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精霊の墓守
語り部の取引
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日常というものは退屈だと思えば、だらだら続くものだ。かと思えば、平和で『ずっとこうであればいいのに』と願えば覆される。死者を埋葬し、墓の掃除をして雑草を抜き取るだけのテッドの単調な日常も、例外ではなかった。
ある夜のことだった。テッドは夕食後の習慣として本をナディアに朗読していた。ナディアは読み書きができないが、何故か神話に興味があるようだった。この世には自然それぞれに神々が宿り、そのしもべとして精霊がいるといわれている。彼女はそれを面白いと思っているのか、よくテッドに神話を聞かせてくれとねだるのだった。
「えっと、昨日はどこまで読みましたっけ?」
「冥界の神のところよ」
「あぁ、ダスティン様の神殿に祀られている神ですね。昼は男、夜は女になるなんて、風変わりですよね」
「風変わりだなんて言ったら罰当たりよ。墓守なんだから、もっと冥界の神は敬うべきじゃないの?」
呆れたナディアに、テッドは乾いた笑みを浮かべた。
「僕も父と同じく神など信じません。もし神がいるなら、精霊の哀しい想いはもっと救われていいはずです。持ち主に取り残され、強い想いを抱えたまま彷徨い続ける魂を救わないなら『神』とは呼びたくないですね。さぁ、朗読を始めましょう」
その声には、微かな同情が滲んでいた。物憑きの精霊というのは、人間よりも純粋に想いのまま生きていることを、テッドはよく知っていた。
彼の朗読に耳を傾けるナディアもその一人だった。彼女がどんな想いを受けて生まれたかは一度も口にしたことがなかったが、もしかしたら、神話を聞きたがることが何か関係しているのだろうと、テッドはうすうす勘づいていた。
そのときだった。不意に沸き起こった妙な胸騒ぎが彼の体をびくつかせた。
「どうしたの?」
物語が途切れてしまい、ナディアが不服そうに顔をしかめた。だが、テッドはそれに返事もせず黙って扉を見つめた。
向こうに何かいる。そんな気がしたのだ。
「ねぇ、テッドってば」
ナディアが苛立たしげにテッドを呼んだとき、扉を叩く音がした。次いで、凛とした声が聞こえた。
「セオドアに伝令を」
『セオドア』という名前を耳にした途端、テッドの警戒心が一気に高まり、顔つきが険しくこわばった。
「今、セオドアって言った?」
ナディアも眉根を寄せている。
何故なら、『セオドア』というのは、彼とナディアしか知らないはずのテッドの本名なのだ。死んだ父が家族以外にセオドアの名を明かすことを禁じていたため、あのダスティンすら本名を知らず、『テッド』という愛称でしか呼んだことがないのだった。
テッドは椅子から立ち上がり、扉を睨みつけた。なんとなく空恐ろしい気がして、異常なほどに喉が渇く。
「……誰だ?」
自分でも驚くほど尖った声だった。しかも敬語を忘れていることに、ナディアが目を丸くした。
「テッド、落ち着きなさいよ。殺気は感じないから」
ナディアがなだめると、扉の向こうでまた声がした。
「伝令を持って参った者です」
「答えになっていない」
テッドは苛立ちながら、扉を見据えて呟いた。
「……胸騒ぎがする」
この扉を開けたら最後、今までの自分が壊れてしまいそうな予感が彼を取り巻いていた。来訪者への好奇心と、危惧感が胸の中になだれ込み、戸惑わせる。
しばらく彼らはじっと息を潜めていたが、扉の向こうにある気配は一向に遠ざからない。
テッドは覚悟を決めてこう囁いた。
「ナディア。もし危険なことが起きたら楽器に戻りなさい」
テッドが彼女に命令したのは、これが初めてだった。いつものナディアなら「偉そうに」と怒るところだが、このときは黙ったまま頷いていた。
ゆっくり扉を開けると、そこにいたのは一人の少女だった。
年はテッドと同じくらいに見える。肩には見たこともない珍しい白い鳥を乗せていた。
彼女はふっくらした唇でこう言った。
「私は冥界の精霊。黄泉の帝王から遣わされた者です」
テッドは頭の中が真っ白になり、言葉を失った。いつもの彼なら「新興宗教の勧誘はお断りです」と言い残して扉を閉めるところだが、このときは身動き一つ出来なかった。
何故なら、この少女がナディアに瓜二つだったのだ。すっと鼻の通った顔立ちに、形のよい唇、そして凛とした矢車菊の瞳の色まで同じだった。ただ違うのは、黒髪だというところだけ。ナディアは金髪だが、彼女はまるで闇のような濡れ羽色だった。
テッドが慌ててナディアを見ると、彼女も目を見開いていた。だが、すぐにその眉根がひそめられ、顔つきが険しくなった。
「あなたがセオドア?」
少女はさっきよりくだけた口調で話しかけてきた。
「……はい。あなたは何者ですか?」
彼女は礼儀正しく頭を垂れた。
「精霊の住む冥界からの使者でジゼルといいます。冥界の支配者である黄泉の帝王からの伝言をあなたに届けるために来ました」
「冥界の精霊? 本当にそんな者がいるんですか? まるで神話の世界です」
テッドはちらりとナディアに読み聞かせていた本を盗み見た。しかし、ジゼルは口の端をつり上げ、ナディアを見た。
「物憑きの精霊と暮らしを共にしながら、自然に宿る精霊は信じないんですか?」
「ナディアが見えるんですか?」
テッドは驚きで眉を上げた。物憑きの精霊を知っている者がいるとは、思わなかったのだ。ジゼルは答えず、ただただ穏やかに微笑んでいる。
「まぁ、確かにそこを突っ込まれると何も言えませんね。お話をうかがいましょう」
そう言って、テッドは彼女を中に招き入れた。
何故、自分の本名や物憑きの精霊を知っているのか。そんな好奇心が警戒心に打ち勝った。それに不思議なことに、この少女の瞳を見ていると、何故か強ばった気持ちがほぐれていくのだ。それは彼女の魅力なのか、それともナディアと同じ顔をしているせいか、彼にはわからなかったが。
当のナディアは相変わらず顔を歪ませて、ジゼルを見つめていた。
「私は語り部として生きる精霊です。精霊のあらゆる伝令を担う『伝令の女王』なのです」
ジゼルはテッドが出した茶には一切手を出さずに、そう切り出した。
そして、自然には数多の精霊が宿っていること、それらの精霊は夫々の王に束ねられること、更にその王たちの上には、精霊界に住む四人の帝王と冥界に住む二人の帝王がいることなどをざっと説明する。
「私に伝令を頼んだのは、冥界に住む帝王の一人、パーシヴァルです」
「神話と重なる部分がありますね。冥界の神は夫婦一組だから、神話でも男と女の顔を持つようになったのかな」
テッドは神話の本をぱらぱらとめくり、感心したように呟く。
「人間界に住む精霊は力が弱く、人の目には見えません。ですが精霊の王ともなると力が強いせいか見えてしまいます」
そう言って、ジゼルはナディアを見やった。
「あなたたちに私が見えるのも、私が王の一人だからです。そして、私には物憑きの精霊が見えますが、人間界に住む精霊には見えないでしょう。帝王なら尚更その力は強大です。古代の人々が彼らの奇跡を見かけて伝承したんだと思います」
冥界はすべての魂が還り、また生を授かる場所だと聞き、テッドは思わず物憑きの精霊たちの魂を思い出していた。彼らの魂も、本来は冥界に還るものなのだろうか。そう考えると、ジェニーの『お母さん』の姿がよぎり、切なくなった。
そんなテッドを、ジゼルが射るような目で見る。
「伝言の内容ですが、物憑きの精霊の魂についてです。実は、あなたの集めている魂をこちらにいただきたいのです。その代償として帝王は精霊と同じ寿命をあなたに差し上げるそうですよ」
そう言って、彼女はこう付け加えた。
「精霊の老いる早さは、人間よりも遅いんです」
ではジゼルは見た目よりもずっと年上だということになる。テッドは彼女の年齢を問いただしたいところだったが、ぐっと堪えた。女性に年齢の話をしてはいけないと、ナディアとの生活で嫌と言うほど思い知っていたからだ。
しばらくの間、沈黙の中で思案したテッド返事はこうだった。
「質問が幾つかあります。それに答えていただければ、魂をお渡ししましょう」
彼は脚を組み、ゆっくりとジゼルに切り出す。
「何故、帝王は物憑きの精霊の魂を集めるのか? 何故、あなたはナディアとそっくりなのか? 何故、冥界に全ての魂が還ると言いながら、この魂たちは還らずここに留まるのか? 何故、あなたは僕の本名を知っているのか? この四つです。特に一つ目の質問には必ず答えていただきます。でなければ、大事な魂を渡す訳にはいきません」
指折り数えて呟くように言い、ジゼルの様子をうかがう。
正直なところ、テッドは寿命には興味がなかった。人間というものは、死ぬときは死ぬのだ。だが、彼の『知りたい』という好奇心が疼いてならない。
ジゼルは表情一つ変えずに聞いていたが、やがて小さなため息をついた。
「困りましたね。私の使命は伝えることであって、交渉ではないんですが」
「どこの世界でもタダより高いものはないと思いますよ?」
ナディアが「さすがそろばん頭」と呟いていたが、聞こえない振りをする。
「それにね、物憑きの精霊たちは僕の手の中で魂になったんですよ。責任を感じるじゃありませんか。彼らの魂がどうなるかわからないのに、見知らぬ相手に事情もわからず手渡すなんて、できません」
「……それでは、まずは一つ目の質問にお答えします。そうすれば、帝王との取引に応じていただけますか?」
ジゼルが取引に食いついてきた。テッドは思わずにやけそうになった口元を慌てて引きしめる。
「それが僕の納得する返事であれば。でも、他の質問の答えは?」
「その壺の中にある魂は、帝王との取引の対象になります。ですから私との取引の対象は別なものでお願いしたいのです」
ジゼルがちらりと矢車菊の瞳を輝かせた。
「あなたが寝室に隠し持っている三つの魂を一つ渡してくださるごとに、一つずつお答えしましょう」
心臓を鷲掴みにされたようだった。テッドは特別な思い入れのある三つの魂を、寝室の机の中に隠しているのだ。
「何故、寝室にあるとわかったんです?」
「私も王の端くれですから、気配くらいは感じます」
「しかし、あれは……」
その魂を手放すことは、彼の中にない選択肢だった。けれど知りたいという欲が暴れて止まらない。
そんなテッドを見透かすように、ジゼルが呟いた。
「この答えを知る機会は他にはありませんよ。それに、これは物憑きの精霊のためにもなるでしょう」
「えっ? どういう意味ですか」
ジゼルは答えることはなく、ただナディアに向かってにっこり微笑んだ。ナディアのほうは苦々しい顔をしたままだ。
「それに、セオドア。あなたのためにもなるでしょうし、それはきっと避けられないことでしょう。あなたが天命を果たすために」
テッドは眉根を寄せる。
「その名で呼ぶのはやめてください。普段はテッドと名乗っています。それに、彼女は単なる『物憑きの精霊』ではなく、ナディアという名前があります。僕の家族です」
弾かれたようにナディアがテッドを見つめ、少し表情を緩ませた。
すると、ジゼルは肩をすくめて笑う。
「わかりました。それではテッドとナディア。答えを教える前に、いつもの話し方に戻ってもいいですか? どうも敬語は性に合わないんです」
「どうぞ。話しやすいように」
「……助かるわ。どうも私、女王のくせに堅苦しいのが苦手なの」
そう言うと、彼女はさっきまでの凛とした空気を脱ぎ捨て、無邪気な笑みを浮かべた。
「じゃあ、一つ目の答えを教えるわね。帝王は『傀儡』という魂の容れ物を作ることができるの。その材料の一つが物憑きの精霊の魂なのよ」
「傀儡とは、どのような物なんですか?」
「これよ」
彼女は肩に乗ったままの鳥を撫でた。白い羽と長い尾を持つ鳥が、たき火のはぜる音に似た鳴き声を上げる。
「これが傀儡ですか?」
「魂と使命を帯びた存在よ。ある者は帝王に仕える。ある者は使者の魂を刈り取る。ある者は産まれる者に魂を届ける。物憑きの精霊たちは新しい命に生まれ変わるの。これで、取引に応じてくれる気になった?」
「……そうですね」
テッドは思わず微笑んでいた。物憑きの精霊たちが新しい生で今度は喜びに満ちた日々を過ごしてくれる可能性があるなら、壺の中で永久に眠るよりもずっといいかもしれないと嬉しくなったのだ。
彼は壷の中身をジゼルの差し出した袋にあけた。
「綺麗ね。これだけ輝く魂なら、きっと次の生も懸命に生きてくれるはずよ」
ジゼルは魂を見つめ、感嘆を漏らした。
「傀儡は帝王にのみ与えられる存在なの。きっと大切にされるわ。私は帝王じゃないけど、世界を渡るために、特別にこの子を預かっているのよ」
「何故、あなたは特別なんですか?」
すると、ジゼルがくすっと笑った。
「テッドって、何故何故ばかり言ってるわ」
「それはそうですよ。いきなりこんな新世界の話をされてもね」
「それぞれの世界の間には次元の狭間があるの。そこを渡る案内が出来るのは傀儡だけなの」
何故、傀儡のみが? それにどうやって? そう問いかけようとして、テッドは口をつぐんだ。また『何故』と言うと、笑われそうで恥ずかしかったのだ。
だが、答えはすぐにわかった。ジゼルが目で合図すると、白い鳥が高く鳴き、行灯のように輝き始めた。それと同時に、目の前にどす黒い闇が広がっていく。一寸先も見通せない、漆黒の闇だ。
「これが次元の狭間よ。『神隠しの闇』って呼ぶの。この子がいなければ、神すら迷うわ。傀儡は渡り鳥みたいに本能で渡るのよ」
そう言って、彼女は魂の入った袋を大事そうに抱え、闇に半身を埋める。
「また明日来るわ」
そう言い残し、彼女と白い鳥は闇に消えた。
その途端、広がっていた闇が一瞬にしてなくなり、あとにはいつもの部屋の景色が戻っていた。
「テッド、魂を渡してよかったの?」
ナディアの掠れた声に、テッドは深く頷いた。
「次の生では叶わない想いを抱かずに生きてくれるなら」
ナディアは唇を噛み、俯いていた。そんな様子に、テッドは眉をひそめる。
「ナディア。どうしてあなたは何も話さなかったんです? それに、どうして彼女をあんなに睨んでいたんですか?」
「気に入らないだけよ」
ナディアがそっぽを向いて呟く。それは、彼女が何か隠し事をしているときの仕草だった。
「あの三つの魂も渡しちゃうの?」
「あれは……」
テッドは正直、決めかねていた。その三つの魂は、彼の家族の思い出がつまったものだからだ。それを知っているせいか、ナディアはムキになっていた。
「私、絶対反対だからね!」
「何をそんなに怒っているんですか?」
「だって、それを手放すってことはつまり……」
彼女は最後まで口にできなかった。ただ、涙をこらえていることはテッドにもよくわかった。
「もう寝る!」
いつもより荒々しく光を放ち、彼女は楽器に戻る。
残されたテッドは「おやすみ」と小さく呟き、寝室へ向かった。
机の引き出しを開け、中から螺鈿の小箱を取り出した。蓋を開けると、そこには三つの魂が転がっている。
テッドはじっと魂を見つめ、ため息を漏らした。ジゼルの言葉が頭を渦巻き、離れない。
あの答えを知ることがナディアのためになるのなら、喜んで差し出そうとは思う。だが、彼女はそれを望んでいない。テッドは迷い、そして戸惑っていた。
ナディアとここで静かな日常を送って、やがては自分も冥界に召されていく。それを当然のように信じていたのに、それはもう叶わないのだという気がしていた。
何かが動き出したような、そんな胸騒ぎがテッドをかき乱していた。
ある夜のことだった。テッドは夕食後の習慣として本をナディアに朗読していた。ナディアは読み書きができないが、何故か神話に興味があるようだった。この世には自然それぞれに神々が宿り、そのしもべとして精霊がいるといわれている。彼女はそれを面白いと思っているのか、よくテッドに神話を聞かせてくれとねだるのだった。
「えっと、昨日はどこまで読みましたっけ?」
「冥界の神のところよ」
「あぁ、ダスティン様の神殿に祀られている神ですね。昼は男、夜は女になるなんて、風変わりですよね」
「風変わりだなんて言ったら罰当たりよ。墓守なんだから、もっと冥界の神は敬うべきじゃないの?」
呆れたナディアに、テッドは乾いた笑みを浮かべた。
「僕も父と同じく神など信じません。もし神がいるなら、精霊の哀しい想いはもっと救われていいはずです。持ち主に取り残され、強い想いを抱えたまま彷徨い続ける魂を救わないなら『神』とは呼びたくないですね。さぁ、朗読を始めましょう」
その声には、微かな同情が滲んでいた。物憑きの精霊というのは、人間よりも純粋に想いのまま生きていることを、テッドはよく知っていた。
彼の朗読に耳を傾けるナディアもその一人だった。彼女がどんな想いを受けて生まれたかは一度も口にしたことがなかったが、もしかしたら、神話を聞きたがることが何か関係しているのだろうと、テッドはうすうす勘づいていた。
そのときだった。不意に沸き起こった妙な胸騒ぎが彼の体をびくつかせた。
「どうしたの?」
物語が途切れてしまい、ナディアが不服そうに顔をしかめた。だが、テッドはそれに返事もせず黙って扉を見つめた。
向こうに何かいる。そんな気がしたのだ。
「ねぇ、テッドってば」
ナディアが苛立たしげにテッドを呼んだとき、扉を叩く音がした。次いで、凛とした声が聞こえた。
「セオドアに伝令を」
『セオドア』という名前を耳にした途端、テッドの警戒心が一気に高まり、顔つきが険しくこわばった。
「今、セオドアって言った?」
ナディアも眉根を寄せている。
何故なら、『セオドア』というのは、彼とナディアしか知らないはずのテッドの本名なのだ。死んだ父が家族以外にセオドアの名を明かすことを禁じていたため、あのダスティンすら本名を知らず、『テッド』という愛称でしか呼んだことがないのだった。
テッドは椅子から立ち上がり、扉を睨みつけた。なんとなく空恐ろしい気がして、異常なほどに喉が渇く。
「……誰だ?」
自分でも驚くほど尖った声だった。しかも敬語を忘れていることに、ナディアが目を丸くした。
「テッド、落ち着きなさいよ。殺気は感じないから」
ナディアがなだめると、扉の向こうでまた声がした。
「伝令を持って参った者です」
「答えになっていない」
テッドは苛立ちながら、扉を見据えて呟いた。
「……胸騒ぎがする」
この扉を開けたら最後、今までの自分が壊れてしまいそうな予感が彼を取り巻いていた。来訪者への好奇心と、危惧感が胸の中になだれ込み、戸惑わせる。
しばらく彼らはじっと息を潜めていたが、扉の向こうにある気配は一向に遠ざからない。
テッドは覚悟を決めてこう囁いた。
「ナディア。もし危険なことが起きたら楽器に戻りなさい」
テッドが彼女に命令したのは、これが初めてだった。いつものナディアなら「偉そうに」と怒るところだが、このときは黙ったまま頷いていた。
ゆっくり扉を開けると、そこにいたのは一人の少女だった。
年はテッドと同じくらいに見える。肩には見たこともない珍しい白い鳥を乗せていた。
彼女はふっくらした唇でこう言った。
「私は冥界の精霊。黄泉の帝王から遣わされた者です」
テッドは頭の中が真っ白になり、言葉を失った。いつもの彼なら「新興宗教の勧誘はお断りです」と言い残して扉を閉めるところだが、このときは身動き一つ出来なかった。
何故なら、この少女がナディアに瓜二つだったのだ。すっと鼻の通った顔立ちに、形のよい唇、そして凛とした矢車菊の瞳の色まで同じだった。ただ違うのは、黒髪だというところだけ。ナディアは金髪だが、彼女はまるで闇のような濡れ羽色だった。
テッドが慌ててナディアを見ると、彼女も目を見開いていた。だが、すぐにその眉根がひそめられ、顔つきが険しくなった。
「あなたがセオドア?」
少女はさっきよりくだけた口調で話しかけてきた。
「……はい。あなたは何者ですか?」
彼女は礼儀正しく頭を垂れた。
「精霊の住む冥界からの使者でジゼルといいます。冥界の支配者である黄泉の帝王からの伝言をあなたに届けるために来ました」
「冥界の精霊? 本当にそんな者がいるんですか? まるで神話の世界です」
テッドはちらりとナディアに読み聞かせていた本を盗み見た。しかし、ジゼルは口の端をつり上げ、ナディアを見た。
「物憑きの精霊と暮らしを共にしながら、自然に宿る精霊は信じないんですか?」
「ナディアが見えるんですか?」
テッドは驚きで眉を上げた。物憑きの精霊を知っている者がいるとは、思わなかったのだ。ジゼルは答えず、ただただ穏やかに微笑んでいる。
「まぁ、確かにそこを突っ込まれると何も言えませんね。お話をうかがいましょう」
そう言って、テッドは彼女を中に招き入れた。
何故、自分の本名や物憑きの精霊を知っているのか。そんな好奇心が警戒心に打ち勝った。それに不思議なことに、この少女の瞳を見ていると、何故か強ばった気持ちがほぐれていくのだ。それは彼女の魅力なのか、それともナディアと同じ顔をしているせいか、彼にはわからなかったが。
当のナディアは相変わらず顔を歪ませて、ジゼルを見つめていた。
「私は語り部として生きる精霊です。精霊のあらゆる伝令を担う『伝令の女王』なのです」
ジゼルはテッドが出した茶には一切手を出さずに、そう切り出した。
そして、自然には数多の精霊が宿っていること、それらの精霊は夫々の王に束ねられること、更にその王たちの上には、精霊界に住む四人の帝王と冥界に住む二人の帝王がいることなどをざっと説明する。
「私に伝令を頼んだのは、冥界に住む帝王の一人、パーシヴァルです」
「神話と重なる部分がありますね。冥界の神は夫婦一組だから、神話でも男と女の顔を持つようになったのかな」
テッドは神話の本をぱらぱらとめくり、感心したように呟く。
「人間界に住む精霊は力が弱く、人の目には見えません。ですが精霊の王ともなると力が強いせいか見えてしまいます」
そう言って、ジゼルはナディアを見やった。
「あなたたちに私が見えるのも、私が王の一人だからです。そして、私には物憑きの精霊が見えますが、人間界に住む精霊には見えないでしょう。帝王なら尚更その力は強大です。古代の人々が彼らの奇跡を見かけて伝承したんだと思います」
冥界はすべての魂が還り、また生を授かる場所だと聞き、テッドは思わず物憑きの精霊たちの魂を思い出していた。彼らの魂も、本来は冥界に還るものなのだろうか。そう考えると、ジェニーの『お母さん』の姿がよぎり、切なくなった。
そんなテッドを、ジゼルが射るような目で見る。
「伝言の内容ですが、物憑きの精霊の魂についてです。実は、あなたの集めている魂をこちらにいただきたいのです。その代償として帝王は精霊と同じ寿命をあなたに差し上げるそうですよ」
そう言って、彼女はこう付け加えた。
「精霊の老いる早さは、人間よりも遅いんです」
ではジゼルは見た目よりもずっと年上だということになる。テッドは彼女の年齢を問いただしたいところだったが、ぐっと堪えた。女性に年齢の話をしてはいけないと、ナディアとの生活で嫌と言うほど思い知っていたからだ。
しばらくの間、沈黙の中で思案したテッド返事はこうだった。
「質問が幾つかあります。それに答えていただければ、魂をお渡ししましょう」
彼は脚を組み、ゆっくりとジゼルに切り出す。
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指折り数えて呟くように言い、ジゼルの様子をうかがう。
正直なところ、テッドは寿命には興味がなかった。人間というものは、死ぬときは死ぬのだ。だが、彼の『知りたい』という好奇心が疼いてならない。
ジゼルは表情一つ変えずに聞いていたが、やがて小さなため息をついた。
「困りましたね。私の使命は伝えることであって、交渉ではないんですが」
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「それにね、物憑きの精霊たちは僕の手の中で魂になったんですよ。責任を感じるじゃありませんか。彼らの魂がどうなるかわからないのに、見知らぬ相手に事情もわからず手渡すなんて、できません」
「……それでは、まずは一つ目の質問にお答えします。そうすれば、帝王との取引に応じていただけますか?」
ジゼルが取引に食いついてきた。テッドは思わずにやけそうになった口元を慌てて引きしめる。
「それが僕の納得する返事であれば。でも、他の質問の答えは?」
「その壺の中にある魂は、帝王との取引の対象になります。ですから私との取引の対象は別なものでお願いしたいのです」
ジゼルがちらりと矢車菊の瞳を輝かせた。
「あなたが寝室に隠し持っている三つの魂を一つ渡してくださるごとに、一つずつお答えしましょう」
心臓を鷲掴みにされたようだった。テッドは特別な思い入れのある三つの魂を、寝室の机の中に隠しているのだ。
「何故、寝室にあるとわかったんです?」
「私も王の端くれですから、気配くらいは感じます」
「しかし、あれは……」
その魂を手放すことは、彼の中にない選択肢だった。けれど知りたいという欲が暴れて止まらない。
そんなテッドを見透かすように、ジゼルが呟いた。
「この答えを知る機会は他にはありませんよ。それに、これは物憑きの精霊のためにもなるでしょう」
「えっ? どういう意味ですか」
ジゼルは答えることはなく、ただナディアに向かってにっこり微笑んだ。ナディアのほうは苦々しい顔をしたままだ。
「それに、セオドア。あなたのためにもなるでしょうし、それはきっと避けられないことでしょう。あなたが天命を果たすために」
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「その名で呼ぶのはやめてください。普段はテッドと名乗っています。それに、彼女は単なる『物憑きの精霊』ではなく、ナディアという名前があります。僕の家族です」
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すると、ジゼルは肩をすくめて笑う。
「わかりました。それではテッドとナディア。答えを教える前に、いつもの話し方に戻ってもいいですか? どうも敬語は性に合わないんです」
「どうぞ。話しやすいように」
「……助かるわ。どうも私、女王のくせに堅苦しいのが苦手なの」
そう言うと、彼女はさっきまでの凛とした空気を脱ぎ捨て、無邪気な笑みを浮かべた。
「じゃあ、一つ目の答えを教えるわね。帝王は『傀儡』という魂の容れ物を作ることができるの。その材料の一つが物憑きの精霊の魂なのよ」
「傀儡とは、どのような物なんですか?」
「これよ」
彼女は肩に乗ったままの鳥を撫でた。白い羽と長い尾を持つ鳥が、たき火のはぜる音に似た鳴き声を上げる。
「これが傀儡ですか?」
「魂と使命を帯びた存在よ。ある者は帝王に仕える。ある者は使者の魂を刈り取る。ある者は産まれる者に魂を届ける。物憑きの精霊たちは新しい命に生まれ変わるの。これで、取引に応じてくれる気になった?」
「……そうですね」
テッドは思わず微笑んでいた。物憑きの精霊たちが新しい生で今度は喜びに満ちた日々を過ごしてくれる可能性があるなら、壺の中で永久に眠るよりもずっといいかもしれないと嬉しくなったのだ。
彼は壷の中身をジゼルの差し出した袋にあけた。
「綺麗ね。これだけ輝く魂なら、きっと次の生も懸命に生きてくれるはずよ」
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「傀儡は帝王にのみ与えられる存在なの。きっと大切にされるわ。私は帝王じゃないけど、世界を渡るために、特別にこの子を預かっているのよ」
「何故、あなたは特別なんですか?」
すると、ジゼルがくすっと笑った。
「テッドって、何故何故ばかり言ってるわ」
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何故、傀儡のみが? それにどうやって? そう問いかけようとして、テッドは口をつぐんだ。また『何故』と言うと、笑われそうで恥ずかしかったのだ。
だが、答えはすぐにわかった。ジゼルが目で合図すると、白い鳥が高く鳴き、行灯のように輝き始めた。それと同時に、目の前にどす黒い闇が広がっていく。一寸先も見通せない、漆黒の闇だ。
「これが次元の狭間よ。『神隠しの闇』って呼ぶの。この子がいなければ、神すら迷うわ。傀儡は渡り鳥みたいに本能で渡るのよ」
そう言って、彼女は魂の入った袋を大事そうに抱え、闇に半身を埋める。
「また明日来るわ」
そう言い残し、彼女と白い鳥は闇に消えた。
その途端、広がっていた闇が一瞬にしてなくなり、あとにはいつもの部屋の景色が戻っていた。
「テッド、魂を渡してよかったの?」
ナディアの掠れた声に、テッドは深く頷いた。
「次の生では叶わない想いを抱かずに生きてくれるなら」
ナディアは唇を噛み、俯いていた。そんな様子に、テッドは眉をひそめる。
「ナディア。どうしてあなたは何も話さなかったんです? それに、どうして彼女をあんなに睨んでいたんですか?」
「気に入らないだけよ」
ナディアがそっぽを向いて呟く。それは、彼女が何か隠し事をしているときの仕草だった。
「あの三つの魂も渡しちゃうの?」
「あれは……」
テッドは正直、決めかねていた。その三つの魂は、彼の家族の思い出がつまったものだからだ。それを知っているせいか、ナディアはムキになっていた。
「私、絶対反対だからね!」
「何をそんなに怒っているんですか?」
「だって、それを手放すってことはつまり……」
彼女は最後まで口にできなかった。ただ、涙をこらえていることはテッドにもよくわかった。
「もう寝る!」
いつもより荒々しく光を放ち、彼女は楽器に戻る。
残されたテッドは「おやすみ」と小さく呟き、寝室へ向かった。
机の引き出しを開け、中から螺鈿の小箱を取り出した。蓋を開けると、そこには三つの魂が転がっている。
テッドはじっと魂を見つめ、ため息を漏らした。ジゼルの言葉が頭を渦巻き、離れない。
あの答えを知ることがナディアのためになるのなら、喜んで差し出そうとは思う。だが、彼女はそれを望んでいない。テッドは迷い、そして戸惑っていた。
ナディアとここで静かな日常を送って、やがては自分も冥界に召されていく。それを当然のように信じていたのに、それはもう叶わないのだという気がしていた。
何かが動き出したような、そんな胸騒ぎがテッドをかき乱していた。
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