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精霊の吟遊詩人
明星の涙
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部屋に現れた闇の柱は、なめらかに縮んで消え去った。そこに立っていたのは、闇の色をした瞳に悦びを宿したパーシヴァルだった。
「パーシーと呼んだな、ナディア」
彼ははにかむように笑う。だが、ナディアの膝にもたれてすすり泣くリンを見つけると顔を歪ませた。
「そいつは俺がぶっ飛ばしてもいいのか?」
「駄目よ。この人は私の恩人だから」
途端に不機嫌になるパーシヴァルに、ナディアが笑う。
そのときだった。
「パーシヴァル様!」
明星の精が喜びに身を震わせた。あの狂気に歪んだ顔が恍惚とし、乱れた髪をそのままにパーシヴァルにすがりつく。
「お前は『狂い姫』? 何故、ここにいる?」
『狂い姫』が、目を見開くパーシヴァルの胸に手を滑らせながら涙を流す。
「あぁ、あぁ……お会いしとうございました」
パーシヴァルの眉間にしわが寄った。
「離せ」
「またそのような……いつでもつれないのね。私が空に出れば、あなたは去ってしまう。私が空を去れば、あなたは出てくる」
媚びた声色で彼女はしなだれ、熱のこもった目でパーシヴァルを見上げた。
「いつもそう。憎らしい人。愛しい闇の王」
パーシヴァルの目が冷えきった色を帯びる。ナディアが聞いたことのない感情のこもらぬ声がした。
「明けの明星が出れば夜は終わる。宵の明星が出れば夜が始まる。ただの天の理に過ぎない」
彼は『狂い姫』を乱暴に押し戻した。
「『狂い姫』よ、お前の仕業なのだな。俺はお前がナディアにした仕打ちを許しはしない」
怒りのこもった目だが、『狂い姫』は怯えるどころか、感極まるように彼を見つめていた。自分を抱きしめるように腕をまわし、歓喜に身もだえている。
「あぁ、嬉しい。その闇の瞳に私を映している!」
「理解できないな」
パーシヴァルはうんざりすると、ナディアに大股で歩み寄った。
「で、お前はいつまで呑気に座っているんだ? また簡単にさらわれやがって」
「しょうがないよ。薬で足も腕も麻痺してるから」
そう言うナディアに、パーシヴァルが眉を上げた。
「……それで、俺も触ったことのないお前の膝の上で泣いているこいつは?」
不機嫌な声で、パーシヴァルがリンの肩をぐっと引き寄せた。
リンは虚ろな目に涙を浮かべ、ただただ子どものように泣きじゃくっている。彼の青空の目は今、何も映していない。
「こいつ、お前の初恋の相手だな」
パーシヴァルの顔が歪むのを見て、ナディアが眉を下げた。
「明星の狂気にさらされた、哀れな私の友人だ。パーシヴァル、嫉妬するなら目を閉じてて」
そう言うと、彼女は手に力を入れた。全身を走る痺れに「くっ」と短い声が漏れ、唇をきつく噛む。
手足を動かそうとするたびに、目眩と強い吐き気がする。だが、ナディアは諦めなかった。大きく震えながら、乱暴に手すりを掴み、今度はもう片方の手を押し上げる。痛いくらいの痺れに、気が遠くなりそうだった。
パーシヴァルは目を瞑ることはなく、黙ってその様子を見守っていた。
「ちょっと、何をする気なのよ?」
明星の精がナディアに詰め寄ろうとした。だが、パーシヴァルの冷たい目がそれを制する。
「じっとしてろ。俺も見届けているんだ」
やっと上体を起こして立ち上がろうとしたが、足は地面にあるはずなのに、感触がない。汗がじわりとこみあげてきた。大きく体が揺れ、どさりと椅子から転げ落ちる。
「おい、大丈夫か」
手を出そうとしたパーシヴァルに、ナディアは目で「大丈夫」と制する。
リンは感情のない目でナディアを呆然と見ていた。必死に手を伸ばし、リンの肩を掴む。震えながら、ナディアはリンの顔を引き寄せた。
「リン、よく聞いてね」
彼の額に、自分の額を寄せる。かつて父がそうしてくれたように。
「辛かったね。あんたには誰もいなかったんだね」
自分にはセシリアがいた。愛情が欲しいと、この手を差し出す相手がつかの間でもいたのだ。
だが、彼の周囲の人々はそんな機会すら与えてくれなかったのだろう。だから、彼は手を差し出すことすら諦めてしまった。ナディアの膝に涙が落ちた。
「馬鹿だなぁ。あのときの私は、あんたの手が伸びるのを待ってたのに」
ナディアの体を包む闇が踊った。まるで跳ねるように大きくなり、ナディアとリンを炎のように音もなく取り巻いていた。
パーシヴァルは、まるで夜の湖に浮かぶ月影のようだと思いながら、じっとその闇を見つめていた。闇なのに、何故か眩しい気がするのだ。
「あんたは私の瞳で呼吸してたって言ってたけどね、私はあんたのその青空みたいな瞳から光を浴びてた」
ナディアの声が震えた。涙が音もなく、とめどなく、その頬を濡らしていった。
「湿った日陰みたいな施設の中で、あんたの瞳だけは、私に光をくれた。きっと、私が光を求めたのは、私が闇に染まっているからよ」
ナディアが泣き笑いしながら囁く。
「闇だから、光を求めたんだ。闇は光があるからこそ、闇になれる。あの頃の私はあんたがいたから、私でいられた。だから誰にも屈しなかったんだと思うよ」
ナディアはリンの青空のような瞳を覗き込む。
「あんたは眩しかったよ。私はあんたに助けられたんだ。今度は私が助ける番だね」
ナディアは自分が自分でないような感覚に襲われた。
不思議と、心が落ち着いている。どこかから、『彼に新しい天命を』という静かな声が繰り返し聞こえてくる。
「お前に枯れぬことのない愛を。愛し、愛されることの幸せを。お前とその子孫がこれからは私たちのような想いを知らぬよう」
心に浮かぶまま、ナディアはそう口にした。
ナディアの言葉が溢れるたび、彼女の口から闇がこぼれていく。それはまるで、彼女が発する言葉自体が闇をまとっているかのようだった。ナディアから溢れる闇は、揺らめきながらリンの口に向かっていく。
「お前を愛してくれる人はいるよ。少なくとも、私は見守っているからね」
最後の闇がリンの口に呑み込まれると、ナディアは彼の頬に口づけをする。
「お前に愛に満ちた天命を」
その瞬間、リンは意識を手放し、その場に倒れ込んだ。
咄嗟にパーシヴァルが駆け寄り、ナディアを両腕で包み込む。
「お前、今、自分が何をしたかわかってるか?」
「わからない。ただ、心の声に従っただけだ」
ナディアが朦朧としながら囁いた。どっと重い疲れが彼女を襲っていた。
「今の力は『時の女帝』の言霊と天命を司る力だ」
パーシヴァルの声が震えた。ナディアを抱きすくめ、その髪に顔を埋める。
「お前は……」
そのあとは言葉にならなかった。彼は泣くのを堪え、ナディアを抱きしめる腕に力をこめた。
ナディアはぼんやりした頭でパーシヴァルの囁く声を聞く。
「お前の加護はすべて解けたんだ。俺の加護だけじゃない。『時の女帝』によって授けられた加護までも。そして、お前は天命を果たしたんだ」
「嘘よ!」
そう叫んだのは、『狂い姫』だった。
「そんな小娘が『時の女帝』ですって? パーシヴァル様の妻になるっていうの?」
パーシヴァルがナディアをかばうように抱きかかえる。明星の精は目を血走らせ、よろめいている。
「どうして? 私は誰にも愛されないのに。なのに、どうしてその小娘は愛されるの?」
ナディアが哀れみに満ちた目で呟いた。
「お前はセシリアと逆なんだよ」
吟遊詩人の後ろ姿が、ナディアの脳裏に浮かんだ。
「セシリアは盲目だった。だけど、心の目は開いていた。だから、彼女にはすべてが見渡せたんだ。愛に飢えた私の痛みも、苦しみも。だけど、お前は違う。その目は開いているけれど、何も見ようとしていない。心の目が愛されぬ不安に怯えて閉じているから」
ナディアの闇が再び沸き起こり、音もなく『狂い姫』を取り囲んだ。
「何よ、何をするのよ?」
『狂い姫』は自分を取り囲んでいく闇を見回し、怯え切った声で叫んだ。
「どうして、みんなで私をいじめるのよ? 私はただ愛されたいだけなのに!」
喚くように泣き出す様はまるで幼い子どものようだ。ナディアの目に憐憫が浮かぶ。
「目を開けてごらん。お前の周りには愛してくれる誰かがいるはずだ。だけど、お前は遠くばかり見て、誰も見えていない。お前の『自分を愛さない者を愛する』という天命はそういう意味だ。お前は天命のままに生きているだけなんだよ」
時の女帝の天命は必ず訪れる。だが、それからどう生きるか、その天命にどう足掻くかは、己次第なのだ。天命でその一生は決まらない。決めるのは他でもない自分自身の選択の連続であり、そうして抗うことが『生きる』ということではないかと、ナディアには思えた。
ナディアはまるで子を諭すように、『狂い姫』に話しかけた。
「お前はまず、自分を愛さなければならない。目を開けて、自分を真正面から受け止めてごらん。愛することは、決して怖くないんだ」
『狂い姫』はがくりと膝をつき、うわずった声で泣き出した。
「どうしていいか、わからないのよ。この心に誰かがいる間だけは、私は独りじゃない気がした」
ナディアがそっとリンを見た。
「そうか。だから、リンはお前に引き寄せられたんだな」
「そうよ。その子は私と同じ。だから、ずっとその子に私と同じ狂気を囁いたの」
ぽつりと言った彼女はひどく小さく見えた。
「恋の狂気は私を独りにしない。この心に誰かの影をくれるから。だけど、その影ばかり見ている間に、私は自分の名前すらわからなくなった」
「では、名前をあげよう」
ナディアの闇が、螺旋を描いて『狂い姫』を包む。
「自分を愛さない者が、どうして誰かを愛せる? その心に誰かの姿ばかり映さず、自分を強く持て」
セシリアの教えを口にする彼女は、目を細める。
「誰もが独りなんだよ。独りだからこそ繋がるんだ。自分があるから誰かがある。きっと、誰かがお前の名を呼んでくれるはずだよ。だから、耳を塞がずにいるんだよ」
そして、こう告げる。
「明星の精、ベアトリス。お前が愛されることを知る日がくることを願っているよ」
その途端、ナディアの闇が明星の精の口に滑り込む。ベアトリスと呼ばれた『狂い姫』はふっと苦悶の表情を和ませ、床になだれ込むように倒れてしまった。
「加護を授けたのか」
パーシヴァルがナディアを驚きの目で見下ろしていた。
「わからないよ、何を言っているのか」
ナディアは苦笑いする。頭が重い。目眩がして、世界が回って見えた。だが、心だけは夜の森のように静かだった。
気を失いながら、彼女は庭の矢車菊が風に吹かれてざわめく音を聞いた気がした。
リン、好きだったよ。だけど、さようなら。私の居場所はここじゃない。私がいるべきなのは……。そう心の中で囁くが、声にならない。
パーシヴァルの声が遠くに聞こえる中、ナディアは意識を手放した。
「パーシーと呼んだな、ナディア」
彼ははにかむように笑う。だが、ナディアの膝にもたれてすすり泣くリンを見つけると顔を歪ませた。
「そいつは俺がぶっ飛ばしてもいいのか?」
「駄目よ。この人は私の恩人だから」
途端に不機嫌になるパーシヴァルに、ナディアが笑う。
そのときだった。
「パーシヴァル様!」
明星の精が喜びに身を震わせた。あの狂気に歪んだ顔が恍惚とし、乱れた髪をそのままにパーシヴァルにすがりつく。
「お前は『狂い姫』? 何故、ここにいる?」
『狂い姫』が、目を見開くパーシヴァルの胸に手を滑らせながら涙を流す。
「あぁ、あぁ……お会いしとうございました」
パーシヴァルの眉間にしわが寄った。
「離せ」
「またそのような……いつでもつれないのね。私が空に出れば、あなたは去ってしまう。私が空を去れば、あなたは出てくる」
媚びた声色で彼女はしなだれ、熱のこもった目でパーシヴァルを見上げた。
「いつもそう。憎らしい人。愛しい闇の王」
パーシヴァルの目が冷えきった色を帯びる。ナディアが聞いたことのない感情のこもらぬ声がした。
「明けの明星が出れば夜は終わる。宵の明星が出れば夜が始まる。ただの天の理に過ぎない」
彼は『狂い姫』を乱暴に押し戻した。
「『狂い姫』よ、お前の仕業なのだな。俺はお前がナディアにした仕打ちを許しはしない」
怒りのこもった目だが、『狂い姫』は怯えるどころか、感極まるように彼を見つめていた。自分を抱きしめるように腕をまわし、歓喜に身もだえている。
「あぁ、嬉しい。その闇の瞳に私を映している!」
「理解できないな」
パーシヴァルはうんざりすると、ナディアに大股で歩み寄った。
「で、お前はいつまで呑気に座っているんだ? また簡単にさらわれやがって」
「しょうがないよ。薬で足も腕も麻痺してるから」
そう言うナディアに、パーシヴァルが眉を上げた。
「……それで、俺も触ったことのないお前の膝の上で泣いているこいつは?」
不機嫌な声で、パーシヴァルがリンの肩をぐっと引き寄せた。
リンは虚ろな目に涙を浮かべ、ただただ子どものように泣きじゃくっている。彼の青空の目は今、何も映していない。
「こいつ、お前の初恋の相手だな」
パーシヴァルの顔が歪むのを見て、ナディアが眉を下げた。
「明星の狂気にさらされた、哀れな私の友人だ。パーシヴァル、嫉妬するなら目を閉じてて」
そう言うと、彼女は手に力を入れた。全身を走る痺れに「くっ」と短い声が漏れ、唇をきつく噛む。
手足を動かそうとするたびに、目眩と強い吐き気がする。だが、ナディアは諦めなかった。大きく震えながら、乱暴に手すりを掴み、今度はもう片方の手を押し上げる。痛いくらいの痺れに、気が遠くなりそうだった。
パーシヴァルは目を瞑ることはなく、黙ってその様子を見守っていた。
「ちょっと、何をする気なのよ?」
明星の精がナディアに詰め寄ろうとした。だが、パーシヴァルの冷たい目がそれを制する。
「じっとしてろ。俺も見届けているんだ」
やっと上体を起こして立ち上がろうとしたが、足は地面にあるはずなのに、感触がない。汗がじわりとこみあげてきた。大きく体が揺れ、どさりと椅子から転げ落ちる。
「おい、大丈夫か」
手を出そうとしたパーシヴァルに、ナディアは目で「大丈夫」と制する。
リンは感情のない目でナディアを呆然と見ていた。必死に手を伸ばし、リンの肩を掴む。震えながら、ナディアはリンの顔を引き寄せた。
「リン、よく聞いてね」
彼の額に、自分の額を寄せる。かつて父がそうしてくれたように。
「辛かったね。あんたには誰もいなかったんだね」
自分にはセシリアがいた。愛情が欲しいと、この手を差し出す相手がつかの間でもいたのだ。
だが、彼の周囲の人々はそんな機会すら与えてくれなかったのだろう。だから、彼は手を差し出すことすら諦めてしまった。ナディアの膝に涙が落ちた。
「馬鹿だなぁ。あのときの私は、あんたの手が伸びるのを待ってたのに」
ナディアの体を包む闇が踊った。まるで跳ねるように大きくなり、ナディアとリンを炎のように音もなく取り巻いていた。
パーシヴァルは、まるで夜の湖に浮かぶ月影のようだと思いながら、じっとその闇を見つめていた。闇なのに、何故か眩しい気がするのだ。
「あんたは私の瞳で呼吸してたって言ってたけどね、私はあんたのその青空みたいな瞳から光を浴びてた」
ナディアの声が震えた。涙が音もなく、とめどなく、その頬を濡らしていった。
「湿った日陰みたいな施設の中で、あんたの瞳だけは、私に光をくれた。きっと、私が光を求めたのは、私が闇に染まっているからよ」
ナディアが泣き笑いしながら囁く。
「闇だから、光を求めたんだ。闇は光があるからこそ、闇になれる。あの頃の私はあんたがいたから、私でいられた。だから誰にも屈しなかったんだと思うよ」
ナディアはリンの青空のような瞳を覗き込む。
「あんたは眩しかったよ。私はあんたに助けられたんだ。今度は私が助ける番だね」
ナディアは自分が自分でないような感覚に襲われた。
不思議と、心が落ち着いている。どこかから、『彼に新しい天命を』という静かな声が繰り返し聞こえてくる。
「お前に枯れぬことのない愛を。愛し、愛されることの幸せを。お前とその子孫がこれからは私たちのような想いを知らぬよう」
心に浮かぶまま、ナディアはそう口にした。
ナディアの言葉が溢れるたび、彼女の口から闇がこぼれていく。それはまるで、彼女が発する言葉自体が闇をまとっているかのようだった。ナディアから溢れる闇は、揺らめきながらリンの口に向かっていく。
「お前を愛してくれる人はいるよ。少なくとも、私は見守っているからね」
最後の闇がリンの口に呑み込まれると、ナディアは彼の頬に口づけをする。
「お前に愛に満ちた天命を」
その瞬間、リンは意識を手放し、その場に倒れ込んだ。
咄嗟にパーシヴァルが駆け寄り、ナディアを両腕で包み込む。
「お前、今、自分が何をしたかわかってるか?」
「わからない。ただ、心の声に従っただけだ」
ナディアが朦朧としながら囁いた。どっと重い疲れが彼女を襲っていた。
「今の力は『時の女帝』の言霊と天命を司る力だ」
パーシヴァルの声が震えた。ナディアを抱きすくめ、その髪に顔を埋める。
「お前は……」
そのあとは言葉にならなかった。彼は泣くのを堪え、ナディアを抱きしめる腕に力をこめた。
ナディアはぼんやりした頭でパーシヴァルの囁く声を聞く。
「お前の加護はすべて解けたんだ。俺の加護だけじゃない。『時の女帝』によって授けられた加護までも。そして、お前は天命を果たしたんだ」
「嘘よ!」
そう叫んだのは、『狂い姫』だった。
「そんな小娘が『時の女帝』ですって? パーシヴァル様の妻になるっていうの?」
パーシヴァルがナディアをかばうように抱きかかえる。明星の精は目を血走らせ、よろめいている。
「どうして? 私は誰にも愛されないのに。なのに、どうしてその小娘は愛されるの?」
ナディアが哀れみに満ちた目で呟いた。
「お前はセシリアと逆なんだよ」
吟遊詩人の後ろ姿が、ナディアの脳裏に浮かんだ。
「セシリアは盲目だった。だけど、心の目は開いていた。だから、彼女にはすべてが見渡せたんだ。愛に飢えた私の痛みも、苦しみも。だけど、お前は違う。その目は開いているけれど、何も見ようとしていない。心の目が愛されぬ不安に怯えて閉じているから」
ナディアの闇が再び沸き起こり、音もなく『狂い姫』を取り囲んだ。
「何よ、何をするのよ?」
『狂い姫』は自分を取り囲んでいく闇を見回し、怯え切った声で叫んだ。
「どうして、みんなで私をいじめるのよ? 私はただ愛されたいだけなのに!」
喚くように泣き出す様はまるで幼い子どものようだ。ナディアの目に憐憫が浮かぶ。
「目を開けてごらん。お前の周りには愛してくれる誰かがいるはずだ。だけど、お前は遠くばかり見て、誰も見えていない。お前の『自分を愛さない者を愛する』という天命はそういう意味だ。お前は天命のままに生きているだけなんだよ」
時の女帝の天命は必ず訪れる。だが、それからどう生きるか、その天命にどう足掻くかは、己次第なのだ。天命でその一生は決まらない。決めるのは他でもない自分自身の選択の連続であり、そうして抗うことが『生きる』ということではないかと、ナディアには思えた。
ナディアはまるで子を諭すように、『狂い姫』に話しかけた。
「お前はまず、自分を愛さなければならない。目を開けて、自分を真正面から受け止めてごらん。愛することは、決して怖くないんだ」
『狂い姫』はがくりと膝をつき、うわずった声で泣き出した。
「どうしていいか、わからないのよ。この心に誰かがいる間だけは、私は独りじゃない気がした」
ナディアがそっとリンを見た。
「そうか。だから、リンはお前に引き寄せられたんだな」
「そうよ。その子は私と同じ。だから、ずっとその子に私と同じ狂気を囁いたの」
ぽつりと言った彼女はひどく小さく見えた。
「恋の狂気は私を独りにしない。この心に誰かの影をくれるから。だけど、その影ばかり見ている間に、私は自分の名前すらわからなくなった」
「では、名前をあげよう」
ナディアの闇が、螺旋を描いて『狂い姫』を包む。
「自分を愛さない者が、どうして誰かを愛せる? その心に誰かの姿ばかり映さず、自分を強く持て」
セシリアの教えを口にする彼女は、目を細める。
「誰もが独りなんだよ。独りだからこそ繋がるんだ。自分があるから誰かがある。きっと、誰かがお前の名を呼んでくれるはずだよ。だから、耳を塞がずにいるんだよ」
そして、こう告げる。
「明星の精、ベアトリス。お前が愛されることを知る日がくることを願っているよ」
その途端、ナディアの闇が明星の精の口に滑り込む。ベアトリスと呼ばれた『狂い姫』はふっと苦悶の表情を和ませ、床になだれ込むように倒れてしまった。
「加護を授けたのか」
パーシヴァルがナディアを驚きの目で見下ろしていた。
「わからないよ、何を言っているのか」
ナディアは苦笑いする。頭が重い。目眩がして、世界が回って見えた。だが、心だけは夜の森のように静かだった。
気を失いながら、彼女は庭の矢車菊が風に吹かれてざわめく音を聞いた気がした。
リン、好きだったよ。だけど、さようなら。私の居場所はここじゃない。私がいるべきなのは……。そう心の中で囁くが、声にならない。
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