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ライナー
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マリーは人使いが荒い。
陛下から渡されたメモ書きにあった魔法石に最も近いと思われる魔石を彼女に届けた。
探すのが手間取ったから、もう昼はとうに過ぎていた。
「ありがとう、イールお兄様」
それだけ言って彼女は荷物を受け取ると、フリルのスカートをひらりと靡かせてさっさと部屋の中に消えた。
「イールじゃん」
マリーに続いて、ドアからひょっこりと顔を覗かせたのはミツルだった。
「ペトラが探してたよ」とミツルは言った。
「姉上が?」
「何かやらかしたの?
メイドさん達がペトラに何か話してたけど…
その後彼女ずっと君を探してたよ。
何処に居たのさ?」
「陛下の蔵の奥で掃除をしてたんだ」
「ふーん…見つからないって戻ってきて、また探しに行ったよ」
なんの用か、皆目見当もつかない。
「分かった」とだけ答えてドアから離れた。
私を探しているなら、私の部屋か、陛下の所に居るだろう。
まず自分の部屋に向かおうと階段を上がった。
「おや、殿下」
階段でヒルダとすれ違った。
相変わらず板に着いた男装で、スラリとした長身を洒落た緋色のジャケットに包んで颯爽と歩いている。
やや後ろには知らない男が控えていた。
「ライナー、彼が第一王子のイール・アイビス殿下だ」と彼女は私を彼に紹介した。
「お初お目にかかります殿下。
ヴェストファーレン家から参りました、ライナー・シュミットと申します」
彼は自己紹介をすると私に恭しく頭を下げた。
いかにも真面目そうな男だ。
私がつまらない顔をしているのに気づいたヒルダが笑った。
「あたしの子供の頃からの世話係で、この世で一番の貧乏くじを引いた男だ。
あたしのせいで眉間のシワが消えなくなった」
自分の眉間を指さして彼女は面白そうに笑った
「なるほど、これは名誉の負傷と捉えれば良いのですな」と返す彼とのやり取りを聞く限り、この二人は主従というより親子みたいな絆で結ばれているようだ。
「お嬢様、侯爵閣下を待たせております」
「ああ、そうだな。
またな、イール殿下」
軽く肩に触れて彼女はそのままの歩き去った。
まるで昨日の事など無かったような態度に少し安心する。
シュミットは私に小さく会釈して彼女の背を追った。
立ち去る彼女の手が動いて、自分の首元をなぞったように見えた。
それが何かのシグナルのように感じたのは私の思い上がりだったろうか?
✩.*˚
「イール!」
ずっと探していた弟の姿を見つけて、つい大きな声を出してしまった。
双子の弟は随分驚いた様子で、辺りを見回して私を見つけた。
「もう!どこにいたの?随分探したのよ!」
「姉上、そんなに大きな声出さなくても逃げたりしませんよ」
「アイギスから聞いたわよ」と、つい言葉が強くなってしまう。
彼に確認しなければならないことがある。
「何故彼女に首飾りを贈ったの?」
「…それは…」歯切れの悪い返答に事実と知る。
「しかも手作りよ。
意味を知らないわけじゃないでしょう?
アイギス達は貴方が求婚したのだと思ってるわよ」
侍女たちが血相を変えて、今朝私に相談に来た。
ヴェストファーレンの娘に、イールが首飾りを贈ったと言っていた。
侍女たちは、急拵えで彼女のためのドレスを用意したらしい。
しかしドレスを拒否されたので、困って私の所にに来たのだ。
「珍しい品と交換しただけです」とイールは言っていたが、そんな簡単な話では無いのだ。
手作りの装飾品を贈る行為は、事実上の求婚に当たる行為だ。
彼女はそれを知っているのだろうか?
勇者に花籠を贈った私が人のことを言えた義理じゃないが、ちゃんと確認しなければ怖かった。
「イール、貴方…彼女の事…」
「彼女はフィーアに帰ります。
ずっとアーケイイックに居られるわけじゃない…」
「じゃあ、尚更よ!
貴方はアーケイイックを…陛下や私達を置いて行ってしまう気なの?」
イールはヒルダとフィーアに行くつもりなのだろうか?
私達家族を捨てて?
同じ日に生まれて、楽しみも喜びも苦しみも共にした弟が、手の届かないところに行ってしまう気がして悲しくなった。
手を伸ばして弟を抱き締める。
こんな簡単なこともことも出来なくなるかもしれない…
「ごめんなさい、喜んであげれなくて…
悪い姉よね…自分のことばっかりで…」
涙を滲ませた私の背にイールの手が添えられた。
私より背が高く、肩幅も広くなったが、彼は相変わらず私の可愛い弟だ。
「貴方は私の大切な、自慢の姉です…」
優しい声は寂しげだった。
私が彼の幸せの邪魔をした…
それでもイールは私を責めない。
自分に言い聞かせるような静かな声が悲しかった。
「私の生きる場所はアーケイイックです。
陛下と姉上、あなた達の隣が私の居場所です。
彼女は…私の少し特別な友人です」
そう言って、泣き虫だった弟は寂しげに微笑んだ。
✩.*˚
「見てくれ!
急拵えだが、いい出来だ!」
アンバーがそう言いながら、マリーの部屋に持ち込んだのは人の右腕だった…
不死者が人間の生の右腕を持って自慢しに来たら、さすがにその場が凍りつく。
当の本人は嬉しそうに右腕を持って自慢げに語っていたが、さすがに友人の僕でも狂気を感じた…
「侯爵へのプレゼントだ。
右手がないと不便だろう?
質感は肌に似せたんだが、やっぱり人間の肌は再現が難しいな!
自然な丈夫さと伸縮性を持たすために、プライチェプスの皮を使用したんだがどうだろう?
魔石を使用して、指は魔力を感知して動くようになっているし、内蔵された他の魔石で魔法も展開できる優れものだ!
三つまで魔法を付与できるぞ!」
テレビショッピングみたいな便利の押し売りだ…
アンバーって、普段は冷静で温厚で人がいいけど、こういう所が狂気じみてるんだよな…
「また変なもの作って…」と言うマリーの呟きを聞かなかった振りして、アンバーは義手をヘイリーに手渡した。
「付けてみたまえ。
着け心地が悪かったら調整しよう」
「あ、ありがとうございます、陛下…」
かなりリアルな腕を渡されて、ヘイリーすら若干引いている。
やっばぁ…
アンバーのヤバいスイッチが入ってしまっている。
こうなったら彼は満足するまで止まらない。
「まぁ、座りたまえ。
服が邪魔だな、ちょっと脱いで合わせてみよう」
「お止めしなくてよろしいのですか、お嬢様?」
「…まぁ、親父殿が何故か義手を持って帰ってしまったからな…ないと困るし、いいんじゃないか?」
ついさっき合流したばかりのシュミットさんがヒルダと小声で話すのを聞いた。
ヒルダの世話係と聞いたが、娘と父親くらい年が離れてる感じだ。
ワルターより彼の方がお父さんっぽい。
腰には剣を下げているが、丁寧で温厚そうな感じを見ると武人と言うより執事みたいな印象の人だ。
「ちなみに、陛下、それは一体お幾らにするおつもりですか?」
僕達に向けるより幾分か丁寧な言葉遣いでアンバーにヒルダが尋ねた。
確かに…気になる…
材料費だけでもかなりな金額になってそう…
「金なんか取らないよ」というアンバーにヒルダは苦笑いした。
「人間の国じゃ、タダより怖いもんはないんですよ」
「そうかね?
私は自分の探究心を満足させてもらえればそれで構わないんだが…
こういう機会は滅多にないものでね。」
「まあ、お代は魂とか言われても困るけどね」
「お嬢様、陛下に御無礼です」
ヒルダにシュミットさんが苦言を呈するが、アンバーは彼女の言葉を楽しむように笑い飛ばした。
「はっはっはっ!
それはそれは、実に魔王らしくて結構だ!
私より彼女の方が魔王に向いてる」
今日のアンバーはご機嫌だ。
シュミットさんがヘイリーの脱衣を手伝っている間、僕も義手を見せてもらった。
「へぇ…本物の腕みたいだ。
そんなに重くないんだね」
「いい義手というのは本物そっくりというより、生活を支えるべきものだ。
生活に支障が出るものは良くない。
重すぎても軽すぎても身体のバランスが悪くなるからね。
以前彼の義手を見せてもらったが、重量が重すぎた。
あれでは過度な負担で肩を脱臼したり、背骨に負担がかかって姿勢が悪くなったりといい事がない」
「ちゃんと動くの?」
「理論上はね。
この肘の関節に腕を入れて、固定するとこの魔法石に触れるようになっている。
ここから指令が伝わるから、慣れさえすれはすば、ものを掴んだり位は問題なくなるだろう。
ボタンを留めたりするのは難しいかもな…
問題はそれなりに魔力を消費するから、ミツルは使えないってことくらいかな?」
「ヘイリーは使えるの?」
「当たり前だろう?
彼はヴェストファーレンの教え子でフィーアの貴族だ。
魔導師の素質だって十分にあるし、魔力だって人間にしては高い方だろう。
アレンと同等かそれ以上だね。
あとは魔法を扱うセンスの問題さ」
「センスって随分ざっくりとした言葉だね」
「まぁ、できる人は何も無くてもできるし、できない人は一生かかっても掴めない。
魔法は生まれ持った才能と器用さと応用力、あと感覚が求められる。
様には、それらを満たした特別な選ばれた人間しか魔法は使えないし、魔法を極めた者しか魔導師にはなれないのだよ。
アレンはそれを全て満たして、尚、知識を求める探求者だ。
だから私は彼が気に入ったんだ」
アンバーは思いのほか彼を気に入ってるらしい。
その彼とはしばらく会ってない。
まだ地図の続きを用意しているのだろう。
一体どこで作業しているのかは知らないが、僕には手伝えることもないし、邪魔するだけだから戻ってくるのを待っている。
ヘイリーが用意ができたとアンバーに伝えた。
右側だけ服を脱いだ彼の腕は、当たり前だが肘から先が無かった。
「装着時に少し痺れるような痛みがあるが、腕が繋がる証拠だ。
こればっかりは我慢してくれ」
「どうぞ、痛みなら慣れてます」
ヘイリーはそう言って、大人しく義手を着けられるのを待っている。
「では」とアンバーは腕をヘイリーの残った右腕に繋いだ。
痛みがあったのか、腕を着けた瞬間だけ彼は顔を顰めた。
「どうだろう?思ったように動かせるかね?」
アンバーが尋ねながら義手の手のひらに触れた。
「凄いですね、触られた感覚がある」とヘイリーは驚いていた。
「君は生まれつき腕がない訳では無いから、指を動かす感覚なんかは覚えているだろう?
やってご覧」
「自分では動かしてるつもりなんですがね…」
ヘイリーは真剣な顔で義手の指先を見ている。
指が少しだけ曲がったと思うと、いきなり別の生き物のように暴れ出した。
アンバーが慌てて暴れる手を抑える。
「調整が難しいみたいだな、リミッターが必要そうだ」
「不器用で申し訳ありません」とヘイリーが詫びた。
それでも動かせたんだから凄い。
「いやいや、私の方が調整不足だ。
君は私が思っている以上に力が強いらしい。
《祝福》のせいかもしれないな…」
そう言ってアンバーは彼の手を放した。
「もう外すかね?」
「もう少し様子を見てもよろしいでしょうか?
動かし方はだいたい分かりました。
あとはセンスの問題ですね」と彼は笑った。
しばらく手を見つめながら少しずつ動かす練習をしていた。
最初はぎこちなく小刻みに震えてた手も、少しずつ震えが治まって手を開いたり握ったりするくらいはできるようになった。
「…少し疲れました」
額に汗が滲んでいる。
顔色も少し悪い。
ヒルダに呼ばれたマリーが慌てた様子で飛んでくる。
「お父様!無理させないでよ!
ヘイリー、大丈夫?薬湯を飲んで少し横になって!」
マリーに叱られて、アンバーも肩を落としていた。
「すまない、もっと早く止めさせるべきだった」
「マリー、加減を考えずに無理したのは私だ。
陛下のおかげで右腕が出来ました。
ありがとうございます」
楽な体勢になるよう、シュミットさんがヘイリーに手を貸した。
「これを飲ませて」とマリーが薬湯をシュミットさんに差し出すと、彼は材料と効果をマリーに確認した。
「生姜と、ルクとドゥルケという植物の根っこを乾燥させた粉末の薬湯よ。
とろみはジャガイモのデンプン質で、水は城の地下五百メートルから採取してる綺麗なものを煮沸してるわ。
効果は、血の巡りを良くすること、身体の負担軽減、免疫促進、高ぶった神経の安定化等ね。
安心した?」
マリーがよどみなく答えると彼は頷いた。
「なるほど、了解致しました。
中身を改めてもよろしいでしょうか?」
マリーに確認するシュミットさんは慎重だ。
ちゃんとこういう人が居るんだ、と少し感心する。
「シュミット、マリーは信頼出来る。
毒味は不要だ」
「しかし閣下のお口に入れるものです」
「マリー、気を悪くしないでくれ。
彼は少し用心深いんだ」とヒルダが詫びた。
マリーは「いいのよ」と彼女に答えた。
「貴方たちはちょっと不用心すぎるから、こういう人も必要よ。
しっかりした世話係で少し安心したわ」
マリーはシュミットさんに「どうぞ」と毒味用に銀製のスプーンを手渡す。
彼は匙を受け取ると、毒味をしてから薬をヘイリーに飲ませた。
「全く、面倒だ」とボヤくヘイリーにシュミットさんは「ご辛抱ください」と苦笑いした。
「今は大切な時期ですので、十分にお気をつけ頂かなくては…」
「城で何か?」
ヘイリーが彼に尋ねると、シュミットさんはこっそりとヘイリーに耳打ちした。
どうやら大きな声で言えないことらしい。
「…分かった」とだけ答えてアンバーにだけに報告するように指示する。
「陛下には大旦那様からのお手紙をお渡ししております」
「ああ、例の件だな、承知している。
私の城で好き勝手はさせんよ。
人間は目立つからね。
見つけ次第捉えるように伝える」
「なんか物騒な話だね」
「まぁね、君も見慣れない人が居たら注意することだ」
アンバーはそれ以上教えてくれなかった。
彼らの中では話が繋がっているらしい。
シュミットさんに向かってアンバーは彼らの安全を約束した。
「城の中での事は私が全て責任を持つ。
アーケイイックの兵士も君達の国の兵士に劣らぬ程優秀だ。
君達の安全はこの私が保証しよう。
侯爵は安心して療養したまえ」
アンバーはこの国で一番頼りになる人だ。
彼がそういうのだから絶対に大丈夫だろう。
アンバーとシュミットさんの存在に、油断してしまったのは皆同じだったのだろう。
後悔は先に立たないのだ…
✩.*˚
「あぁ!クソッ!最悪!」
城から出たから煙草を吸おうとしただけなのに…
「何事です?トリスタン様…」
「親父殿に貰った煙草入れを落とした…やべぇ…」
ラーチシュタットに行く事が決まった時にヒルダと揃いで貰ったやつだ。
貝殻で描かれた雲雀の象嵌が砕けた。
「アルフレート、これってどこで直せんだ?」
「大旦那様に訊いたらいいじゃないですか?」
「バッカ!お前言えるわけねぇだろ!
そうでなくっても最近の俺は良いとこないんだぜ!」
手で砂埃を払って砕けた鳥の象嵌を確認する。
今までも落としたことがあったが、壊したのは初めてだった。
「…嫌な感じがする」
「やっぱり帰るの止めるとか無しですよ。
もう明日ラーチに戻ると伝えてあるんですから…」
「あいつら何か隠してた。
やっぱりヘイリーに確認してくる!」
踵を返して一角獣の城に戻ろうとする俺に、アルフレートが叫んだ。
「また勝手をすれば大旦那様に叱られますよ!」
「うるせぇ!黙っとけ!」
「私だけ戻れません!」とアルフレートが付いてくる。
彼は「戻るな」とも「帰りますよ」とも言わずに、嫌そうな顔で俺に言った。
「仕方ないから一緒に怒られてあげますよ」
「…良いのか?」
「止めたって、私がボコボコにされる未来しか見えませんからね…
貧乏くじってやつですよ」
「悪ぃな」
「本当に思ってないでしょう?」
「思ってるさ、お前とは長いからな…」
赤毛の友人はいつも嫌そうな顔をして俺に付いてくる。
嫌なら辞めりゃいいのに、この男は俺の我儘に付き合って毎回貧乏くじを引くのだ…
✩.*˚
「ウィル、絵本、もうない?」
「取ってこないと無いな…」
カッパーは用意していた絵本を全部読んでしまった。
私もそろそろ飽きてきたところだった。
新しいものを用意しようかとも思ったが、彼を一人にするのは極力避けたかった。
どうしようかと思っていると、誰かがドアをノックした。
「モーントメンシェン様」と顔を出したのはよく知っている城勤めのメイドだ。
「何だ?」
「家宰様がお呼びです。
お急ぎとの事で…」
「…師匠が?」
何事だろう?トリスタンが関わってなければ良いが…
「お忙しいのでこちらには来れないそうです。
御足労お掛け致しますが、家宰様のお部屋までお越しください」
「…グレンデルを置いていく。
怖がらなくていいから」
カッパーにそう言って、自分の影からグレンデルを切り離して預けた。
視界を繋げて左右で違う風景を見る。
もし何かあればすぐ分かる。
「すぐに伺うと先に伝えてくれ」
メイドを先に帰して、厳重に鍵をかけて部屋を出た。
右目と右耳だけグレンデルのものだ。
右目に映るカッパーは大人しく人の姿を保ったままソファに座っている。
私が傍に居なくても彼は形は保っている。
少し安心した。
師匠の執務をするために構えている部屋のドアをノックした。
「失礼します」と中に入ると、左目に映った師匠は驚いた顔をしてた。
師匠の口が何か言葉を発したが、上手く聞き取れなかった。
「お呼びと聞きました。
すみませんが、視覚と聴覚を半分にしてるのでもう一度…」
「ウィル!カッパーはどうした?」
「彼なら部屋に…」
「避けろ!」
師匠は答えようとした私の胸ぐらをいきなり掴んで部屋に引き入れた。
「《盾の拳》」
金属のぶつかる音が、見えていない右側を襲った。
「刺客だ!」という師匠の怒声が左耳に響く。
「ウィル!グレンデルの視界を外せ!毒を食らったら死ぬぞ!」
師匠の警告に慌てて視界を解除して剣を抜いた。
広くなった視界に暗殺者の姿を捉えた。
さっきのメイドだ…
信じられない…
彼女の姿はもう三年も前から毎日のように見ていた。
「…失敗か…」と呟くと彼女は滑るように暗い廊下に逃げた。
《蜘蛛》の毒の事は知っている。
ヘイリーの腕を奪うことになった猛毒だ。
「ウィル!すぐに侯爵の部屋に戻れ!
視界は繋ぐな!攻撃された時に避けきれない!」
そう言い残して師匠はすぐに彼女の後を追った。
私も用心して廊下に出る。
剣を握ったまま部屋に走った。
トリスタンの警告が脳裏をよぎる。
あいつの言った事が正しかった。
「…カッパー」
グレンデルを置いていけば大丈夫だろうと高を括った。
《蜘蛛》を侮っていた…
用事がない限り、カッパーの部屋には誰も来ないようになってる。
暗殺者からすれば目撃者の無い良い条件が揃っている。
グレンデルと繋いだままの右耳に「誰?」とカッパーの声を聞いた。
背筋に冷たいものが走る…
悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
バタバタとした足音が続く。
何が起きてる?
視界を繋ぐなと言われていたがもうそれどころではない。
グレンデルの視界に、血のついた剣を持った長い黒髪の男の姿が過ぎった。
「ヘイリー!何処だ!」
トリスタン?!なんで戻ってきた?
彼の足元には誰かが倒れていた。
彼が仕留めたのだろうか?
その男とは別に、カッパーの着てた服が床にそのまま落ちている。
服を拾い上げたトリスタンが蛇に戻ったカッパーを見つけた。
「助けて、トリスタン…」
刃物を向けられてカッパーが喋った。
「はぁ?何で俺の名前を…」
『トリスタン!その蛇に手を出すな!』
「ウィルか?お前何処にいるだよ?不用心すぎるだろう?
そんなことより部屋にヘイリーがいねえぞ!」
『すぐ戻る!それよりお前は師匠の加勢に行け!
《蜘蛛》に襲われた!』
「随分賑やかじゃねぇか、お祭りだなこりゃ」
「トリスタン様、ここは私が預かります」と声がした。
トリスタンの補佐役のフィッシャーだ。
彼も居たらしい。
「しゃーねーな…アルフレート、この蛇逃がすなよ。
親父殿は何処だよ?」
『分からないが執務室から出て西側に走って行った』
「はいはい…西側ね…」と言いながら部屋を出ていった彼と廊下ですれ違った。
「俺の言った通りだろ」とすれ違いざまに笑いながらそう言い残して彼は走り去った。
✩.*˚
ヘイリーの体調が安定したので部屋に連れ帰った。
「何かあったらすぐに呼んでね」
「ありがとうな、マリー」
小さな友人に礼を言うと、彼女の仮面が嬉しそうに笑った。
「いいのよ、私の仕事ですもの。
またヘイリーのお粥を届けるわ。
無理して食べる必要は無いけど、薬は忘れないで」
「ライナーが居るから忘れないよ」
「そうね」と彼女は笑って部屋を後にした。
彼女を見送って部屋に戻る。
ライナーが寝室から出てきたとの重なった。
「ヘイリーは?」と尋ねると彼は「大丈夫です」と答えた。
「魔力を消費したので疲れたのでしょう。
あの薬湯が良く効いたようです」
「あたしもマリーの薬で治してもらった。
マリーは良い奴だ、腕も良いし信用出来る。
彼女の出したものを毒味するとかもう言うなよ?」
「随分信用しておいでですね」
「友達になったからな」
「なるほど、アーケイイックを満喫しておいでですな」と彼は嬉しそうに笑った。
「この規格外の国はお嬢様にはピッタリですな」
「なかなかいい国だぞ。
煙草が無いのだけが悪いとこかな?」
「フィーア人には辛いですな」
「全くだ」と頷く。
話してたら煙草が吸いたくなってきた。
「お探しのものはこれですか?」とライナーが煙草入れを差し出す。
彼は良く分かってる。
「ありがとう」と煙草入れを受け取る。
「大旦那様が新しいのをご用意してくださいましたよ。
誰かに差し上げたそうですね…」
「うん、やった」
新しい煙草入れを眺めながら答えた。
新しいのは、茶色と紫の混ざった色合いの木製の本体に草の模様の彫刻が施されている。
いかにも流行りもののような細工で親父殿の趣味だ。
「あんなに大切な品、誰に差し上げたのですか?」
ライナーがさらに追求してくる。
珍しく気にしてるようだ。
「お前も気にするのか?」
「随分お褒めになっていらっしゃったと聞きましたので…」
「うん、いい男だ。
あたしより背が低いけどな」
「それこそ絞れませんな」と彼は苦笑いした。
あたしも笑って新しい煙草入れを開いた。
「気が利かないな、空じゃないか?」
「おや?本当ですね。
メモが入ってますよ」
ライナーに言われてメモを手に取ると親父殿の筆跡で、《男へのプレゼントじゃないぞ》とあった。
親父殿も意外と根に持ってるらしい。
笑ってしまった。
「そりゃぁ、父親が娘にやったものを他の男にあげたりしたら根にも持ちますよ」とライナーも同意していた。
「エヴァやラウラがそんなことしたらどうする?」
「とりあえず相手を探し出して、縛り上げて海に落としますね」
彼のまだ、結婚していない娘たちの名前を出すと、ライナーは笑いながらサラリと怖いことを言った。
「あっはっは!やべー親父だ!
ちゃんと嫁に出してやれよ、あたしと違っていい娘達だろ?」
「父親からすれば、娘は何人いても手離したくないくらい可愛いもんですよ」
「そういうもんかね…」
「そうですとも」とライナーは応えて、フランツにあたしの煙草を荷物から出すように伝えた。
フランツはすぐに新しい煙草を持って来た。
黄色い巻紙の煙草を、紫檀の煙草入れに詰め替えて眺める。
洒落た良い色合いだ、気に入った。
彼に自慢したら良い品だと褒めてくれるだろうか?
そんな事を思ってしまった…
ダメだな…振られたくせに…
壁に背中を預けてマッチと煙草を手に取った。
煙草を吸えば少し落ち着くと思った。
火をつけながらタバコの煙を深く吸った。
「っ!」
バニラの煙に混ざって強い刺激が肺に広がった。
煙草を取り落とし、肺の痛みで咳き込むと、立っていられなくなる。
珍しくあたしが咳き込む姿に、ライナーが驚いた顔をして背中を摩った。
「お嬢様!?大丈夫ですか?」
「…ライナー…これ…な、何だ…」
次第に指先が痺れて、吐き気まで込み上げた。
「眩し…目が…」
目が開けてられないくらい辺りが眩しい…ライナーの姿もよく見えない…
畜生、油断した…毒か…
起き上がろうとしたが手足に力が入らない…
「…ヘィ…リー…」逃がさなければ…
ライナーが怒鳴ってるようだが何も分からない。
辛うじて「フランツ」「《蜘蛛》だったのか?」と言うのを聞いた。
あいつが《蜘蛛》だったのか?
シャルルの親切を無駄にした。
それ以上は覚えてない…意識が混濁して気を失った…
✩.*˚
隣の部屋から怒鳴り声が聞こえてベットから起き上がった。
「お嬢様!」とシュミットが叫んでいる。
声の感じからしてただことでは無い。
ヒルダに何かあったのか?
慌ててベットを出て隣の部屋の様子を伺った。
「フランツ!貴様何を渡した!」
連れの男に向かって怒鳴っている。
彼の腕の中で、ぐったりと動かないヒルダの姿があった。
「お前が《蜘蛛》だったのか!?」
その言葉を聞いて全てを理解する。
ヒルダに毒を盛られた。
方法は分からないが、物理的な攻撃を全て跳ね除ける防殼も体に入った毒には無効だ。
シュミットがヒルダを抱いたまま剣を抜いた。
「閣下!《蜘蛛》です!」と私に向かって彼が叫ぶのを聞いた。
連れの男はそれを聞いて、素早く寝室のドアに手をかけた。
私を先に殺すつもりだろう…
ドアに近づいたその一瞬を見計らってドアを力いっぱい蹴り飛ばした。
人のぶつかる衝撃が不意打ちの成功を知らせた。
《蜘蛛》がドアにぶつかって体制を崩した隙に、寝室から飛び出してヒルダに駆け寄った。
「ヒルダ!立てるか?!」
彼女の応答はない。
意識もなく痙攣している。
嘔吐と失禁、浅い呼吸はかなり危険な状態に見えた。
「閣下!早くお嬢様と部屋の外へ…」
シュミットがそう言って、襲ってくる《蜘蛛》との間に立ちはだかった。
「フッ」と短い呼吸を吐き出しながら素早い剣撃を繰り出す。
彼の切っ先は鋭く《蜘蛛》を襲ったが、僅かに掠ったのみだ。
「…さすがお強い」
「フランツ!貴様長年世話になった者への恩義がこれか!」
「《蜘蛛》ですから…」と小さく答えて、彼は隠し持っていたナイフを投げた。
ナイフは動かないヒルダに向けて放たれた。
「お嬢様!閣下!」
シュミットが私たちに向かって叫んだ。
シュミットをすり抜けて飛んできたナイフは、辛うじてヒルダの防殼に弾かれて床に転がる。
「…生きてるうちはこの程度では傷も付けれないか…《祝福》とは無意識でも使えるのだな…」
「貴様!よくもお嬢様に刃を向けたな!」
シュミットの目が怒りに燃えていた。
普段冷静な彼が怒号を放ちながら《蜘蛛》に何度も切り付けた。
苛烈な攻撃に《蜘蛛》は下がって距離を取る。
その手には、まだ小さく薄い形のナイフの形をした暗器が握られている。
「閣下!早く安全な所に…」
「分かってる!だがヒルダが…」
私の細い片腕では彼女は運べない。
「すまん、ヒルダ…」
彼女を運ぶのを諦めて部屋から逃げ出した。
私にできることはそのくらいだった…
✩.*˚
大失態だ。
私の悪い所が出てしまった。
この男を信頼しすぎた…
「私は殺すのが任務じゃないんですが…」と彼は全く違う人間のように口を開いた。
薄っぺらな言葉は感情がない。
彼は躊躇せずに私に刃を振るった。
剣だけなら勝てなくもないが、問題はあの薄いナイフだ。
一度に何枚か同時に投げてくる。
手元を隠して放つので踏み込むのに躊躇する。
毒付きのナイフを躱しながらお嬢様も守らねばならない…
「侯爵とお嬢様を天秤にかけましたね」とフランツが挑発した。
その言葉に動揺した。
迷わず侯爵を逃がさねばならなかった…
お嬢様ならそうした…
私には出来なかった…
「お嬢様と仲良く死んで下さい、シュミット様」
サラリとそう言ってフランツは手首を翻した。
ナイフに警戒したがフェイクだった。
気を取られて剣への反応が遅れた。
受け止めた剣が刀身を滑って首を襲った。
「ぐぅ…」
致命傷と言うには浅い。
しかし首の出血はそう簡単に止まらない。
それに毒…
私の顔を見てフランツが自嘲するように笑った。
「剣にも毒を塗るべきでした…
あの狼に嗅ぎつけられるのが心配で出来ませんでした…」
「なるほど、ならまだ戦える」
シャルル殿に感謝せねばな…
私の言葉にフランツは「南部の男は血の気が多い」とボヤいた。
「それは南部の男の誇りだ」と私は笑った。
多少の血を見たところで戦意は揺るがない。
死地にて強くなるのが南部の男だ。
最後の血の一滴まで忠を尽くすと、若き日に一角獣と燕の旗に誓った…
「燕は必ず国元に帰る。
お嬢様は生きて大旦那様の元にお帰り頂く」
私もあの旗の元に戻らねばならない…
ヴェストファーレンの飛燕の旗の元へ…
まだ動ける、気合いなら負けない。
剣を握り直す手に力が入る。
この男はもう部下じゃない、南部の敵だ。
全力で仕掛ける。
ナイフを投げる隙など与えない、一歩も引かずに押し通す。
殺すことだけを考える。
お前はここで仕留める。
お前を信頼してこんな所まで連れて来た私のケジメだ…
「まるで獣だ」と舌打ちするフランツに渾身の刃を振り下ろす。
受けきれなかった刃が、服を裂き、肉にくい込む。
片手で去なせるような軽い攻撃ではない。
フランツはナイフを捨てて、持っていた手を剣の柄に添えた。
さらに斬撃を加えた。
歳はとりたくないものだ…息が上がっている…
それでも、視界の隅で動かないお嬢様のために、この男を倒さねば安心できない。
再び強烈な斬撃を見舞うと、フランツの剣が悲鳴を上げた。
度重なる疲労に彼の剣が真ん中から真っ二つ折れた。
このまま押し通す…
振り下ろそうと剣を構えた。
「…甘いんですよ…貴方は真面目すぎるんです、シュミット様」
そう言って、フランツは勝利を確信した目で私を見ていた。
内腿に痛みと痺れが走る。
フランツが落ちてたナイフを靴の先で弾いたのだと気づいた時はもう遅い。
毒のナイフが足の大きな血管に刺さった。
フランツの勝ち誇ったような顔が癇に障った。
「南部の男の魂を、舐めるなよ!小僧が!」
吠えて自分の魂を奮う。
フランツに掴みかかって振り上げた剣の最後の斬撃を放つ。
振り下ろした腕に覚えたのは肉と骨を断つあの感覚…
眩しくなる視界の中、フランツの目に絶望を見た…
満足だ…
私は南部の男として死ねる。
身体を支えられなくなった足が、膝を着いて前のめりに倒れた。
大旦那様…
貴方より後に生まれて、先に逝きます…
ご挨拶もなく勝手にお暇することをお許しください…
お嬢様…
貴方は美しく、苛烈で、健やかで、優しくて、時々どうしようもなく脆い…
そこが心配です…
どうぞ、私の死をも恐れぬ忠誠心を誇ってください…
私の…妻と娘を頼みます…
ちゃんと嫁に出してやって下さい…
婿を苛める姑はいませんからね…
最後に脳裏をよぎったのは青空の中、風にはためく飛燕の旗だった。
藍染めの布地に輝く銀色の飛燕の紋章。
悔いなく死ぬのが、こんなに穏やかだとは知らなかった…
陛下から渡されたメモ書きにあった魔法石に最も近いと思われる魔石を彼女に届けた。
探すのが手間取ったから、もう昼はとうに過ぎていた。
「ありがとう、イールお兄様」
それだけ言って彼女は荷物を受け取ると、フリルのスカートをひらりと靡かせてさっさと部屋の中に消えた。
「イールじゃん」
マリーに続いて、ドアからひょっこりと顔を覗かせたのはミツルだった。
「ペトラが探してたよ」とミツルは言った。
「姉上が?」
「何かやらかしたの?
メイドさん達がペトラに何か話してたけど…
その後彼女ずっと君を探してたよ。
何処に居たのさ?」
「陛下の蔵の奥で掃除をしてたんだ」
「ふーん…見つからないって戻ってきて、また探しに行ったよ」
なんの用か、皆目見当もつかない。
「分かった」とだけ答えてドアから離れた。
私を探しているなら、私の部屋か、陛下の所に居るだろう。
まず自分の部屋に向かおうと階段を上がった。
「おや、殿下」
階段でヒルダとすれ違った。
相変わらず板に着いた男装で、スラリとした長身を洒落た緋色のジャケットに包んで颯爽と歩いている。
やや後ろには知らない男が控えていた。
「ライナー、彼が第一王子のイール・アイビス殿下だ」と彼女は私を彼に紹介した。
「お初お目にかかります殿下。
ヴェストファーレン家から参りました、ライナー・シュミットと申します」
彼は自己紹介をすると私に恭しく頭を下げた。
いかにも真面目そうな男だ。
私がつまらない顔をしているのに気づいたヒルダが笑った。
「あたしの子供の頃からの世話係で、この世で一番の貧乏くじを引いた男だ。
あたしのせいで眉間のシワが消えなくなった」
自分の眉間を指さして彼女は面白そうに笑った
「なるほど、これは名誉の負傷と捉えれば良いのですな」と返す彼とのやり取りを聞く限り、この二人は主従というより親子みたいな絆で結ばれているようだ。
「お嬢様、侯爵閣下を待たせております」
「ああ、そうだな。
またな、イール殿下」
軽く肩に触れて彼女はそのままの歩き去った。
まるで昨日の事など無かったような態度に少し安心する。
シュミットは私に小さく会釈して彼女の背を追った。
立ち去る彼女の手が動いて、自分の首元をなぞったように見えた。
それが何かのシグナルのように感じたのは私の思い上がりだったろうか?
✩.*˚
「イール!」
ずっと探していた弟の姿を見つけて、つい大きな声を出してしまった。
双子の弟は随分驚いた様子で、辺りを見回して私を見つけた。
「もう!どこにいたの?随分探したのよ!」
「姉上、そんなに大きな声出さなくても逃げたりしませんよ」
「アイギスから聞いたわよ」と、つい言葉が強くなってしまう。
彼に確認しなければならないことがある。
「何故彼女に首飾りを贈ったの?」
「…それは…」歯切れの悪い返答に事実と知る。
「しかも手作りよ。
意味を知らないわけじゃないでしょう?
アイギス達は貴方が求婚したのだと思ってるわよ」
侍女たちが血相を変えて、今朝私に相談に来た。
ヴェストファーレンの娘に、イールが首飾りを贈ったと言っていた。
侍女たちは、急拵えで彼女のためのドレスを用意したらしい。
しかしドレスを拒否されたので、困って私の所にに来たのだ。
「珍しい品と交換しただけです」とイールは言っていたが、そんな簡単な話では無いのだ。
手作りの装飾品を贈る行為は、事実上の求婚に当たる行為だ。
彼女はそれを知っているのだろうか?
勇者に花籠を贈った私が人のことを言えた義理じゃないが、ちゃんと確認しなければ怖かった。
「イール、貴方…彼女の事…」
「彼女はフィーアに帰ります。
ずっとアーケイイックに居られるわけじゃない…」
「じゃあ、尚更よ!
貴方はアーケイイックを…陛下や私達を置いて行ってしまう気なの?」
イールはヒルダとフィーアに行くつもりなのだろうか?
私達家族を捨てて?
同じ日に生まれて、楽しみも喜びも苦しみも共にした弟が、手の届かないところに行ってしまう気がして悲しくなった。
手を伸ばして弟を抱き締める。
こんな簡単なこともことも出来なくなるかもしれない…
「ごめんなさい、喜んであげれなくて…
悪い姉よね…自分のことばっかりで…」
涙を滲ませた私の背にイールの手が添えられた。
私より背が高く、肩幅も広くなったが、彼は相変わらず私の可愛い弟だ。
「貴方は私の大切な、自慢の姉です…」
優しい声は寂しげだった。
私が彼の幸せの邪魔をした…
それでもイールは私を責めない。
自分に言い聞かせるような静かな声が悲しかった。
「私の生きる場所はアーケイイックです。
陛下と姉上、あなた達の隣が私の居場所です。
彼女は…私の少し特別な友人です」
そう言って、泣き虫だった弟は寂しげに微笑んだ。
✩.*˚
「見てくれ!
急拵えだが、いい出来だ!」
アンバーがそう言いながら、マリーの部屋に持ち込んだのは人の右腕だった…
不死者が人間の生の右腕を持って自慢しに来たら、さすがにその場が凍りつく。
当の本人は嬉しそうに右腕を持って自慢げに語っていたが、さすがに友人の僕でも狂気を感じた…
「侯爵へのプレゼントだ。
右手がないと不便だろう?
質感は肌に似せたんだが、やっぱり人間の肌は再現が難しいな!
自然な丈夫さと伸縮性を持たすために、プライチェプスの皮を使用したんだがどうだろう?
魔石を使用して、指は魔力を感知して動くようになっているし、内蔵された他の魔石で魔法も展開できる優れものだ!
三つまで魔法を付与できるぞ!」
テレビショッピングみたいな便利の押し売りだ…
アンバーって、普段は冷静で温厚で人がいいけど、こういう所が狂気じみてるんだよな…
「また変なもの作って…」と言うマリーの呟きを聞かなかった振りして、アンバーは義手をヘイリーに手渡した。
「付けてみたまえ。
着け心地が悪かったら調整しよう」
「あ、ありがとうございます、陛下…」
かなりリアルな腕を渡されて、ヘイリーすら若干引いている。
やっばぁ…
アンバーのヤバいスイッチが入ってしまっている。
こうなったら彼は満足するまで止まらない。
「まぁ、座りたまえ。
服が邪魔だな、ちょっと脱いで合わせてみよう」
「お止めしなくてよろしいのですか、お嬢様?」
「…まぁ、親父殿が何故か義手を持って帰ってしまったからな…ないと困るし、いいんじゃないか?」
ついさっき合流したばかりのシュミットさんがヒルダと小声で話すのを聞いた。
ヒルダの世話係と聞いたが、娘と父親くらい年が離れてる感じだ。
ワルターより彼の方がお父さんっぽい。
腰には剣を下げているが、丁寧で温厚そうな感じを見ると武人と言うより執事みたいな印象の人だ。
「ちなみに、陛下、それは一体お幾らにするおつもりですか?」
僕達に向けるより幾分か丁寧な言葉遣いでアンバーにヒルダが尋ねた。
確かに…気になる…
材料費だけでもかなりな金額になってそう…
「金なんか取らないよ」というアンバーにヒルダは苦笑いした。
「人間の国じゃ、タダより怖いもんはないんですよ」
「そうかね?
私は自分の探究心を満足させてもらえればそれで構わないんだが…
こういう機会は滅多にないものでね。」
「まあ、お代は魂とか言われても困るけどね」
「お嬢様、陛下に御無礼です」
ヒルダにシュミットさんが苦言を呈するが、アンバーは彼女の言葉を楽しむように笑い飛ばした。
「はっはっはっ!
それはそれは、実に魔王らしくて結構だ!
私より彼女の方が魔王に向いてる」
今日のアンバーはご機嫌だ。
シュミットさんがヘイリーの脱衣を手伝っている間、僕も義手を見せてもらった。
「へぇ…本物の腕みたいだ。
そんなに重くないんだね」
「いい義手というのは本物そっくりというより、生活を支えるべきものだ。
生活に支障が出るものは良くない。
重すぎても軽すぎても身体のバランスが悪くなるからね。
以前彼の義手を見せてもらったが、重量が重すぎた。
あれでは過度な負担で肩を脱臼したり、背骨に負担がかかって姿勢が悪くなったりといい事がない」
「ちゃんと動くの?」
「理論上はね。
この肘の関節に腕を入れて、固定するとこの魔法石に触れるようになっている。
ここから指令が伝わるから、慣れさえすれはすば、ものを掴んだり位は問題なくなるだろう。
ボタンを留めたりするのは難しいかもな…
問題はそれなりに魔力を消費するから、ミツルは使えないってことくらいかな?」
「ヘイリーは使えるの?」
「当たり前だろう?
彼はヴェストファーレンの教え子でフィーアの貴族だ。
魔導師の素質だって十分にあるし、魔力だって人間にしては高い方だろう。
アレンと同等かそれ以上だね。
あとは魔法を扱うセンスの問題さ」
「センスって随分ざっくりとした言葉だね」
「まぁ、できる人は何も無くてもできるし、できない人は一生かかっても掴めない。
魔法は生まれ持った才能と器用さと応用力、あと感覚が求められる。
様には、それらを満たした特別な選ばれた人間しか魔法は使えないし、魔法を極めた者しか魔導師にはなれないのだよ。
アレンはそれを全て満たして、尚、知識を求める探求者だ。
だから私は彼が気に入ったんだ」
アンバーは思いのほか彼を気に入ってるらしい。
その彼とはしばらく会ってない。
まだ地図の続きを用意しているのだろう。
一体どこで作業しているのかは知らないが、僕には手伝えることもないし、邪魔するだけだから戻ってくるのを待っている。
ヘイリーが用意ができたとアンバーに伝えた。
右側だけ服を脱いだ彼の腕は、当たり前だが肘から先が無かった。
「装着時に少し痺れるような痛みがあるが、腕が繋がる証拠だ。
こればっかりは我慢してくれ」
「どうぞ、痛みなら慣れてます」
ヘイリーはそう言って、大人しく義手を着けられるのを待っている。
「では」とアンバーは腕をヘイリーの残った右腕に繋いだ。
痛みがあったのか、腕を着けた瞬間だけ彼は顔を顰めた。
「どうだろう?思ったように動かせるかね?」
アンバーが尋ねながら義手の手のひらに触れた。
「凄いですね、触られた感覚がある」とヘイリーは驚いていた。
「君は生まれつき腕がない訳では無いから、指を動かす感覚なんかは覚えているだろう?
やってご覧」
「自分では動かしてるつもりなんですがね…」
ヘイリーは真剣な顔で義手の指先を見ている。
指が少しだけ曲がったと思うと、いきなり別の生き物のように暴れ出した。
アンバーが慌てて暴れる手を抑える。
「調整が難しいみたいだな、リミッターが必要そうだ」
「不器用で申し訳ありません」とヘイリーが詫びた。
それでも動かせたんだから凄い。
「いやいや、私の方が調整不足だ。
君は私が思っている以上に力が強いらしい。
《祝福》のせいかもしれないな…」
そう言ってアンバーは彼の手を放した。
「もう外すかね?」
「もう少し様子を見てもよろしいでしょうか?
動かし方はだいたい分かりました。
あとはセンスの問題ですね」と彼は笑った。
しばらく手を見つめながら少しずつ動かす練習をしていた。
最初はぎこちなく小刻みに震えてた手も、少しずつ震えが治まって手を開いたり握ったりするくらいはできるようになった。
「…少し疲れました」
額に汗が滲んでいる。
顔色も少し悪い。
ヒルダに呼ばれたマリーが慌てた様子で飛んでくる。
「お父様!無理させないでよ!
ヘイリー、大丈夫?薬湯を飲んで少し横になって!」
マリーに叱られて、アンバーも肩を落としていた。
「すまない、もっと早く止めさせるべきだった」
「マリー、加減を考えずに無理したのは私だ。
陛下のおかげで右腕が出来ました。
ありがとうございます」
楽な体勢になるよう、シュミットさんがヘイリーに手を貸した。
「これを飲ませて」とマリーが薬湯をシュミットさんに差し出すと、彼は材料と効果をマリーに確認した。
「生姜と、ルクとドゥルケという植物の根っこを乾燥させた粉末の薬湯よ。
とろみはジャガイモのデンプン質で、水は城の地下五百メートルから採取してる綺麗なものを煮沸してるわ。
効果は、血の巡りを良くすること、身体の負担軽減、免疫促進、高ぶった神経の安定化等ね。
安心した?」
マリーがよどみなく答えると彼は頷いた。
「なるほど、了解致しました。
中身を改めてもよろしいでしょうか?」
マリーに確認するシュミットさんは慎重だ。
ちゃんとこういう人が居るんだ、と少し感心する。
「シュミット、マリーは信頼出来る。
毒味は不要だ」
「しかし閣下のお口に入れるものです」
「マリー、気を悪くしないでくれ。
彼は少し用心深いんだ」とヒルダが詫びた。
マリーは「いいのよ」と彼女に答えた。
「貴方たちはちょっと不用心すぎるから、こういう人も必要よ。
しっかりした世話係で少し安心したわ」
マリーはシュミットさんに「どうぞ」と毒味用に銀製のスプーンを手渡す。
彼は匙を受け取ると、毒味をしてから薬をヘイリーに飲ませた。
「全く、面倒だ」とボヤくヘイリーにシュミットさんは「ご辛抱ください」と苦笑いした。
「今は大切な時期ですので、十分にお気をつけ頂かなくては…」
「城で何か?」
ヘイリーが彼に尋ねると、シュミットさんはこっそりとヘイリーに耳打ちした。
どうやら大きな声で言えないことらしい。
「…分かった」とだけ答えてアンバーにだけに報告するように指示する。
「陛下には大旦那様からのお手紙をお渡ししております」
「ああ、例の件だな、承知している。
私の城で好き勝手はさせんよ。
人間は目立つからね。
見つけ次第捉えるように伝える」
「なんか物騒な話だね」
「まぁね、君も見慣れない人が居たら注意することだ」
アンバーはそれ以上教えてくれなかった。
彼らの中では話が繋がっているらしい。
シュミットさんに向かってアンバーは彼らの安全を約束した。
「城の中での事は私が全て責任を持つ。
アーケイイックの兵士も君達の国の兵士に劣らぬ程優秀だ。
君達の安全はこの私が保証しよう。
侯爵は安心して療養したまえ」
アンバーはこの国で一番頼りになる人だ。
彼がそういうのだから絶対に大丈夫だろう。
アンバーとシュミットさんの存在に、油断してしまったのは皆同じだったのだろう。
後悔は先に立たないのだ…
✩.*˚
「あぁ!クソッ!最悪!」
城から出たから煙草を吸おうとしただけなのに…
「何事です?トリスタン様…」
「親父殿に貰った煙草入れを落とした…やべぇ…」
ラーチシュタットに行く事が決まった時にヒルダと揃いで貰ったやつだ。
貝殻で描かれた雲雀の象嵌が砕けた。
「アルフレート、これってどこで直せんだ?」
「大旦那様に訊いたらいいじゃないですか?」
「バッカ!お前言えるわけねぇだろ!
そうでなくっても最近の俺は良いとこないんだぜ!」
手で砂埃を払って砕けた鳥の象嵌を確認する。
今までも落としたことがあったが、壊したのは初めてだった。
「…嫌な感じがする」
「やっぱり帰るの止めるとか無しですよ。
もう明日ラーチに戻ると伝えてあるんですから…」
「あいつら何か隠してた。
やっぱりヘイリーに確認してくる!」
踵を返して一角獣の城に戻ろうとする俺に、アルフレートが叫んだ。
「また勝手をすれば大旦那様に叱られますよ!」
「うるせぇ!黙っとけ!」
「私だけ戻れません!」とアルフレートが付いてくる。
彼は「戻るな」とも「帰りますよ」とも言わずに、嫌そうな顔で俺に言った。
「仕方ないから一緒に怒られてあげますよ」
「…良いのか?」
「止めたって、私がボコボコにされる未来しか見えませんからね…
貧乏くじってやつですよ」
「悪ぃな」
「本当に思ってないでしょう?」
「思ってるさ、お前とは長いからな…」
赤毛の友人はいつも嫌そうな顔をして俺に付いてくる。
嫌なら辞めりゃいいのに、この男は俺の我儘に付き合って毎回貧乏くじを引くのだ…
✩.*˚
「ウィル、絵本、もうない?」
「取ってこないと無いな…」
カッパーは用意していた絵本を全部読んでしまった。
私もそろそろ飽きてきたところだった。
新しいものを用意しようかとも思ったが、彼を一人にするのは極力避けたかった。
どうしようかと思っていると、誰かがドアをノックした。
「モーントメンシェン様」と顔を出したのはよく知っている城勤めのメイドだ。
「何だ?」
「家宰様がお呼びです。
お急ぎとの事で…」
「…師匠が?」
何事だろう?トリスタンが関わってなければ良いが…
「お忙しいのでこちらには来れないそうです。
御足労お掛け致しますが、家宰様のお部屋までお越しください」
「…グレンデルを置いていく。
怖がらなくていいから」
カッパーにそう言って、自分の影からグレンデルを切り離して預けた。
視界を繋げて左右で違う風景を見る。
もし何かあればすぐ分かる。
「すぐに伺うと先に伝えてくれ」
メイドを先に帰して、厳重に鍵をかけて部屋を出た。
右目と右耳だけグレンデルのものだ。
右目に映るカッパーは大人しく人の姿を保ったままソファに座っている。
私が傍に居なくても彼は形は保っている。
少し安心した。
師匠の執務をするために構えている部屋のドアをノックした。
「失礼します」と中に入ると、左目に映った師匠は驚いた顔をしてた。
師匠の口が何か言葉を発したが、上手く聞き取れなかった。
「お呼びと聞きました。
すみませんが、視覚と聴覚を半分にしてるのでもう一度…」
「ウィル!カッパーはどうした?」
「彼なら部屋に…」
「避けろ!」
師匠は答えようとした私の胸ぐらをいきなり掴んで部屋に引き入れた。
「《盾の拳》」
金属のぶつかる音が、見えていない右側を襲った。
「刺客だ!」という師匠の怒声が左耳に響く。
「ウィル!グレンデルの視界を外せ!毒を食らったら死ぬぞ!」
師匠の警告に慌てて視界を解除して剣を抜いた。
広くなった視界に暗殺者の姿を捉えた。
さっきのメイドだ…
信じられない…
彼女の姿はもう三年も前から毎日のように見ていた。
「…失敗か…」と呟くと彼女は滑るように暗い廊下に逃げた。
《蜘蛛》の毒の事は知っている。
ヘイリーの腕を奪うことになった猛毒だ。
「ウィル!すぐに侯爵の部屋に戻れ!
視界は繋ぐな!攻撃された時に避けきれない!」
そう言い残して師匠はすぐに彼女の後を追った。
私も用心して廊下に出る。
剣を握ったまま部屋に走った。
トリスタンの警告が脳裏をよぎる。
あいつの言った事が正しかった。
「…カッパー」
グレンデルを置いていけば大丈夫だろうと高を括った。
《蜘蛛》を侮っていた…
用事がない限り、カッパーの部屋には誰も来ないようになってる。
暗殺者からすれば目撃者の無い良い条件が揃っている。
グレンデルと繋いだままの右耳に「誰?」とカッパーの声を聞いた。
背筋に冷たいものが走る…
悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
バタバタとした足音が続く。
何が起きてる?
視界を繋ぐなと言われていたがもうそれどころではない。
グレンデルの視界に、血のついた剣を持った長い黒髪の男の姿が過ぎった。
「ヘイリー!何処だ!」
トリスタン?!なんで戻ってきた?
彼の足元には誰かが倒れていた。
彼が仕留めたのだろうか?
その男とは別に、カッパーの着てた服が床にそのまま落ちている。
服を拾い上げたトリスタンが蛇に戻ったカッパーを見つけた。
「助けて、トリスタン…」
刃物を向けられてカッパーが喋った。
「はぁ?何で俺の名前を…」
『トリスタン!その蛇に手を出すな!』
「ウィルか?お前何処にいるだよ?不用心すぎるだろう?
そんなことより部屋にヘイリーがいねえぞ!」
『すぐ戻る!それよりお前は師匠の加勢に行け!
《蜘蛛》に襲われた!』
「随分賑やかじゃねぇか、お祭りだなこりゃ」
「トリスタン様、ここは私が預かります」と声がした。
トリスタンの補佐役のフィッシャーだ。
彼も居たらしい。
「しゃーねーな…アルフレート、この蛇逃がすなよ。
親父殿は何処だよ?」
『分からないが執務室から出て西側に走って行った』
「はいはい…西側ね…」と言いながら部屋を出ていった彼と廊下ですれ違った。
「俺の言った通りだろ」とすれ違いざまに笑いながらそう言い残して彼は走り去った。
✩.*˚
ヘイリーの体調が安定したので部屋に連れ帰った。
「何かあったらすぐに呼んでね」
「ありがとうな、マリー」
小さな友人に礼を言うと、彼女の仮面が嬉しそうに笑った。
「いいのよ、私の仕事ですもの。
またヘイリーのお粥を届けるわ。
無理して食べる必要は無いけど、薬は忘れないで」
「ライナーが居るから忘れないよ」
「そうね」と彼女は笑って部屋を後にした。
彼女を見送って部屋に戻る。
ライナーが寝室から出てきたとの重なった。
「ヘイリーは?」と尋ねると彼は「大丈夫です」と答えた。
「魔力を消費したので疲れたのでしょう。
あの薬湯が良く効いたようです」
「あたしもマリーの薬で治してもらった。
マリーは良い奴だ、腕も良いし信用出来る。
彼女の出したものを毒味するとかもう言うなよ?」
「随分信用しておいでですね」
「友達になったからな」
「なるほど、アーケイイックを満喫しておいでですな」と彼は嬉しそうに笑った。
「この規格外の国はお嬢様にはピッタリですな」
「なかなかいい国だぞ。
煙草が無いのだけが悪いとこかな?」
「フィーア人には辛いですな」
「全くだ」と頷く。
話してたら煙草が吸いたくなってきた。
「お探しのものはこれですか?」とライナーが煙草入れを差し出す。
彼は良く分かってる。
「ありがとう」と煙草入れを受け取る。
「大旦那様が新しいのをご用意してくださいましたよ。
誰かに差し上げたそうですね…」
「うん、やった」
新しい煙草入れを眺めながら答えた。
新しいのは、茶色と紫の混ざった色合いの木製の本体に草の模様の彫刻が施されている。
いかにも流行りもののような細工で親父殿の趣味だ。
「あんなに大切な品、誰に差し上げたのですか?」
ライナーがさらに追求してくる。
珍しく気にしてるようだ。
「お前も気にするのか?」
「随分お褒めになっていらっしゃったと聞きましたので…」
「うん、いい男だ。
あたしより背が低いけどな」
「それこそ絞れませんな」と彼は苦笑いした。
あたしも笑って新しい煙草入れを開いた。
「気が利かないな、空じゃないか?」
「おや?本当ですね。
メモが入ってますよ」
ライナーに言われてメモを手に取ると親父殿の筆跡で、《男へのプレゼントじゃないぞ》とあった。
親父殿も意外と根に持ってるらしい。
笑ってしまった。
「そりゃぁ、父親が娘にやったものを他の男にあげたりしたら根にも持ちますよ」とライナーも同意していた。
「エヴァやラウラがそんなことしたらどうする?」
「とりあえず相手を探し出して、縛り上げて海に落としますね」
彼のまだ、結婚していない娘たちの名前を出すと、ライナーは笑いながらサラリと怖いことを言った。
「あっはっは!やべー親父だ!
ちゃんと嫁に出してやれよ、あたしと違っていい娘達だろ?」
「父親からすれば、娘は何人いても手離したくないくらい可愛いもんですよ」
「そういうもんかね…」
「そうですとも」とライナーは応えて、フランツにあたしの煙草を荷物から出すように伝えた。
フランツはすぐに新しい煙草を持って来た。
黄色い巻紙の煙草を、紫檀の煙草入れに詰め替えて眺める。
洒落た良い色合いだ、気に入った。
彼に自慢したら良い品だと褒めてくれるだろうか?
そんな事を思ってしまった…
ダメだな…振られたくせに…
壁に背中を預けてマッチと煙草を手に取った。
煙草を吸えば少し落ち着くと思った。
火をつけながらタバコの煙を深く吸った。
「っ!」
バニラの煙に混ざって強い刺激が肺に広がった。
煙草を取り落とし、肺の痛みで咳き込むと、立っていられなくなる。
珍しくあたしが咳き込む姿に、ライナーが驚いた顔をして背中を摩った。
「お嬢様!?大丈夫ですか?」
「…ライナー…これ…な、何だ…」
次第に指先が痺れて、吐き気まで込み上げた。
「眩し…目が…」
目が開けてられないくらい辺りが眩しい…ライナーの姿もよく見えない…
畜生、油断した…毒か…
起き上がろうとしたが手足に力が入らない…
「…ヘィ…リー…」逃がさなければ…
ライナーが怒鳴ってるようだが何も分からない。
辛うじて「フランツ」「《蜘蛛》だったのか?」と言うのを聞いた。
あいつが《蜘蛛》だったのか?
シャルルの親切を無駄にした。
それ以上は覚えてない…意識が混濁して気を失った…
✩.*˚
隣の部屋から怒鳴り声が聞こえてベットから起き上がった。
「お嬢様!」とシュミットが叫んでいる。
声の感じからしてただことでは無い。
ヒルダに何かあったのか?
慌ててベットを出て隣の部屋の様子を伺った。
「フランツ!貴様何を渡した!」
連れの男に向かって怒鳴っている。
彼の腕の中で、ぐったりと動かないヒルダの姿があった。
「お前が《蜘蛛》だったのか!?」
その言葉を聞いて全てを理解する。
ヒルダに毒を盛られた。
方法は分からないが、物理的な攻撃を全て跳ね除ける防殼も体に入った毒には無効だ。
シュミットがヒルダを抱いたまま剣を抜いた。
「閣下!《蜘蛛》です!」と私に向かって彼が叫ぶのを聞いた。
連れの男はそれを聞いて、素早く寝室のドアに手をかけた。
私を先に殺すつもりだろう…
ドアに近づいたその一瞬を見計らってドアを力いっぱい蹴り飛ばした。
人のぶつかる衝撃が不意打ちの成功を知らせた。
《蜘蛛》がドアにぶつかって体制を崩した隙に、寝室から飛び出してヒルダに駆け寄った。
「ヒルダ!立てるか?!」
彼女の応答はない。
意識もなく痙攣している。
嘔吐と失禁、浅い呼吸はかなり危険な状態に見えた。
「閣下!早くお嬢様と部屋の外へ…」
シュミットがそう言って、襲ってくる《蜘蛛》との間に立ちはだかった。
「フッ」と短い呼吸を吐き出しながら素早い剣撃を繰り出す。
彼の切っ先は鋭く《蜘蛛》を襲ったが、僅かに掠ったのみだ。
「…さすがお強い」
「フランツ!貴様長年世話になった者への恩義がこれか!」
「《蜘蛛》ですから…」と小さく答えて、彼は隠し持っていたナイフを投げた。
ナイフは動かないヒルダに向けて放たれた。
「お嬢様!閣下!」
シュミットが私たちに向かって叫んだ。
シュミットをすり抜けて飛んできたナイフは、辛うじてヒルダの防殼に弾かれて床に転がる。
「…生きてるうちはこの程度では傷も付けれないか…《祝福》とは無意識でも使えるのだな…」
「貴様!よくもお嬢様に刃を向けたな!」
シュミットの目が怒りに燃えていた。
普段冷静な彼が怒号を放ちながら《蜘蛛》に何度も切り付けた。
苛烈な攻撃に《蜘蛛》は下がって距離を取る。
その手には、まだ小さく薄い形のナイフの形をした暗器が握られている。
「閣下!早く安全な所に…」
「分かってる!だがヒルダが…」
私の細い片腕では彼女は運べない。
「すまん、ヒルダ…」
彼女を運ぶのを諦めて部屋から逃げ出した。
私にできることはそのくらいだった…
✩.*˚
大失態だ。
私の悪い所が出てしまった。
この男を信頼しすぎた…
「私は殺すのが任務じゃないんですが…」と彼は全く違う人間のように口を開いた。
薄っぺらな言葉は感情がない。
彼は躊躇せずに私に刃を振るった。
剣だけなら勝てなくもないが、問題はあの薄いナイフだ。
一度に何枚か同時に投げてくる。
手元を隠して放つので踏み込むのに躊躇する。
毒付きのナイフを躱しながらお嬢様も守らねばならない…
「侯爵とお嬢様を天秤にかけましたね」とフランツが挑発した。
その言葉に動揺した。
迷わず侯爵を逃がさねばならなかった…
お嬢様ならそうした…
私には出来なかった…
「お嬢様と仲良く死んで下さい、シュミット様」
サラリとそう言ってフランツは手首を翻した。
ナイフに警戒したがフェイクだった。
気を取られて剣への反応が遅れた。
受け止めた剣が刀身を滑って首を襲った。
「ぐぅ…」
致命傷と言うには浅い。
しかし首の出血はそう簡単に止まらない。
それに毒…
私の顔を見てフランツが自嘲するように笑った。
「剣にも毒を塗るべきでした…
あの狼に嗅ぎつけられるのが心配で出来ませんでした…」
「なるほど、ならまだ戦える」
シャルル殿に感謝せねばな…
私の言葉にフランツは「南部の男は血の気が多い」とボヤいた。
「それは南部の男の誇りだ」と私は笑った。
多少の血を見たところで戦意は揺るがない。
死地にて強くなるのが南部の男だ。
最後の血の一滴まで忠を尽くすと、若き日に一角獣と燕の旗に誓った…
「燕は必ず国元に帰る。
お嬢様は生きて大旦那様の元にお帰り頂く」
私もあの旗の元に戻らねばならない…
ヴェストファーレンの飛燕の旗の元へ…
まだ動ける、気合いなら負けない。
剣を握り直す手に力が入る。
この男はもう部下じゃない、南部の敵だ。
全力で仕掛ける。
ナイフを投げる隙など与えない、一歩も引かずに押し通す。
殺すことだけを考える。
お前はここで仕留める。
お前を信頼してこんな所まで連れて来た私のケジメだ…
「まるで獣だ」と舌打ちするフランツに渾身の刃を振り下ろす。
受けきれなかった刃が、服を裂き、肉にくい込む。
片手で去なせるような軽い攻撃ではない。
フランツはナイフを捨てて、持っていた手を剣の柄に添えた。
さらに斬撃を加えた。
歳はとりたくないものだ…息が上がっている…
それでも、視界の隅で動かないお嬢様のために、この男を倒さねば安心できない。
再び強烈な斬撃を見舞うと、フランツの剣が悲鳴を上げた。
度重なる疲労に彼の剣が真ん中から真っ二つ折れた。
このまま押し通す…
振り下ろそうと剣を構えた。
「…甘いんですよ…貴方は真面目すぎるんです、シュミット様」
そう言って、フランツは勝利を確信した目で私を見ていた。
内腿に痛みと痺れが走る。
フランツが落ちてたナイフを靴の先で弾いたのだと気づいた時はもう遅い。
毒のナイフが足の大きな血管に刺さった。
フランツの勝ち誇ったような顔が癇に障った。
「南部の男の魂を、舐めるなよ!小僧が!」
吠えて自分の魂を奮う。
フランツに掴みかかって振り上げた剣の最後の斬撃を放つ。
振り下ろした腕に覚えたのは肉と骨を断つあの感覚…
眩しくなる視界の中、フランツの目に絶望を見た…
満足だ…
私は南部の男として死ねる。
身体を支えられなくなった足が、膝を着いて前のめりに倒れた。
大旦那様…
貴方より後に生まれて、先に逝きます…
ご挨拶もなく勝手にお暇することをお許しください…
お嬢様…
貴方は美しく、苛烈で、健やかで、優しくて、時々どうしようもなく脆い…
そこが心配です…
どうぞ、私の死をも恐れぬ忠誠心を誇ってください…
私の…妻と娘を頼みます…
ちゃんと嫁に出してやって下さい…
婿を苛める姑はいませんからね…
最後に脳裏をよぎったのは青空の中、風にはためく飛燕の旗だった。
藍染めの布地に輝く銀色の飛燕の紋章。
悔いなく死ぬのが、こんなに穏やかだとは知らなかった…
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