三つの色の恋愛譚

深水千世

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第三部 琥珀色の明日

第4話 埋まらずの席

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「ただいま」

 そう言ったところで返事はない。わかりきっているけど、ついつい口走ってしまう。

 琥珀亭のあるアンバービルの二階と三階は四部屋のアパートになっている。昔は二階に凛々子さんとお袋が、三階には親父と大地君が住んでいたらしい。けれど今では二階の一部屋に親父とお袋が住んで、その隣は俺一人だ。親子三人で住むには狭いからね。俺が高校にあがった頃に、そう決まった。

 凛々子さんがかつて暮らしていた部屋は、今では俺の部屋だった。三階の二部屋の住人もいい人ばかりだけど、あまり深くは付き合ってない。両親は四時からもう仕事に入るから、俺はいつも一人で夕飯を作って食べていた。冷蔵庫から昨日作った煮物を取り出し、冷凍しておいたご飯を温める。その間にみそ汁を作った。まぁ、簡単なものだけどね。一応自炊は出来てる。

 はっきり言ってお袋の料理は大雑把だ。親父のほうが上手い。だけど俺の料理の腕だって負けてない。チェロ講師をしながら小料理屋を営む大地君仕込みだからね。俺がみそ汁をすすっていると、携帯電話が鳴った。親父だ。仕事中に電話してくるなんて珍しい。そう思って出ると、親父が相変わらず柔らかい声で出た。

「澪、帰ってるか? お凛さんはどう?」

 親父も俺が凛々子さんのところに通っているのを知っているせいか、ちょっと心配そうに言った。

「元気だったよ。電話なんて珍しいね。どうしたの?」

「店のラップが切れちゃってさ。悪いけど、持ってたら貸してくれる?」

「あぁ、買い置きがあるから持って行くよ」

「助かったぁ。お礼に一杯ごちそうしてやるよ。ウーロン茶だけど」

「はいはい。まったく、しょうがないな」

「あはは、ごめんよ」

親父って、どこか幼いんだよな。俺のほうがしっかりしてるんじゃないかってときが多々あるよ。俺は急いで残りのご飯をかっこんで、みそ汁で流し込む。台所から新品のラップを手にして、扉を出た。琥珀亭に顔を出すのは、久しぶりだった。

「澪、ありがとう」

 琥珀亭に行くと、親父がほっとした顔でラップを受け取った。

「レモンがひからびるところだったよ」

「大げさなんだよ」

 俺が苦笑していると、常連さんらしき二人連れが俺を見上げて顔を輝かせた。

「お、もしかして澪君?」

 誰だっけ? そう思いながら頭を下げる。

「こんばんは」

「そうか、あの澪君がこんなに大きくなったかぁ」

 懐かしそうに目を細めてくれるのは有り難いんだけど、見覚えがない。困り果てた俺を見かねたお袋が、笑いをこらえながら手招きした。

「澪、こっちにおいで」

 俺はカウンターの端から二番目の席に座らされた。

「お凛さんはどう?」

 お袋まで同じことを訊いてくる。この二人にとっても、彼女は特別ってことだ。ウーロン茶を出してくれたお袋に、俺は頷いて見せた。

「うん、相変わらずだったよ。居眠りしてたけどね」

「そう。元気ならいいわ」

 ほっとしたように微笑むと、お袋は常連客へ体を向けた。取り残された俺は、ぼんやりと隣の席を見る。誰も座らないカウンターの一番奥の席には赤い蝋封のバーボンが置かれ、目の前に季節の花をいけた花瓶がある。使われていない綺麗な灰皿があり、その横にはハイライトとライターが置いてある。そこは、凛々子さんの特等席だった。置かれたままの酒や煙草が、主の帰りを待っているかのように見えた。親父とお袋は、彼女が飲めなくなった今でも、その席に誰も座らせない。古株の常連たちも、それを承知している。メーカーズマークというらしいバーボンは、最後に彼女が飲んで以来、ただの一度も蓋を開けられたことがないそうだ。

 幼い頃、凛々子さんは俺をここに連れて来てくれたことがある。あれは開店と同時だったかな。子守りを頼まれてはいるんだけど、どうしても一杯だけ飲みたいって笑ってたっけ。俺がいるからハイライトは吸わなかったけど、彼女はお袋が出した琥珀色の酒を一杯だけ美味そうに飲んでいた。アルコールを堪能する顔は、音楽に酔いしれる顔に似ていたと思う。

 俺、あのとき思ったんだ。俺もバーテンダーになって、凛々子さんにこんな顔をさせてみせるって。本当はずっと前から、自分の道は見えていたのかもしれない。心のどこかで『俺にできることって他にないの?』って気にはなっていたけどね。

 けれど、響歌の言葉が俺を迷わせた。

「そこにレールがあるからって、ほいほい乗るなんてつまらない男ね」

 意地になってると言われれば、それまでかもしれない。けれど、彼女に言われた言葉で俺のレールは一気に行き先を増やしてしまった。

 あれ以来、俺はあらゆる職業と資格に関する本を読みあさった。自分が『これだ』と思えるものを探し求めて。だけど、見つからないまま時間だけが過ぎた。両親にはバーテンダーになりたい気持ちを正直に言えない俺が居た。なんだか気恥ずかしいし、それでいいのか迷ってるってことは尚更言えなかった。だってさ、全身全霊こめてバーテンダーとして生きる二人にそんなこと言ったら、いくらなんでも失礼だもんな。バーテンダーと他の道を秤にかけてるなんて。

 俺は少し離れた席に座る女性客と話す親父を見やった。『とりあえず大学には行くよ』とだけ言った俺に、親父は困ったように眉を下げたっけ。

「若い頃の俺に似ちゃったんだなぁ」

 親父も熱中できるものが見つからなくて、なんとなく大学に進んで、なんとなく卒業したらしい。だけど、この店とお袋に出逢った。今では自他ともに認めるお酒マニアだし、お袋とも相変わらず仲がいい。ちょっと頼りない親父だけど、羨ましいよ。熱くなれるものに出逢えたんだから。

 そう思っていると、親父と女性客の会話が耳に入って来た。どうやら彼女には悩み事があるらしい。柔和な顔で聞いていた親父は、にっこり笑ってカクテルを作り出した。

 俺の目が吸い込まれる。彼の顔が瞬時に引き締まり、今まで見たことがない真剣さを醸し出していたからだ。なのに、口許と目の柔らかさはそのままで、女性客はすがるように親父を見ていた。シェーカーを振る親父はかっこ良かった。グラスを差し出す姿は自信に溢れていたけど、嫌味でもなく。

 カクテルを口にした女性客に笑みがこぼれる。親父が慈しむように何か言っていた。彼女は子どものように頷き、穏やかな顔をした。俺は人知れず感嘆の吐息を漏らした。そうだ、凛々子さんとここに来た日も、俺はこんな光景を見た。こんな人との繋がりを持てるっていいなって思ったんだ。あれから何年経っても、その気持ちが消えていなかった。俺はそのことに唇を噛み締めていた。いつか凛々子さんが言っていた言葉を思い描きながら。

『澪や、お前の名前はバーテンダーにぴったりだね』

 俺の澪という名が意味するものは水路と船の航路だ。お客さんはまるで船だ。ふらりとやってきて、水路をゆく。ときには航路を見失う人もいる。船はバーという澪を渡り、ほっと一息ついてまた旅立つ。迷う船には新しい水路を気づかせることすらもある。お前の澪っていうのは、そんなバーに相応しい名前だよと、凛々子さんはそう言った。そのとき、きっと彼女の頭の中にはバーテンダー姿の俺がいたと思う。だからかな。無性に凛々子さんに会いたい。

 俺は女性客が帰ったあとで、親父にこう言った。

「親父、何も訊かずに俺にバーテンダーの服を貸してくれ」

 親父とお袋は顔を見合わせたが、にっこり微笑んでくれた。
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