精霊綺譚

深水千世

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精霊の語り部

天の女帝

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 海の女王の元へ赴いてから月日が経ち、ジゼルは十七になった。
 この数年の間に受けた幾つもの伝令の仕事が、矢車菊色をした瞳に強い光を植え付けていた。父親譲りの艶のある黒髪をなびかせ、かつての母親のように結い上げることなく背中に垂らしている。
 彼女は日々、命とあらゆる感情を運んでいた。これから生まれる者の魂。生を全うし命を終えた魂。そして、伝えたいと願われたあらゆる感情を多くの者へと届けて来た。

 ある日の朝、ジゼルはいつものように父親の傍に佇んでいた。死の鳥を飛ばすべき死者の名簿をもらうためである。

「ジゼル」

 そう呼ぶパーシヴァルの声が固い。

「そろそろ、天の帝王から伝令の仕事が来ると思うのだがね」

 彼の手元には巨大な目録が開かれており、次から次へと死にゆく日が決まった者の名前が浮かんでいく。そして今、彼は一つの名前を食い入るように見つめていた。

「天の天帝グレイの名前がある。今日中にはお隠れになるだろう」

 彼は珍しく険しい顔つきをしていた。

「新しい天帝が決まると、他の帝王に伝令を走らせることになるな」

「わかりました。それでは、近いうちにこの腕輪が光るわね」

 ジゼルが常に身に付けている腕輪は、帝王たちが伝令を頼みたいときに光を発するものだった。
 パーシヴァルが深いため息を漏らし、玉座にもたれかかる。

「そうか。あのグレイ様が……」

 そして、淋しげな眼差しで目録を見つめる。

「黄泉の帝王も因果な天命だ。誰よりも死を一番先に知るというのはやりきれない。だが、死の使いをもたらさなくてはならないお前も辛いのだろうね」

 ジゼルは黙っていた。普段の使命は『天命に従うだけだ』と自分に言い聞かせているが、まだ、自分の大切な者に死の鳥を向かわせたことはなかった。エイモスやイグナスのように、心から愛しく思う者を失う哀しみや痛みを知らない彼女には、どう答えていいかわからなかった。

「……グレイ様のもとへ死の鳥を向かわせます」

 ジゼルは今日死に行く者たちの名簿を手に呟いた。

「私はまだお会いしていなかったわ。残念ね」

 すると、パーシヴァルが苦笑混じりに言った。

「かえってそのほうがよかったかもしれないよ」

「どういう意味でしょう?」

「新しい天の帝王に訊ねてみればわかるだろうさ」

 彼はそう言ったきり、目を閉じた。

「どんな者であれ、一人の存在がいなくなるのは、ぽっかりと穴が空いた気分になるものだな」

「……失礼します」

 ジゼルは礼をし、玉座の間を出る。外ではセシリアが待ち構えていた。

「ジゼル、今日の名簿もまた随分と分厚いね」

 羽音をさせながら、いつものように肩に飛び乗る。

「そうね。また人間界で戦争が起こっているらしいし」

「やれやれ、人間というものは争い事がよほど好きらしい」

「あら、精霊だって争うわ」

「そうだったね。悪気はないよ」

 セシリアが小さく笑う。人間界に行ったこともないくせに、その血のせいかジゼルは人間を庇うところがある。

「セシリア、それよりもグレイ様に死の鳥を向かわせなくてはならないわ」

 天の帝王の名を聞き、セシリアが大きな声を上げた。

「おやまぁ、あの方がとうとう。ご高齢だとは聞いてはいたがね。それはナディアの耳に入っているかい?」

「いいえ、まだね」

「なら、伝令の仕事が入ったときには、一言伝えておくといいだろうよ」

「どうして?」

 肩の上でセシリアはせわしなく頭を振っている。これはセシリアが戸惑っているときの癖なのだった。

「どうしてもだ」

「そう。わかったわ」

 ジゼルは素直に応じた。この白い鳥がこういう風に言い張るときは、間違っていたことがないのだ。

「さぁ、それではお前たち。今日も頼んだわよ」

 エイモスの部屋で、ジゼルはずらりと群れる黒い鳥たちに名簿を読み上げる。死者の名前を挙げるたびに、一羽ずつ黒い鳥が羽ばたいていった。最後に「天の帝王、グレイ」と読み上げると、残った一羽が飛び立つ。それを見送りながら、ジゼルが呟いた。

「私は死神かもしれないわね」

 セシリアが小さく首を横に振る。

「けれど、戻って来た魂はまた生を授かる。お前はそれを届けもする、死神でありながら祝福された者だよ。大抵の者はそれすら知らずに生きているんだからね。もっとも、知らないほうが懸命に生きることもあるだろうが」

「腕輪が光ったら、母上のところへ話に行くわ」

「そうしよう。アレは複雑な顔をするだろうがね」

 セシリアの声に心配そうな気配が滲む。この鳥はナディアがいくら年をとっても、いつまでも彼女の母親なのだった。

 翌朝、ジゼルが目を覚ますと腕輪がキーンと小さな音をたてながら光っている。幾つかある石のうち、金剛石だけが眩しい光を放っていた。

「とうとう来たわね」

 金剛石は天の帝王の象徴だ。ジゼルがそっと石に触れると、頭の中で女の声が響いた。

「伝令の女王に告ぐ」

 ジゼルはじっと黙って、石から響く声を聞いた。しばらくして「かしこまりました。すぐに参ります」と答えると、光がすっと収まり、それきり声がしなくなった。

「セシリア、母上のところへ行きましょう」

 彼女は身支度をすると、止まり木にうずくまっていたセシリアに声をかける。

「今のは、天の帝王からの呼びかけだろう? なんて言ってきたんだ?」

「母上の前で話すわね」

 セシリアが肩に飛び乗ると、ナディアの部屋へ向かう。

「母上、よろしいですか?」

 扉を軽く叩くと、中から「どうぞ」という声がした。

「ジゼル、どうかしたの?」

 出迎えたナディアは部屋の椅子に娘を座らせ、自分も真向かいの長椅子にゆったりと腰を下ろした。

「母上、実はグレイ様がお隠れになりました。私はこれから新しい帝王からの呼び出しに答えて天の神殿へ赴きます」

 そう言うと、ナディアが「まぁ」と小さく呻くように呟き、深いため息をついた。

「新しい帝王はどなたかわかったの?」

 セシリアが首を傾げる。

「天命を授けるお前のほうが知っているんじゃないのかい?」

 すると、ナディアが首を横に振る。

「私の役目は天命を授けるだけ。その魂がどんな名前を授かってどんな生き方をしていくかは、はっきりとはわからないもの。それに、天の帝王の魂を送り出したのは、おそらく先代の女帝よ」

「母上、新しい帝王は女性よ」

 ジゼルが口を開く。

「そう。なんて言ってきたの?」

「葬儀は眷属だけで執り行ったそうよ。即位の式典は執り行わないので、代わりに帝王たちに挨拶状を届けて欲しいって」

「通例だったら、新しい帝王には他の帝王たちが集って祝福を授けるものよ。それをしないのね」

「今度の女帝はそういうものがお嫌いなのかもね」

「名前は?」

「ベアトリスと仰っていたわ」

 それを聞いた途端、ナディアの目が丸くなった。

「ベアトリスですって?」

 驚愕する母親に、ジゼルがきょとんとする。

「母上、ご存知?」

「えぇ! まぁ、ベアトリスが……」

 そう言うと、彼女はなにやら複雑そうな笑みを浮かべた。

「それでわかりました。彼女は私とパーシーに会いたくないでしょうから」

「どういうこと?」

「行けばわかるわ」

 ナディアが苦笑する。

「それでは、すぐに発ちます」

 ジゼルが立ち上がり、部屋を出る。その姿を見送ったナディアが独りごちた。

「私の加護がうまく働いているといいけれど」

 そうして、彼女は美しい矢車菊色の瞳を閉じる。

「ねぇ、リン。彼女が幸せになっているなら、あなたもそうだと信じていいわね」

 そう呟き、口元に少し切ない笑みを浮かべたのだった。

 ジゼルはすぐにセシリアと共に次元の狭間に入っていった。どこまでも暗くひんやりとした闇の中で、ジゼルの声が響いた。

「ねぇ、セシリア。ベアトリス様と母上たちの間で何があったか知ってる?」

 セシリアが頭を横に振る。

「いいや、直接は知らないね。ということは、ナディアが人間界にいたときに何かあったんだろう」

「どんな方でしょうね?」

「さぁ。でも自分の目で確かめる方が早そうだね」

 前方から光が射し込み、次元の狭間の出口が顔を出した。そこから顔を出すと、ジゼルが半ば呆然として肩をすくめる。次元の狭間の出口は、雲の上にあったのだ。

「ねぇ、セシリア。あなた、私を乗せて飛べる?」

「あぁ、私の体が何百倍も大きければの話だがね」

 セシリアが鼻で笑った。
 真っ白な雲は平たく広がり、その果てに何かが小さく光っている。恐らく、あれが神殿だろうとジゼルは途方に暮れた。

「どうせなら神殿の中まで次元の狭間が続けばよかったのに」

「仕方がないだろう。天の神殿に入るにはまずは門番にお伺いをたてるしきたりだ」

 セシリアがなだめるように、長い尾を揺らす。そして、まるで犬の遠吠えのように長く鳴いた。

「そんなふうに鳴くのを初めて聞いたわ」

「これが合図なんでね」

 セシリアが言うや否や、遥か彼方から砂粒ほどの大きさに見える何かが現れた。

「あれは?」

 ジゼルが驚きの声を上げている間に、砂粒のように見えたものがみるみる大きくなる。目の前にそれが止まったときには、実はそれがかなりの大きさであることがわかった。
 目の前に現れたのは、巨体を誇る風の精だった。屈強な体つきで、立派なあご髭を生やしていた。

「偉大なる天の神殿に何用か」

「伝令の女王ジゼルが冥界より天の帝王からの呼びかけに応じ馳せ参じた」

 その途端、風の精が「おおう」と声を漏らす。その目には驚きと喜びが滲んでいた。ジゼルが思わず呆気にとられる。風の精が急に大笑いを始めたのだ。

「おおう、その声! その瞳の色! まさにナディアに瓜二つ。違うとすればその髪の色くらいか」

「母上のことをご存じなの?」

「もちろん知っているとも。ほら、これをご覧」

 風の精は自らの指輪をジゼルの目の前に突き出した。そこにはきつく編んだ金色の髪がはめ込まれている。

「これはナディアの髪だ。いや、今では『ナディア様』と呼ぶべきかな? 彼女は構わないと言いそうだがね」

 誇らしげに彼は指輪を見つめて微笑んだ。

「自慢の品だよ。さぁ、私の肩に乗るといい。すぐ女帝のもとへ連れていってやろう」

「ありがとう。助かるわ」

「なに、それが私の務めだからね」

 風の精は大きな手の平をジゼルの前に差し出した。そこに恐る恐る足を乗せると、彼はジゼルが自分の肩まで移動できるように、手をゆっくりと添えてくれた。ジゼルが肩に座ると、巨体がふわりと動き出す。

「お前が飛ばされないようにゆっくり進もう」

「それは嬉しいわ。私もこの景色をしばらく見ていたいから」

 ジゼルは辺りを見回して胸一杯空気を吸い込んだ。澄んだ空気は冷え冷えとし、どこか薄い。どこまでも広がる空の青は、海の神殿で見た青とはまた違う、淡い色だ。それに真っ白い雲が映え、ジゼルの胸を躍らせた。

「あなたはどこで母上と知り合ったの?」

「まだ彼女が自らの力を知らなかった頃だ。私はその当時、一介の砂漠の風の精でね。雨雲を連れて来るようにナディアに頼まれたことがある」

「あら、そのお話なら聞いたことがあるわ」

 ジゼルが思わず声を弾ませた。

「じゃあ、あなたが雨乞いの儀式のときに出逢った風の精なのね?」

「あぁ。実はこの名誉あるお役目は今日が初日なんだ。初めてこの肩に乗せるのがナディアの娘だなんて嬉しい巡り合わせだ」

「今日から?」

「そう。新しい女帝が即位したとき、任を受けたのだ。彼女もまた、ナディアに恩義があるそうでね、ナディアにかつて助力した風の精には恩寵があったのさ」

「あなたは女帝をご存知だったの?」

「いや、人間界にいた頃は遠くから姿を見ることはあったがね。その頃から遠い存在には違いないのさ。彼女は先代の帝王の娘だからね」

 風の精が話す間に、神殿が徐々に大きくなっていく。

「神殿に着くまでにナディアがどうしているか教えておくれ。我らは噂話が好きなものでね」

「わかったわ」

 ジゼルは鈴が鳴るように笑い、母親がどれだけ幸せに暮らしているかを聞かせたのだった。

 天の女帝の神殿に着いたとき、ジゼルは思わず眩しさに目を細めた。
 目の前にあるのは、雲の上に浮かぶ真っ白い大理石で出来た神殿だった。太陽の光を反射し、まるで巨大な宝石のように輝いている。
 風の精が手の平に移れと促す。そしてゆっくりと神殿の入り口に降ろしてくれた。目の前にあった大理石の扉が音もなく開かれると、入り口から真っ白い絨毯が続いていた。

「この絨毯をたどれば女帝のいる玉座の間に着く」

「ありがとう」

 ジゼルは中に入りかけ、ふと振り返った。

「あなたの名前はなんていうの? 運んでくれたお礼をしなきゃいけないわ。あなたは見返りを求める質でしょう?」

 その言葉が皮肉ではないとジゼルの顔つきから察した風の精が、豪快に笑う。

「礼はいらぬ。これは務めだ。それに名乗るほどの者ではない。ナディアにも名は教えていない。ただ、元気だったと伝えてくれればいいさ」

 そして、その顔から笑みを消し、力づけるように囁いた。

「これから嫌な思いをするかもしれない。けれど、少なくとも私はお前の味方だ。帰りを待っていてあげるから行ってくるといい」

「嫌な思い?」

「あぁ。でも、すべての風の精がそうではないと先に言っておくよ」

「わかったわ」

 一抹の不安が胸をよぎったが、ジゼルが真っ直ぐ歩きだした。セシリアにそっと囁く。

「どこに行っても歓迎されるわけじゃないってことくらいはわかるわ。でもそれは冥界でも同じよね」

「まったくだな」

 セシリアが肩をすくめる。

「人間界でも精霊界でも、同じことさ。だが、あの風の精は優しいね。見かけによらず」

 ジゼルはふっと笑い、神殿を見渡した。神殿の中は至って簡素で、なんの飾りもない。ただ、天窓から射し込む光が絨毯を照らしていた。遠くに巨大な扉が見える。絨毯はそこで途切れているようだった。
 ジゼルがたどり着くと、また扉が音もなく開いた。

「ようこそ」

 扉の向こうに現れた玉座の間に、凜とした声が響いた。
 中央に目映い金剛石の玉座が置かれ、そこに一人の女性が座っていた。麗しい顔立ちとしなるような体で、妖艶な美しさを持つ精霊だった。

「ようこそ、姫君」

 彼女はすっと立ち上がり、優雅な微笑みを浮かべた。衣擦れの音をさせながら歩み寄る足取りが猫のようにしなやかだ。
 ジゼルは天の女帝に見蕩れていた。海の女王の美しさは儚げなものだったが、こちらはもっと芯の強いものだ。そしてなにより妖しく心を惑わす。

「まぁ、本当に母上そっくり。でも父上の面影もあるのね」

 艶やかな唇が懐かしさに笑みを浮かべる。形のよい眉を下げ、細められた目は吸い込まれそうな輝きを宿していた。

「ベアトリス様、このたびは……」

 そう言いかけたジゼルを、白魚のような指が制する。

「いいえ、姫君。堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。私はあなたとお話がしたくてたまりませんの」

 きょとんとしていると、彼女はジゼルの両手をとり、じっくりと顔を見つめた。

「その瞳、その声、その髪。まさしくあのお二人の姫君ね。あなたを歓迎して、祝宴の支度が整っているのよ。是非、パーシヴァル様とナディア様のお話を聞かせてちょうだい」

「ベアトリス様は父や母と既知の仲だとお聞きしましたが」

 ジゼルが問うと、彫刻のような横顔がこくりと頷いた。

「えぇ。私の恩人ですわ」

 ジゼルはナディアが『会いたくはないのだろう』と言っていたことを思い出し、怪訝な顔になった。それなのに、ベアトリスは恩人だと言い切っている。歓迎する姿に偽りはなさそうに見えたが、腑に落ちなかった。

 案内された部屋は決して広いとは言えなかったが、天井が高く開放感で溢れていた。
 壁一面に色とりどりの花々が描かれ、中央にある食卓には輝く銀食器と果物、燭台が並んでいた。その両脇を挟むように贅を尽くした椅子が置かれている。
 女帝は椅子に座るよう促すと、自分はその真向かいに腰を下ろす。すると侍女が音もなくやって来て、細身の盃に淡い桃色の液体を注いだ。

「あなたはお酒ではないから安心してちょうだい」

 猫が喉を鳴らすように目を細め、女帝が笑う。

「私の父の冥福と、私のこれからと、あなたのこれからに祝福を」

 ジゼルの盃が満たされたのを待って、女帝が盃を掲げる。

「永遠の和を」

 ジゼルが応え、二人は盃を傾けた。ほのかに甘く、薫り高い飲み物だが、冥界にはないものだった。
 侍女たちが料理を運んでくるのを横目に、女帝がジゼルに話しかけた。

「あなたは私がかつてどんな存在だったかご存じないのね?」

 ジゼルは黙って頷いた。すると彼女は再び酒で唇を湿らせてから話し出した。

「私のベアトリスという名は生まれたときに授かったものではなく、あとになってナディア様が授けてくれたものよ」

「母上が?」

 目を丸くしたジゼルに、女帝はそっと頷く。

「私は先代の帝王の娘として生まれた明星の精でした。自分を愛してくれない者を愛するという天命を授かっていたのです。愛されたいのに愛されないというものは心を蝕むもので、私は次第に冷たく重い何かで目と心を塞がれてしまった。そして自分が父親から授かった名前など忘れてしまったの」

 セシリアがもの言わず羽をばたつかせた。きっとこの皮肉屋の鳥は、頭の中で「それは御愁傷様」とでも言っているのだろうとジゼルが眉を上げる。ジゼルは侍女の一人が料理を出すのを横目に押し黙っていた。

「そんな私を誰もが『狂い姫』と呼んだわ。そして私は天命通りにあなたの父上であるパーシヴァル様に恋をしました。遠くから闇夜を走り抜ける彼を目で追うだけの実らぬ恋でした」

 彼女に天命を授けたのはジゼルの祖母だ。そしてパーシヴァルを射止めたのは母ということになる。
 ナディアが何故、ベアトリスは自分に会いたくないだろうと口にしたか合点がいった。

「でも、私を救ってくれたのは、恋敵のナディア様だったのです。おかしな定めだと思いますわ。……あぁ、聞きながら召し上がってくださいな」

 女帝は料理が出揃うのを見届け、ジゼルに優しく促す。目の前には色彩豊かな前菜が盛りつけられた皿があった。
 ジゼルが頷こうとした瞬間、セシリアが初めて口を開き、鋭い声を上げた。

「駄目だ! 食べるんじゃない」

 驚いてセシリアを見ると、その羽毛が怒りに膨れていた。

「天の女帝よ、ジゼルをからかっておいでか?」

 押し殺してはいるが、その声は震えている。

「なんですって?」

 女帝が怪訝そうな顔をし、立ち上がった。

「何を一体……」

 そう言いかけた女帝は、ジゼルの皿を見てハッとする。

「人間界のものを食すれば、人間界と同じ老いを身に受ける。ジゼルは確かに人間の血筋だが、その身は精霊界と契約する女王。あなたは冥界の姫に無闇に老いろと仰るか」

 憤慨するセシリアに驚きながら、ジゼルは手元の料理を見た。それは色とりどりの野菜を透明な物体で固めた料理だったが、人間界の食材だとはわからなかった。
 すると、女帝が「ソフィ!」と厳しい声で侍女を呼びつけた。

「いかがなされました?」

 慌ててかけつけたソフィと呼ばれた精霊は、他の侍女とは違う色の服で身を包んでいる。恐らく侍女たちを束ねる身なのだろう。その彼女に、女帝が鋭い口調で言った。

「この料理は誰が用意したのです? お酒以外は、私と同じものを出すように言っておいたはずですよ」

「まぁ! これは人間界の野菜ではありませんか」

 ソフィは両手で口許を抑える。
 ジゼルは胸をえぐられたような鈍い痛みを感じていた。自分はからかわれたのだ。人間の血筋をひく者は精霊にあらず、と。
 やはり女帝は恨みを抱えているのだろうか。それでは、先ほどまでの親密な態度は偽りだったのだろうか。そう、唇を噛み締めたときだ。女帝は美しい顔を歪ませ、激高した。

「この料理は誰が支度したかと訊いている。私はこのような仕打ちを望んではおらぬ!」

「前菜は副料理長が担当しておりました」

 萎縮するソフィに、女帝はぴしゃりと申し付けた。

「そうか、それではその者はこれから三十日の間、食事を禁ずる。すぐに私と同じものを運んできなさい。今すぐに!」

「は、はい!」

 ソフィは慌ててジゼルの料理を下げ、小走りで出て行った。

「申し訳ない。あなたには不愉快な思いをさせてしまったわ」

 女帝が歩み寄り、ジゼルの手をとった。

「先代の帝王は人間が嫌いでした。それで、昔から仕えている者の中にはその影響を強く受けている者がいるの。けれど私はそれを終わりにしたいのです」

「いえ、ベアトリス様。私は慣れておりますゆえ」

 ジゼルがぎこちなく笑うと、女帝は淋しげに首を横に振る。

「慣れてはいけません。痛みに耐えることは必要でも、慣れてしまえば、いつかの私のように大事なものを見失うでしょう」

 女帝は自分の席に戻ると、ゆっくりと話し出した。

「私には姉がいます。虹の女王です。たおやかで優しく、美しい彼女は父親のお気に入りでその愛を一身に受けていました。しかし、父は私には一切近寄らず、顔すら見せませんでした」

 ぽつりぽつりと、屋根から落ちる雨粒のように言葉が漏れ出る。

「あなたは私を美しいと思う?」

 急な問いかけに、ジゼルは頷いた。

「えぇ、とても」

「ありがとう。でも私は一度もそう思ったことはないわ」

 女帝は悲しげに笑った。

「誰もが私を美しいと言ったあとで『姉はもっと美しい』と言うのよ。私は父親に愛されないことを天命のせいだと思うようにしていたわ。けれど、何より姉のせいだという気持ちがどこかにあった。その嫉妬は私に狂気を抱えさせ、歪ませていったの。そんなとき、私はパーシヴァル様をお見かけしたのよ」

 女帝は懐かしむように、目を細めていた。

「闇夜を走り抜ける凛々しいお姿には、僅かながら父に似ていた。でも、愛することへの恐怖が私を襲った。だって、私が父のように誰かを愛すると、その人は自分を愛してくれないとわかっていたのだから」

 切なそうに微笑むと、彼女は言葉を続ける。

「それでもね、恋の炎はままならないものよ。その炎は私の凍えた心を照らし、あたためてくれた。この心に誰かを思い浮かべている間だけは、自分は孤独ではないような気がして、周りが見えなくなった。自分の中で勝手にパーシヴァル様や父の微笑みが私だけに向けられていると信じ、現実を見ることをやめた。そうでなければ呼吸も出来なかった。ところが、そこへナディア様が現れたの」

「母とは人間界で会ったのですね?」

「えぇ。私はかつて、ナディア様を陥れようとしたことがあったの。けれど、そのときナディア様は罰するどころか私に名をくださった。私が自分を愛せるようになるとき、天命は果たされ本当の人生が動き出すのだと仰ってくださった」

 セシリアが料理を出し直す侍女を目で追いながら歌うように言った。

「天命は避けられぬ指針。けれど、それにどう向き直っていくかで人生は決まる。それがナディアの心得ですからね」

「そう、それまでの私は天命に支配されていたのです。私は自分を愛することなど、そのときまで考えたこともなかった。でも、気がついたのです」

 女帝がにっこりと微笑んだ。

「父は父なりに私を愛していた。私の天命を知ったとき、父はひどく激昂したそうよ。そして私がその天命に怯えないよう、自分を愛さなくなるように仕向けてわざと冷たくあたっていたの。パーシヴァル様が私を選ばなかったことにもひどく怒っていたけれど」

 くすくすと笑い、彼女は頬杖をついた。

「父の愛もまた、歪んでいたかもしれないわ。けれど、愛する者に愛されない苦しみから逃げたくなる気持ちはわかる。私が天命の呪縛から解き放たれたとき、父はそれでもナディア様を恨んだ。人間嫌いというのもあるけれど、私の想い人を攫ってしまったという逆恨みでね。でもね、私はそれでよかったと思うの。だって、きっと私は自分には絶対に手に入らない存在だから惹かれたんでしょうから」

 女帝はジゼルに盃を掲げる。

「その頃、みんなが私を『狂い姫』と呼んだけれど、狂気のない者などいるのかしら? 恋とは狂気をくべて燃やすものなのに。私はそう思っていたわ」

 ジゼルも新しい皿に手をつけながら、じっとそれを聞いていた。

「恋の火を消すことは誰にもままならぬ。うねる火は、この心に彼の影を落としてくれる。それだけが私の孤独を拭う。私が私でいられるのはこの火があるから。でもねぇ、あなたもそうじゃない?」

 ジゼルの脳裏に咄嗟に浮かんだのは、あの鉄紺色の魂だった。

「わかりません」

 ジゼルがぼそりと呟く。

「確かに私には心の支えになっている存在がいます。けれど、会ったこともなければ、何故自分がそうまで魅かれるかもわからない。ただわかることは、自分の孤独に負けそうだからといって会うのなら、私は何かを失うのだということです」

 すると、女帝が笑う。

「安心したわ。あなたなら、きっと大丈夫よ。あなたは誰かの想いを伝えてばかりいるけれど、あなた自身はどんな想いを伝えるのかしらね」

「私には伝えたい想いはありません」

 すると、女帝が「まぁ」と目を丸くし、袖で口許を隠しながら笑う。

「あなたはまだ恋を知らないのね。恋の炎というものは嫌でもその身を焦がすものよ。夏の虫のように燃え尽きてしまうとしてもね。私はあなたの天命を知らないけれど、あなたが『伝えたい』と願うとき、本当の意味で蛹から蝶になる予感がするわ。女にしかわからぬ勘ですけれどね」

 そう話す女帝は、思わず吸い込まれそうな妖しい目つきをしていた。ジゼルはまだ見ぬ世界がそこにあるような気がして、ただただ気圧されていた。
 食事が終わると、女帝は幾つかの書簡をジゼルに手渡す。

「これを、それぞれの帝王に届けてくださる?」

「確かに承りました」

 ジゼルが懐にしまうのを見届け、ベアトリスが頬に口づけを落とした。

「見守っていますよ。あなたは私が恋した者と、私に名と道をくれた者の子です。とても感謝していると伝えてくださる? ……パーシヴァル様は今でもやはり私を許せないでしょうけれど」

 女帝が躊躇いがちにジゼルの手をとる。

「それでもこのベアトリスは、精霊が抱える人間への侮蔑をなくすべく動こうとしています。それがパーシヴァル様とナディア様への償いと信じて」

「必ず、伝えましょう」

 ジゼルの肩に乗ったセシリアが羽をばたつかせる。恐らく、心の中で「忙しくなるね」とでも言っているのだろう。
 女帝はジゼルを見送りながら小さく手を振っていた。

「また会いましょう、伝令の女王。今度は女同士の話が出来るといいわね」

 苦笑しつつ、ジゼルは待っていた風の精の手のひらに乗り込んだ。

「どうだったかね?」

 風の精はジゼルたちを運びながら、心配そうに言った。

「少し意地悪をされたけれど、素敵な女帝のおかげで快適だったわ」

 ジゼルが笑うと、風の精がため息を漏らした。

「やっぱり、嫌な思いをしたんだね。可哀想に。天の眷属は先代の帝王を敬愛していたせいか、人間嫌いがとても多いんだ。俺は馬鹿げたことだと思っているがね。新しい女帝がそうでないなら安心したよ」

「あなたは私がなんらかの仕打ちをされるんじゃないかって心配してくれたのね? ありがとう」

「俺には何もしてやれないがね」

 ふんと鼻を鳴らし、風の精は次元の狭間の前で止まった。

「さぁ、お別れだ。また会えるといいがな」

「ねぇ、一つ頼まれてくれる?」

「なんだ?」

「女帝にお願いがあるの。私に意地悪した副料理長への罰は三十日から三日にしてあげてって、そう伝えてくださる?」

 すると、風の精が豪快に笑う。

「伝令はお前の仕事だろうに」

「あら、本当ね」

 無邪気に笑うジゼルに、風の精がぐっと声を落として囁いた。

「見返りはもらうがいいか?」

「えぇ、もちろんよ」

 そう言ってジゼルは風の精に手招きをする。顔を寄せた風の精の鼻の頭に短い口づけを落とした。

「これがお礼よ」

 すると、風の精がジゼルの腹に響くほどの大声で笑う。

「これは参った! お前は母親よりも上手だな。さらばだ、伝令の女王。ナディアのように、我ら風の精のように自由に生きなさい」

「いいえ、さようならとは言わないわ。またね、優しい精霊」

 次元の狭間の闇に身を染めながら、ジゼルはセシリアに笑う。

「天の眷属って甘えべたね。あの風の精だって、本当は見返りを求めてなかったと思うわ。ただ別れが惜しかっただけって顔をしていたもの」

「天の眷属は気ままなだけさ。あまり他の者の様子をうかがわない。その心は広いけれど移ろいやすい。まるで空のようにね」

「そうかもしれない。けれど、空に浮かぶ太陽のように確かなものを持つときは、美しいわ」

 ジゼルの声はしみじみとした響きで闇に溶けていった。

 冥界に戻ると、ジゼルは真っ先に玉座の間に向かった。そこではちょうど両親が水鏡の前に並んで立っていた。

「ただいま戻りました」

 頭を垂れると、パーシヴァルが苦笑していた。

「水鏡で見ていたよ。ご苦労だった」

「それでは話が早いわ。どうぞ」

 ジゼルは天の女帝からの書簡を差し出す。パーシヴァルは手を伸ばすのを一瞬躊躇ったが、ゆっくりと受け取った。

「私は彼女がしたことは決してなかったことにはしないがね、許そうとは思う。あの出来事があったからこそ、今こうしてナディアといられるのかもしれないからね」

 苦笑する夫に、ナディアが頷く。

「私が彼女に名をあげたことは、衝動的にしてしまったことよ。何度もそれでよかったのか心苦しくなったことがあるわ。でも、それも今日でお終いね。あのとき、同じ場所で加護を授けた者がもう一人いるけれど、きっと彼も変わっているでしょう」

 そこには、心からの安堵が滲んでいた。
 すると、セシリアが長い尾を鞭のように振った。

「さぁ、ジゼル、ぐずぐずするんじゃない。さっさと帝王たちに書簡を届けに行かねば」

 パーシヴァルが手で白い鳥を制する。

「あぁ、そのことなんだが、火の女帝は神殿にはいらっしゃらないだろう。彼女は今、神界にいるからね」

「神界?」

 ジゼルは思わず叫んでしまった。
 精霊界には六人の帝王たちがいるが、彼らのみが足を踏み入れることを許される場所がある。それこそが神界と呼ばれる、三柱の神が住む世界だ。

「どうしよう。神界に行けるのは帝王だけなんでしょう?」

「いいえ、正確に言えば誰でも行けるのよ。ただ、大昔の帝王たちが勝手にそう取り決めただけ」

 素っ気なく答えるナディアに、パーシヴァルがたしなめるような視線を送る。

「もっと正確に言えば、帝王の持つ使い鳥がいなければ行けないし、神々に無闇に接触して何かあってはならないという戒めと慣しだ」

 そしてぼやくように呟く。

「まったく、お前のあけすけな物言いには、いつもハラハラさせられる」

 意に介さない様子で、ナディアが肩をすくめた。

「火の女帝の役目の一つが、神界を照らすかがり火を絶やさないようにすること。それで、彼女はほとんどを神界で過ごすのよ」

 パーシヴァルが言葉を続けた。

「それに、彼女の火の力は強すぎるから、少しでも精霊界や人間界と離れていたほうがいいのだよ。多すぎる火はときに困りものだ。それでも人間界で戦火が絶えないのは哀しいことだけれど」

「でも、一番哀しいのは、強すぎる力を持ったために孤独な彼女だわ」

 ナディアが淋しげに笑う。少しは身に覚えがあるのだろう。

「ジゼル、その書簡を届けるときに、それぞれの帝王たちから神界に入る許可をいただきなさい。特例として許していただけるようにね」

 パーシヴァルが凛とした声で命じる。

「わかりました」

「それでは私たちも支度しよう。頼んだよ、ナディア」

「えぇ」

 パーシヴァルとナディアが揃って玉座の間を出て行くのを、ジゼルが見送りながら囁いた。

「ねぇ、母上に何を頼むの?」

 すると、白い鳥が笑う。

「代筆さ。我らが黄泉の帝王は悪筆を気にしてらっしゃる」

「まぁ」

 ジゼルは思わず吹き出した。
 ひとしきり笑うと、ジゼルは傍らの水鏡に目を奪われた。水面には何も映していないが、ゆらりゆらりとさざ波を立てている。
 その真っ暗な水面に自分の顔を映し、ジゼルが呟いた。

「ベアトリス様は立派な女帝になれるかしら?」

「さぁね。それこそ神のみぞ知るだ。だが、孤独な者への憐憫を身を以て知ったのだ。よい女帝になるんじゃないだろうかね」

 ふと、ジゼルは鉄紺色の魂に想いを馳せた。

「あの魂は孤独なのかしら?」

 なんとなく、そう呟いたときだ。水面が力強く揺れ、鈍い光を放った。
 光は次第に薄れ、代わりにうら若き男と女の姿を映し出した。二人ともまだどこかあどけない顔つきだ。男は亜麻色の柔らかそうな髪で、とても柔和な顔つきをしている。彼の翡翠色の瞳が傍らの少女を見つめているのを見て、ジゼルは咄嗟に悟った。……彼が、鉄紺色の魂の持ち主だ、と。
 何故かわからないが、彼から懐かしいものを感じ取ったからだ。
 そして彼と手をとり合っている女は、どこか儚げで可愛らしい顔立ちをしていた。墨色の髪を優雅に巻き、露草の色に似た瞳で男を見つめ返している。
 ジゼルは思わずその場を走り去った。

「ジゼル! どこへ行くんだ?」

 セシリアが呼び止める声は、彼女の耳に届かなかった。廊下を走り抜け、ジゼルは自分の部屋に逃げるように駆け込んだ。途中で数人とすれ違った気がするが、それが誰かなど覚えてもいない。彼女は夢中で鍵をかけると、寝台にうつ伏せになる。

 ジゼルは髪をかきむしる。腹の底から重たいものが蛇のように頭をもたげ、心にからみつくようだ。体が熱く、息が出来ない。

「あぁ」

 ジゼルが思わず呻き、その目から一筋の涙が溢れた。頭の中でベアトリスが『これは嫉妬なのだ』と、声高に笑っていた。
 ジゼルの心に身を焦がすような火が灯った。その火は影を生み、皮膚の下ぎりぎりまで侵して冷えていく。
 手を伸ばしたい者の手が、既に他の手を掴んでいたことが、彼女に初めて孤独を教えたのだった。
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