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1.晩酌の卵焼き

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「……俺、死んだのか……」

 ーーここはどこだ? 日本なのか?
 いや、日本とかそういう問題ではない。何やら霧の立ち込める風景に川、渡舟の乗り場。
 ーーここは、なんだ?

 さっきから人っ子一人いない。
 俺は渡舟の乗り場まで歩いてみたが、どうやら舟を漕いでくれる人も見当たらない。
 そして気がつけば、普段なら着ない白い装束に、懐には六文銭。

「完全に死装束じゃねえか……」

 舟なんて自分で漕いだこともないため、辺りを見渡すがさっきからなにも変わらず、人はいなかった。
 ーー仕方がない、自力で渡るか。

 川に足を踏み入れると、見た目よりも浅く、なんなら流れも緩やかだ。これなら難なく渡れそうだ、と安心した。
 川は冷たいが気持ちいい。特に暑いわけでもないが、寒いわけでもない。
 川底の石たちを踏みしめながら歩いて川を渡り、振り返ると川は消えていた。

「……なんだ、こりゃあ」

 思わず声に出てしまう。
 ーーもう、戻れない。本当に死んじまったのか。

 胸が痛んだ。
 正確には、胸でくすぶっているものが押し寄せてきた。
 胸のあたりを手で掴んで、顔を歪める。

「いらっしゃいませ」

「なっ……?!」

 突然、何もなかったはずのところから人の声がして心臓が飛び跳ねた。
 早くなる脈拍を感じて、まだ死んでいないんじゃないかと錯覚する。正確には、脈さえない体になったのだが、そうなっても驚くと心臓にくるものなのだろう。

「ここは、此岸に心残りがある方の未練を少しだけ軽くするための黄り泉ちよりみち酒場。お一つだけ、何かお出しいたします」

「よ、よりみちさかば?」

「はい」

 そこは、屋台のようななりで、一人か二人くらいしか腰掛けられない、小さい店のようだった。

「何かリクエストはございますか?」

「なんでもいいのか?」

 そう尋ねると、店主らしき男は頷いて答えた。

 ーー食べたいもの、か。

 そう言われると、なんだか難しい。

「あ、女房が作った卵焼き……いや、流石に無理か」

 なんでもと言っても、この店主は女房じゃない。しかも見た感じ、屋台には調味料もなにもない。

「大丈夫でございます。奥様の卵焼き、でよろしいですか?」

 その言葉に、思わず目を見開く。

「で、できるのか?」

「可能でございます」

 そう答えた店主は、すぐにどこからともなく卵やらフライパンやらを取り出し、卵焼きを作り始めた。
 なれた手付きの店主の料理する様を、阿呆面で半信半疑のまま見つめる。

 しばらくすると、嗅ぎなれた卵焼きの匂いがしてきて、唾液が口の中に溜まり、思わず飲み込んだ。
 どうやら死んでも、好物を目の前にすると、唾液が出るなどの体の反応はあるらしかった。

「おまたせいたしました。奥様の卵焼きでございます。お熱いので、お気をつけください」

 そう言って、俺の前に焼きたてほやほやの厚焼き玉子が出された。

「お飲み物はいかがなさいますか」

「え、酒もあんのか?」

 まさか死後に酒が飲めるなんて、もしかしてまだ死んでなくて夢でも見てるのか? と錯覚してしまう。
 きっと今自分の目はこれ以上なく輝いているだろう。

「はい、お一つだけですが、なんでもご用意できます」

 その言葉に息をのむ。どうせなら拝むことのなかった高級な日本酒でも要求してやろうか、という気になるが、ふと頭に過ぎったのは毎日のように飲んでいた日本酒だった。

「……じゃあ、八海山の普通酒を熱燗でくれ」

「かしこまりました」

 笑顔で了承してくれる店主は、もはや魔法使いのようだった。
 下の段からやかんと日本酒、徳利を取り出すと、またも慣れた手付きで熱燗を作ってくれた。

 ーーこの、熱燗が出来るまでの、徐々に香ってくる日本酒の香りがたまんねえんだよな。
 思わず目を瞑って香りを肺の奥まで吸い込む。

「おまたせいたしました。八海山の熱燗です」

「おお、ありがてえ! それじゃ、早速いただきます」

 熱燗をお猪口に注ぎ、卵焼きを箸で一口サイズに割って口に頬張る。数回噛んだあと、すぐにくいっと熱燗をあおると、卵焼きの出汁味とキリッとした辛さの中にある、熱燗にしたことで生まれた味の丸みが、絡まりながら喉を通っていった。

「かぁーーっ!! うめえ! これだあ」

 思わず声が出る。そう、これこれ、と言いたくなるいつもの組み合わせだ。自然と笑みが溢れる。
 そんな俺の様子を店主はただ笑顔で見ていた。店主の顔を見ていたら、酒の力も相まって俺は口を開いた。

「俺は、毎晩のように残業して、子供が起きる前に家出て、子供が寝たあと帰って、女房には苦労をかけてたんだよな。だけど、俺が帰って晩酌するときには必ず、この卵焼きを作ってくれてたんだ」

 そう、好物と言うのはなんだか気恥ずかしいが、俺の日常で一番安心する味。
 なんだかんだ二十年以上連れ添った女房の、二十年以上前から変わらない卵焼き。

「俺はどうやら、残業帰りに交通事故で死んだらしくて。女房が作ってくれた卵焼き、最後食べれなかったのが、心残りだったんだよなぁ」

 店主は俺の話を黙って聞いてくれていた。
 俺が思い出して一人で感傷に浸っていると、店主が静かに口を開いた。

「人は、意外と食べ物に紐づけて、思い出を記憶している生き物です。こうやって思い出の味を思い出すことで、自分の本心と向き合うことができると思っています」

 ーーああ、そうか。
 俺は、今自分の心残りを通して、自分の人生の最後の思い出を味わったのか。

「……ありがとうって、女房に言いたかったなあ。普段、いつも用意してもらってたのに、何も言わなかったからな」

 我ながら呆れる。
 熱燗をあおりながら自嘲気味に笑うと、店主はゆっくりと首を横に振った。

「今ここで食べている姿は、もしかしたら今日、奥様の夢に映し出されているかもしれません。夢だと思えば、普段言えなかったことも言えるのではないでしょうか」

 その言葉に、少しだけ呆気にとられたが、もう死んでるんだし、今更恥ずかしがっても仕方ねえな、と腹を括った。卵焼きを全部食べ終え、お酒も飲み干して一息ついたあと、店主に向かって言う。

「卵焼き美味かった。ありがとな」

 そういうと、どこからともなく突風が吹き、思わず目を覆った。
 再び目を開けば、そこにはさっきまであったはずの屋台は無く、霧の晴れた河原に、大きな門。不思議と恐怖などはなく、心置きなく前に進める気がした。
 もう振り返らずに門まで進み、静かに扉を開けた。




「ご来店、誠にありがとうございました」

 と、最後に後ろから聞こえた気がした。
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