燕の軌跡

猫絵師

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依頼

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少ない荷物を持って、誰にも止められないように長く潜んでいた住処を後にした。

多少居心地がよかっただけに残念にも思えたが、所詮仕事だ。

《エルマー》という名ももう必要ないだろう。また新しいものを考えねばならない。

ブルームバルトを出て、もう十分だろうというところで足を止めた。

ようやく日が昇り始めたところで、ここまでに擦違った人も数えるほどだった。

林を切り開いて作った道から少し外れて、雑木林を進み、懐に手を入れて隠していた物を取り出した。

これが届いたという事は、俺の今の仕事は終了したという事だ…

手のひらに納まるサイズの少し大きめのコガネムシに似た虫は本物そっくりだが、生き物では無い。

硬質な虫の体にナイフを突き立てて頭の部分を切り落とした。

うろのような空洞の虫の断面から、小さな薬の包みとクルクルと丸められた小さな紙切れが零れ落ちた。

《蜘蛛》の仕事は他人に悟られてはならない。《かしら》から《蜘蛛》に届く依頼は《暗殺》の指示なのだから…

薬の包みは危険なものなので、すぐに小さな瓶に詰めて蓋をした。わずかに漏れた粉を吸い込むだけでも危険な代物だ。これの扱いだけは絶対に間違えてはならない。

瓶を布で包んで革袋に入れると、次に薬と一緒に出てきた紙切れを拾って広げた。

《頭》の指示は次の仕事についてだった。

暗殺対象の人物の名前を確認して腹の中がすっと冷たくなるのを感じた。

その名前をこんなに早く思い出すことになるとは思っていなかった…

暗殺を指示する赤い文字は、《《燕の団》の団長、スペース・クライン》と綴られていた。

なんてことだ…

《蜘蛛》の《足》である以上、《頭》の命令は絶対だ。

その紙を握ったまま途方に暮れた。情があるからとかそういう問題じゃない。

俺にできるのか?

近くで見てきたこともあり、あの団長の強さは鮮烈に俺の記憶に刻まれていた。普通にやり合えば俺に勝ち目は無いだろう。

油断させるにしろ、俺はそこまであの団長に気に入られている様子は無かった。

そもそも、ロンメル男爵についての情報を流す仕事をしていただけで、傭兵団では努めて目立たないようにしていた。やる気が無いと思われていてもおかしくないし、そうであればあの実力主義の団長が俺を重用する理由は無いだろう。

その証拠に、《燕の団》には割と長く在籍していたが、団長から《犬》になる打診はなかった。

《燕の団》に戻ることも考えたが、今となってはもう遅いように思えた。

引き継いだとはいえ、仕事をほっぽり出して出てきたのだ。少し早まった判断をしてしまったと後悔したが遅い。

それならいっそ、俺が出奔したのに気付く前にこのまま団長に接触する方が賢い選択のように思えた。

幸い、拠点に残ってる連中は手紙を書くほど賢くない。

傭兵が一人脱走しようがそんなの日常茶飯事だ。急いでラーチシュタットにいる団長に報告するようなことでも無い。

そう考えて次のやることは決まった。

迷っている時間は無い。すぐに行動に移る。時間は有限だ。

腹の中を決めて、ラーチシュタットに向けて歩を進めた。

✩.*˚

ホーエナウ公爵と別れてレプシウス邸を出た。

次はアレクシスらと面会する予定だ。

急いでラーチシュタット城に戻らなければならない。

全く、身体が一つでは足りない。せめて馬車ではなく馬で移動出来たらもう少し早いのだろうが、侯爵という立場上そういう訳にもいかなかった。

じれったい思いを少しでも紛らわそうと、ため息を吐いて動く窓の外に視線をやった。

そうしていると、レプシウス邸の門を出て直ぐに見覚えのある顔を見つけて馬車を止めさせた。

「閣下、時間が…」と、バルテルには嫌そうな顔をされたが、私はこの機会を逃したくなかった。

「久しいな、ローゼンハイム卿」

窓を開けて声を掛けると、息子は少しだけ眉を動かしてから恭しく頭を下げた。

他人行儀な挨拶を返すリュディガーの様子を観察した。

リュディガーの腹の中までは分からないが、見たところ息子には特に変わった様子もなく、職務中という事もあり口数も少なかった。

強いていうなら、ミリヤムと同じく、最後に見た時より少し草臥れた様子でやつれたようだ。

大したことは話していない。「息災か?」とか「励むように」などと声を掛けただけで、どれも家族らしい会話というものではなかった。

それが気に入らなかったのだろうか?

ロンメル男爵の眉間には深い皺が刻まれていた。

「何か言いたいことがあるのかね?」と問うと、ロンメル男爵は「まぁ…」と歯切れの悪い返事を返した。

その拗ねたような態度は褒められたものでは無いが、彼の言いたいことはなんとなく分かってるつもりだ。案の定、ロンメル男爵はリュディガーに同情していたようだ。

「ローゼンハイム卿に対してもう少し何か無いんですか?」と問う彼に応えたのは、ロンメル男爵以上に眉間に皺を刻んだ男だった。

ロンメル男爵と似たように眉根を寄せるバルテルだったが、その考えは真逆のものだ。

「男爵。侯爵閣下の立場をお忘れですか?

閣下は自らローゼンハイム卿にお声を掛けるという最大限の譲歩をなさってるのです。これ以上はローゼンハイム卿に要らぬ考えを持たせることになります。

もしこの場に侯爵夫人がいらっしゃったらお許しにならなかったはずです」

バルテルはそう言ってロンメル男爵を黙らせると、今度は私を睨んだ。

「閣下も、あのように人目の多い場所で声を掛けるのはおやめください。要らぬ憶測を呼ぶことになります」

「すまん…」

「侯爵夫人のお耳に入らなければよろしいのですが…」

最後の一言は耳が痛い…

ミリヤムに会いに行ったのも、金を渡したのも私の独断で、ガブリエラには相談していないことだ。バルテルはそれが露見することも危惧しているのだろう。

どさくさに紛れて、私がしたことをカブリエラが知ったら説教では済まないかもしれない…

「すまんな、男爵。これは卿の腹の中にしまっておいてくれ」

秘密を共有するように頼むと、男爵は不服そうだったが頷いてくれた。

ロンメル男爵は相変わらず眉間に皺を刻んだ表情で、視線を落として呟くように口を開いた。

「俺が口を挟むことで無いのは理解してます…

でも、このまんまじゃ良くないってのは俺の経験でよく分かってます。親子としても、異母兄弟としても…」

「…ふむ」

「パウル様の立場もお辛いでしょうが、異母兄弟ってだけでも拗れてるんです。

同じように扱うのは無理でしょうし、厳しい態度を取らなきゃならないってのも心苦しいでしょうが、ローゼンハイム卿だってパウル様のご子息でしょう?

あまり追い詰めるような事はして欲しくないと思っています」

「それは、卿の経験かね?」

「俺だって親父を恨んでいた頃だってありましたよ。自分も親父の息子なのにって…

あんまりいい話じゃないですが、俺は異母弟より有能になって、親父を後悔させることで復讐しようと思ってましたが、それが変な方向に向かないとも限らないでしょう?」

「ふむ…覚えておこう」と頷いて、ロンメル男爵の苦い経験を頭の片隅に置いた。彼自身思い出したくもない話だろう。それだけに、その言葉は重かった。

ロンメル男爵の考えはあながち間違いでもないだろう。貴重な当事者としての意見だ。

彼も他人とはいえ、リュディガーとアレクシスに同じ轍を踏んでほしくないと考えてるようだ。

リュディガーが現在の自分の境遇をどのように捉えているかは分からないが、私は息子に恨まれていてもおかしくないし、その怒りの矛先が別の何かに向かう可能性もある。むしろそれを懸念している。

「私も…息子らには仲良くしてもらいたいと思っている」と本心からの言葉をこぼすと、二人は言葉を飲み込んだ。

馬車の中は重い沈黙が立ち込め、気が滅入るような空気になってしまった。

今更それを取り繕う気にもならず、そのまま気まずい状態でラーチシュタット城に戻った。

レプシウス邸を出る前にアレクシスに使いを出していたから、城に戻る頃にはアレクシスとクラウディアも面会の用意を済ませていた。

「お久しぶりです、お義父様」

気を取り直して面会の部屋に入ると、すぐにクラウディアが進み出て私に挨拶した。

彼女の姿を見て、おや?とすぐに彼女の違和感に気付いた。

ゆったりとした装いで照れたように微笑むクラウディアの手はお腹の辺りに添えられていた。

「お忙しい中、お時間を割いてくださりありがとうございます。でもどうしても今のうちに私たちからお伝えしなければならない事がございまして…」

「それは、良い話かね?」と勝手に期待して訊ねた。

私のせっかちな質問に息子夫婦は顔を見合わせて少し笑っていた。

その様子から《雲雀》がこの夫婦に訪れたのだと確信した。その期待は正しかったようだ。

「クラウディアが懐妊しました。三月ほどになります」

「ご報告が遅くなり申し訳ありません。本当ならもっと早くご報告を差し上げるべきでしたが、私の悪阻つわりがひどかったので、アレクシス様にはお待ちいただいておりました」

「謝ることではない。本当にめでたい事だ。

二人ともよくやった。ガブリエラも喜ぶだろう」

私の反応に二人はほっとしたような顔をして喜んでいた。

報告が遅くなったことを責める気は無い。

母体が安定しない状態で報告して、万が一があるといけないと思ったのだろう。初めての懐妊で二人とも不安だったはずだ。

重要な報告を済ませたアレクシスは、先ほどより緊張を和らげた様子で願い出た。

「父上。レプシウス師の葬儀についてですが、クラウディアの出席はご免除いただけないでしょうか?まだ体調が戻ったばかりで無理をさせたくないのです」

「私もお世話になったレプシウス様の葬儀に参列できないのは心苦しいのですが…」

クラウディアもそう言って申し訳なさそうにしていたが、私としてもそうしてくれると心配せずに済む。

葬式は長丁場だ。途中で体調を崩しても良くない。

「いや、気にすることではない。そのような状態で参加して万が一があれば取り返しがつかない。私には気を遣わなくてよい。大事にしてくれ。

それに、レプシウスも身重な君が無理をしてまで葬儀に参列することは望まないはずだ」

息子夫婦の願いを快諾して、気に負わないように伝えた。

私がアレクシスの申し出を快諾した事で二人の顔が晴れやかになった。お互いに顔を見合せる姿は仲睦まじい。

多少気にはしていたが、クラウディアの懐妊はヴェルフェル家にとって待ちに待った僥倖だ。

「葬儀が一段落したらワーグナー公爵にも報せよう。それまで待たせてしまうが、必ずお祝いをするから楽しみにしててくれ」

「ありがとうございます、お義父様」

「良かったな、クラウディア。父上、母上には…」

「私から伝えておく。二人とも心配は不要だ」

ガブリエラも喜ぶだろう。気の滅入るようなことが続いていたから、この吉報に救われた気分だ。

幸せそうな息子夫婦を労いながら、もう一人の息子夫婦の事が心に引っ掛かっていた。

やはりこのままにしておくのは良くないだろう…

生まれてくる子供たちはどちらも私の孫だ。時をほぼ同じくして生まれてくるのであれば、お互いの立場は違うものの良い支えになってくれるやもしれない。

それは私の身勝手な考えだが、それが叶う事を望んでいた。

✩.*˚

太陽が西の空に沈む頃に、湿った温い風の温度が変わった。

もうラーチシュタットの門は閉まり、これからレプシウス師の葬儀が始まるのだろう…

「見張りと当番の奴ら以外は休んでいいぞ」と伝えて、今日の仕事に一区切りつけた。

レプシウス師の葬儀が終わったら、一度ラーチシュタットのレプシウス邸に行こうと思っていた。もしかしたらあの老人に会えるかもしれない。

預かったブローチは肌身離さず持っている。あれを届けるという名目でなら会えるはずだ。

そういえば、レプシウス師からも似たような感じで指輪を貰ったな…

あの時はレプシウス師とこんなに深い付き合いになるとは思っていなかった。師として、親のように俺を見守ってくれた。

兄を喪い、腕輪を失くして傷ついていた俺が立ち直れるように、心を砕いて支えてくれた彼には本当に感謝している。

レプシウス師がいなければ、俺は今ここに居なかっただろう。

葬儀には参加できなかったが、俺がここに居る事で葬儀が滞りなく終わるなら、ここからレプシウス師を見送ろうと思える。

ラーチシュタットのある方向に視線を向けた。

赤から藍に染まる空を見上げていると、土を踏む足音が俺の後ろで止まった。

「行かねぇのか?」と、らしくないディルクの言葉に何か少し笑えた。

「いいよ。もう、ラーチの門限は過ぎてる」

「例の友達なら入れてくれるだろ?ロンメルの旦那だって口添えしてくれるはずだ」

ディルクは妙に食い下がって俺にラーチ行きを勧めた。俺が無理していて、遺恨が残るとでも思っているのだろうか?

でも、意外な事に、俺の中には引きずるような気持ちは無く、割とすっきりしていた。

「いいよ。お前が勧めてくれたおかげでレプシウス師の臨終には立ち会えた。最後の言葉も聞けたし、喜んでもらえた…だから俺は満足だったよ。ありがとうな…」

素直に感謝を口にして笑って見せたが、ディルクの表情はどこか影があるように見えた。暗くなってきてたからそう見えたわけじゃないだろう。

ふと、彼に訊きたいことができた。

「ディルク、《エッダ》はどうやって死んだ人間を弔うんだ?」

「何でそんなこと訊くんだ?」と怪訝そうな顔で見返す男に笑って答えた。

「だって《エッダ》は墓も教会も無いだろ?お前らのやり方なら、ここからでもレプシウス師を弔えると思ってさ…」

「まぁ、《エッダ》は墓を持たないからな…邪魔なだけだし」

そんなことを言いながらディルクは腰に結んだ雑嚢から銀色の薬入れを出して握った。

「俺にはこれしかないけど、親しい人間が肌身離さずに持っていた物を受け継ぐのが俺たちなりの供養の仕方だ。

俺たちの身に馴染む頃に、元の持ち主は《ニクセの船》で次の命に変わるって考えだ。それまでは形見に話しかけたり祈ったりするさ」

「随分変わってるね」

「そうかもな…俺は親からそう聞いた」

「その薬入れは?」

「いつからあるか分からんが、お袋の形見だ…お袋にとっちゃ婆さんの形見だ」

「随分古いもんなんだな」

「残ってたのはこれだけだ。ボロいし、価値がないって思われたんだろ?」

「でもお前らにとっては大切なもんだ。そうだろ?」

「…まぁな」

俺の言葉に頷いて、ディルクは拳に隠れるくらいの銀色の小さな形見を握った。

その存在が自分に馴染んだ時、ディルクはどんな気分になったのだろう?

それとも、長い時間が経っても、その銀の薬入れと馴染むのを拒んでいるのだろうか?なんとなくそんな考えが頭を過った。

ディルクの話を聞いて、指に納まっていた指輪を重く意識した。

とっくに馴染んでいると思っていた指輪が、今になって違和感のある異物のように感じるのは、彼の話を聞いたからだろう…

《エッダ》のやり方でここからレプシウス師を送るのも悪くない。

良い話を聞いたと満足を感じていると、どこからか俺を呼ぶ声が聞こえた。

「お前らそんなところで何話ししてんの?」

気の抜ける声に振り返ると、イザークとその隣に、ここにいるはずの無い顔があった。

「なんかお前に直接伝える用事があるってさ」と、イザークが軽い感じで連れてきた男を指さした。

ブルームバルトの拠点に置いてきたはずのエルマーだ。

「何だよ?拠点の方で何か問題でもあったのか?」

「拠点の方は問題ないです。アルノーが仕事捌いてるんで」

「じゃぁ、何?急ぎの用か?」

歯切れの悪いエルマーの返事に、用事を急かした。エルマーも俺が短気を起こすのは望まないのだろう。少し声を落として用事を伝えた。

「姐さんから伝言で…あまり、大きな声で言えない事なんで、場所を変えられませんか?」

「ミアから?」何だろう?

余程でない限り、彼女から俺に伝える事なんて思いつかない。エルマーの表情も少し曇っているように見えた。悪い話かと胸騒ぎがした。

「姐さん手紙書けないんで、俺に伝言頼んだんです」という言葉に特に違和感は無かった。

「ふぅん…分かった。ディルク、何かあったら教えてくれ」

「分かった」と応じて、ディルクとイザークが席を外して宿営地の方に歩いて行った。

「で?ミアが何て?」

単刀直入に訊ねる俺に、エルマーはまた声を落として「ここじゃちょっと…」と声を落として辺りを気にしていた。

「誰にも漏らすなってきつく言われてるんです。坊ちゃんにも関係する話で…とにかく人目のないところで話せませんか?」

用心深いエルマーの様子に嫌なものを感じた。そうまでする用事ってなんだ?

二人に何かあったのかと不安になる。焦る気持ちが勝って、正常な判断を喪っていた。

「俺のテントでなら良いか?」と提案すると、エルマーは黙って頷いた。

エルマーを自分のテントに連れて戻ると、テントの中には何故か先客の姿があった。

「ぎぃぃ」と鳴くイタチの姿をした地精は俺の姿を見て、短い脚で這い寄って来た。

「悪いな、今お前の相手してる暇ないんだ」と声を掛けると、イタチはそんなの関係ないみたいで、俺の足に長い胴を絡めて甘えてきた。

変なのに懐かれたな、と思ったが特段問題は無い。

別に悪さするわけじゃないし追い出すほどの事でもなさそうなので無視していると、イタチは俺に上って来て懐に入ろうとしてきた。

「何だよ?なんも持ってないぞ?」

くすぐったくて長い胴体を掴んで引っ張り出すと、ズルズルと引き出されたイタチは口に何か咥えていた。

少し綺麗な石ころみたいだ。俺の持ち物じゃないから、たぶん元々口に入れていた物だろう。

手のひらを差し出すと、イタチは口に咥えていた石を俺によこした。

「何?これくれるの?」と確認すると、イタチは嬉しそうに「うぎー」と鳴いた。どうやら贈り物を持って来てくれていたみたいだ。

それが何か可愛くてテントから追い出すのは止めにした。まぁ、気が済んだら出て行くだろう。

「…それ、なんっすか?」と俺の真後ろでエルマーが声を掛けてきた。

どうやらエルマーにもイタチの姿が見えているみたいだ。精霊の中には人に見えるように顕現する奴らもいる。俺に気付いて欲しくてわざわざ顕現して現れたのだろう。

「この辺りに住む精霊と妖精の間ぐらいの存在だよ。特に害ないから放っておいていいよ」

そう言って振り向いた瞬間、イタチは細長い胴を猫のように大きく膨らませて、聞いた事無いような鳴き声でエルマーに対して威嚇を始めた。

「ぎしゃぁぁぁぁ!ぎゃお!ぎゃわわ!」

今にもエルマーにとびかかりそうなイタチの胴を掴んで止めた。引き留められたイタチは俺の手から逃げようと身体をくねらせて暴れていた。

「どうしたんだよ?こいつは俺の仲間だ!」

「ぎぃぃぃぃ!」

明らかに様子がおかしい。原因は分からないが、このままだと話ができない。

気は進まないが、狂ったように暴れるイタチをテントの外に出して、大地の魔石を翳してイタチに命令した。

「後で相手するから、話が終わるまでテントの外で待って」

厳しい声で魔石を通じて命令されたイタチは地面に伏せて、何か訴えるように「キュー、キュー」と鳴き続けていた。

イタチは何に反応していたんだろう?

《燕の団》の宿営地であのイタチの姿は時折見かけていたが、イタズラしたり、人を襲ったりすることはなかった。時々、俺や《エッダ》の連中の近くに来て顔を確認する程度だ。

そんなイタチが激しく威嚇したのが気になって、一応エルマーにも確認した。

「なぁ、お前何かやばいもん持ってる?」

単刀直入に訊ねると、エルマーは困惑したように眉を寄せた。

「…やばいもんって?」

「地精って割と温厚な方なんだ。あんな風にいきなり威嚇するって珍しいんだよ」

「そんな、精霊とか言われても俺にはちんぷんかんぷんですよ。例えばなんっすか?」

「俺も分かんないけど…」

地精の言葉が分かればいいが、あのイタチの姿をした地精は話ができるほど知能が高くない。どちらかと言えば、人間より動物に近い存在だ。

風精の姉妹の通訳が無ければ分からないだろう。今はそれ以上追及したとしても答えは出なさそうだ。

「まぁ、いいや。とりあえず、話が先だ」

そう言って普段寝床にしているところに座ると、エルマーにも適当にその辺に座るように伝えた。エルマーは俺の言う通りに、適当に物を退かしてそこに腰を下ろした。

「で?ミアがなんだって?」

手短に話をするように促すと、エルマーは歯切れ悪く話を始めた。

「姐さんも団長が出て少ししてから気付いたそうで…

最初、団長がすぐ戻る予定だったから後で相談するつもりだったらしいんですが、なかなか団長が戻らないからと…」

「だから何だよ?急ぎの用事なんだろ?」

その前置きをする様子が妙に癇に障った。あまりいい話ではなさそうだ。

「姐さん、少し前から体調が悪かったらしいんです。それが一昨日倒れて…なんか厄介な病気らしいです」

「ミアが?」

信じられなくてつい大きな声を出してしまった。

いつも元気にしているけど、ミアだって普通の女性だ。ありえない話じゃない。

でも、そうだとしたら、ロンメルにはテレーゼもライナもいる。テレーゼには言いにくくても、ライナの《祝福》ならミアを癒してくれるはずだ。

変な話、ミアが俺にそれを急いで伝える理由が分からない。それに、先日街道で顔を合わせたワルターは『みんな元気だよ』って言ってた…

エルマーの話に違和感を覚えて黙って考え込んでいると、エルマーは話を続けた。

「姐さんは帰ってきて欲しいって言わないですが、医者の話じゃ芳しくないようです。それに…」

何か言いかけてエルマーは一瞬言葉を飲み込んだ。

まだ何かあるのか?とうんざりしていると、想像だにしていなかった言葉に耳を疑った。

「姐さんの腹に団長の子供がいるようです。だから医者は薬を止められてて…」

「…は?」

すっと頭の中から血の気が引いた。

そんなはずがない。胤のない俺の子供ができるはずない…

一瞬、ミアが俺を裏切ったのかとショックを受けたが、すぐにそれは無いと思いなおした。

でも、もしそうであれば、エルマーは嘘を吐いている…

何のために?そんな嘘を吐いて誰が得するんだ?

「団長。街道の警備は今いる奴らに任せて、俺と一緒に戻りましょう。姐さんだって俺を報せに寄越すぐらいなんで、きっと不安なんですよ」

エルマーはそう言って俺にブルームバルトに戻るように勧めた。

病気だけなら信じたかもしれないが、俺を動かすための餌が嘘にほころびを生んだ。

エルマーの嘘に気付くと同時に、強烈な怒りが頭の中を一気に染め上げた。

俺の欠陥を…一番触れられたくないデリケートな部分を暴かれたみたいに感じて、感情のままエルマーの胸倉をつかんで怒鳴っていた。

「よくもそんな嘘が言えたな!このクソ野郎!大噓吐きが!!」

「団長!落ち着いてくださいよ!何で俺が嘘吐かなきゃいけないんですか?」

「しらばっくれるな!お前は絶対に口にしちゃならないことを言ったんだ!」

怒りで血の昇った頭では冷静に嘘を指摘することはできなかった。

完全に頭に血が昇っていて、大切な事を見逃していた…

エルマーの顔から不気味に感情が消えたのも、彼の手が怪しい動きをしたのも、太腿に走った熱のような激痛も…

「…あ…あ」

痛みに負けてエルマーから手を放してしまった。

傷自体は大きくも深くも無かったが、刺された場所を中心に痛みは痺れに変わって、それが毒だとすぐに分かった。

「目立つのは嫌だったのに…」と呟く声はゾッとするほど冷たく響いた。

✩.*˚

「尊師」と呼ぶ声が暗い部屋に反響した。

声に続いて現れたのは、全身を黒いローブに包んだ人影のような存在だ。

その足元が透き通ったように見えるのは、彼の実体がそこにいないからで、彼の肉の体ははるか遠い地にある。

幻の身体で現れた男は、私の待っていた言葉を告げた。

「尊師のお申し付け通り、《土蜘蛛》を撒きました。数日中に朗報が届くかと思います」

「うむ。ご苦労」

私の手足として働く弟子を短い返事で労った。

彼らが無ければ、私が途方もなく長い時間をかけて育ててきた組織が立ち行かなくなる。彼らは私の大切な部下であり、愛すべき子供たちだ。

報告を終えたはずの弟子は、何かを逡巡するように視線を泳がせて、透けた身体を揺らした。

「何かね?」

「恐れながら、尊師…何故、この依頼を受け入れられたのですか?」

どうやら彼は私がこの依頼を受けたことが意外だったらしい。確かに、いつもの私ならこんな何にもならない依頼を受けたりはしなかったろう。

「なんとなく、かな?」

曖昧にそう答えて、石造りの祭壇に捧げられた供物に視線を向けた。

裂いて紙縒こよりにした手紙を埋め込まれた腹を裂かれた鳥…

こんなものを知っているものがまだ存在したとはな…

私の作り出した《蜘蛛》は長い時間をかけて大きくなった…

各地に潜ませた《蜘蛛》への依頼は、近場のまとめ役の元に届けられる。まとめ役は私に直接つながっている弟子に伺いを立て、益になるのであればそれを引き受ける。

鳥を使うのは私が一人で始めた頃の古いまじないで、今では知る人間はほとんどいないだろう。鳥は私の元に現れ、私の古い記憶をくすぐった。

それがこの依頼に気を引かれた理由で、いつもならこんな何にもならない依頼を引き受けたりしない。兄弟喧嘩なんかに興味はない。しかし、この依頼が私の元に届いたという事は、少なからず私の役目に関係することだろう…

「今回は特別だ。結果次第では興味深い結果になりそうだ」

「…興味深い結果…ですか?」

弟子は私の話に困惑したような声音で返事を返した。

「そうさ。もしかしたら、時代が動くかもしれないくらいの見世物だ」

「私には尊師の尊いお考えは理解できません。この愚かな弟子に分かるようにご教授頂けないでしょうか?」

「ふむ…そうだね。私が待ち望んでいる《正義の日》のためと言えば理解できるかね?」と、私が告げると、弟子は答えを求めるのを止めて黙った。

それ以上知るのを恐れるように弟子は深く頭を垂れて、「尊師の悲願が果たされんことを…」と恭しく呟いた。

そうとも…悲願だ…

生きているのか死んでいるのか分からなくなるほど長きにわたり、私は孤独な戦いを強いられている。

仲間のほとんどは役目を終え、もうこの世にはいないというのに…

《正義》の為される日に至るまで、私の役目は終わらない。

世界の裏側から、汚れた手で人の世界に干渉して、来るべき日の用意をするのが《世界を見守る者》としての私の役目だ。

その手段がどんなものであれ、大義の為なら些細な事だ…

「ヴェルフェル公子とクラインという傭兵団長の運を試させてもらおうか」

結果がどうなろうとかまわない。その二人がどうなったところで、時の流れは誰にも止められない。

「ところで、依頼の報酬はどうなっている?」と訊ねると、弟子は福音のような喜ばしい報告を寄越した。

「金銭的にはあまり期待できませんが、依頼主には身重の妻がいるようです」と、弟子は私に朗報を告げた。

「ふむ。それは良い。産まれてくる子を我が子に迎えよう」

子供は貴重だ。私の悲願を叶えるためには、手足として従順に働く《蜘蛛》が必要なのだ。

「御意」と頷いた弟子は術を解いてその姿を消した。また薄暗いだけの部屋に一人残される。

鳥を置いた祭壇に歩み寄って、紙縒りを繋ぎ合わせた手紙を眺めた。

「これほどの憎しみを詰め込んだ呪いを寄越した男だ。それぐらいの対価は覚悟してもらわねばな…」

欲したものに釣り合うものでなければ、《対価》とは呼べないのだから…
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