精霊綺譚

深水千世

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精霊の吟遊詩人

矢車菊の恋

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「ねぇ、ナディア」

 リンが傍にあった安楽椅子に身を委ねた。ゆらりと彼の体が振り子のように揺れ、膝の上で手を組む。その手の甲は骨張っていて、少年時代よりずっと大きくなっていた。

「君は知っていたかな? あの施設に来る者は身寄りのない子だけじゃない。僕や君のように押しつけられた子もいれば、売られた子もいる。それを施設長は子どもが欲しい大人にもっと高値で引き渡すんだ」

 遠くを見るような目つきになる彼を、ナディアは黙って聞いていた。先ほど流れた涙のあとが、頬を突っ張らせていた。

「あそこにいる子どもたちは、誰もが死んだ魚のような目だった。僕は気持ち悪くて堪らなかったよ。酔って僕を殴り飛ばしていた父さんにそっくりの目だったからね」

 そう言って、彼は上着の右袖をまくって見せた。そこには白い傷跡が無惨に残っていた。

「割った酒瓶で殴られて血まみれになった夜、母さんはとうとう僕を手放した」

 泣いているように見えた。だが、彼の青空のような瞳から涙という雨が降ることはなかった。

「あそこの子どもたちに囲まれていると、僕は狂いそうだった。父さんの目に囲まれているようでね」

 そう言うと、リンは揺れの小さくなった安楽椅子を、もう一度大きく揺らす。

「でも、そんなとき、君が来たんだ」

 何故か彼は急に笑い出す。

「君は変わっていたね。君はあの施設でただ一人、燃えるような目をしてた。誰とも打ち解けようとせず、ぽつんとしてるくせに、『私は独りじゃない』って顔をしてた」

「……そんなことないわ。私は独りだった」

「いいや。君はいつも誰かを見てたし、誰かと話してた。それが誰かは知らないさ。君は空想癖だったかもしれない。だけど、僕は羨ましてたまらなかった」

「この私が?」

 精霊の声が聞こえるせいで、自分はあの仕打ちをされてきたと思ってきた。彼らの声が聞こえなければ、違う人生があったはずだと、ずっとやりきれなかった。だがリンにとっては、その精霊と話す自分が羨ましかったというのか。
 彼には驚かされてばかりだった。ナディアは四肢だけでなく、自分の感情までもが麻痺してきたように感じる。驚きに支配され、力が抜けていくのだ。
 だが、逃げ出そうとしない理由はそれだけではなかった。見届けなければならない。何故、リンが変わったのか知りたい。その気持ちのほうが大きかった。

「少なくとも周囲の死んだ魚の目が息苦しい僕よりは、施設で呼吸できているように思えたんだ。でも、君は屋根裏部屋に移された」

 ナディアは苦い記憶がじわじわと蘇り、思わず唇を噛んだ。

「するとどうだろう。あんなに淀んでいた子どもたちは、目を生き生きさせて君をいじめだした。濁った魚の目に炎を灯して」

 リンの声には怒りよりも嫌悪が滲んでいた。

「僕はあいつらと同類になりたくなかった。かといって、何もせずに見ているだけの臆病者にもなるのも嫌だった。だって、そいつらは僕を殴る父さんを見て見ぬ振りする母さんと同じ目をしていたんだ」

 彼は天を仰ぐ。

「だけど、かといって君の前に立ってかばう英雄にもなれない。僕は自分が大嫌いだったよ」

「そんなことないわ。私には救いだった」

 掠れる声が思わず口をついて出た。再びこぼれ出した涙の雫が、膝に染みを作った。

「会えるだけで嬉しかったの」

 そう、それは確かにナディアの束の間の安楽。そして、初恋だったのだから。

「僕はね、君に食べ物を持っていくことで、自分を助けていたんだよ」

 彼は自嘲する。

「父さんや母さんみたいになりたくないくせに、英雄になれない僕が、自分で自分に言い訳するために。だけど、そのうち君の屋根裏部屋だけが僕をほっとさせると気づいたんだ」

 リンの視線が真っ直ぐにナディアの目を射抜いた。まるで猫が獲物を見ている目だ。

「君のその矢車菊の目だけは、どんなことをされても、何にも屈しない。奴らに媚びるわけでもなく、じっと耐えていた。その目は紛れもなく僕の理想だった。強くて、真っ直ぐで、嘆くことはあっても、誰かのせいにしないんだ」

 それは違う。ナディアは心の中で叫んでいた。
 精霊のせいだとずっと呪ってきた。けれど、心のどこかでは、おかしいのは自分なのだとわかっていた。
 では誰のせいにしろというのだろう。こうして生まれついた自分以外、呪えないじゃないか。

「君の部屋に通っていることは、他の子どもたちに密告されたんだよ。施設長に殴られた夜、また部屋に行こうとしたところを見つかって、納屋に閉じ込められたよ。その間に彼はさっさと僕の里親を探してしまったんだ」

 リンは寒々しい笑みを浮かべた。

「僕の里親はこの町の老いた町長夫妻だったんだけど、子どもがいなかった。とても優しい人たちだったよ。だけど、僕は絶望したんだ」

 彼は自嘲し、ナディアを見つめる。

「君を連れて行けなかったからでも、助けられなかったからでもない。もう君の瞳を見れないことに絶望したんだよ。だって、僕は君の瞳を見る事でやっと呼吸してたんだ。あの息苦しい施設の中で」

「でも、リンは施設を出られたわ。絶望なんてしなくていいじゃない」

 だが、彼はゆっくりと首を横に振る。

「この町も施設と同じだ。そりゃ、みんな優しかったよ。でもね、息苦しいには違いない。次期町長として望まれた姿、望まれた行動を僕はすぐに察してしまった。そして、それを演じることでしか、生きられないと悟ったんだ。僕は息が出来なかった。出来なくて、出来なくて、君が恋しくて」

 リンがゆっくりと立ち上がる。部屋の奥にある大きな両開きの扉に向かっていた。その隙間から夕暮れの光が差し込んでいる。
 彼は黙ってその扉を押し開けた。そこに広がっていたのは、広大な中庭だった。そして一面に矢車菊の群れが鮮やかに広がっている。

「最初はこれで満足だったんだ。矢車菊を見ている間だけは、君を思い出せた。だけど花は枯れてしまうからね。僕は陶磁器を作り始めた。君の瞳の色はなかなか出せなくて、苦労したんだよ」

 外から入り込むひんやりした風が、ナディアの足を撫でた。だが、身に走る悪寒は外気のせいではなかった。

「結局、僕は君の瞳を表現しきれていない。正直、ゴードンにだってこの陶磁器を全部くれてやっても悔いはない。君の瞳じゃなきゃガラクタだ」

 リンがそっとナディアの前に歩み寄り、跪いた。ナディアの手をそっと両手で包み、青空の瞳で嘆願するように見上げる。

「だから、僕は君を捜したんだよ。そして、あの火山の街で描かれた姿絵を見つけた。お願いだから、ここにいてよ。君がいればいいんだ。誰にも渡さなければいいんだ。それに気づくのに何年かかったんだろう」

 戸惑いがナディアの視線を泳がせた。

「何かが違う。そう、違う。こんなのリンじゃない。そんなの私を求める理由にならない。だって、私の胸はちっとも踊らない」

 そのとき、ふと脳裏に浮かんだのは、パーシヴァルの姿だった。彼に求められたときの胸の高鳴りを思い出し、ナディアがリンを見据える。

「駄目よ。私、行かなくちゃ。動けるようになったら、出発するわ」

「どうして?」

 リンの目が見開かれ、その唇が微かに震えている。

「どうして僕を見捨てるの?」

「見捨てるんじゃなくて……」

「見捨てるんじゃないか!」

 叫び声にも似た怒号に、ナディアの肩が震える。
 リンは勢いよく立ち上がり、煙の消えた香炉を床に投げつけた。派手な音と共に粉々に飛び散り、灰が舞った。
 唖然とするナディアを、彼は大きく肩で息をしながら見下ろしている。

「行かせない。行かせない。行かせない」

 そのときだった。ぶつぶつと繰り返しているリンの脇から、女の声が聞こえた。

「そうよ、リン。行かせちゃ駄目」

 聞き覚えのある声色に、ナディアの眉が吊り上がる。

「可哀想に。貴方は独りになりたくないだけなのにね。大丈夫よ。彼女さえいれば、貴方はもう楽になる」

 ナディアの顔が歪む。リンの傍らに滑るように舞い降りたのは、紛れもなく明星の精『狂い姫』だった。
 全身が怒りでわななき、体中の毛が逆立つようだった。

「この嘘つきめ。この体が動くなら、その頬を思い切り、はり倒してやるのに」

 唸るように言い、ナディアは切れそうなほど唇を噛んだ。

「お生憎様」

 そう笑う『狂い姫』は、戦慄を覚えるほどの美貌の持ち主だった。流し目が妖しく、血のように輝く赤い唇をしている。その腰は柳のようにしなっていた。
 彼女は今まさにリンの頭に手を回し、するりと伸びて裾から露になった白い足を、リンの体に蛇のように絡めていた。そして、耳元でぞくぞくするほどの艶やかな声で囁く。

「可哀想なリン。ずっと独りなのね。この子を手に入れない限り、お前はずっと独り」

 次第にリンの目が虚ろになっていく。口が半開きになり、ぶつぶつと「行かせない」とばかり繰り返している。
 ナディアが驚きのあまり目を丸くした。

「リンには精霊の声は聞こえないはずなのに」

 すると、『狂い姫』が切れ長の目で彼女を一瞥する。

「あなた、知らないのね。天の眷属は人の心を揺らがせるの」

 明星の精は見せつけるようにリンの半開きの唇に口づけをした。生々しい湿った音をたて、あざ笑うように言う。

「私は王ほどの力を持たないけれど、人の心を惑わせる」

「……それがどうした。私は揺るがない」

 ナディアが毅然と言い放った。

「私は戻る」

 その刹那、リンは勢いよくナディアの膝に頭を埋めてすがりついた。みるみるうちに膝が濡れていく。部屋中にリンの嗚咽が響いた。

「頼むよ、ナディア! 行かないで。独りにしないで! お願いだよ!」

 ナディアの胸が衝かれた。その言葉を、自分もかつて吟遊詩人に言ったことがあった。あのときの痛みが、まざまざと甦る。リンは子どものようにしゃくりあげて泣いていた。手が行き場を求めるように、ナディアの腕や膝を彷徨う。
 その狂気とどこまでも冷たい孤独が自分を求めるリンの手を通して伝わり、気が遠くなるようだった。
 ゴードンに触られたとき、彼女を支配したのは嫌悪だった。だが、どうだろう。今は言い知れぬ恐怖だけが彼女を動けなくしてしまっていた。肌にリンの手が重なるたび、体温が奪われていく気がした。
 パーシヴァルが自分に触れたときは、そんなことを微塵も感じたことはなかったのに、リンには巨大なうねる狂気を見た気がした。
 『狂い姫』が猫のようにリンの脇に滑り込む。

「そうよ、リン。絶対にこの子をあの男に渡しちゃ駄目。いい? 絶対によ」

 『あの男』という言葉に、ナディアが眉根を寄せた。

「それは、パーシヴァルのことか?」

 その瞬間、『狂い姫』の美しい顔が醜く歪んだ。

「気安く呼ばないで! 私の、私のパーシヴァル様よ!」

 彼女は唇を噛み、呻くように「あぁ!」と苛立たしげな声を上げた。

「どうして? どうしてなのですか、パーシヴァル様。こんな小娘をお傍に置くなんて!」

 ナディアは願うことならパーシヴァルを今、思い切り殴りたい気分になった。彼女は天命のことで恨んでいるのではなく、むしろ天命通り、彼女を愛することのないパーシヴァルに想いを寄せているのだ。
 『狂い姫』の変わりようは凄まじかった。

「あの方の傍に相応しいのは私! あの声で囁いていいのは私! あの手が触れていいのは私!」

 『狂い姫』は先ほどまでの婀っぽい姿をかなぐり捨て、髪をかきむしり、金切り声を上げている。

「なのに、どうしてお前なのよ。どうしてお前なんかが当然のように傍にいるの?」

 頭を振り、千切れそうな声を上げる。

「あぁ、リン! 私たちは仲間よ。お前はこの娘を絶対に離しては駄目。私があの方を求めるように、お前の狂気もこの娘を欲しているんだから。強く願って叶わないことなどないのよ、リン!」

 高笑いする『狂い姫』の姿に、ナディアはパーシヴァルの言葉を思い出していた。

『闇の王でもすべてが思いのままにはならない。人の心なら尚更』

 自分を願い、求め、そして自らも怯えながら、歩み寄ろうとしてくれた彼はそう言った。
 ナディアは膝の上で泣き続けるリンをそっと見下ろした。
 リンはあどけなかった頃のパーシヴァルと同じく、求め、拒まれる恐怖から逃げ出したままなのだ。あの施設を出た日から、いや、もしかしたらもっと前から、心を寄せ合って、手を差し伸べる勇気を持てなかった。
 結局、『狂い姫』もリンもパーシヴァルも、そして自分もみんな、確かな誰かに愛されたいのだ。
 だが、願うだけでは狂気に蝕まれるだけ。だが、少なくともパーシヴァルは違っていた。そして、そのことを自分に教えてくれた。
 ナディアはこの状況で自分の口許に笑みが浮かんでいくのが不思議だった。だが、止められない。闇の向こうにパーシヴァルがいると思うと、怖くないのだ。
 そう思った瞬間、ナディアの体の芯がぐっと熱くなる。不意に、ゆらりとその身から闇が湧き出した。膝で泣きじゃくるリンは気づいていないが、『狂い姫』は闇の気配に身を震わせ、ナディアを振り返った。
 わななく声が赤い唇から漏れる。

「どういうことなの? 何故、人間のお前から精霊の闇が?」

 ナディアの心は驚くほど凪いでいた。陽炎のように揺らぐ闇を見つめ、そっと微笑む。闇はそれに応えるように彼女の腕を滑り、指先を伝って跳ねた。
 怖くない。ナディアは心の中で無意識にそう呟いていた。あれほど畏怖を感じていた闇がちっとも怖くはないのだ。それどころか人肌に触れたような安心感まである。
 この闇は自分を守ってくれるパーシヴァルと繋がっている証だとわかってしまった今、この闇を恐れる理由などないのだ。
 かつての自分は、わからなかったから怖かったのだ。いつ山が火を吹くのか怯える人々のように。雨がいつ降るか待ちわびる人々のように。自分が愛されるか、誰かを愛せるかわからず、孤独にもがくように。ここにいる誰もが、そうだったように。
 ナディアは目を閉じる。闇を通じて、パーシヴァルの闇がどこにあるのか伝わって来る。

『ナディア。俺を呼べ。ナディア!』

 闇の向こうからそう聞こえた気がした。

「何なのよ、それ!」

 『狂い姫』の叫び声がナディアを我にかえした。見ると、彼女は今にも泣き出しそうな顔をして、傍目にもわかるほど震えていた。

「どうしてお前なんかがパーシヴァル様と同じ闇を持っているの? 人であって人にもなれぬ、お前のような小娘が!」

「そうだね。私はきっと、どちらでもないんだろう」

 ナディアはぽつりと肯定した。人であって人にもなれない。それはずっと、胸の底にしまいこんで見ない振りをしてきたことだ。口に出してしまったらすべてが壊れる気がして言えなかった。

「だけど、どちらでもないということは、どちらでもあるということでもあるんだよ」

 彼女は強く目を閉じ、左胸が踊るのを感じていた。

「私はこう生まれてよかったと、今初めて思う。だって、パーシヴァルと共にあるんだから」

 その名を口にした途端、闇が跳ねるように荒く動き出す。

「来て……パーシー」

 その瞬間、部屋の隅に鈍い音がし、巨大な闇が火柱のように立った。

「ひぃっ!」

 『狂い姫』が思わず悲鳴を上げる。
 だが、ナディアは穏やかに目を細めていた。闇からはパーシヴァルの匂いがし、その向こうで安堵と歓喜が渦巻いていたからだった。
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