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拉致
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母上の隣に座った少年は、どことなくヴォルフ兄様を思い出させた。
母上も、兄に似て線が細く儚げな雰囲気が放っておけないのだろう。落ち着いた雰囲気の少年は、多くを語らなかったが、賢く巧みな話術で母上を喜ばせた。
テーブルマナーは完璧だったし、良い家の子供のように見受けられた。
何者だろうか?
引っかかってはいたが、父上が詮索しないところを見ると、私から会話を遮ってまで確認するような事にも思えなかった。
「しかし、残念だったな。
このままでは大ビッテンフェルト卿と入れ違いになってしまいそうだな」
「せっかくお立ち寄り頂いたのに申し訳ありません」と居合わせたビッテンフェルト令息が父上に謝罪した。
「いや、私の方こそ、めでたい事があったというのに祝いの品のひとつも持たずに押しかけてすまなかった。
大ビッテンフェルト卿には、またブルームバルトに来ることがあれば、私に一言くれるように伝えてくれ。お祝いさせてもらう」
「ありがとうございます。必ずお伝え致します」
「その時はアルドも来てちょうだいね。ロンメル男爵夫妻には私から伝えておくわ」
母上はそう言って、お気に入りの少年にブルームバルトまで会いに来るように約束を取り付けていた。
そんなに気に入ったなら、小姓として連れ帰れば良いのに、と思ったが、ビッテンフェルト家の預かりとあっては勝手にできないのだろう。
「ご招待ありがとうございます。
ブルームバルトには友達がいるので、訪ねるのを楽しみにしてます」
「そうか、ブルームバルトとは縁があったのだな」と父上が頷くと、少年は嬉しそうにはにかんだ。
「僕を預かってくれているトゥーマン殿は年に一度ブルームバルトのロンメル男爵を訪ねるので、その時に知り合いました。
トゥーマン殿とも友人で、口は少し悪いですが、とても良い人です」
「あら、そのお友達は何というお名前なの?」
「スペース・クラインと申します」
母上の質問に答えた彼の口からスーの名前を聞いて驚いた。
「スーを知ってるのか?!」
慌てて身を乗り出して、椅子の音を立てた私に、父上が咳払いで注意した。
「アレクシス様…」と小声で妻からも注意を受けた。つい子供なような事をしてしまった…
音を立てた椅子を元に戻して座り直すと、少年の視線と目が合った。
「ヴェルフェル公子様はスーをご存知なのですか?」
「私は…」答えようとして、言葉に詰まった。
スーの《親友》と言いたいが、既に何年も顔すら見てない。
私が勝手に《親友》と名乗って、実はそうでも無いと思われてたら…
私は…
「スーとは《友人》だ…」と自身の口から出た素っ気ない言葉に焦燥感を覚えた。
まだ彼が私の《友人》であるだけ良いと思うべきだろう…
目の前の少年は《友人》と名乗った私にキラキラした目を向けた。
「スーはとても頼りになる友人です。
ブルームバルトでは色々と世話を焼いてくれました」
「おや?スーは人気者のようだぞ?」と父上が意地悪く笑った。
からかうような口調がさざ波の立つ心をさらに刺激した。
父上は、「良い事です」と言う私の強がりを笑って、子供につまらないことを吹き込んだ。
「すまんな。息子はしばらく親友に会えてなくて君に嫉妬してるらしい」
「父上!私はそんな子供ではありません!」
「それなら共通の友人を持つもの同士で仲良くすれば良いだろう?
ブルームバルトで顔を合わせるかもしれないしな」
父上の勝手な言葉を真に受けた子供は、私を見て笑顔を見せた。
私を笑ったのではなく、彼は人懐っこい笑顔で私に共通の話題を求めた。
「公子様から、僕の知らないスーのお話が聞きたいです」と言われて悪い気はしなかった。
スーのことを話せる相手ができたことが嬉しかった。
スーと友人であることは、私にとっての誇りだ。
「また後で話そう」と共通の友人を持つ少年と約束した。
弾む気持ちを胸の中に隠して、澄ました顔で取り繕った。
食事を済ませ、父上が「そろそろ出るか…」と皆に告げた。
ビッテンフェルト邸にもう一度立ち寄ってから、温泉地の別荘に案内してもらうということだ。
馬車が用意できたと報せがあって、皆で席を立った。
「楽しみですわ」と上機嫌なクラウディアの手には買ったばかりの扇子が握られていた。
確かにあの子供の言う通り、その紫の扇子は彼女によく似合っていた。
紫の強い色と表面に散った細かい金粉が、彼女の肌を明るく魅せていた。
「良く似合ってるな」と思ったことが言葉になって自然と口から零れた。
私が褒めたのが意外だったのか、彼女は少し驚いた顔を見せたが、すぐに笑顔を浮かべて私に応えた。
「ありがとうございます、大切に致しますわ」
笑顔で扇子を広げて見せる姿が愛らしい。
面と向かってそんなこと言えないが、持ち物を褒めるくらいなら不器用な私でもできた。
エスコートするために差し出した右腕に、ほっそりとした彼女の指が添えられた。
最初は照れくさかったが、随分慣れたと思う。
「アレクシス様。私もアレクシス様のお友達のお話を聞きたいです」とクラウディアは唐突にそんなことを口にした。
彼女の申し出には驚いたが、よくよく考えてみれば、私たちはお互いの好きな物もろくに話し合ったことがない。
まあ、それは《忙しい》で済ませてきた私のせいなのだが…
彼女は幼いながらも、精一杯、次期ヴェルフェル侯爵の妻としての務めを果たそうとしていた。
それなのに、肝心の私は女性の扱いに不器用で残念な男だ…
『一緒に扇子を選んでください』と言われたのに、『好きなのを選べばいい』などと冷たい言い方をしてしまった。
彼女には気を使わせてばかりだ…
「ありがとう」と彼女の申し出を受け取った。
「君にまだ紹介できてないが、スーは私のとても大切な友人だ。
君にも知ってもらえると嬉しい」
私の返事は多いものではなかったが、それでも彼女は満足気に微笑んでくれた。
無理に話すことはなくても、少しずつお互いを知ることはできるだろう。
私に健気に寄り添おうとしてくれる彼女と、彼女と近くなるきっかけを作ってくれた少年に、心の中で感謝した。
✩.*˚
「出かけただと?」
思ってもみなかった言葉に驚いて、そんな言葉しか出てこなかった。
てっきりビッテンフェルト邸にいると思っていたのに、アルドは外に出かけてしまったらしい。
「ヴェルフェル侯爵閣下のご希望だそうです」と、状況を知る家人から聞いた話をカペルマンが俺に伝えた。
こんな時に面倒なことになった…
気まぐれで立ち寄ったにせよ、相手が侯爵じゃブルーノやアルドには荷が重い。
大御所が居なかったのが悔やまれた…
「行先は?」
「家人の話では、服と扇子を買いに出たそうです。昼食は外で取ると仰っていたようです。
若様から、お戻りになるまでに別荘の用意を済ませるように、と指示があったようですので、おそらく一度戻ってから別荘に向かうつもりかと…」
全く…なんてこった…
苛立ちから来る頭痛に押し出されて、自分でもうんざりするようなため息が漏れた。
誰も悪くないっちゃ悪くないが、タイミングは最悪だ…
「どうなさいますか?」とカペルマンが俺の出方を確認した。
「探しに行く」と返して、脱いだばかりの防寒着にまた袖を通した。
外に出ようとして玄関に戻ると、丁度訪ねてきた荷物を持った男と出くわした。
中身は服のようだが、量が量だ。応対していた使用人もどうしたらいいのか分からずに困っていた。
男は老舗の服屋の名前を出した。腕のいい仕立て屋で、貴族や金持ちを相手に商売をしてる店だ。
「こちらにお届けするようにと…
お坊ちゃんの服を預かってきました」と荷物を持ち込んだ男が説明した。
「お坊ちゃん?」
嫌な予感がする…
ブルーノはもうお坊ちゃんと呼ぶには無理がある。
まさか余計なことしてないよな…?
「侯爵のお連れ様の金髪と青い目の綺麗なお顔のお坊ちゃんです。
支払いは、ヴェルフェル侯爵閣下が済ませておいでです。お届けするだけで良いと伺っております」
男の荷物の中に、アルドの服を見つけて絶句した。
まさか、あいつを小綺麗にしたんじゃあるまいな?!だとしたらまずい!
荷物を届けて帰ろうとした男を捕まえて、アルドの行き先を確認した。
「侯爵たちはどこ行くって言ってた?!今どこだ?!」
「え?ええっと…扇子を見に…」
扇子?モーゼル扇の工房か?
ビッテンフェルトの屋敷からだと歩いていくには距離がある。
「カペルマン。馬を借りれるか?」
「ご用意します」
無駄なことは何も言わずに、カペルマンはすぐに動いた。
馬の用意を整え、『念の為』と屋敷に居た私兵を護衛として同行させた。
「いいのか?勝手に…」
「大御所様の為です。文句を言う者はおりません」と、爺さんは大真面目な顔で答えて、俺に馬の手綱を差し出した。
「助かる」と礼を伝えて馬を借りた。
カペルマンも馬に乗ると護衛を連れて俺に着いてきた。
全く、面倒なことになった。
ため息は俺の気持ちを現したように、白く濁って広がった。
とりあえず、アルドを連れて帰る。
ただ、相手は侯爵様だ。
連弩や攻城弩の設計図を売った時に顔は会わせたが、向こうがそれを覚えているかは分からない。
相手は、俺なんて視界にすら入らないはずの人間だ。
最悪、ワルターの名前を借りるつもりでいたが、すんなりとアルドを返してくれるだろうか?
不安を抱えながら、扇子の工房に到着すると、既に侯爵一行の姿はなかった。
工房の親方は俺を覚えていた。
この親方は大御所との古くから付き合いがある。
俺はビッテンフェルトの会計もしているから、大御所が贈り物を用意する時など、金を用意が必要な時に何度か顔を合わせている。
「子供…確かにおりましたよ」
細い不健康そうな親方は珍しく上機嫌でアルドの様子を語った。
「なかなかセンスの良い子供でした。感心しましたよ。
私の作品の中でも珍しい品を選んで公子夫人におすすめしていました。
あれは苦労して作ったのですが、あの子はなかなか見る目がありますなぁ…
お若いのに、《ナーディア》を知ってるなんて感心だ」
「《ナーディア》?」
「今流行りの歌劇ですよ。フィーアに入ってきたのは数年前ですが、高貴な身分の方々がこぞって夢中になってる作品です。
侯爵夫人のお小姓のようでしたが、やはり精錬されてますな」
親方はアルドを褒めたつもりなのだろう。
その言葉が炙るように俺の気持ちを焦らせた。
「侯爵閣下御一行はどちらにいらっしゃると仰っていたかご存知ですか?」
俺の隣で話を聞いていたカペルマンが親方に訊ねた。
親方に教えられた店に向かったが、中には入れなかった。店と侯爵の連れの双方に止められた。
「お食事が終わるまでお待ちください」と柔らかい印象の赤毛の青年が応対した。
「急いでるんだ。伝えることくらいできるだろう?」
「申し訳ありません。国難とあれば別ですが、侯爵家の団欒に水を差すような事はできません。
今しばらくご辛抱下さい」
若いが侯爵家の近侍だ。しばらく問答を続けたが全く譲らない。
「トゥーマン殿、それ以上は…」
見かねたカペルマンにも止められた。カペルマンとしては、ここで侯爵の怒りを買って、大御所に累が及ぶのは避けたいのだろう。
「…仕方ない、待つ。
その代わり出てきたら話をさせてくれ」
「ご理解いただき感謝致します。
私には侯爵閣下に直接ご意見する権限はありませんので、バルテル卿にお取次ぎ致します」
俺の譲歩に青年も誠意を見せた。
青年が店に戻って、しばらくして何度か見た事のある侯爵の近侍が出てきた。
「バルツァーより話は伺いました」と言いながらも、バルテル卿は俺の要求を突っぱねることはなかったが、譲歩を求めて交渉を持ちかけた。
「侯爵閣下は久々のプライベートな時間を楽しんでおいでです。
アルド少年をトゥーマン殿に断りなく勝手に連れ出したことについては詫びます。
侯爵閣下の名誉にかけて、必ずお返し致しますので、今しばらく目を瞑っていただけないでしょうか?」
「悪いが、それは無理な相談だ。
あいつは少し前から変なのに付け回されてる。何かあってからでは遅いから、ビッテンフェルト邸に預けたんだ。
それを連れ出されたら意味が無い。
それに侯爵閣下にも迷惑がかかるかもしれない」
「それは我々が信用に足らないという意味でしょうか?」
バルテル卿の声に棘が宿った。
言い方がまずかった、と思ったが遅い。
相手は侯爵家の護衛に着いてるだけあって、それを誇りにしているのだろう。本心ではあるが、俺の言葉は焦りから危ういものになっていた。
本当の事を言う訳にもいかないが、相手の気分を害するとこも避けたい。
何よりも、それでアルドについてあれこれ詮索されるのは困る…
「申し訳ない…そんなつもりは無いが…
アルドはあの容姿だ。もし相手がキチガイじみた奴なら何をするか分からない。それが心配だっただけだ…」
「なるほど。確かに一理あります。
私も少し熱くなりました。
トゥーマン殿のお話を踏まえて、不用意に近づく者が無いように、皆に申し渡します。我々にお任せ下さい」
シンプルな答えだが、結局のところ今すぐに返すつもりは無いと言ってるようなものだ。
結局俺が折れるしかなかった…
「…どうするつもりですか?」
店に戻って行ったバルテル卿を見送って、カペルマンが訊ねた。
戻るにしても不安が多すぎる。
しかしこれ以上は侯爵の不興を買いかねない…
最悪、アルドについて調べられる可能性もある。
「アルドが出てくるまで待つ。
問題なければ俺もビッテンフェルトの屋敷に戻る」
その程度しかできない…
離れたところで一行が店から出てくるのを待った。
無事に屋敷に戻るようならそれでいい。
一時間ほど待って、ようやくそれらしい馬車が店の前に用意された。
「帰るようですな」と様子を見ていたカペルマンもため息を吐いて呟いた。
何事も無く馬車に乗ればいい。
そう思っている時だった。
馬車に乗り込もうとした一行に、遠巻きに見ていた群衆から、物乞いのような子供が出て駆け寄った。
子供は手にした籠を差し出して、何か必死に話しかけている。
侯爵夫人が可哀想に思ったのか、その子供に近寄って籠に手を伸ばした。
傍から見れば、優しい夫人が物乞いの子供に施しをしているだけだったが、話はそれで終わらなかった。
周りから悲鳴が上がった。
馬車に繋がれた馬が鳴き声をあげていきなり暴れた。
繋がれていた一頭が暴れると、他の馬もつられてパニックを起こした。
巻き込まれるのを恐れて、慌てて逃げだした人の波を外れ、一人の男が一行に素早く駆け寄った。
「アルド!」
馬が暴れたせいで護衛の騎士たちの反応も遅れた。不審者を牽制しようとした騎士が血を撒いて倒れた。
混乱の中、あっという間に、男はアルドを脇に抱えて馬を奪って逃走した。
「逃がすな!追え!」
カペルマンが下知を飛ばすと、ビッテンフェルトの私兵が馬に鞭を入れて駆け出した。
「トゥーマン殿は若様と合流してお待ちください!」と言い残して、カペルマン自身も逃げた男を追って馬に鞭を入れた。
「…アルド」
何もできなかった…
駆け抜けて行ったカペルマンらを見送った後も、その場から動けずにいた。
俺は目の前でアルドが連れ去られるのを見ていただけだ…
最悪だ…
過去の嫌な記憶が蘇る。エルマーの奴も同じ気持ちだったろう…
スーは運良く戻ってきたが、アルドは…
『僕を伯父様に渡さないで』
あの時の記憶が責めるように蘇り、吐き気を覚えて立っていられなくなる…
「トゥーマン殿!」
俺を見つけたブルーノが駆け寄ってきた。ブルーノの表情は固く、顔色も悪かった。
「申し訳ありません…アルドが…」
ブルーノの言葉はそれより先を紡がない。口に出すこともできないのだろう。
ブルーノを責めるのは簡単だ…
それでもそれは何の役にも立たないし、ビッテンフェルト邸に預けると選択したのは俺だ。
全てが裏目に出たのも俺の責任だ…
何も出来ない自分の無力を呪った…
✩.*˚
店を出て、すぐに馬車に乗って帰るはずだったのに…
僕を攫った男の人は周りには目もくれずに馬を走らせた。変な体勢で馬に乗せられたから身動きも取れない。少しでも動いたら顔から地面に落ちそうだ…
それに、僕には身を守る術は何も無い…
相手の腰に下がった剣を見て萎縮した。
怖くて何も出来ずにいると、男は追っ手を振り切って馬の足を緩めた。
「先に言っておくが、騒いだり逃げようとしたら殺す。理解したか?」
「わ…分かりました…」
震える声で何とか答えると、相手は血の着いたダガーを僕に見せた。刃には不思議な溝が掘られていた。
「これには毒が塗られてる。傷さえ与えられれば熊でも殺せる毒だ。必要なら容赦なく使う。
邪魔に入った護衛みたいになりたくなかったら覚えておけ」
僕を威嚇して、男はダガーを鞘に戻した。
彼は馬の背で僕の姿勢を変えさせると、取り出した紐で手を縛って自由を奪った。
彼はそのまま郊外に向かうと、人のいなさそうな廃屋に僕と馬を隠した。
「座れ」と言って僕を地べたに座らせると、懐から紙を取り出して僕と見比べた。
「口を開けろ」と言われたので言われた通りにした。
僕の口を覗き込んで、相手は舌打ちしていた。
なんだろう?と思って、すぐに理由を思い浮かべて背筋が凍った。
僕の舌があるから…
もし手配書に、舌の事や去勢されてる事が書かれているのなら、その情報はそれを知っている人から発信されたものだろう。
そしてその条件を知っている人は限りなく少ないはずだ…
どうしよう…
怖くて震えが止まらなくなる。
またあそこに戻されるのだろうか…
恐怖で気が狂いそうだ…
戻されれば死ぬより辛い事が待ってる。
あの伯父様が一度逃げた僕を受け入れるはずがない。次は何をされるか分からない。
前のように助けてくれる人ももう居ない…
連れ戻されれば、もう僕にはどうすることも出来ない…
ヨナタンだって、そこまでは助けてくれない…
男は怯えてる僕に名前を訊ねた。舌があることで、僕がランチェスター公子であることを疑っているのだろう。
「ア、アルド…です…
傭兵団で…拾ってもらって…雑用してます…」
言葉を選んで答えた。
人違いだと諦めてくれればいい…
祈るような気持ちで彼の続く質問に答えた。
年齢や家族の事など訊ねられたが、嘘は話さなかった。真実を所々隠しながら、答えることで、嘘をついている感覚を意識しないようにした。
相手もそれで嘘では無さそうだと僕を信用したようだ。
「なるほどな…」と呟いて、彼は僕の前にしゃがんで、もう一度口の中を確認した。
「俺の探してた人相とは少し違うようだ。
頭に確認しなきゃならんな…」
男はそう言って僕の頭に袋を被せると、廃屋にあった狭い空間に押し込んだ。
身動き取れない空間が考える時間を与えた。
逃げなきゃ…でも、どうやって?
僕は相変わらず無力な子供だ…
「…ヨナ」
心細くて彼の名前を口にした。
『前にもそういうゴタゴタに巻き込まれたことがあるが、必ず助けられる保証はない』とヨナタンは言っていた。
当然だろう。ヨナタンは神様じゃない。普通のおじさんだ…
それでも…
「…助けて、ヨナ…」
最も信頼してる人に祈ることしか僕には残されていなかった…
✩.*˚
ビッテンフェルト邸に戻って来たカペルマンらは手ぶらだった。
「逃げ切られました…面目ありません」
人通りの多い場所で巻かれたらしい。
相手は一人だったが、相当慣れているようだった。自信がなきゃ、あんな暴挙には出ないだろう。
「まだ遠くには行ってないはずです。人を増やして探させます」
「私からもよろしく頼む」と侯爵が声を発した。
「元を正せば私たちが連れ出したのが原因だ。できる限りの事はさせてもらう」
侯爵は責任を感じているようだった。
それなら最初から構わないでいて欲しかったと思うが、そんなの結果論でしかない。
侯爵を責めたところでアルドを探すのには何の役にも立たない話だ。
それなら影響力のある侯爵の力を借りる方がまだ現実的だ。
一体どこに逃げた?
ドライファッハの地図を頭の中で広げた。
ドライファッハは温泉の街だから宿屋が多い。中には潰れた宿だってある。
それが悪い方に使われる事も少なくない。
侯爵の指示で、ドライファッハに繋がる関所には通達が出されたが、そもそもそんな連中が関所なんて使うわけが無い。
結局、悪党の考えることは同じ悪党にしか分からない。
「出かけてくる」と声をかけて席を立った。
「トゥーマン殿、どちらに?」
「《雷神の拳》に行ってくる」
あそこは元悪党が揃ってる。善人の意見より役に立つはずだ。
上着を掴んで外に出た。
外は雪が降っていた。
あいつが俺から逃げて、追いかけたのも、雪の降ってる日だった…
あの時は連れ戻せたが、今回は状況が違う。
それでも俺にはあいつが必要なんだ。
寒さなんて感じなかった。
アルドの温もりを取り戻すために、雪の降る街を急いだ。
✩.*˚
表が騒がしい…
「何かあったのか?」
宿屋の外に出て訊ねると、通行人に、《侯爵襲撃》の報を聞いた。
一大事じゃないか?
侯爵の連れの子供が攫われたらしい。
無茶苦茶な人間がいるものだ…
フィーア屈指の貴族の子供を攫うなんて、リスクが高すぎる。
それだけの価値のある仕事なのだろうか?私には理解できない…
今はランチェスター公子の件で私も下手には動けないから、その話は聞かなかったことにしようとした。
「でも、攫われたのは侯爵のお小姓だって言う話だ」
話を終わらせるつもりだった私を、その言葉が引き止めた。
「小姓?」何でそんなものを?
現場を見てたという野次馬から話を聞けた。
「連れてた子供だろ?
まぁ、攫うならあの子くらいしかなかったんじゃないか?
公子様も奥方様もご無事だし、同行していたビッテンフェルトの若様にも大事なくて良かったよ」
「ビッテンフェルト?」何故その名前が出てくる?
嫌な予感がした…
「そのお小姓はどんな子供だった?」
「さあ?金髪で華奢な男の子だったな…」
たったそれだけの情報だが、虫の知らせのようなものを感じてその場を離れた。
誰も見てない路地に身を隠すと、腰に提げた雑嚢から木の鳥と数少なくなった髪の毛を取り出した。
違うなら違うでいい。
貴重な髪の毛だが、今は使うべきだろう。
魔力を与えて命を貰った小鳥は、私の手を離れて、街の中心から外れに向けて飛び立った。
舌打ちを堪えて、見失わないように小鳥の後を追った。
母上も、兄に似て線が細く儚げな雰囲気が放っておけないのだろう。落ち着いた雰囲気の少年は、多くを語らなかったが、賢く巧みな話術で母上を喜ばせた。
テーブルマナーは完璧だったし、良い家の子供のように見受けられた。
何者だろうか?
引っかかってはいたが、父上が詮索しないところを見ると、私から会話を遮ってまで確認するような事にも思えなかった。
「しかし、残念だったな。
このままでは大ビッテンフェルト卿と入れ違いになってしまいそうだな」
「せっかくお立ち寄り頂いたのに申し訳ありません」と居合わせたビッテンフェルト令息が父上に謝罪した。
「いや、私の方こそ、めでたい事があったというのに祝いの品のひとつも持たずに押しかけてすまなかった。
大ビッテンフェルト卿には、またブルームバルトに来ることがあれば、私に一言くれるように伝えてくれ。お祝いさせてもらう」
「ありがとうございます。必ずお伝え致します」
「その時はアルドも来てちょうだいね。ロンメル男爵夫妻には私から伝えておくわ」
母上はそう言って、お気に入りの少年にブルームバルトまで会いに来るように約束を取り付けていた。
そんなに気に入ったなら、小姓として連れ帰れば良いのに、と思ったが、ビッテンフェルト家の預かりとあっては勝手にできないのだろう。
「ご招待ありがとうございます。
ブルームバルトには友達がいるので、訪ねるのを楽しみにしてます」
「そうか、ブルームバルトとは縁があったのだな」と父上が頷くと、少年は嬉しそうにはにかんだ。
「僕を預かってくれているトゥーマン殿は年に一度ブルームバルトのロンメル男爵を訪ねるので、その時に知り合いました。
トゥーマン殿とも友人で、口は少し悪いですが、とても良い人です」
「あら、そのお友達は何というお名前なの?」
「スペース・クラインと申します」
母上の質問に答えた彼の口からスーの名前を聞いて驚いた。
「スーを知ってるのか?!」
慌てて身を乗り出して、椅子の音を立てた私に、父上が咳払いで注意した。
「アレクシス様…」と小声で妻からも注意を受けた。つい子供なような事をしてしまった…
音を立てた椅子を元に戻して座り直すと、少年の視線と目が合った。
「ヴェルフェル公子様はスーをご存知なのですか?」
「私は…」答えようとして、言葉に詰まった。
スーの《親友》と言いたいが、既に何年も顔すら見てない。
私が勝手に《親友》と名乗って、実はそうでも無いと思われてたら…
私は…
「スーとは《友人》だ…」と自身の口から出た素っ気ない言葉に焦燥感を覚えた。
まだ彼が私の《友人》であるだけ良いと思うべきだろう…
目の前の少年は《友人》と名乗った私にキラキラした目を向けた。
「スーはとても頼りになる友人です。
ブルームバルトでは色々と世話を焼いてくれました」
「おや?スーは人気者のようだぞ?」と父上が意地悪く笑った。
からかうような口調がさざ波の立つ心をさらに刺激した。
父上は、「良い事です」と言う私の強がりを笑って、子供につまらないことを吹き込んだ。
「すまんな。息子はしばらく親友に会えてなくて君に嫉妬してるらしい」
「父上!私はそんな子供ではありません!」
「それなら共通の友人を持つもの同士で仲良くすれば良いだろう?
ブルームバルトで顔を合わせるかもしれないしな」
父上の勝手な言葉を真に受けた子供は、私を見て笑顔を見せた。
私を笑ったのではなく、彼は人懐っこい笑顔で私に共通の話題を求めた。
「公子様から、僕の知らないスーのお話が聞きたいです」と言われて悪い気はしなかった。
スーのことを話せる相手ができたことが嬉しかった。
スーと友人であることは、私にとっての誇りだ。
「また後で話そう」と共通の友人を持つ少年と約束した。
弾む気持ちを胸の中に隠して、澄ました顔で取り繕った。
食事を済ませ、父上が「そろそろ出るか…」と皆に告げた。
ビッテンフェルト邸にもう一度立ち寄ってから、温泉地の別荘に案内してもらうということだ。
馬車が用意できたと報せがあって、皆で席を立った。
「楽しみですわ」と上機嫌なクラウディアの手には買ったばかりの扇子が握られていた。
確かにあの子供の言う通り、その紫の扇子は彼女によく似合っていた。
紫の強い色と表面に散った細かい金粉が、彼女の肌を明るく魅せていた。
「良く似合ってるな」と思ったことが言葉になって自然と口から零れた。
私が褒めたのが意外だったのか、彼女は少し驚いた顔を見せたが、すぐに笑顔を浮かべて私に応えた。
「ありがとうございます、大切に致しますわ」
笑顔で扇子を広げて見せる姿が愛らしい。
面と向かってそんなこと言えないが、持ち物を褒めるくらいなら不器用な私でもできた。
エスコートするために差し出した右腕に、ほっそりとした彼女の指が添えられた。
最初は照れくさかったが、随分慣れたと思う。
「アレクシス様。私もアレクシス様のお友達のお話を聞きたいです」とクラウディアは唐突にそんなことを口にした。
彼女の申し出には驚いたが、よくよく考えてみれば、私たちはお互いの好きな物もろくに話し合ったことがない。
まあ、それは《忙しい》で済ませてきた私のせいなのだが…
彼女は幼いながらも、精一杯、次期ヴェルフェル侯爵の妻としての務めを果たそうとしていた。
それなのに、肝心の私は女性の扱いに不器用で残念な男だ…
『一緒に扇子を選んでください』と言われたのに、『好きなのを選べばいい』などと冷たい言い方をしてしまった。
彼女には気を使わせてばかりだ…
「ありがとう」と彼女の申し出を受け取った。
「君にまだ紹介できてないが、スーは私のとても大切な友人だ。
君にも知ってもらえると嬉しい」
私の返事は多いものではなかったが、それでも彼女は満足気に微笑んでくれた。
無理に話すことはなくても、少しずつお互いを知ることはできるだろう。
私に健気に寄り添おうとしてくれる彼女と、彼女と近くなるきっかけを作ってくれた少年に、心の中で感謝した。
✩.*˚
「出かけただと?」
思ってもみなかった言葉に驚いて、そんな言葉しか出てこなかった。
てっきりビッテンフェルト邸にいると思っていたのに、アルドは外に出かけてしまったらしい。
「ヴェルフェル侯爵閣下のご希望だそうです」と、状況を知る家人から聞いた話をカペルマンが俺に伝えた。
こんな時に面倒なことになった…
気まぐれで立ち寄ったにせよ、相手が侯爵じゃブルーノやアルドには荷が重い。
大御所が居なかったのが悔やまれた…
「行先は?」
「家人の話では、服と扇子を買いに出たそうです。昼食は外で取ると仰っていたようです。
若様から、お戻りになるまでに別荘の用意を済ませるように、と指示があったようですので、おそらく一度戻ってから別荘に向かうつもりかと…」
全く…なんてこった…
苛立ちから来る頭痛に押し出されて、自分でもうんざりするようなため息が漏れた。
誰も悪くないっちゃ悪くないが、タイミングは最悪だ…
「どうなさいますか?」とカペルマンが俺の出方を確認した。
「探しに行く」と返して、脱いだばかりの防寒着にまた袖を通した。
外に出ようとして玄関に戻ると、丁度訪ねてきた荷物を持った男と出くわした。
中身は服のようだが、量が量だ。応対していた使用人もどうしたらいいのか分からずに困っていた。
男は老舗の服屋の名前を出した。腕のいい仕立て屋で、貴族や金持ちを相手に商売をしてる店だ。
「こちらにお届けするようにと…
お坊ちゃんの服を預かってきました」と荷物を持ち込んだ男が説明した。
「お坊ちゃん?」
嫌な予感がする…
ブルーノはもうお坊ちゃんと呼ぶには無理がある。
まさか余計なことしてないよな…?
「侯爵のお連れ様の金髪と青い目の綺麗なお顔のお坊ちゃんです。
支払いは、ヴェルフェル侯爵閣下が済ませておいでです。お届けするだけで良いと伺っております」
男の荷物の中に、アルドの服を見つけて絶句した。
まさか、あいつを小綺麗にしたんじゃあるまいな?!だとしたらまずい!
荷物を届けて帰ろうとした男を捕まえて、アルドの行き先を確認した。
「侯爵たちはどこ行くって言ってた?!今どこだ?!」
「え?ええっと…扇子を見に…」
扇子?モーゼル扇の工房か?
ビッテンフェルトの屋敷からだと歩いていくには距離がある。
「カペルマン。馬を借りれるか?」
「ご用意します」
無駄なことは何も言わずに、カペルマンはすぐに動いた。
馬の用意を整え、『念の為』と屋敷に居た私兵を護衛として同行させた。
「いいのか?勝手に…」
「大御所様の為です。文句を言う者はおりません」と、爺さんは大真面目な顔で答えて、俺に馬の手綱を差し出した。
「助かる」と礼を伝えて馬を借りた。
カペルマンも馬に乗ると護衛を連れて俺に着いてきた。
全く、面倒なことになった。
ため息は俺の気持ちを現したように、白く濁って広がった。
とりあえず、アルドを連れて帰る。
ただ、相手は侯爵様だ。
連弩や攻城弩の設計図を売った時に顔は会わせたが、向こうがそれを覚えているかは分からない。
相手は、俺なんて視界にすら入らないはずの人間だ。
最悪、ワルターの名前を借りるつもりでいたが、すんなりとアルドを返してくれるだろうか?
不安を抱えながら、扇子の工房に到着すると、既に侯爵一行の姿はなかった。
工房の親方は俺を覚えていた。
この親方は大御所との古くから付き合いがある。
俺はビッテンフェルトの会計もしているから、大御所が贈り物を用意する時など、金を用意が必要な時に何度か顔を合わせている。
「子供…確かにおりましたよ」
細い不健康そうな親方は珍しく上機嫌でアルドの様子を語った。
「なかなかセンスの良い子供でした。感心しましたよ。
私の作品の中でも珍しい品を選んで公子夫人におすすめしていました。
あれは苦労して作ったのですが、あの子はなかなか見る目がありますなぁ…
お若いのに、《ナーディア》を知ってるなんて感心だ」
「《ナーディア》?」
「今流行りの歌劇ですよ。フィーアに入ってきたのは数年前ですが、高貴な身分の方々がこぞって夢中になってる作品です。
侯爵夫人のお小姓のようでしたが、やはり精錬されてますな」
親方はアルドを褒めたつもりなのだろう。
その言葉が炙るように俺の気持ちを焦らせた。
「侯爵閣下御一行はどちらにいらっしゃると仰っていたかご存知ですか?」
俺の隣で話を聞いていたカペルマンが親方に訊ねた。
親方に教えられた店に向かったが、中には入れなかった。店と侯爵の連れの双方に止められた。
「お食事が終わるまでお待ちください」と柔らかい印象の赤毛の青年が応対した。
「急いでるんだ。伝えることくらいできるだろう?」
「申し訳ありません。国難とあれば別ですが、侯爵家の団欒に水を差すような事はできません。
今しばらくご辛抱下さい」
若いが侯爵家の近侍だ。しばらく問答を続けたが全く譲らない。
「トゥーマン殿、それ以上は…」
見かねたカペルマンにも止められた。カペルマンとしては、ここで侯爵の怒りを買って、大御所に累が及ぶのは避けたいのだろう。
「…仕方ない、待つ。
その代わり出てきたら話をさせてくれ」
「ご理解いただき感謝致します。
私には侯爵閣下に直接ご意見する権限はありませんので、バルテル卿にお取次ぎ致します」
俺の譲歩に青年も誠意を見せた。
青年が店に戻って、しばらくして何度か見た事のある侯爵の近侍が出てきた。
「バルツァーより話は伺いました」と言いながらも、バルテル卿は俺の要求を突っぱねることはなかったが、譲歩を求めて交渉を持ちかけた。
「侯爵閣下は久々のプライベートな時間を楽しんでおいでです。
アルド少年をトゥーマン殿に断りなく勝手に連れ出したことについては詫びます。
侯爵閣下の名誉にかけて、必ずお返し致しますので、今しばらく目を瞑っていただけないでしょうか?」
「悪いが、それは無理な相談だ。
あいつは少し前から変なのに付け回されてる。何かあってからでは遅いから、ビッテンフェルト邸に預けたんだ。
それを連れ出されたら意味が無い。
それに侯爵閣下にも迷惑がかかるかもしれない」
「それは我々が信用に足らないという意味でしょうか?」
バルテル卿の声に棘が宿った。
言い方がまずかった、と思ったが遅い。
相手は侯爵家の護衛に着いてるだけあって、それを誇りにしているのだろう。本心ではあるが、俺の言葉は焦りから危ういものになっていた。
本当の事を言う訳にもいかないが、相手の気分を害するとこも避けたい。
何よりも、それでアルドについてあれこれ詮索されるのは困る…
「申し訳ない…そんなつもりは無いが…
アルドはあの容姿だ。もし相手がキチガイじみた奴なら何をするか分からない。それが心配だっただけだ…」
「なるほど。確かに一理あります。
私も少し熱くなりました。
トゥーマン殿のお話を踏まえて、不用意に近づく者が無いように、皆に申し渡します。我々にお任せ下さい」
シンプルな答えだが、結局のところ今すぐに返すつもりは無いと言ってるようなものだ。
結局俺が折れるしかなかった…
「…どうするつもりですか?」
店に戻って行ったバルテル卿を見送って、カペルマンが訊ねた。
戻るにしても不安が多すぎる。
しかしこれ以上は侯爵の不興を買いかねない…
最悪、アルドについて調べられる可能性もある。
「アルドが出てくるまで待つ。
問題なければ俺もビッテンフェルトの屋敷に戻る」
その程度しかできない…
離れたところで一行が店から出てくるのを待った。
無事に屋敷に戻るようならそれでいい。
一時間ほど待って、ようやくそれらしい馬車が店の前に用意された。
「帰るようですな」と様子を見ていたカペルマンもため息を吐いて呟いた。
何事も無く馬車に乗ればいい。
そう思っている時だった。
馬車に乗り込もうとした一行に、遠巻きに見ていた群衆から、物乞いのような子供が出て駆け寄った。
子供は手にした籠を差し出して、何か必死に話しかけている。
侯爵夫人が可哀想に思ったのか、その子供に近寄って籠に手を伸ばした。
傍から見れば、優しい夫人が物乞いの子供に施しをしているだけだったが、話はそれで終わらなかった。
周りから悲鳴が上がった。
馬車に繋がれた馬が鳴き声をあげていきなり暴れた。
繋がれていた一頭が暴れると、他の馬もつられてパニックを起こした。
巻き込まれるのを恐れて、慌てて逃げだした人の波を外れ、一人の男が一行に素早く駆け寄った。
「アルド!」
馬が暴れたせいで護衛の騎士たちの反応も遅れた。不審者を牽制しようとした騎士が血を撒いて倒れた。
混乱の中、あっという間に、男はアルドを脇に抱えて馬を奪って逃走した。
「逃がすな!追え!」
カペルマンが下知を飛ばすと、ビッテンフェルトの私兵が馬に鞭を入れて駆け出した。
「トゥーマン殿は若様と合流してお待ちください!」と言い残して、カペルマン自身も逃げた男を追って馬に鞭を入れた。
「…アルド」
何もできなかった…
駆け抜けて行ったカペルマンらを見送った後も、その場から動けずにいた。
俺は目の前でアルドが連れ去られるのを見ていただけだ…
最悪だ…
過去の嫌な記憶が蘇る。エルマーの奴も同じ気持ちだったろう…
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『僕を伯父様に渡さないで』
あの時の記憶が責めるように蘇り、吐き気を覚えて立っていられなくなる…
「トゥーマン殿!」
俺を見つけたブルーノが駆け寄ってきた。ブルーノの表情は固く、顔色も悪かった。
「申し訳ありません…アルドが…」
ブルーノの言葉はそれより先を紡がない。口に出すこともできないのだろう。
ブルーノを責めるのは簡単だ…
それでもそれは何の役にも立たないし、ビッテンフェルト邸に預けると選択したのは俺だ。
全てが裏目に出たのも俺の責任だ…
何も出来ない自分の無力を呪った…
✩.*˚
店を出て、すぐに馬車に乗って帰るはずだったのに…
僕を攫った男の人は周りには目もくれずに馬を走らせた。変な体勢で馬に乗せられたから身動きも取れない。少しでも動いたら顔から地面に落ちそうだ…
それに、僕には身を守る術は何も無い…
相手の腰に下がった剣を見て萎縮した。
怖くて何も出来ずにいると、男は追っ手を振り切って馬の足を緩めた。
「先に言っておくが、騒いだり逃げようとしたら殺す。理解したか?」
「わ…分かりました…」
震える声で何とか答えると、相手は血の着いたダガーを僕に見せた。刃には不思議な溝が掘られていた。
「これには毒が塗られてる。傷さえ与えられれば熊でも殺せる毒だ。必要なら容赦なく使う。
邪魔に入った護衛みたいになりたくなかったら覚えておけ」
僕を威嚇して、男はダガーを鞘に戻した。
彼は馬の背で僕の姿勢を変えさせると、取り出した紐で手を縛って自由を奪った。
彼はそのまま郊外に向かうと、人のいなさそうな廃屋に僕と馬を隠した。
「座れ」と言って僕を地べたに座らせると、懐から紙を取り出して僕と見比べた。
「口を開けろ」と言われたので言われた通りにした。
僕の口を覗き込んで、相手は舌打ちしていた。
なんだろう?と思って、すぐに理由を思い浮かべて背筋が凍った。
僕の舌があるから…
もし手配書に、舌の事や去勢されてる事が書かれているのなら、その情報はそれを知っている人から発信されたものだろう。
そしてその条件を知っている人は限りなく少ないはずだ…
どうしよう…
怖くて震えが止まらなくなる。
またあそこに戻されるのだろうか…
恐怖で気が狂いそうだ…
戻されれば死ぬより辛い事が待ってる。
あの伯父様が一度逃げた僕を受け入れるはずがない。次は何をされるか分からない。
前のように助けてくれる人ももう居ない…
連れ戻されれば、もう僕にはどうすることも出来ない…
ヨナタンだって、そこまでは助けてくれない…
男は怯えてる僕に名前を訊ねた。舌があることで、僕がランチェスター公子であることを疑っているのだろう。
「ア、アルド…です…
傭兵団で…拾ってもらって…雑用してます…」
言葉を選んで答えた。
人違いだと諦めてくれればいい…
祈るような気持ちで彼の続く質問に答えた。
年齢や家族の事など訊ねられたが、嘘は話さなかった。真実を所々隠しながら、答えることで、嘘をついている感覚を意識しないようにした。
相手もそれで嘘では無さそうだと僕を信用したようだ。
「なるほどな…」と呟いて、彼は僕の前にしゃがんで、もう一度口の中を確認した。
「俺の探してた人相とは少し違うようだ。
頭に確認しなきゃならんな…」
男はそう言って僕の頭に袋を被せると、廃屋にあった狭い空間に押し込んだ。
身動き取れない空間が考える時間を与えた。
逃げなきゃ…でも、どうやって?
僕は相変わらず無力な子供だ…
「…ヨナ」
心細くて彼の名前を口にした。
『前にもそういうゴタゴタに巻き込まれたことがあるが、必ず助けられる保証はない』とヨナタンは言っていた。
当然だろう。ヨナタンは神様じゃない。普通のおじさんだ…
それでも…
「…助けて、ヨナ…」
最も信頼してる人に祈ることしか僕には残されていなかった…
✩.*˚
ビッテンフェルト邸に戻って来たカペルマンらは手ぶらだった。
「逃げ切られました…面目ありません」
人通りの多い場所で巻かれたらしい。
相手は一人だったが、相当慣れているようだった。自信がなきゃ、あんな暴挙には出ないだろう。
「まだ遠くには行ってないはずです。人を増やして探させます」
「私からもよろしく頼む」と侯爵が声を発した。
「元を正せば私たちが連れ出したのが原因だ。できる限りの事はさせてもらう」
侯爵は責任を感じているようだった。
それなら最初から構わないでいて欲しかったと思うが、そんなの結果論でしかない。
侯爵を責めたところでアルドを探すのには何の役にも立たない話だ。
それなら影響力のある侯爵の力を借りる方がまだ現実的だ。
一体どこに逃げた?
ドライファッハの地図を頭の中で広げた。
ドライファッハは温泉の街だから宿屋が多い。中には潰れた宿だってある。
それが悪い方に使われる事も少なくない。
侯爵の指示で、ドライファッハに繋がる関所には通達が出されたが、そもそもそんな連中が関所なんて使うわけが無い。
結局、悪党の考えることは同じ悪党にしか分からない。
「出かけてくる」と声をかけて席を立った。
「トゥーマン殿、どちらに?」
「《雷神の拳》に行ってくる」
あそこは元悪党が揃ってる。善人の意見より役に立つはずだ。
上着を掴んで外に出た。
外は雪が降っていた。
あいつが俺から逃げて、追いかけたのも、雪の降ってる日だった…
あの時は連れ戻せたが、今回は状況が違う。
それでも俺にはあいつが必要なんだ。
寒さなんて感じなかった。
アルドの温もりを取り戻すために、雪の降る街を急いだ。
✩.*˚
表が騒がしい…
「何かあったのか?」
宿屋の外に出て訊ねると、通行人に、《侯爵襲撃》の報を聞いた。
一大事じゃないか?
侯爵の連れの子供が攫われたらしい。
無茶苦茶な人間がいるものだ…
フィーア屈指の貴族の子供を攫うなんて、リスクが高すぎる。
それだけの価値のある仕事なのだろうか?私には理解できない…
今はランチェスター公子の件で私も下手には動けないから、その話は聞かなかったことにしようとした。
「でも、攫われたのは侯爵のお小姓だって言う話だ」
話を終わらせるつもりだった私を、その言葉が引き止めた。
「小姓?」何でそんなものを?
現場を見てたという野次馬から話を聞けた。
「連れてた子供だろ?
まぁ、攫うならあの子くらいしかなかったんじゃないか?
公子様も奥方様もご無事だし、同行していたビッテンフェルトの若様にも大事なくて良かったよ」
「ビッテンフェルト?」何故その名前が出てくる?
嫌な予感がした…
「そのお小姓はどんな子供だった?」
「さあ?金髪で華奢な男の子だったな…」
たったそれだけの情報だが、虫の知らせのようなものを感じてその場を離れた。
誰も見てない路地に身を隠すと、腰に提げた雑嚢から木の鳥と数少なくなった髪の毛を取り出した。
違うなら違うでいい。
貴重な髪の毛だが、今は使うべきだろう。
魔力を与えて命を貰った小鳥は、私の手を離れて、街の中心から外れに向けて飛び立った。
舌打ちを堪えて、見失わないように小鳥の後を追った。
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