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5.与えられた蕎麦

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 その足首くらいの深さの川は、とても気持ちいい温度で、綺麗だった。
 川を歩いて渡り、を辿り着いた場所は人っ子一人いないところだった。さっきまで心地いい天気だったはずなのに、気がつけば霧が立ち籠めて、周りが見えない。

「……あれ、どこだろう」

 私は、しばらく辺りを見回して途方に暮れた。
 全く知らない場所で、でも漠然ともう戻れないことを悟ったから。

「どうなさいましたか」

 いきなり後ろから声をかけられ、大げさに肩がはねた。
 振り返れば笑顔の男。

「こちらは、三途の川の彼岸側。此岸に何某かの未練がある方がいらっしゃる場所です」

 ーー未練。私は未練を残すほど、何かに強く入れ込んだことはない。未練と言われても、思い当たる節がない。

「……」

 そのまま俯いてしまう。
 自分の人生を、これと言って頑張ったこともない。ただ生きて、ただ好きと言ってきた人と一緒にいて、ただ過ごして、そして死んだ。

「私はヨモツ、と申します。よろしければ、少しお話しませんか?」

 見上げれば、そのヨモツと名乗った男は笑顔でこちらを見ていた。なんとも見本のような笑顔に、断れない気持ちになり頷いて立ち上がった。

 少し歩けば、いつの間にか目の前には屋台があった。
 ーーこんなところに、こんな屋台……あったっけ?

 さっき歩いて川を渡っていたときには見つけなかった。
 もしかして、新手の悪徳商法とかに引っかかってしまったのだろうか。そんな訳ないか、死んでるんだし。そんなことを思いながら、のこのこついていった。

「ご来店、誠にありがとうございます。お飲み物は何になさいますか? お一つ、提供できますが」

 物腰の柔らかい人だ。
 黒髪で、柔らかそうな髪の毛。
 太ってはおらず、ガリガリに痩せているわけでもない。
 じろじろと体を見回していたのがバレたのか、男は無言で微笑んだまま目を合わせてきた。
 少し気まずくなって、飲み物を注文しようとする。

「……何が、好きだったっけ」

 ビール……は付き合いで飲んでいただけ。
 日本酒……はそこまでいい思い出がない。
 ワイン……は飲んだあと記憶がない。
 ウイスキーはそもそも飲んだことがない。

 さっきから酒ばっかり思い出したが、私はそもそもそこまで酒が好きじゃない。
 私は……何が好きだったっけ?

 答えられずに俯いていると、ヨモツという男は、無言で温かい煎茶をいれてくれた。

「温かいものは心が落ち着きます。どうぞ」

 サービスです、と笑顔で言われると、少しだけ頬がゆるんだ。

「死ぬ間際のことは、覚えてらっしゃいますか?」

 唐突に聞かれて、思わずお茶を吹き出した。
 悪気はないと言わんばかりに、目の前の男はすみませんと言いながら新しいお茶をいれてくれた。

「……なんだっけ。ああ、蕎麦。アレルギーだって聞いてたから、食べたことなかったんだけど、美味しい蕎麦なら大丈夫とか言われて。アナフィラキシーで、そのまま」

 呆気なかった。
 アナフィラキシーショック。
 アレルギー反応で、呼吸器異常、消化器異常、意識障害、呼吸不全になってそのまま死んだ。だから、苦しかったっていうのは覚えてるけど、その後のことはわからない。

「そうでしたか。お辛かったでしょう」

 静かに首を振る。
 呆気ない人生だったのだ。本当に。
 特に好きなこともなく、特に好きな食べ物もなく。マルチ商法の人に捕まって勧誘されまくって、挙げ句の果てにご馳走するからって連れて行かれた蕎麦屋で、無理やりそば食わされて終わった。

 ーーなんだったんだろう、私の人生。
 良いことなんてあっただろうか。自分から好きになった人もいない。成績も容姿もすべて中の中。好きなものもない。
 もう忘れたい。

 腕に顔を押し付けるようにして前に突っ伏せば、不思議と近くにあるはずの川のせせらぎさえ聞こえない、無音の世界になった。

「なるほど、それは特殊能力ですね」

 周りの音がしないせいで、鮮明に響くヨモツの声。

「なに、特殊能力って」

 そう言って顔を上がれば、確かに川のせせらぎは聞こえた。不思議に思ったが、今はそれよりもヨモツが言ったことが気になる。

「なにも、生きていく上で必ず何かを成し遂げなければならない、というわけではございません。人は皆、何かを成し遂げなければならないと日々奮闘していますが、そもそも生を受けた時点で、既に大きなことを成しているのです。ただ生きる、という一番難しいことを」

 まるで仏のようなことを言う。
 あの世に来てまで、私は宗教勧誘を受けているとでも言うのか?
 それとも、あの世なんだしありがたいこのお言葉を黙って聞くべきなのか。
 ーーあ、悪い癖だ。今、私は黙ってやりすごせばいいやって思ってる。死してなお。

「……それ、有り難い教えみたいなやつ?」

 初めて聞き返したかも、死んで初めて。
 そんな自分の行動に、自分でびっくりした。

「いえ、私は神ではありませんので。ただ、先程、宗教勧誘の方々にという話がありましたね。何故宗教勧誘や、悪徳商法が成功すると思いますか?」

 訝しげにヨモツを見る。

「そんなの当たり前だ、人から言われたことを都合よく信じたり、どうしても断れなくて芋蔓式に……」

 ヨモツは笑顔で頷いていた。

「そうです。ただ、その能力……人を信じたり、頼まれごとを引き受けてしまう、それは一つの大切な特殊能力ではありませんか。誰にでもできることではないんです。その、信じること、引き受けること、自分の思いより相手を優先させることができる人のおかげで、それらの類はどんどん拡がっていきます」

 ーーだから都合よく利用されたって言いたいのか……?
 先を読んで、少しだけムッとしてしまった。
 死んでからお説教なんてとんだ迷惑だ。

「その特殊能力を持つ人々から、搾取することを良しとする悪人もおりますが、元来、その特殊能力は自分も人も傷つけないための能力。生きていく上で、重要な争いの回避策です。悪人に限らず、人は皆生きていく中で、自分の周りにそういった特殊能力を持った人を求めます」

 ヨモツが言いたいことがよくわからなくて、目を逸らしてお茶を飲む。時間が経っているのに温かいままだ。

「貴方様は、人の心のために自分の心を割ける特殊能力があったんだと思います。ただ、割きすぎて、自分の本心を見失ったのかもしれません。自分のことばかりの人にはわからない苦悩が、そこにはあったと思います」

 ーー自分の、本心。

 自分で考えるのが面倒だと思って、周りに合わせて生きてきた。
 適当に合わせておけば、なんとかなったから。争うのも嫌い、ぶつかり合うのも嫌い。
 ただそれだけ。それを特殊能力だと言うのか。この、ヨモツとかいう男は。

「何かを成し遂げる方は、立派です。しかし、一人で成し遂げることはできないのが世の常。必ず、その人を支える側の人たちがいるものです。それも、誰にでもできることではないのです」

 成し遂げる者がいれば、成し遂げられない者もいる、と思っていた。
 成し遂げられない者は、噛ませ犬程度に思っていた。
 ーーそうじゃ、ない、のか?

「貴方様は、恐らく、支える側、人へ与える側だったのではないでしょうか。自分に何も残っていないと、そう感じられるかもしれませんが、沢山の人に、沢山のものを残してきたのではないでしょうか」

 目の前の霞が晴れていくように、心が軽くなっていった。
 心の中で堰き止めていたものが壊れて、感情が溢れ出す。

 私も誰かに、何かを残せたのだろうか。
 アナフィラキシーで死んだ私も。
 私の死で、もしかしたらあのマルチ商法の人間は、何かを学んだかもしれない。何かに気づいたかもしれない。誤ちを悟ったかもしれない。

「……ヨモツ、さん。蕎麦湯、飲んでみたいんだけど」

 ちらっと見上げれば、笑顔で頷いていた。

「お蕎麦を茹でた茹で汁が蕎麦湯ですので、お蕎麦も一緒にいかがですか?」

 じゃあ、お蕎麦も。と答えれば、かしこまりましたと返ってきた。
 ーーもう死んでるんだし、アレルギーは無いだろう。
 どうせなら、生きているうちに食べたかったなんて思いながら、食べたから死んだんだよ、なんてノリツッコミをしていたら、お蕎麦が出てきた。お出汁のいい香りがする。

「お待たせいたしました。お熱いので、お気をつけください」

 あの最期の瞬間に憶えている味、香りのはずなのに、全く違う。
 一口啜れば、蕎麦の香りと、蕎麦に絡むお出汁が口いっぱいに広がった。

「美味しい……」

 思わず溢れた一言。
 今まで、美味しいなんて思ったこと、あったっけ。
 人に合わせて食べ物も選んでいた。
 行く場所も、服も、好みも。
 ーー人に与える側だったのではないでしょうか。
 その一言が、生前の私をひどく肯定してくれた。
 目頭が熱くなるが、啜る音でごまかした。

「来世で、これよりも美味しいお蕎麦を、是非召し上がってみてください」

 笑顔でこちらを見るヨモツは、優しい顔をしていた。

「与える側を、最後まで貫いた結果起きた事故だとしても。それによって因果応報は巡ります。私には、来世等はよくわかりませんが、恐らくここに来られた方には、優しい世界が待っていると、そう信じています」

 来世。
 もし来世があるなら。与える側であったとしても、搾取される側なのではなく、自分の意思で与えていく人生がいい。
 自分に何も残らない人生じゃなく。自分にも、誰かにも残る人生を。

 蕎麦を食べ終わったあと、飲んだ蕎麦湯はとても体がホカホカして幸せな気持ちになった。

「ありがとう、ヨモツさん。ごちそうさま」

 お代金は、と聞けば、結構です、と言われた。

「最後、ご自身で未練に気づかれたようで、良かったです」

 そう言ってヨモツは頭を下げた。

「はい、来世がもしあるなら。自分にも、誰かにも与えられる、残せる人生にしたい」

 そう口に出すとなんだか恥ずかしいが、ヨモツは嬉しそうに笑ってくれた。

 ふと気づけば、隣には大きな門。
 少しだけたじろげば、ヨモツが笑顔で促してきた。

「あの門をくぐれば、所謂あの世です」

 それじゃあ、と言って門へ向かえば勝手に門は開いた。


「ご来店、誠にありがとうございました」

 後ろで、ヨモツの声がした気がした。
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