燕の軌跡

猫絵師

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「おい!爺さん!あんたスーに何したんだよ!」

イザークがレプシウス様に食ってかかった。

戻って来たスーの様子はおかしくて、あたしもルドも心配だった。

スーは、あたしやルドが話しかけても、魂が抜けたみたいにボーとしていた。そして、時折泣きそうな表情を浮かべて落ち込んでいた。

『ルド、寝に行こう』と言って、元気の無いスーは、ルドを連れて部屋に戻って行った。

そんなスーの姿を見ていられなかったのか、イザークは現れたレプシウス様に掴みかかって怒鳴りつけた。

「あいつがおかしくなったのは、あんたが呼び出してからだろう?!

スーに何したんだよ?!」

「レプシウス様!」「やめてください!」

少女らの悲鳴に、イザークも僅かに怯んだようだったが、彼はレプシウス様を離さなかった。

「二人とも下がりなさい」と落ち着いた声でレプシウス様はリリィとベスに声をかけた。

「私は大丈夫です。こんなことは珍しくもありませんよ」

柔らかな声で少女らを落ち着かせて、レプシウス様は自分につかみかかっている男にも同じように優しく語りかけた。

「スーとはお話をしただけです。

これ以上は、スーの問題ですので、貴方方にお話することはできません」

「馬鹿にしてんのか?!

俺はあいつを守るために着いてきてんだ!

あいつのあんな姿見て、はいそうですかって引き下がるわけねぇだろうが!」

「守秘義務というものがあります。

私は治癒魔導師として、彼の秘密を守る責任があります」

「てめぇ!」吠えたイザークが拳を握って振り上げた。少女たちが引きつった悲鳴を上げた。

「イザーク!やめて!」

咄嗟に声を上げたが間に合わない。

拳で殴る音と悲鳴が上がった。

レプシウス様はよろけたが、実際に殴られたのはイザークの方だ。

「いい加減にしろ…てめぇ、団長の顔に泥を塗る気か?」

ディルクは低く唸るような声でイザークに凄んだ。ディルクに顔を殴られて、イザークは鼻血を出していた。

「これは随分と荒っぽい止め方ですね」とレプシウス様はゆったりとした声で苦言を呈した。

「こうしなきゃ、このバカは止まらねぇんだ。

それに、あんたを殴ったら、こいつはこんなもんじゃ済まないからな…

俺が助けたのはあんたじゃなくてこいつの方だ」

「なるほど。確かに」とレプシウス様は頷いてイザークに歩み寄った。

彼は自分を殴ろうとした男を癒して、余裕だった種明かしをした。

「私を殴れば、同じ条件で返って来る魔法が発動するところでしたよ。

それに、弟子たちが黙っていなかったでしょう…

もういいです、リリィ。こんなところでそれは勘弁してください」

レプシウス様は威嚇する猫のように髪の毛を膨らませた少女を宥めた。

彼女はピシピシと亀裂の入るような音と、光の瞬きを纏っていた。

「…その人間はレプシウス様に手を上げました」

「そうですね。でも未遂です。許してあげてください。

雷精を纏っていては私も君に触れられませんから」

リリィはレプシウス様に言われた通りに魔法を解除した。

スーと同じような魔法だろうか?

詳しくないから分からないけど、静電気で膨らんだ髪は、魔法が失われるとゆっくりと萎んだ。

「いい子ですね」

レプシウス様はそう言って両手を広げると、リリィとベスを自分の手元に招いた。

「さて…お見苦しいところをお見せしましたね。

ミア、貴女に話があったのですが、少しお時間を頂いてもよろしいですか?」

「あ、はい」と応じると、ディルクがレプシウス様との間に割り込んだ。

「大丈夫なんだろうな?」と彼は私の心配をした。

「話をするだけです。ご心配には及びません」

「ディルク、大丈夫だから。スーとルドをお願いね」

「俺も…」

「いいよ、子供じゃないんだから。あたしは大丈夫」

ディルクの肩を叩いて明るく振舞ったけど、強がりは見透かされていた。

ディルクは眉間に皺を寄せて怖い顔をしていた。

レプシウス様はあたしを静かな別の部屋に案内した。

「どうぞ」

レプシウス師様は手ずから入れたお茶を振舞ってくれた。出されたお茶は優しい花の香りがした。頂戴すると少し不安が紛れた。

「美味しいです」

「それは良かった。私の調合です。帰る時にお土産にお渡ししましょう」

「さっきはすみませんでした。

イザークが…」

「大丈夫です。私は慣れています。よくあることですからお気になさらないでください」とレプシウス様はやんわりとした口調で答えた。

「この仕事は名誉のある職ですが、感謝される以上に憎まれる仕事でもあります。

治癒魔導師が不足しているのは、能力もそうですが、心を削る仕事だからというのもあるのでしょう。

私も一度はこの仕事から逃げ出した臆病者です…」

「そんなことが?」

「昔の話です。お気になさらず」とレプシウス様は思い出したように笑った。

白い髭の下の、どこか哀愁を帯びた笑みが目を引いた。

こんなすごい人でも悩むんだ…

そんな当たり前のことで、目の前の老人に親近感を覚えた。

「まぁ、そんな話は面白くもないでしょう。

それより、以前からミアにお聞きしたいことがあったのです。

私の好奇心のようなものですが、どうか怒らないで聞いてください」

「何ですか?」

どんな話かと身構えたが、レプシウス様の口から出たのは意外な質問だった。

「スーを愛していますか?」

「え?…あ、はい」何でそんなことを訊かれたのか分からず、変な感じになってしまった。

レプシウス様は私の反応に、「そうですか」と呟いて微笑んだ。

「失礼しました。当たり前のことですが、確認したかったのです。

どうして一緒になる決意をされたのか、差し支えなければお伺いしたいのです」

「それは…なんというか…」返事に窮した。

何でそんな事訊くんだろう?

スーと一緒になった決め手?あるような無いような…

「根負けしたみたいな感じかな?」と答えた。でもこれってなんか言い方悪いな…

「あの子健気で、『自分は二番でいいから』って言ってくれて、あたしにエルマーを忘れなくていいって言ってくれたから…

ルドのことも大事にしてくれてたし、あの子もよく懐いてたし…

それに、ルドにだって父親は必要だと思うし…

なんか上手く言えないけど…」

「スーでなくても良かったのですか?」

「え?」

「失礼。気を悪くしたなら謝ります。

しかし、同じ事を言ってくれる人であれば、ルドの父親は、スーでなくても良かったのではないかと思いまして…」

レプシウス様は何を言っているのだろう?

意図のわからない話に困惑した。

確かにそう言われると、そうかもしれないけど…

「そんなふうに思ったことは無いです…」と答えて膝の上で手を握った。

スーじゃなければ一緒にならなかった…

「あたしにとっては…エルマーはまだ大切な人だから…」

忘れられない人の笑顔が脳裏を過った…

あたしはまだ、未練たらしく彼を愛している…

「上手く言えないけど…

あたしたちはエルマーで繋がってるから…

他の人が同じことを言ったって、全然意味が違うんです。

上手く言えないけど…多分…そうだから…」

『俺は兄貴の次でいいよ』と言ってくれたのは本心で、彼はエルマーを忘れなくて良いと言ってくれた。

ルドも愛してくれた。

あたしが今もエルマーを忘れずに、好きなままでいられるのは、スーのおかげだ…

スー以外の父親が、ルドをあそこまで愛してくれたかも正直微妙だ…

「あたしはスーじゃなきゃ、あたしを嫌いになってたから…

ルドの父親を選べなかったと思うから…スーがいいんです」

今までスーにも言わずにいた思いを口にして、自分がスーを選んだ理由を再確認した。

「そうですか…」とレプシウス様が呟いて、頷く気配がした。

「それを聞けて安心しました。

ミアの気持ちを聞くことができて良かったです。

スーを愛してくれてありがとうございます」

レプシウス様は、相変わらず穏やかで優しい声でそう言って微笑んだ。

「君たちは困難も越えられそうです」と言ったレプシウス様に恐る恐る話の趣旨を訊ねた。

「あの…別れろって話じゃないんですか?

あたしに何か問題があるんでしょうか?」

「そんな野暮ったい事は言いませんよ。

貴女はルドを産んでいますし、健康そうです。月のものも来ているのであれば、子供は自然と授かるでしょう」

レプシウス様は嘘を言ってる様子はなかった。

それを聞いて、胸を撫で下ろしたが、同時に、別の不安があたしを襲った。

じゃぁ、スーは何であんなに落ち込んでいたのだろう?

「あの、スーは…」

訪ねようとしたあたしに、レプシウス様は自分の口に指先を当てて、言葉を遮った。

「ミア、スーの様子を訊いてもよろしいですか?」と逆に質問された。

「スーですか?

落ち込んだ様子で部屋に戻りました。

ルドに『寝に行こう』って…」

「なるほど」とレプシウス様は一人で頷いた。

訳が分からず困惑する私を一瞥して、レプシウス様は考え込むように口を閉ざした。

ゆっくりと髭を撫でながら、考え込むレプシウス様に話しかけることもできず、彼からの次の言葉を待った。

短い時間がとても長く感じられた。

どんな言葉が出てくるのかと思っていると、レプシウス様は口を開いた。

「ミア、今からお部屋にお邪魔しても構いませんか?」

「え?でも、スーが…」

「彼一人では貴女に話を切り出すことすらできないでしょうから、お節介かと思いますが一緒に話をしましょう」

「彼に何があったのかは、教えて貰えないんですか?」

「彼のいない所で話すのは、お互いのためにならないかと思います。

おそらく、お互いに変な気を使って、話もままならなくなるでしょう。

私が間に入って、足らない言葉を補いますので、今から三人でお話しましょう」

「…分かりました、お願いします」

一体どんな話だろう?

不安になる胸騒ぎを抱えたまま、レプシウス様に促されるまま席を立った。

✩.*˚

「パパ…大丈夫?」

優しい子供は落ち込む俺を心配して、なかなか寝ようとしなかった。

ルドを言い訳に席を外したが、ディルクやイザークを前にしても、強がることすらできずに逃げ出した…

「大丈夫だよ」と心とは真逆の返事を返して、ベッドに転がる子供の髪を撫でた。

「ルドは優しいね」と言いながら、彼にそっくりな人の面影を重ねていた。

「ルドは…俺の大好きだった人にそっくりだ…」と口にしていた。

「それ、だあれ?」

「ルドがもっと大きくなったら教えてやるよ」と言って、服の上から首飾りに触れた。

エルマーから貰った夜光貝の首飾りは、まだ幼いルドには大きかった。

「その人、会える?」

「もう会えないな…残念だけど…」

「寂しい?」

「うん。会えたら会いたいよ。

でも俺にはルドもミアもいるから、寂しくないよ」

エルマーにそっくりな幼い子供は、心まで彼に似ていた。

彼だったら、今の俺に何て言ってくれたかな?

「パパ」と俺の事を呼ぶのは俺とは血の繋がりのない存在だ…

それでも俺は本当にルドの《パパ》になりたかった…

ミアとの子供が欲しかったんだ…

本当の家族になり損ねた気がして、俺の生き物としての欠陥を恥じた。

ベッドについた手に視線を落として、泣きそうになる顔を伏せた。

「パパ」と子供の声が俺を呼んで小さな暖かい手が伸びて、俺を求めてくれた。

「お手々つないで」とルドは簡単な誰にでもできるお願いをして、はにかんだ。

彼の求めに応じると、ポカポカと温かい、眠くなる子供の体温が手に伝わった。

きっと眠たいんだろうな…でも俺が心配で寝れないんだ…

「ルドね…パパとママと一緒にいられて嬉しいよ。

フィーちゃまやケヴィンや、みんなが居ないのは寂しいけど、パパとママがずっと一緒にいてくれるから、ルド嬉しいの」

「そうだな」と頷いた。

確かに、ミアはロンメルの屋敷で忙しく働いていたし、俺も団長になってすることが増えた。

忙しくて、ルドとミアと過ごす時間は少なくなっていたから、三人で過ごすこの時間は貴重だろう。

「明日何する?」と訊ねるとルドは、にへっと気の抜けるような顔で可愛く笑った。

「お散歩する。絵本も見たい」

「分かったよ。じゃあもう寝て、また明日な」

「うん。約束」と応えて、ルドは俺の手を握り返した。

温もりが手を伝って心にまで届いた。

俺は我儘だったのかな…

こんなにいい子がいるのに、欲張りすぎだったかもしれない…

ルドが眠ってからベッドを離れて窓に近付いた。

外からの冷気で窓辺は冷えていたから、頭を冷やすのにちょうどいい。

窓ガラスは結露で曇っていた。

ミアになんて言おう…

自分から切り出す勇気はなかった。

彼女を失望させるのは目に見えていたから…

子供を作れない相手とパートナーであるメリットは今の彼女には無いだろう。

既に子供もいるし、彼女には安定した職がある。

俺に頼らなくても生きていける。

でも、俺は彼女とルドを手放したくなかった。

控えめなノックの音がして、ドアに視線を向けた。

ゆっくりと開いたドアからミアが顔を覗かせた。

「…ルド、寝た?」

「うん」と頷くと、ミアはドアから半分覗いたまま、俺に手招きした。

応じない理由もないから、彼女に歩み寄ると、ミアは俺を手繰り寄せるように手を握った。

「大丈夫?」と、彼女はルドと同じく俺を心配した。

やっぱり優しいな、とまた彼女を愛おしく思うと同時に、申し訳なく思った。

ミアは俺の手を握ったまま、「少しいい?」と訊ねて、部屋から俺を引っ張り出した。

ドアの向こうには、ミアだけじゃなくてレプシウス師の姿もあった。

その取り合わせに、ミアはもう秘密を知っているのだと思った。いたたまれずに視線を逸らすと、レプシウス師が口を開いた。

「スー。三人で話をしましょう。

これは大事な話ですから、君がミアと話し合わねば意味がありません。

今日が無理なら明日、それが無理ならその後でも良いのです。ただ、ミアにはちゃんと話すべきです」

「スー。貴方が何に気を落としてるのか、あたしは聞かないと分からないの。だから教えて?ね?」

ミアは子供に語りかけるように、優しく俺に語りかけて、話に応じるように諭した。

「…うん。でも、ルドが…」

「ルドは少しの間リリィとベスに預けて場所を変えましょう。

ここではルドを起こしてしまうかもしれませんから、別室で話をしましょう」とレプシウス師が提案してくれた。

レプシウス師がリリィとベスを呼んで、二人にルドを預けると、レプシウス師の部屋に向かった。

ミアはずっと俺の手を握っていた。

俺が逃げないようにか、それとも寄り添ってくれているのか…

レプシウス師の部屋に着くと、椅子を勧められて、ミアと二人ソファに座った。

レプシウス師は「お茶を用意しますね」と言い残して席を外した。

「大丈夫?」と問いかけるミアの声に「うん」と答えたが、上手く笑えずに口元が引き攣った。

繋いでいない方の手が伸びて、俺の引き攣った頬に触れた。彼女は眉を寄せて辛そうな顔で俺を睨んだ。

「バカね…全然大丈夫じゃないじゃん」

ミアは優しく俺を叱った。

「あたしも弱いのは見せたくないけどさ…

そうやって強がるの、余計に心配になるよ」

「ミア…」

「何があったかまで知らないけどさ、言われなきゃ分からないんだから、ちゃんと話してよ。

スーだって、逆の立場なら絶対同じことを言うでしょ?」

「そうだね」と彼女の言葉に頷いた。

繋いでいた指を解いて、彼女を抱き締めた。ミアは何も言わずに、手を伸ばすと、子供をあやす様に俺の頭を撫でた。

じわっと目頭が熱くなって、彼女を抱き締めたまま涙が溢れた。

「…ごめん…ミア、ごめんなさい…」

「どうしたの?何言って…」

急に泣いて謝り始めた俺に、彼女は困惑していた。

「君が好きだ…好きだけど…」

言葉が詰まる。怖くて言うべき言葉が喉に引っかかって、まともに喋れなかった…

泣いて言葉を失った俺の頭を、ミアは優しく撫でた。反対の手は落ち着かせるように背を叩いた。

「もう…スーは大きな子供だね。

落ち着きなよ。話せるようになるまでこうしてるからさ」

母親みたいに慰めるミアに縋って泣いた。

取り繕う心の余裕も無くて、格好悪いと分かっていても、強がることも出来なかった。

ドアの音がして、お茶を用意したレプシウス師が戻ってきた。

「おやおや。お取り込み中でしたか?」

「そうかも」とミアは苦笑いした。

レプシウス師は机にお茶を並べて、向かいのソファに腰掛けた。

「まぁ、お茶を飲んで落ち着いてください。

心を落ち着かせる効果のあるお茶を用意しました。落ち着いたら話をしましょう」

のんびりとした口調で、そう言って、レプシウス師は先にお茶を口に運んだ。

「ほら、落ち着くんだって。

あたしたちも飲もう」と言って、ミアは俺の背を優しく叩いた。

優しく包むような香りの紅茶を口に含んだ。

温かい飲み物が緊張を和らげた。

「美味しいね。落ち着いた?」

「…うん」と紅茶を啜りながら頷いた。

情けないところを見られてしまった…

恥ずかしさを抱えたままミアに謝ると、彼女は笑顔で応えた。ミアの手が伸びて、涙の跡に張り付いていた髪を払った。

「大丈夫?」と気遣う優しい言葉に頷いた。

この優しさも、真実を知ったら俺には向けられなくなるかもしれない…

でもいつまでも隠しておくことも出来ない。そのうち違和感を隠しきれなくなるだろう。

俺が責められるべき事で、彼女が自分を責めるのは良くない…

「ミア…上手く言えないかもしれないけど…」

「いいよ。ゆっくり言いなよ。聞いてるからさ」

「ありがとう」

彼女の優しさに甘えた。

チラリとレプシウス師に視線を向けたが、彼は黙って話の行方を見守っていた。

「レプシウス師は《失敗》してなかったんだ…」

「え?」と声を上げた彼女は首を傾げて、眉根を寄せた。

「でも、できなかったんでしょ?二回目は失敗しなかったってこと?」

「違うよ、二回とも《出来なかった》んだ…」

「じゃあ、もう一度…」彼女の前向きな言葉に、また目頭が熱くなった。

彼女は成功するまで何度でも同じことを続けるだろう。

「そうじゃない…そうじゃないんだ…

俺には…子供が作れないんだ」

「…え?」

「ごめん、ミア…」彼女の顔を見ることができなくて、顔を覆って背を丸めた。

「何それ?本当に…」ミアの困惑する声が背にかかる。丸く曲がった背中に添えられた手が、気を引くように背中を摩った。

「事実です」とそれまで沈黙を守っていたレプシウス師が口を開いた。隣で、彼女の息を飲む気配が伝わった。

「私も信じられなかったので、二回目は間違いの無いような状況で作りました。

もう一人分、材料を提供してもらって、同じ手順、同じ条件で《治験体》を作って比べました。

その結果、スーの子種には命を作り出す能力が無いという結果が出ました」

レプシウス師は、俺にしたのと同じ話をミアに伝えた。

「そんな…

でも、今度は成功するかも!もう一回しよう、ね?スー、やろう?」

「私は構いませんが、結果は変わらないでしょう」

「だって、あたしのせいかもしれないし、薬とか、何とかなりませんか?」

ミアの必死な様子に、レプシウス師は「残念ですが」と悲しそうに答えた。

「…そんな」

「彼との子供は諦めてください」

レプシウス師はミアに残酷な事実を伝えた。

静まり返った部屋の空気は錆び付いたように重くなった。

俺もミアも何も言えなくなってしまった。

顔を上げるのが怖かった…

彼女はどんな顔をしているのだろう…

レプシウス師の声は相変わらず穏やかで、俺たちに未来を見据えた話をした。

「事実、子供が出来ないのはスーの問題であって、ミアのせいではありません。

貴女には《婚姻の無効》を申し立てる権利があります。それを止める権限は我々にはありません。

受理されれば、新たな相手を探して、その方と子供を作ることもできるでしょう。

ミア、貴女はまだ若いのでそれが可能です。

その場合、スーは貴方とルドを失って、世間に子供を作れないと知られることになります」

「そんなの…」

「それを選ぶのはミア、貴女です。

私にも、スーにも、貴女の人生を縛る権利を持ち合わせていません。

貴女の心しだいです」

レプシウス師はあくまでミアの気持ちを訊ねた。

顔を上げられないまま、沈黙の時間が流れた。

怖いくらいに重い空気に怯えて吐きそうだ…

「…いいよ」とミアの声が聞こえた。

諦めたような言葉に、捨てられると思って震えた。

彼女は俺の前に屈むと、覆っていた手をそっと引き剥がした。

「なにビビってんの?」と言って彼女は苦く笑った。

「いいよ。子供ならいるんだからさ」と彼女は《いいよ》の意味を教えた。

「今まで通り、あたしにはルドがいて、スーがいるんだから。あたしはそれでいいよ」

「…でも」

「何よ?嫌なの?」

「違う…娘欲しいって」

「あんたの子供だったら《女の子》もいいなって思ったの。誰の子供でもいいやって意味じゃないよ」

ミアはそう言って俺の眉間を指で弾いた。

「バカだね、本当にバカ…別れると思った?

なんで別れるのさ?あたしって、そんなに薄情だと思ってた?」

彼女はそう言って手を伸ばすと、俺を抱き締めて、安心させるように笑った。

「今まで通り、ルドの《パパ》でいてくれたらいいよ。

娘もそのうちできるさ。ルドだって結婚するんだから…孫だってそのうちできるよ…

そんな事、気にならないほど幸せになればいいじゃん。あたしたちに別れる理由は無いはずだよ」

「…うん」

「じゃあ、今まで通りだ。いいよね?」彼女は明るく装って俺に確認した。

彼女だって残念なはずなのに、ミアは俺を甘やかした。

「ありがとう」と頷いてミアの優しさに甘えた。

ミアは笑って「いいよ」と言ってくれた。彼女は俺の欠陥に目をつぶってくれた。

「良かったですね、スー」

成り行きを見守っていたレプシウス師はミアの答えを喜んだ。

「ミア。難しい選択でしたが、よく決断してくださいました。

貴方方に心配などありませんでしたね。

これからもスーを支えてあげてください。

スー、貴方もミアに感謝して、彼女を大切にしてあげてください。

子供ができないことを負い目に感じる事もあるかもしれませんが、その引け目が良い方に転ぶことはありません。

自分にできることを、悔いのないようになさい。

私に言えるのはこれだけです。

あとは二人でよく話し合って、良い家族におなりなさい」

レプシウス師は穏やかな口調でそう言うと嬉しそうに笑った。

「この仕事は望まれぬ結果を告げねばならない辛い仕事ですが、良い事もあるものですね。

私ももう少し頑張ろうと思いましたよ」

「レプシウス師…?」

「おや、お茶が無くなりましたね。

そろそろお開きにしましょう」と誤魔化して、彼は席を立った。

ミアが手を繋いで俺の顔を覗き込んだ。彼女はいつもの笑顔で俺の手を引いた。

「戻ろう、スー。ルドが起きたらきっと《パパ》を探すよ」

「…うん」と頷いて、彼女と一緒に席を立って、子供の寝る部屋に戻った。

✩.*˚

「おう、おかえり」

書斎でヨナタンの残して行った書類に目を通している所に、ラーチシュタットから帰ってきたスーが挨拶に来た。

「随分長い休暇だったな。ゲルトがボヤいてたぜ」

「うん…ちょっと色々あってさ…」とスーが答えた。疲れてるのか?いつもの様子と違った。

「ワルター。今、忙しい?」と訊ねて、スーは俺の都合を確認した。

「別に…暇じゃねぇけど、忙しくもねぇよ」

ラーチシュタットで何かあったのだろうか?

スーの様子がおかしいから気になった。

元気の無い姿に、誘拐されたあとの彼を思い出させて、放って置くのも気が引けた。

「なんだよ?なんかあったのか?」

「うん…」と頷いて、スーは視線を落とした。

ため息を吐いて、見ていた書類を机に伏せた。

「言いたいことがあるなら話せよ。ちゃんと聞いてやるよ」

「ありがとう」と礼を言って、スーは机に歩み寄った。

「これ、あげる」と言って、スーは小さな瓶を取り出すと俺の目の前に置いた。

「何だよ?土産か?」手に取って見るが何かわからなかった。

香水?薬?

「《精力剤》。もういらないからあげる…」

「アホか!こんなもんに頼るほど歳食ってねぇわ!」

脊髄反射で言い返したが、すぐにスーの言った事が引っかかって眉をひそめた。

「…『もういらない』?」

「うん…もういらないんだ…」そう呟いてスーは瞳を潤ませた。目元に涙が溜まった。

スーの続く言葉に耳を疑った。

「俺は…ハーフエルフだから…子供はできないって…

子種には命が無いって…レプシウス師の診断でそう言われた…」

スーがミアとの子供ができないと悩んでたのは知っていた。

まだ授からないだけだと思ってたから、安心するかと思ってレプシウス師の所に送り出したが、それが裏目に出たようだった…

こいつも男だ。そんな事言われて平気でいられるはずがない。そうでなくとも、スーは子供を欲しがってたから、傷付いただろう…

「レプシウス師は?」

「何か方法がないか調べてくれるそうだけど、『期待はしないで欲しい』って言われた…

ミアには…もう話したよ…

彼女は『いいよ』って…

俺がルドの《パパ》で、ミアの《夫》でいてくれるならいいって言ってくれた」

「そうか…」

ミアの返事に少し救われた気がした。

スーはミアとルドを特別に思っていたから、その関係が失われるのはスーにとって痛手だろう。それこそ立ち直れないかもしれない。

こんなものまで買ってるくらいだから、本気で悩んでたんだろう…

スーの気持ちを思うとやりきれなかった…

「まぁ…貰っとくよ」と瓶を引き出しにしまった。

席を立って項垂れたままのスーに歩み寄った。

「バカだな…」と言ってスーの頭を撫でた。

ボロボロと泣きながらスーは抱えていた感情を口にした。

「欲しかったんだ…無理だけど…俺も、子供が欲しかったんだよ…」

「そうだよな」と頷いた。

何を言っても、慰めにはならないと知っていたけど、それでも俺には頷くことしか出来なかった。

「ねぇ、ワルター」

「何だよ?」

「君の子供も、俺の子供だと思っていい?」

「…いいよ、好きにしな」

「ありがとう」と言ってスーは涙を拭った。

そんなんでいいなら、いくらでも可愛がってくれてかまわねぇよ。可愛がる分には文句ないもんな…
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