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第一章 ナルス

怒りの果ては

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 銀朱の左頬を、闇で象った右手で思い切り殴りつけた。本能で動いたに近い。体の痛みなど感じなかった。

「ぐぅ……っ!」

 歪んだ顔のまま、銀朱が飛んでいく。
 いけないと頭ではわかっているのに、怒りで支配されていく。

「……んで、殺した……」
「は?」

 空中で止まり、口を拭いながらこちらを見る銀朱には、聞こえていなかったらしい。

「なんで殺した! 久岳は、あなたの側近でしょう!」
「歯向かうやつなんかいらないのよね。また作ればいいでしょ?」

 ああ、駄目だ。
 怒ってはいけない。怒りにのまれてはいけない。
 わかっているのに。
 自分の考えが正しいのは、自分にとってだけだ。
 相手もまた然り。
 それでも、いつだって、自分を正当化したくなるものなのだ。
 相手にとって、自分の考えが正しくないことなど、はじめからわかっているのに。

 ーー「銀朱様を、止めてください!」
 久岳の言葉が、頭の中を支配していく。

「なんで……」

 駄目だ。
 落ち着け。
 怒れば、心が揺れればセンナが揺れる。
 彼や朱公が側近になってから、短いながらも温かい日々だった。側近を失った私が再び側近を置くということがどういうことなのか、私の覚悟を二人は一番心に刻んでくれていた。
 朱公とともに、これからもそばにいてくれると思っていた。いや、私がそばにいてほしかったのだ。

「なんで朱己が悲しむのよねぇ? あんた騙されて裏切られたのよ? ねぇ?」

 銀朱が本当に不思議そうな顔をしている。到底理解できないのだろう、私の憤りなど。
 そのとおりだ。私は騙されていた。
 でもそんなのどうだっていいのだ。

 ーー「誓った言葉に嘘はありません」
 彼のあの一言で、十分だった。
 敵でもいい。
 生きていてくれるなら。
 そうか、これが私の。
 甘えかもしれない。だけど、それでもいい。
 一度でも心を許した相手には、生きていてほしかった。
 やっと心を許せた、大切な側近だったから。

「また久岳と同じ属性、同じ顔の霊獣を作れたとしても、それは久岳ではない。消滅すれば、二度と蘇ることはできない」

 私達にとって共通で当たり前の定義。
 目の前の銀朱は、今更何を当たり前のことを、と言いたげな顔をしている。
 そう、当たり前のことだ。

「だからこそ、作り直せばいいという問題ではない。もう、久岳は戻ってこない」

 銀朱は面倒くさそうに眉間にシワを寄せている。

「じゃあなに? 謝ってほしいわけ? つくりものの霊獣にどれほどの価値があるっていうのよ? ねぇ」
「元来命に優劣などない。価値のない命などない」

 左手に炎をまとう。
 青く光るその炎は、手の先に鋭い切先を象った。

「作りものであろうと、ないがしろにされていい理由などない! 久岳だって、朱公だって、あなただって!」

 頬に温かいものが触れた気がした。
 気のせいかもしれない。
 半ば無視して、一瞬で間合いを詰める。
 首を切り落とすつもりで真横に振り切れば、首は落ちずに体を切り裂いた。
 鮮血が視界を染める。
 流れる血の色だって同じだ。
 顔も、体格も、技も、何なら声だって。
 なのに、こんなにも違う。

 妲音とも違う、決定的な自分との違い。

 手を止めずに上から振り下ろせば、彼女の頭から真っ二つに割れた。すぐに復元される彼女の体は、痛覚などまるで無いかのように、傷つくことを拒まない。

「やっと本気出す気になったのよね? 朱己!」

 私と同じように、彼女は手の先に青い切先を象った。
 ぶつかり合う切先は、激しく火花を撒き散らす。
 彼女は笑顔だった。
 まるで私の鏡のようだった。
 何度も、何度も。何度も斬り合った。
 自分のセンナのことなど忘れていた。
 怒りに飲まれていた。
 炎の純度を上げていくことだけ考えれば、自ずと視野は狭くなり、攻撃対象のことだけしか考えなくなる。
 仲間を失うということが、自分の過去と重なった。
 それは酷く鮮明に、事実に忠実に、私の記憶の中で暴れ始めていた。
 それだけで、理性を失うには十分だったのだ。

 無限に消費され続けるセンナと、斬りつけられ続ける体が限界を迎えるのは容易く、それは突然訪れた。
 体の痛覚が無くなっていたかのように痛みなど全く感じなかったのに、突如体を強打したような激痛に襲われる。
 体が硬直し、手も足も出なくなる。
 そこでやっと気づいた。
 限界だと。

「ぐっ……!」
「もらったぁ!」

 彼女の切先が、私の体を肩から一直線に切り裂いた。

「っ!」

 立ち上がることは愚か、傷を塞ぐこともできない。

 熱い。
 熱い。
 痛い。

 遠くで誰かの呼ぶ声がして、やっと我に返る。
 やってしまった。
 怒りにかまけて、自分のセンナも体も何も省みなかった。
 愚かだ。
 視界が歪む。
 手足の感覚がない。
 熱いのに、背筋が寒くなっていく。
 体は震えていた。
 それが寒さからなのか、怒りなのかはわからない。
 銀朱への怒りなのか、自分への怒りなのか。
 はたまた、両方なのか。

「朱己が弱すぎて、久岳の死も無駄死にということなのよね。キャハハハハハハハハ! 何一つ守れないのよね! 朱己!」

 私は。
 何も、守れないまま。

 そのとおりだ。
 私が死んだら、今まで私のために命を落としてきた、枝乃やこうちゃんの命も、久岳の命も。
 すべて無駄になってしまうというのに。
 だから、心を殺してでも立ち上がって来たというのに。
 動かないこの体で、降りかかる最後の刃を避けるなど夢のまた夢。
 遠ざかる意識の中で、確かに刃は私を貫いた。
 しっかりと、確実に。
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