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訃報
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愛馬に鞭を入れて飛ばした。
銀色の鬣のフィクスシュテルン号は鞭に応え、護衛の騎士らを置き去りにした。
「パウル様!お待ちを!」
「一秒とて惜しい!お前たちはあとから来い!」
ヘルゲン子爵付きの親衛隊長のシュミットから、暫定的な損害報告は受けていた。彼より一日遅れて到着した伝令は、前線で確認した損害を仔細を綴った手紙を届けた。
ヘルゲン子爵には似合わぬ失態の数々に、気の滅入る思いだったが、補給の要求に応じた。
現場に戻れぬ私に代わって、前線を預かる彼を更迭する気にはならなかった。
前線で損失した馬や糧秣の補填のため、城を留守にしていたタイミングで最悪とも言える報せが届いた。
現ヴェルフェル侯爵である父の危篤の報せだった。
高齢で結核を患い、もう長くはないと聞かされていたが、突然の報に耳を疑った。
よもやこのような時に、ヴェルフェルを継ぐことになるとは…
一騎単身で戻った私の姿に、家宰のデューラー卿が出迎えた。彼もまた落ち着きの無い様子で、顔色も悪い。
「父上は?!」
愛馬を兵士に預け、デューラー卿を伴い城に駆け込んだ。
「まだ意識はございますが、治療に当ってる者の話では、非常に危険な容態とのことです。
早くお召換えを…」
「要らん!無礼ではあるが、このまま失礼する!」
乗馬用の服に、髪を振り乱した姿だが、そのまま父上の寝所を訪ねた。
病床から酷い咳と、風を切るような苦しい呼吸が聞こえる。迷ったり、悲しむような時間の猶予はもうなかった。
「…パウル」父は苦しげな痰の絡んだ声で私を呼んだ。
枯れ木のように痩せてしまった老人に歩み寄り、膝を着いて手を握った。
「父上、パウルです。お待たせしてしまい申し訳ございません」
「パウル…お前だけか?他の兄弟は…?」
「申し訳ございません、カール、コンラートの両名はオークランドとの国境に配しております。
間に合ったのは私のみです」
「なるほど…デューラー卿はおるか?」
「侯爵閣下のお傍に」とデューラー卿が進み出た。
「書記官も控えております」と彼は父に告げ、父もそれに小さく頷いた。
「記録せよ」と苦しげに咳をしながら、最後の指示を出した。
「今、この時をもって、嫡子パウル・カスパー・フォン・ヴェルフェル公子に侯爵の位を譲る…
フィーアの七大貴族として誇りを持ち、驕ること無く、己が任を全うせよ」
「謹んでお受け致します」
「パウルよ、お前は戦の才には長けておるが、内政をおそろかにしがちだ。
必ず、デューラー卿や、ヘルゲン子爵ら年長者の意見を入れる事。年長者の導きに感謝せよ。
そして、ウィンザー公国を平定した後、一年は税の取り立てを免除するように。
以後二年も半分とせよ。
多くの民の一番の関心事は、自分たちの命、引いては生活だ。
彼らは、生活を保証し、安心を与える者であれば誰でも良いのだ…
オークランドのように、圧制者として民を扱うことを禁ずる。ウィンザーの民も古き友のように愛するように…
信仰、文化、言語、それら全てを寛容に扱うように…
さすれば、彼らはお前を良き父と認めるだろう」
命を削るように、父は言葉を残した。
ヒューヒューと響く喉の音と、書記のペンを走らせる音が静まり返った部屋に虚しさを募らせた。
「…苦労をかける」と父は呟いた。
「しかし、我らの孫子の代まで続く安寧を作るには、先人の犠牲が必要となる…
お前たちに犠牲を強いる父を許せ」
「勿体ないお言葉です…」
涙を堪えて父の手を強く握った。
あと一年…いや、半年あれば、家族に看取られ穏やかに幕を閉じることができたかもしれない。
それでも、父は最後まで侯爵としての役目を全うしようとしていた。国王陛下からフィーアの南部を預かる身として、病を押してこの地に来た。
実際に、父の働きかけで、恭順の意を示した豪族も少なからず居た。
私にできたのは、恭順に異を唱える者たちを武力で排除することのみだった。
父のような寛容さは持ち合わせていない自分を恥じた…
「葬儀は慎ましやかなものとせよ。
つまらぬ事に金をかけるくらいなら、此度の戦で死んだ者たちのための慰霊碑を建て、領内の平定に努めるように」
「かしこまりました」
「連れてきた孫たちは…」と父は私の子供たちの姿を探した。
「息子らは役割を持って城外に出ております。
今城に居るのはテレーゼのみです」
「そうか…」
「呼びつけましょうか?」と申し出ると、父は遠慮した。
「可愛いテレーゼにこの病は酷だ」
テレーゼの母も肺を患って亡くなっていた。
思い出させたくないのだろう。
父は苦しそうに咳をしながら身体を丸めた。
その背を摩ることしかできない、無力な手を呪った。
「テレーゼと、またお茶をしたかった」と父は呟いた。
父の意外な言葉に驚きを隠せなかった。
私自身、テレーゼとはほとんど時間を共にしたことがなかった。
娘たちは他家に嫁ぐ。息子たちの教育を重視した結果、娘たちに向けられるべき関心は薄かった。
娘たちのことは、母親とその実家に任せ切りになっていた。
「パウル。もう少しだけ、あの子を気遣ってやってくれ。不憫な子だ…」
「父上?」
「あの子はほかの娘たちより身分が低く、支えるべき母方の縁者も少ない。
せめてもの情だ、好いた男と連れ添わせてやりなさい…
娘は沢山おるのだ。一人くらい、そんな娘がいても良いだろう?」
「…それは…遺言ですか?」と訊ねると、父は「いいや、私の我儘だ」と少しだけ寂しげに微笑んだ。
「あんなに愛らしいのに…花の顏を俯いたまま過ごさせるのはなんとも不憫だ…」
父の言葉に頷くことが出来ず、私は口を噤んだ。
私はあの子を《英雄》の楔にすると決めていた。父の最後の我儘には応えられない。
父は酷く咳き込み、憂鬱な話を打ち切った。
肺から溢れた鮮血が病床を赤く染めた。
「口惜しい死に方よ」と嘆いて、また咳き込む。
侯爵だった老人は、肩の荷を降ろした事で、生への執着を失ったかのように見えた。
「しばし休む」と白くなった顔で呟き、目を伏せた。
咳き込んで、苦しげに上下する胸の動きが次第にゆっくりになる。
心臓はその役割を終えようとしていた。
「…パ…ウル」
微かな声が名前を呼んだ。
手を握って応えた。
「ここにおります、父上」
「良い父であれ」父の最後の言葉は、戒めのような、祝福のようなそんな響きを孕んで耳に残った。
そのまま眠るように意識を失った父は、一時間程 《生死の女神》の |《死者の船》を待ち、乗り込んだ。
豪奢な寝台に、魂を失った抜け殻のみが取り残される。
人の世から離れた魂が乗り込む流転の《死者の船》。
その船に乗せられた魂は、雲雀に導かれ、女神|《ニクセ》の采配で次の魂のあるべき場所に送られる。
「…旗を全て下ろせ。
父上の喪に服する用意を…」と指示を出した。
侯爵としての重責が双肩に重くのしかかった。
私に務まるのだろうか?胸の中に鉛でも抱えているような心持ちだ。
「前線のヘルゲン子爵に訃報を届けよ。
昼前に報告書を届けた伝令が、まだ逗留しているはずだ」
「御意」と答え、老いた家宰は跪き、頭を垂れた。
その場にいた者たち全てが、私を侯爵として迎え、臣従を誓った。私は彼らの期待に応えねばならない。
父の亡骸に一礼して部屋を後にした。
父の寝所から出てすぐに、執事が私を呼び止めた。
「閣下、ヘルゲン子爵閣下の名で新たな伝令が到着しました。面会を求めております」
「ヘルゲン子爵の?…分かった、会おう」とすぐに応じた。
応接室に待たせていた伝令役は、私の顔を見るなり「申し訳ございません」とひれ伏した。
「何事か?」伝令の様子に嫌なものを感じ、眉を顰めた。
「へ、ヘルゲン子爵閣下が…自陣にてお亡くなりに…暗殺です!」
「…ヘルゲン子爵が?」報告に耳を疑った。
父を失ったばかりでこの報告に目眩を覚えた。
伝令役の兵士は青ざめた顔で報告を続けた。
「最高指揮官は副官のヴュスト卿が引き継いでおられますが…その…異常なお亡くなり方でしたので…兵士らが浮き足立っております。
ヴュスト卿はパウル公子様のご指示をお待ち申しております」
「こんな時に…」とつい本音が漏れた。
ヘルゲン、お前まで父に着いて逝ってしまったのか…
置き去りにされた子供のような絶望を味わった。
そんな私をデューラー卿の声が引き戻した。
「お気を確かに、侯爵閣下」
そうだ。私は今し方、父の跡目を継いだのだ…
鉛のように重くなる頭を上げ、胸を張った。
悲しみも絶望も、責任を果たしてから味わえばよい。
フィーアの南部を預かる侯爵としての器が、今試されようとしていた…
✩.*˚
気持ち悪く擦り寄る手が、眠っている俺の横顔を撫でた。
「おはよう、アルフィー」
眠りを妨げた張本人は、嬉しそうな笑顔でまた手を伸ばしてくる。
「…どこ行ってた?」顔に伸びた手を追い払ってエドガーを睨みつけた。
昨日の昼頃に、ふらっと消えてそれっきりだった。
どっかで野垂れ死んでるもんだと思っていた。
「んふふ…良いとこ」と、ご機嫌で帰ってきたエドガーは、見慣れない軍装の懐から、血の滴る油紙を取り出した。
鉄の匂いと、生臭い死臭…
また持ってきやがった!
「俺からの《贈り物》だよォ」とエドガーはウットリした顔で口端をつり上げて、包みを開いた。
死臭がテントの中に広がった。
「今回はさぁ、ちょぉーっと自信があるのよね。
欲張っていっぱい持ってきちゃった!」
エドガーはそう言って、泥団子を並べる子供のようにはしゃぎながら、広げた油紙の上に人間の顔を並べた。
長く傭兵をやっている俺ですら、この男の《贈り物》にはゾッとする。
エドガーは「どれがいいかな?」と小物でも選ぶような気軽さで、俺に戦利品を勧めた。
「要らん…捨てて来い」
「ヤダよ、せっかくフィーアの本営まで行って取ってきたんだぜェ」
「…お前、勝手に…」頭のおかしい奴だとは知っていたが、これは酷い。だから見慣れない格好をしてるのか?
言葉を失った俺に、人の顔の皮を手に取って差し出した。
「この髭の旦那とか、割と男前だぜ。誰だと思う?」
「知るか!そんなもん近づけるな!お前ごと灰にするぞ!」
「ヤダよ、これであんたのマスク作るんだ」とエドガーはまた気持ち悪いことを言う。本当にコイツごと消し炭にしようかと右手に炎を集めた。
俺が《祝福》を使おうとしたので、さすがのエドガーも慌てて手にした戦利品を隠した。
「ダメダメ!これだけはダメだ!
アンタも絶対気に入るよ!ヘルゲン子爵の顔だぜ!」
「…ヘルゲン…」聞き覚えがあった。
右手に纏った炎を振り払って消すと、エドガーから生皮を奪った。
ぶよぶよした肉の感触を手のひらに広げた。染み出す赤黒い水分で手のひらが湿った。
もしこれが本当に、敵の最高指揮官であるヘルゲン子爵のものなら一大事だ…
「スペンサーに確認させる!」と生皮を手に、テントを飛び出した。エドガーが慌てて俺を呼び止めた。
「ダメだよ!せっかくあんたのために取ってきたのに!」
「うるせぇ!気色悪い《贈り物》なんて要るか!そのくだらないマネはいい加減に止めろ!不愉快だ!」
追いすがったエドガーの手を振り払い、スペンサーの居るテントに向かった。彼のテントの前には親衛隊が並んでいた。
「スペンサー殿に話がある、今すぐだ!」
「閣下はご就寝中です。ご用向きなら我々が…」
「スペンサー殿に、今すぐだ!
俺の《烈火》でテントを炙られたくなければ、今すぐ面会しろと伝えろ!」と兵士を脅した。
只事でない様子に、彼らは顔を見合わせて、「お待ちを」と短く残してテントの中に姿を消した。
エドガーめ!余計なことをしやがって!
「何事かね、イエィツ隊長?」と俺をテントに招き入れたスペンサーは、不機嫌になるでもなく、簡潔に用件を問うた。
「スペンサー殿に確認して頂きたいものがある」と前置きをして、エドガーの《贈り物》を差し出した。
「…これは」と流石の彼も絶句した。
「部下が勝手をした…お叱りは後ほど頂戴する。
敵の指揮官の顔だと言っていた。ヘルゲン子爵の顔か確認して頂きたい」
スペンサーは目を見開いて俺を凝視した。
彼はまだ薄暗いテントの中でランプを手にすると歩み寄って灯りを近づけた。
丁寧に剥ぎ取られた生皮を、ランプの明かりの前に見やすいように広げて差し出した。
「…は、拝見する」と彼は仇敵の顔を確認した。その顔は顔面蒼白で、ウィンザーの猛将すら恐怖させるエドガーの狂気に改めて忌々しさを覚えたが、今はそれどころじゃない。
「確かに…特徴は一致する箇所がある…」
「具体的には?」
「右眉と口元にホクロがあると聞いている…
口髭も一致してるように思うが…なにぶんこの状態では確信が持てぬ…」
彼は口元を覆って、吐き気を堪えるように苦い声で答えた。
「デニスを呼べ」と親衛隊に命じると、ネズミを連れた男がテントに呼ばれた。
「何か報告はあるか?」とスペンサーは用件も告げずに、デニスに訊ねた。
「今し方戻ったネズミが、敵の本営に動きがあったと申しておりました」と彼は答えた。
「何があった?」
「分かりません。追加でネズミたちから情報を集めてる最中です」とデニスが淡々とした口調で答えた。
ネズミたちは伝言で情報を集め、取りまとめる役が彼に伝えるらしい。伝わるまでには多少ではあるが時間差があるようだ。
「ネズミは人の顔を判別できるか?」とデニスに訊ねた。
「一応可能ですが…」
「敵の本営に、ヘルゲン子爵の姿があるか確認させろ。無ければこれは本人だ」そう言ってデニスにも手に持っていた顔の生皮を見せた。
彼は最初それが何かわからなかったようだが、何か気付くと慌てて口元を抑えて後ずさった。
「まさか…そんな…」とつぶやく彼の顔からは血の気が引いていた。
「エドガーが持ち帰った」と教えると、彼は吐きそうな顔でエドガーとのやり取りを語った。
ネズミに確認させるまでもない。
「…本物と言うことか…」とスペンサーが声を絞り出した。俺も同意見だ。
「ウェイド卿を呼べ」と彼は腹心の騎士を呼び出した。拠点の人の動きが慌ただしくなる。
「我々も準備を」と言って退出した。
傭兵たちにも、山を降りる準備をさせた。
「顔は?」とエドガーが持ち帰った《戦利品》の行方を訊ねた。
苛立ちを隠さずに「置いてきた」と答えると、彼は反省もせずに「アレもダメだったかぁ」と残念そうに肩を落とした。
「次はもっといいのを用意するよォ」と言う彼を無視した。
こいつの狂気には付き合いきれない…
眠そうに欠伸をして身体を伸ばしたエドガーは、「楽しみィ」と呟いて笑っていた。
✩.*˚
えらいことになった…
朝、飯を食ってる所に本営の親衛隊が来て、また本陣に連れて行かれた。
青い顔をしていた親衛隊は用件を口に出来ず、小さなメモを俺に手渡した。
そのメモに綴られた短い文章を見て、紙切れを握り潰した。只事じゃない…
「とりあえず、取り急ぎご同行下さいませ」とヘルゲン子爵の親衛隊が俺を急かした。
「了解した」と短く答えてフリッツに「襲撃に用意しておけ」とだけ告げた。
フリッツにはその言葉だけで事足りた。
「誰か連れて行け」とフリッツに提案され、《親衛兵》のウェリンガーを伴い本営のテントに向かった。
ウェリンガーに、握り潰したメモを手渡すと、彼はメモを確認して唸った。
「お前ならどうする?」と意見を求めた。
「皆目見当もつきません」とクソ真面目に答えて、ウェリンガーは口を噤んだ。
そりゃそうだろう…
腹の中で苦く笑って黙り込むと、親衛隊に案内され、本営のテントの入口を潜った。
「こちらです」と案内された先には死体が並べられていた。軍旗に包まれた遺体は一様に顔を隠されている。
誰が誰だかわからない。
「ヘルゲン子爵閣下は?」と訊ねると、親衛隊は暗い顔で「こちらです」と顔を隠した遺体の前に案内した。
「何で顔を隠しているんだ?」
「顔を…酷く痛めつけられておりますので…」と答えた親衛隊は吐き気を堪えるように口元を覆った。
「悪いが、確認させてもらうぞ」と断って、顔を覆った布を少しずらした。
結論から言うと、子爵の顔を確認することは出来なかった…
肌が粟立った。
喉を掻き切られた遺体の顔は、鹿の皮でも剥ぐように丁寧に剥ぎ取られていた。
他の顔も一様に同じ状態だった。
手際よく喉を掻き切られ、顔を奪われていた。
「《顔剥ぎエドガー》か?」
「分かりません…我々が気づいた頃にはもう既に…」
まんまとしてやられたってことか…
あの気狂いとんでもなく厄介な存在だ。
本営の警備が手薄だったとしても、どうやって中に入り込んで、ヘルゲン子爵のテントを突き止めたのか…?
「クルーガー殿。閣下の名誉のため、確認がお済みであれば面布を戻して頂きたい」と、その場を預かる騎士に促され、顔を覆っていた布を元の位置に戻した。
彼はヘルゲン子爵から副官を任じられていたヴュストという騎士だ。
「指揮系統は私が引き継いだ。
つい先程新たに伝令を走らせた。昼過ぎにはユニコーン城に到着するはずだ」
「どうするおつもりですか?」
撤退を命じるかと思っていたが、彼は「もちろん戦う」と宣言した。
「このまま引き下がれるものか」とその目は復讐に燃えていた。
良くない傾向だ…
死んだ奴のために戦うなど、騎士の悪いクセとしか言い様がない。無駄な事だ。
シュミットの姿を探したが、彼はヘルゲン子爵の使いでユニコーン城に居るのだと言う。
俺には、頭に血の昇った騎士を説得する術は無かった。
ヴュスト卿は次々命令を出して襲撃に備えさせた。
「傭兵たちにも働いてもらう」と俺を呼んだ用件を告げた。
「定石通り、前衛にて敵の突撃の勢いを殺せ。
機を見て重装騎兵を投入する」と指示を出し、本営のテントから俺たちを追い出した。
「策はおありでしょうか?」と今度はウェリンガーが俺に訊ねた。
「給料分の仕事をするまでさ」と苦々しく答えて煙草を咥えた。
なんとも言えない…もう笑うしかない…
紫煙を吐き出して空を見た。
暗澹たる雲が山の方から流れ出て、影を落とした。
✩.*˚
「…お爺様と…ヘルゲン様が…」
あまりに苦くて飲み込めない言葉を、やっとの思いで咀嚼した。
手に握っていたお手紙は、音を立てて醜く拉げて紙屑のような可哀想な姿に変わってしまった。
お父様の前だと言うのに、足から力が抜け、その場で崩れ落ちてしまう始末だ。
お爺様は、伯父様が亡くなった後に、私を哀れんで、二度ほど訪ねてくださった。
私のささやかなおもてなしと紅茶を喜んでくださったのに…
ヘルゲン様から頂戴したお手紙も、今では遺言となってしまった…
「立ちなさい、テレーゼ」とお父様は厳しい口調で叱責した。
「お前の母は気丈な女性だったぞ」とお母様を引き合いに出した。
幼い私の覚えてるお母様は、いつも百合のように真っ直ぐ背を伸ばし、凛々しい美貌を誇らしげに掲げていた。涙など、見たことは無かった。
それに比べて、私は寒芍薬のように下を向いてしまう。
《白鳥姫》と言うのは下を向きがちな私を揶揄する言葉のように思えた。
「クルーガーの手袋は出来たのか?」と訊ねるお父様にもう少しで完成すると答えた。
お父様は御二人の死を悼んでおられないのだろうか?と不思議に思った。
「ヘルゲンの穴を埋めねばならん。
明後日、前線に赴く。それまでに手袋を用意しておきなさい」と告げて、お父様は私に下がるように命じた。
それだけ…?
悲しくて俯きそうになる私を、お父様はしっかり見張っている。
「公女らしくしなさい」とまた叱責される。
歪んでしまった手紙を握り直して、お父様の望むようなゆったりとした会釈をして退出しようとした。
「…テレーゼ、その手紙は何だ?」とお父様は部屋を出ていこうとした私の持った手紙を見咎めた。
「ヘルゲン様にお届け頂きたかったのですが…無駄になってしまいました…」と答えた。
「何故二つもある?」
お父様は目敏く、重なったもう一通の封筒の宛を問い質した。
「クルーガー様へのお手紙です」と答えると、お父様は珍しく驚いたような顔をした。
「シュミット様に勧められたので、お手紙を認めました」と言い訳する私に、お父様は「預かる」と言って手を差し出した。
少しだけ迷って差し出された手にクルーガー様へのお手紙を託した。
お父様は鷹揚に頷いて、珍しく私に触れて下さった。
大きな手のひらで頭を撫で、お父様はまた何事も無かったように退室を促した。
銀色の鬣のフィクスシュテルン号は鞭に応え、護衛の騎士らを置き去りにした。
「パウル様!お待ちを!」
「一秒とて惜しい!お前たちはあとから来い!」
ヘルゲン子爵付きの親衛隊長のシュミットから、暫定的な損害報告は受けていた。彼より一日遅れて到着した伝令は、前線で確認した損害を仔細を綴った手紙を届けた。
ヘルゲン子爵には似合わぬ失態の数々に、気の滅入る思いだったが、補給の要求に応じた。
現場に戻れぬ私に代わって、前線を預かる彼を更迭する気にはならなかった。
前線で損失した馬や糧秣の補填のため、城を留守にしていたタイミングで最悪とも言える報せが届いた。
現ヴェルフェル侯爵である父の危篤の報せだった。
高齢で結核を患い、もう長くはないと聞かされていたが、突然の報に耳を疑った。
よもやこのような時に、ヴェルフェルを継ぐことになるとは…
一騎単身で戻った私の姿に、家宰のデューラー卿が出迎えた。彼もまた落ち着きの無い様子で、顔色も悪い。
「父上は?!」
愛馬を兵士に預け、デューラー卿を伴い城に駆け込んだ。
「まだ意識はございますが、治療に当ってる者の話では、非常に危険な容態とのことです。
早くお召換えを…」
「要らん!無礼ではあるが、このまま失礼する!」
乗馬用の服に、髪を振り乱した姿だが、そのまま父上の寝所を訪ねた。
病床から酷い咳と、風を切るような苦しい呼吸が聞こえる。迷ったり、悲しむような時間の猶予はもうなかった。
「…パウル」父は苦しげな痰の絡んだ声で私を呼んだ。
枯れ木のように痩せてしまった老人に歩み寄り、膝を着いて手を握った。
「父上、パウルです。お待たせしてしまい申し訳ございません」
「パウル…お前だけか?他の兄弟は…?」
「申し訳ございません、カール、コンラートの両名はオークランドとの国境に配しております。
間に合ったのは私のみです」
「なるほど…デューラー卿はおるか?」
「侯爵閣下のお傍に」とデューラー卿が進み出た。
「書記官も控えております」と彼は父に告げ、父もそれに小さく頷いた。
「記録せよ」と苦しげに咳をしながら、最後の指示を出した。
「今、この時をもって、嫡子パウル・カスパー・フォン・ヴェルフェル公子に侯爵の位を譲る…
フィーアの七大貴族として誇りを持ち、驕ること無く、己が任を全うせよ」
「謹んでお受け致します」
「パウルよ、お前は戦の才には長けておるが、内政をおそろかにしがちだ。
必ず、デューラー卿や、ヘルゲン子爵ら年長者の意見を入れる事。年長者の導きに感謝せよ。
そして、ウィンザー公国を平定した後、一年は税の取り立てを免除するように。
以後二年も半分とせよ。
多くの民の一番の関心事は、自分たちの命、引いては生活だ。
彼らは、生活を保証し、安心を与える者であれば誰でも良いのだ…
オークランドのように、圧制者として民を扱うことを禁ずる。ウィンザーの民も古き友のように愛するように…
信仰、文化、言語、それら全てを寛容に扱うように…
さすれば、彼らはお前を良き父と認めるだろう」
命を削るように、父は言葉を残した。
ヒューヒューと響く喉の音と、書記のペンを走らせる音が静まり返った部屋に虚しさを募らせた。
「…苦労をかける」と父は呟いた。
「しかし、我らの孫子の代まで続く安寧を作るには、先人の犠牲が必要となる…
お前たちに犠牲を強いる父を許せ」
「勿体ないお言葉です…」
涙を堪えて父の手を強く握った。
あと一年…いや、半年あれば、家族に看取られ穏やかに幕を閉じることができたかもしれない。
それでも、父は最後まで侯爵としての役目を全うしようとしていた。国王陛下からフィーアの南部を預かる身として、病を押してこの地に来た。
実際に、父の働きかけで、恭順の意を示した豪族も少なからず居た。
私にできたのは、恭順に異を唱える者たちを武力で排除することのみだった。
父のような寛容さは持ち合わせていない自分を恥じた…
「葬儀は慎ましやかなものとせよ。
つまらぬ事に金をかけるくらいなら、此度の戦で死んだ者たちのための慰霊碑を建て、領内の平定に努めるように」
「かしこまりました」
「連れてきた孫たちは…」と父は私の子供たちの姿を探した。
「息子らは役割を持って城外に出ております。
今城に居るのはテレーゼのみです」
「そうか…」
「呼びつけましょうか?」と申し出ると、父は遠慮した。
「可愛いテレーゼにこの病は酷だ」
テレーゼの母も肺を患って亡くなっていた。
思い出させたくないのだろう。
父は苦しそうに咳をしながら身体を丸めた。
その背を摩ることしかできない、無力な手を呪った。
「テレーゼと、またお茶をしたかった」と父は呟いた。
父の意外な言葉に驚きを隠せなかった。
私自身、テレーゼとはほとんど時間を共にしたことがなかった。
娘たちは他家に嫁ぐ。息子たちの教育を重視した結果、娘たちに向けられるべき関心は薄かった。
娘たちのことは、母親とその実家に任せ切りになっていた。
「パウル。もう少しだけ、あの子を気遣ってやってくれ。不憫な子だ…」
「父上?」
「あの子はほかの娘たちより身分が低く、支えるべき母方の縁者も少ない。
せめてもの情だ、好いた男と連れ添わせてやりなさい…
娘は沢山おるのだ。一人くらい、そんな娘がいても良いだろう?」
「…それは…遺言ですか?」と訊ねると、父は「いいや、私の我儘だ」と少しだけ寂しげに微笑んだ。
「あんなに愛らしいのに…花の顏を俯いたまま過ごさせるのはなんとも不憫だ…」
父の言葉に頷くことが出来ず、私は口を噤んだ。
私はあの子を《英雄》の楔にすると決めていた。父の最後の我儘には応えられない。
父は酷く咳き込み、憂鬱な話を打ち切った。
肺から溢れた鮮血が病床を赤く染めた。
「口惜しい死に方よ」と嘆いて、また咳き込む。
侯爵だった老人は、肩の荷を降ろした事で、生への執着を失ったかのように見えた。
「しばし休む」と白くなった顔で呟き、目を伏せた。
咳き込んで、苦しげに上下する胸の動きが次第にゆっくりになる。
心臓はその役割を終えようとしていた。
「…パ…ウル」
微かな声が名前を呼んだ。
手を握って応えた。
「ここにおります、父上」
「良い父であれ」父の最後の言葉は、戒めのような、祝福のようなそんな響きを孕んで耳に残った。
そのまま眠るように意識を失った父は、一時間程 《生死の女神》の |《死者の船》を待ち、乗り込んだ。
豪奢な寝台に、魂を失った抜け殻のみが取り残される。
人の世から離れた魂が乗り込む流転の《死者の船》。
その船に乗せられた魂は、雲雀に導かれ、女神|《ニクセ》の采配で次の魂のあるべき場所に送られる。
「…旗を全て下ろせ。
父上の喪に服する用意を…」と指示を出した。
侯爵としての重責が双肩に重くのしかかった。
私に務まるのだろうか?胸の中に鉛でも抱えているような心持ちだ。
「前線のヘルゲン子爵に訃報を届けよ。
昼前に報告書を届けた伝令が、まだ逗留しているはずだ」
「御意」と答え、老いた家宰は跪き、頭を垂れた。
その場にいた者たち全てが、私を侯爵として迎え、臣従を誓った。私は彼らの期待に応えねばならない。
父の亡骸に一礼して部屋を後にした。
父の寝所から出てすぐに、執事が私を呼び止めた。
「閣下、ヘルゲン子爵閣下の名で新たな伝令が到着しました。面会を求めております」
「ヘルゲン子爵の?…分かった、会おう」とすぐに応じた。
応接室に待たせていた伝令役は、私の顔を見るなり「申し訳ございません」とひれ伏した。
「何事か?」伝令の様子に嫌なものを感じ、眉を顰めた。
「へ、ヘルゲン子爵閣下が…自陣にてお亡くなりに…暗殺です!」
「…ヘルゲン子爵が?」報告に耳を疑った。
父を失ったばかりでこの報告に目眩を覚えた。
伝令役の兵士は青ざめた顔で報告を続けた。
「最高指揮官は副官のヴュスト卿が引き継いでおられますが…その…異常なお亡くなり方でしたので…兵士らが浮き足立っております。
ヴュスト卿はパウル公子様のご指示をお待ち申しております」
「こんな時に…」とつい本音が漏れた。
ヘルゲン、お前まで父に着いて逝ってしまったのか…
置き去りにされた子供のような絶望を味わった。
そんな私をデューラー卿の声が引き戻した。
「お気を確かに、侯爵閣下」
そうだ。私は今し方、父の跡目を継いだのだ…
鉛のように重くなる頭を上げ、胸を張った。
悲しみも絶望も、責任を果たしてから味わえばよい。
フィーアの南部を預かる侯爵としての器が、今試されようとしていた…
✩.*˚
気持ち悪く擦り寄る手が、眠っている俺の横顔を撫でた。
「おはよう、アルフィー」
眠りを妨げた張本人は、嬉しそうな笑顔でまた手を伸ばしてくる。
「…どこ行ってた?」顔に伸びた手を追い払ってエドガーを睨みつけた。
昨日の昼頃に、ふらっと消えてそれっきりだった。
どっかで野垂れ死んでるもんだと思っていた。
「んふふ…良いとこ」と、ご機嫌で帰ってきたエドガーは、見慣れない軍装の懐から、血の滴る油紙を取り出した。
鉄の匂いと、生臭い死臭…
また持ってきやがった!
「俺からの《贈り物》だよォ」とエドガーはウットリした顔で口端をつり上げて、包みを開いた。
死臭がテントの中に広がった。
「今回はさぁ、ちょぉーっと自信があるのよね。
欲張っていっぱい持ってきちゃった!」
エドガーはそう言って、泥団子を並べる子供のようにはしゃぎながら、広げた油紙の上に人間の顔を並べた。
長く傭兵をやっている俺ですら、この男の《贈り物》にはゾッとする。
エドガーは「どれがいいかな?」と小物でも選ぶような気軽さで、俺に戦利品を勧めた。
「要らん…捨てて来い」
「ヤダよ、せっかくフィーアの本営まで行って取ってきたんだぜェ」
「…お前、勝手に…」頭のおかしい奴だとは知っていたが、これは酷い。だから見慣れない格好をしてるのか?
言葉を失った俺に、人の顔の皮を手に取って差し出した。
「この髭の旦那とか、割と男前だぜ。誰だと思う?」
「知るか!そんなもん近づけるな!お前ごと灰にするぞ!」
「ヤダよ、これであんたのマスク作るんだ」とエドガーはまた気持ち悪いことを言う。本当にコイツごと消し炭にしようかと右手に炎を集めた。
俺が《祝福》を使おうとしたので、さすがのエドガーも慌てて手にした戦利品を隠した。
「ダメダメ!これだけはダメだ!
アンタも絶対気に入るよ!ヘルゲン子爵の顔だぜ!」
「…ヘルゲン…」聞き覚えがあった。
右手に纏った炎を振り払って消すと、エドガーから生皮を奪った。
ぶよぶよした肉の感触を手のひらに広げた。染み出す赤黒い水分で手のひらが湿った。
もしこれが本当に、敵の最高指揮官であるヘルゲン子爵のものなら一大事だ…
「スペンサーに確認させる!」と生皮を手に、テントを飛び出した。エドガーが慌てて俺を呼び止めた。
「ダメだよ!せっかくあんたのために取ってきたのに!」
「うるせぇ!気色悪い《贈り物》なんて要るか!そのくだらないマネはいい加減に止めろ!不愉快だ!」
追いすがったエドガーの手を振り払い、スペンサーの居るテントに向かった。彼のテントの前には親衛隊が並んでいた。
「スペンサー殿に話がある、今すぐだ!」
「閣下はご就寝中です。ご用向きなら我々が…」
「スペンサー殿に、今すぐだ!
俺の《烈火》でテントを炙られたくなければ、今すぐ面会しろと伝えろ!」と兵士を脅した。
只事でない様子に、彼らは顔を見合わせて、「お待ちを」と短く残してテントの中に姿を消した。
エドガーめ!余計なことをしやがって!
「何事かね、イエィツ隊長?」と俺をテントに招き入れたスペンサーは、不機嫌になるでもなく、簡潔に用件を問うた。
「スペンサー殿に確認して頂きたいものがある」と前置きをして、エドガーの《贈り物》を差し出した。
「…これは」と流石の彼も絶句した。
「部下が勝手をした…お叱りは後ほど頂戴する。
敵の指揮官の顔だと言っていた。ヘルゲン子爵の顔か確認して頂きたい」
スペンサーは目を見開いて俺を凝視した。
彼はまだ薄暗いテントの中でランプを手にすると歩み寄って灯りを近づけた。
丁寧に剥ぎ取られた生皮を、ランプの明かりの前に見やすいように広げて差し出した。
「…は、拝見する」と彼は仇敵の顔を確認した。その顔は顔面蒼白で、ウィンザーの猛将すら恐怖させるエドガーの狂気に改めて忌々しさを覚えたが、今はそれどころじゃない。
「確かに…特徴は一致する箇所がある…」
「具体的には?」
「右眉と口元にホクロがあると聞いている…
口髭も一致してるように思うが…なにぶんこの状態では確信が持てぬ…」
彼は口元を覆って、吐き気を堪えるように苦い声で答えた。
「デニスを呼べ」と親衛隊に命じると、ネズミを連れた男がテントに呼ばれた。
「何か報告はあるか?」とスペンサーは用件も告げずに、デニスに訊ねた。
「今し方戻ったネズミが、敵の本営に動きがあったと申しておりました」と彼は答えた。
「何があった?」
「分かりません。追加でネズミたちから情報を集めてる最中です」とデニスが淡々とした口調で答えた。
ネズミたちは伝言で情報を集め、取りまとめる役が彼に伝えるらしい。伝わるまでには多少ではあるが時間差があるようだ。
「ネズミは人の顔を判別できるか?」とデニスに訊ねた。
「一応可能ですが…」
「敵の本営に、ヘルゲン子爵の姿があるか確認させろ。無ければこれは本人だ」そう言ってデニスにも手に持っていた顔の生皮を見せた。
彼は最初それが何かわからなかったようだが、何か気付くと慌てて口元を抑えて後ずさった。
「まさか…そんな…」とつぶやく彼の顔からは血の気が引いていた。
「エドガーが持ち帰った」と教えると、彼は吐きそうな顔でエドガーとのやり取りを語った。
ネズミに確認させるまでもない。
「…本物と言うことか…」とスペンサーが声を絞り出した。俺も同意見だ。
「ウェイド卿を呼べ」と彼は腹心の騎士を呼び出した。拠点の人の動きが慌ただしくなる。
「我々も準備を」と言って退出した。
傭兵たちにも、山を降りる準備をさせた。
「顔は?」とエドガーが持ち帰った《戦利品》の行方を訊ねた。
苛立ちを隠さずに「置いてきた」と答えると、彼は反省もせずに「アレもダメだったかぁ」と残念そうに肩を落とした。
「次はもっといいのを用意するよォ」と言う彼を無視した。
こいつの狂気には付き合いきれない…
眠そうに欠伸をして身体を伸ばしたエドガーは、「楽しみィ」と呟いて笑っていた。
✩.*˚
えらいことになった…
朝、飯を食ってる所に本営の親衛隊が来て、また本陣に連れて行かれた。
青い顔をしていた親衛隊は用件を口に出来ず、小さなメモを俺に手渡した。
そのメモに綴られた短い文章を見て、紙切れを握り潰した。只事じゃない…
「とりあえず、取り急ぎご同行下さいませ」とヘルゲン子爵の親衛隊が俺を急かした。
「了解した」と短く答えてフリッツに「襲撃に用意しておけ」とだけ告げた。
フリッツにはその言葉だけで事足りた。
「誰か連れて行け」とフリッツに提案され、《親衛兵》のウェリンガーを伴い本営のテントに向かった。
ウェリンガーに、握り潰したメモを手渡すと、彼はメモを確認して唸った。
「お前ならどうする?」と意見を求めた。
「皆目見当もつきません」とクソ真面目に答えて、ウェリンガーは口を噤んだ。
そりゃそうだろう…
腹の中で苦く笑って黙り込むと、親衛隊に案内され、本営のテントの入口を潜った。
「こちらです」と案内された先には死体が並べられていた。軍旗に包まれた遺体は一様に顔を隠されている。
誰が誰だかわからない。
「ヘルゲン子爵閣下は?」と訊ねると、親衛隊は暗い顔で「こちらです」と顔を隠した遺体の前に案内した。
「何で顔を隠しているんだ?」
「顔を…酷く痛めつけられておりますので…」と答えた親衛隊は吐き気を堪えるように口元を覆った。
「悪いが、確認させてもらうぞ」と断って、顔を覆った布を少しずらした。
結論から言うと、子爵の顔を確認することは出来なかった…
肌が粟立った。
喉を掻き切られた遺体の顔は、鹿の皮でも剥ぐように丁寧に剥ぎ取られていた。
他の顔も一様に同じ状態だった。
手際よく喉を掻き切られ、顔を奪われていた。
「《顔剥ぎエドガー》か?」
「分かりません…我々が気づいた頃にはもう既に…」
まんまとしてやられたってことか…
あの気狂いとんでもなく厄介な存在だ。
本営の警備が手薄だったとしても、どうやって中に入り込んで、ヘルゲン子爵のテントを突き止めたのか…?
「クルーガー殿。閣下の名誉のため、確認がお済みであれば面布を戻して頂きたい」と、その場を預かる騎士に促され、顔を覆っていた布を元の位置に戻した。
彼はヘルゲン子爵から副官を任じられていたヴュストという騎士だ。
「指揮系統は私が引き継いだ。
つい先程新たに伝令を走らせた。昼過ぎにはユニコーン城に到着するはずだ」
「どうするおつもりですか?」
撤退を命じるかと思っていたが、彼は「もちろん戦う」と宣言した。
「このまま引き下がれるものか」とその目は復讐に燃えていた。
良くない傾向だ…
死んだ奴のために戦うなど、騎士の悪いクセとしか言い様がない。無駄な事だ。
シュミットの姿を探したが、彼はヘルゲン子爵の使いでユニコーン城に居るのだと言う。
俺には、頭に血の昇った騎士を説得する術は無かった。
ヴュスト卿は次々命令を出して襲撃に備えさせた。
「傭兵たちにも働いてもらう」と俺を呼んだ用件を告げた。
「定石通り、前衛にて敵の突撃の勢いを殺せ。
機を見て重装騎兵を投入する」と指示を出し、本営のテントから俺たちを追い出した。
「策はおありでしょうか?」と今度はウェリンガーが俺に訊ねた。
「給料分の仕事をするまでさ」と苦々しく答えて煙草を咥えた。
なんとも言えない…もう笑うしかない…
紫煙を吐き出して空を見た。
暗澹たる雲が山の方から流れ出て、影を落とした。
✩.*˚
「…お爺様と…ヘルゲン様が…」
あまりに苦くて飲み込めない言葉を、やっとの思いで咀嚼した。
手に握っていたお手紙は、音を立てて醜く拉げて紙屑のような可哀想な姿に変わってしまった。
お父様の前だと言うのに、足から力が抜け、その場で崩れ落ちてしまう始末だ。
お爺様は、伯父様が亡くなった後に、私を哀れんで、二度ほど訪ねてくださった。
私のささやかなおもてなしと紅茶を喜んでくださったのに…
ヘルゲン様から頂戴したお手紙も、今では遺言となってしまった…
「立ちなさい、テレーゼ」とお父様は厳しい口調で叱責した。
「お前の母は気丈な女性だったぞ」とお母様を引き合いに出した。
幼い私の覚えてるお母様は、いつも百合のように真っ直ぐ背を伸ばし、凛々しい美貌を誇らしげに掲げていた。涙など、見たことは無かった。
それに比べて、私は寒芍薬のように下を向いてしまう。
《白鳥姫》と言うのは下を向きがちな私を揶揄する言葉のように思えた。
「クルーガーの手袋は出来たのか?」と訊ねるお父様にもう少しで完成すると答えた。
お父様は御二人の死を悼んでおられないのだろうか?と不思議に思った。
「ヘルゲンの穴を埋めねばならん。
明後日、前線に赴く。それまでに手袋を用意しておきなさい」と告げて、お父様は私に下がるように命じた。
それだけ…?
悲しくて俯きそうになる私を、お父様はしっかり見張っている。
「公女らしくしなさい」とまた叱責される。
歪んでしまった手紙を握り直して、お父様の望むようなゆったりとした会釈をして退出しようとした。
「…テレーゼ、その手紙は何だ?」とお父様は部屋を出ていこうとした私の持った手紙を見咎めた。
「ヘルゲン様にお届け頂きたかったのですが…無駄になってしまいました…」と答えた。
「何故二つもある?」
お父様は目敏く、重なったもう一通の封筒の宛を問い質した。
「クルーガー様へのお手紙です」と答えると、お父様は珍しく驚いたような顔をした。
「シュミット様に勧められたので、お手紙を認めました」と言い訳する私に、お父様は「預かる」と言って手を差し出した。
少しだけ迷って差し出された手にクルーガー様へのお手紙を託した。
お父様は鷹揚に頷いて、珍しく私に触れて下さった。
大きな手のひらで頭を撫で、お父様はまた何事も無かったように退室を促した。
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