三つの色の恋愛譚

深水千世

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第一部 緋色の瞬間

第2話 恋に落ちて

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 彼が連れて行ってくれたのは小料理屋だった。『大地』と書かれた白木の看板は上品で綺麗だった。店の中も看板の印象通りに落ち着いていて、粋なたたずまいだ。

「お待たせ致しました」

 目の大きい男の子が、次々に料理を運んで来る。

「大地、平日なのに店に出てるんだね」

「はい、親父がちょっと腰を痛めてるんで、手伝いです」

 暁さんはかなりの常連らしく、店の男の子と仲睦まじく会話していた。

「では、ごゆっくり」

 大地と呼ばれた男の子が、私に無邪気な笑顔を向けてくれた。眩しい笑顔に、思わずぺこりと頭を下げる。

 視線がそのまま料理に移る。美味しそうで上品な料理ばっかり。もうこの角煮なんて、いかにもとろけそう。お刺身だって、そこにある生け簀の魚を捌いたんだろうな。

 なのに、食欲がまったくない。目の前の暁さんに萎縮している自分がいた。私はこっそりため息をついた。せっかく美味しそうな料理なのに。
 そんなことを考えていると、暁さんが私のおちょこに日本酒を注いでくれた。

「あ、すみません!」

 慌てて彼のおちょこに注ごうとすると、彼は手で制して笑った。

「いいよ。今日は俺がもてなす側だから」

 そして、日本酒を入れたおちょこを持って私に向ける。思ったより骨張って大きな手だ。おちょこがすごく小さく見えた。

「乾杯。『エル ドミンゴ』へようこそ」

「よろしくお願いします」

 日本酒は辛口で美味しかった。けれど、飲んでも飲んでも酔えない。酔える訳がない。だって、めちゃくちゃ緊張してたんだもの。

「あの、訊いていいですか?」

 美味しそうに料理をついばむ暁さんに、私はおずおずと話しかけた。

「なに?」

「どうして私をスカウトしたんですか?」

「あぁ、うん」

 暁さんは噛み切れない蛸を日本酒で呑み込んで、ニッと笑う。

「君が面白いこと言ってたから、気に入ったんだ。それだけ」

「面白いことなんて言ってました?」

 思わず眉根が寄る。あの店に行ったのは、昨日が初めてだった。信吾と他愛もない話ばかりしてた気がするけど......。

「うん。話題の引き出しが多くて、バーテンダーに向いてそうだなって思ったし」

 確かに、引き出しは多いかも。映画、音楽、本、ピアノ、英語......好きなものなら枚挙に暇がない多趣味人間だからね。履歴書の趣味の欄には無難にピアノって書いたけど、本当は多趣味って書きたかったし。

「それに小気味いいよね。『死にたい』奴ほど『生きたい』って言葉、気に入ったな」

 暁さんが声に出して笑った。ふぅん。何が気に入られるかわからないもんね。

「一番気に入ったのは、アレだな」

「何ですか?」

「腹を据えろって件」

 なんだか、昨日のキスを思い出してしまった。その話をしているときは、あんなことになるとは思ってなかったのに。

「想い続けて奪い取るか、新しい恋を探せか......」

 彼は頬杖をついて、私を見透かすように見る。

「確かにそうだけどね。君、恋してないでしょ?」

「へ?」

 呆気にとられると、暁さんが笑った。

「いや、あんまり客観的に言うもんだから、そんな気がしてね」

「恋は捨てたばかりでした」

 私は信吾のキスを思い描きながら、ぽつりと言った。

「一度冷めたエンジンは、なかなかかかりません。私が客観的なのは、他人事だからです」

 そう、他人事のはずだったんだ。だって、信吾は仲間だけど、別の人を想ってたはずなんだから。だからきっと、彼の後を追えなかったんだ。
 すると、暁さんが何故か呆れたように目を細めた。

「志帆ちゃん、店でそんな顔しないでね」

「え?」

「そんな顔してたら、男に火をつけるよ」

 どんな顔してたの、私?
 きょとんとしていると、彼が笑った。

「自覚ないの? もしかして、俺、とんでもない子をスカウトしたかな?」

 私は胸がぎゅっと締め付けられたのを感じた。今の笑顔はサービス用のものじゃない。だけど、さっき見た仲間に見せる笑顔でもなかった。無防備で、子どものような......。

「ほら、食べて。美味しいよ」

「あ、はい......」

 だけど、ちっとも喉を通らなかった。顔が赤くて、暁さんを直視できない自分がいた。信吾のことは、頭からすっかり消えていた。あっという間に私は暁さんの笑顔にしてやられたんだ。

 家に帰ってから、私は頭を抱えてしまった。なんで、よりにもよって、あんな女に不自由してなさそうな男に......。惚れっぽいタイプではないと自負していた自分だけに、愕然としていた。

 頭の中を三つのことがグルグル回る。信吾のキス。新しい仕事へのプレッシャー。そして、最後には必ず暁さんの笑顔に思考が戻る。

 あぁ、前途多難。
 そう思ったとき、携帯電話が鳴った。信吾からの短いメールだ。

『俺のこと、考えてくれた?』

 私は携帯電話を枕にポンと投げつけた。頭がいっぱいいっぱいなのに急かさないでよ。そう思って、ふと我に返る。

 何で頭がいっぱいいっぱいなの?

 浮かんで来るのは、あの笑顔。知っているのは名前と肩書き、そして愛用の煙草の銘柄くらい。ろくに素性も知らない男。なのに、やけに離れない笑顔。

 私は携帯電話を掴み、ゆっくりと文字を打ち込んだ。消したり書いたりを繰り返し、やっと送信したのは、短い言葉だった。

『気づくのが遅いのよ。ごめん』

 信吾からの返事はなかった。私はその夜、明け方まで眠れなかった。
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