。だが、今思えば物憑きの精霊たちの想いを見届けることで、精霊たちはこの心が本当に枯れることから守ってくれていた気がした。そして、なにより、傍にはナディアがいた。

「死に向かって生きるには、希望がいる、か……」

 彼はジゼルの言葉を噛みしめるように呟き、寝返りを打った。
 どんな選択をしても悔いはあるものだ。だが、時間がかかっても、最後には悔いはなかったと言えるように次の選択を重ねていくことが、どの道を歩んできたかよりも重要なことだという気がした。
 グロリアのいない世界は、たとえ墓地を出たとしても、どこまで行っても終焉の地に他ならなかった。けれど、少しでも生きながらえて、グロリアが生まれ変わる瞬間を知れたなら、そのとき自分は本当の意味で解放されるのではないか。
 手の中の札を棚に置くと、彼は祈るように呟いた。

「この心に抱く人たち。どうか、僕を見守っていて。僕はここで生きていく」

 こうして、テッドの本当の孤独が始まった。
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