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第二章 朱南国
敵か味方か(上)
しおりを挟む師走が出ていったあと、少しして大袈裟な音を立てながら入ってきた彼は、にたにたと笑みを浮かべていた。
「どちら様?」
「そりゃこっちの台詞だろォ? 客人は饗さねェとなァ、朱色の雫」
ミニオスティーラ。
その名を呼ぶということは、師走の重臣なのだろうが、焦点があっていないような目と、よだれ垂れ流しの緩い口。あまり師走のイメージと似つかない。
「貴方の名前は?」
「俺ァ水無月。曆の一人だァ」
曆。師走から聞いたことはないが、曆というのはおそらく、それなりの立場なのだろう。その一人ということは、他にも数人は居る。
彼は笑いながら、呟くように言葉を続けた。
「ヒヒヒっ、師走がご執心たァ……気になるぜェ……グヒッ」
「……師走から何か言われてきたの?」
「んな訳ねェだろォ。お叱りは受けたくねェ」
なるほど、彼の独断で動いた訳か。
これは、戦うのは得策ではないような気がする。そして私の直感だが、おそらく彼の能力は師走の力の半分以下だ。彼が勝手に動いたことで、師走が彼を罰することがあれば……彼もただでは済まないのではないか。
何より、ここは師走の国。師走の指示なく戦う重臣を、許していいのか。
「ここで師走の許可なく戦いたくはない。ここは師走の国よ」
「ギュハッ!! 関係ねェなァ。俺ァ曆!! この国の最高位なんでねェ!!」
目にも留まらぬ速さで拳を撃ち込んでくる。
反射的に体の前に刀を出して、拳を止めた。
ミシミシと音を立てて、刀にヒビが入るのが見えた。
「くっ……」
「ガャハハハ!!!! 弱ッちいなァ!! このまま……食ッちまうかァ!!」
彼の拳は、刀を砕いた勢いのまま、私の首を掴んで床に叩きつけた。
「がっ……!!」
肺に空気が入らない。口が酸素を取り込もうとするが、喉から先にいかない。
水無月というこの男、まだ腕っぷしの強さしか使っていないのに、私は既に押されまくっている。
首を掴む腕を両手で握るが、びくともしない。
そして、触れたことにより、彼のセンナがよく見える。恍惚とした、今様色。元々のセンナの色ではなく、興奮して一時的に変色したのだろう。
性的に搾取される、という嫌悪感さえ感じる。
「食ッちまいてェなァ……ギュヒッ」
「……っ!!」
今まで向けられたことの無い類の目。
完全に、獲物として肉食動物に捉えられた草食動物のようだ。
何より、もう息苦しくて気が遠のいてきている。
ーーまずい、何とかしないと死ぬ。テシィに来てから何度死ぬと思ったのだろう。
薄れゆく意識の中で、僅かに見えた光。
光は目の前の彼を弾き飛ばし、爆ぜた。
大量の空気が突然肺に入ってきて、思わず噎せ込んだ。
「ふっ……ゲホッゲホッ……はぁ、な、に」
首を抑えながら、飛ばされた彼を見る。
ーー今の光……もしかして、師走が言っていた「命の危機が迫ると限定的に解除される」という私のセンナの力なのか?
「おいィ……痛ェじゃねェかよォ」
血まみれの顔で起き上がる彼は、相変わらずよだれを垂らしながらにたにたと笑っていた。
口を真一文字に結び構えるが、動悸が止まらない。目の前の男に恐怖さえ感じている。師走から感じた、底知れぬ恐怖には及ばずとも。
「ギュハッハハハヒッ」
焦点の合わない目は、何を捉えているのだろう。彼の目から反らせないまま、折られた刀を捨て、新たに刀を作り出す。
一瞬の隙に間合いを一気に詰めてくる男。
ーー怖い!!
恐怖で、思わず目を瞑りそうになった瞬間だった。
「水無月。止まれ」
「水無月だめだよぉ! 師走に怒られるよぉー」
急に聞こえた声に、心臓が飛び跳ねる。
目の鼻の先まで来ていた男は、私に触れる寸前で止まっていた。正確には、体を止められたように見えた。
「おいィ……良いところなんだから止めんじゃねェよォ……神無月ィ」
「悪いが止める。弥生の言うとおり、師走から叱責されるのは御免だ」
神無月と呼ばれた、一つに結んだ黒い髪を横に流した細身の男性。そして、隣にいる小さい男の子が私の方へ駆け寄ってくる。
「お姉さん! 大丈夫? 顔色が悪いよぉ。水無月がごめんね! 僕は弥生。こっちは神無月。お姉さんが朱色の雫?」
「え、ええ……ありがとう、大丈夫よ。そう呼ばれてるみたいね。私は朱己よ」
「わあぁ! 本物に会えて嬉しい! 朱己、これからよろしくね!」
まるで花が咲くように、満面の笑みを見せてくれた弥生という男の子。
ーー神無月に弥生。彼らも、曆の……?
滴る汗を拭いながら、刀をしまった。彼らからは殺気を感じなかったから。
「さ、お部屋に戻ろ! 今日は疲れたでしょ! 神無月、水無月をよろしくね!」
「ああ。そっちは頼んだ」
手を引かれるがまま、私は弥生に従って着いて行った。行き先は、昼間目覚めた客人用の部屋だ。
「水無月は気になると止まれない子なの、好奇心旺盛で変な子だけど、悪い子じゃないから許してあげてね」
「え、ええ……」
まだ手が震えている。自問自答を繰り返すが、恐怖に思考が蝕まれて全く整理できない。
そんな私を見かねたのか、寝台に腰掛けさせると、ちょっと待っててね! と残して部屋から出ていった。
しばらくすると、弥生が走って部屋へ戻ってきた。手には何やら液体が入ったコップが握られている。
「これ、師走が昔良く作ってくれた、よく眠れるお茶! これ飲んでよく眠って!」
「えっと……ありがとう」
おぞましい色をした、ドロドロの液体。見た目からして効きそうだが、少しだけ飲むのがはばかられる。目の前の弥生は、満面の笑みで満足そうに鼻を鳴らした。
「じゃあ、僕はこれで! また明日ね!」
「ええ、ありがとう、弥生」
大袈裟に手を振って出ていった彼は、丁寧に扉を閉めて行った。まだ味方でも敵でもないのに、守られてしまったことを少しだけ反省した。
一人になって安心したのか、少しだけ涙がこみ上げる。その時だった。まるで見計らっていたかのように聞こえる声。
「おい」
「ひっ」
思わず引きつった声が出て、辺りを見渡しながら声の主を探した。
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