魔王と勇者のPKO 2

猫絵師

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偽物

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「ウィル」

同じ顔、同じ声で彼は私を呼んだ。

最初はぎこちなかった笑顔も本物そっくりで、全てが忠実に再現されている。

「上手ね、カッパー君」

少女の姿をした不死者は満足そうにそう言ってヘイリーを撫でた。

正確にはヘイリーに変身したカッパーなのだが、見分けるのが非常に難しくなっていた。

「本当に間違えそうだな」と師匠までもが驚き、当の本人も「なるほど、私はこう見えているのか」と面白がっていた。

「マリー、どうかな?」

「完璧よ、そのまま頑張ってね!」

「ありがとう」

偽物はそう言って笑っている。

少し離れたところで茶番の様子を見ていると、彼女はいきなり私に突っかかってきた。

「ちょっと、あなた!

私のカッパー君に変なことしないでよ!

変な事覚えて帰ってきたら許さないんだから!」

「しませんよ」

蛇が姿を変えた偽物なんて愛せるわけが無い。

同じ顔、同じ声、同じ仕草の偽物だ…

なんなら腸が煮えくり返るような怒りや、殺してやりたい憎しみさえ湧く。

自分の大切なものを汚されたり壊されたりした時に感じる怒り…

それでもこの気持ち悪い生き物に頼るしかない。

蛇の姿でなければ師匠も拒否しなくなっていた。

それもまた私を苛立たせるのだ。

どうしようもなく焦燥感が募る。

本物がどちらか分からなくなったら…

私にも分からなくなったらショックだ…

頼むからそれ以上似せないでくれ。

「ウィル、カッパー君をよろしく頼むよ」

ヘイリーが私に向かってそう言って笑った。

全てはヘイリーのためだ…

「…分かってます」と答えた。

頭では分かってる。

心が拒否してる。

ヘイリーに背中を叩かれた。

「ウィル、大丈夫か?」

ダイヤモンドのような光彩をもつ瞳が私を見ている。

プリズムのように、光の角度で様々な色を含む不思議な瞳は、エマヌエル病の症状の一つだと教えられた。

「今から無理だとか言うなよ」

「…分かってます」

「君はそれしか言わないね」と彼は力なく笑った。

ヘイリーはマリー王女に歩み寄って彼女に話しかけた。

「マリー、少し外の空気を吸って来ていいかい?」

「いいわよ、ヘイリー」

「ありがとう」

「貴方は問題無さそうだけど、彼の説得はちゃんとしてよね。

安心してカッパー君を預けられないわ」

「努力するよ」とマリー王女に答えて、ヘイリーは私を連れて部屋の外に出た。

マリー王女の部屋の外には大量の鉢植えが並んでいて、独特な香りを放っている。

どれも貴重な薬草で、人の国には出回らないような希少種だと言っていた。

「明後日、朝一番で帰るんだろ?

カッパーともっと仲良くしてくれよ。

君がずっと睨んでるからカッパーが君に近寄らないだろ?」

「睨んでなんかいません。

あちらが私に近づかないだけです」

「ウィルが近付くなってオーラを出してるからね…

カッパーは私の手からも餌を食べるくらい大人しいし人懐っこい子だよ。

君に懐かないはずがないだろ?

健気にマリーのためと私の真似をしてるんだ。

いい子じゃないか?」

「それは分かってます」

「分かってるなら、私だと思って彼と仲良くしてくれないか?」

「彼は…貴方じゃない…」

やっと絞り出した声は不細工だった…

カッパーの方が上手く喋れる。

「辛い…」と言葉にした。

やはり貴方の傍に居たい…依存してるのは私も同じだ…

胸が苦しくて背中が曲がる。

顔が上げれない…真っ直ぐ見れない…

「嬉しいね」とヘイリーが言って笑った気がした。

「子供の頃に…君が私の治療の邪魔をしたから、ヴェストファーレンが怒って君をつまみ出したのを思い出したよ」

「…あんな悲鳴聞いていられなかった…」

異国の美姫たちが王の寵愛を得るために使う軟膏を治療で使用していた。

古い皮膚を破壊し、新しい美しい肌を再生させる悪魔の薬で、その効果の高さと危険性から禁制となった薬だ。

皮膚を焦がす焼けるような痛みの後に、再生する際の強烈な痒みに耐えなければいけない。

一度どういうものか教えられた時に少しだけ付けたが、二度とごめんだと思った。

それをヘイリーは脆くなった全身の皮膚に塗り込まれていたのだ。

他に効く薬がないからと…

確かに皮膚は綺麗になって、ヘイリーは天使みたいになったが、しばらくすればまた元の状態に戻ってしまう。

そうなれば、またあの薬の出番だ。

ヘイリーが泣き叫ぶ姿が見てられなくて、薬を奪うと窓から投げ捨てた。

師匠がすごい剣幕で怒っていた。

『お前はこの子を殺す気なのか!』と殴られた。

師匠の目には一度も見せたことの無い涙が滲んでいた。

師匠は我が子のようにヘイリーに愛情を注いでいた。

時間があればヘイリーの様子を見に行き、自分の膝に乗せて絵本を読んだり、ボードゲーム等を教えたりしていた。

お別れする時は決まって、父親のように抱きしめて頭にキスをしていた。

そんな人が、ヘイリーをいたずらに苦しめているはずがない。

誰よりもあの人が一番苦しんでいたと、あの涙を見て知った。

こうしないとヘイリーは生きられないから、私達はそうするしかない…

今回もまた同じことだ…

「ヴェストファーレンが餌をやれないから、君がカッパーに餌をやらなきゃいけない。

君がカッパーの世話をしてくれないならこの話は御破算だ…

全部無駄になる」

「分かっています」

「またそれだ」

そう言ってヘイリーは近くにいた小さな虫を捕まえた。

「テントウムシだ」と言って嬉しそうに私に見せた。

「この虫は面白い。

どんなに邪魔をしても太陽に向かって登っていく。

最後に頂上まで登りきると飛び立つんだ…

途中で諦めて飛んでしまってもいいのにね。

何かの願掛けみたいだ」

ヘイリーの指先まで登りきったテントウムシが羽を広げた。

硬い羽の下から透明な羽が覗くと、小さな虫は羽ばたいて緑の中に消えた。

寂しそうに虫を見送って、ヘイリーは思い出したように私に言った。

「あぁ、そうだ。

カッパーは一つだけ再現できない部分があるんだ。

見たらわかるから近くで見てごらん」

「完璧に見えましたが…」

「私と見分ける基準にしたらいい。

どんなに似てても彼と私はちゃんと違うね」

そう言ってヘイリーは悪戯っぽく笑った。

「戻ろう」と言われて彼と部屋に戻った。

戻った私達の姿を見て、マリー王女が手にした皿を私に向かって掲げた。

「カッパー君の餌をあげてくれない?」

「私がですか?」

「あんたが世話するんでしょう?

ヴェストファーレン様は無理って言うから仕方ないでしょ?」

当たり前のようにそう言って皿を差し出す。

皿の上には団子状の練った餌が乗っていた。

これを…ヘイリーの姿をした生き物に与えるのか…

また拒否反応が出そうだ…

「カッパー君は懐っこいけど繊細なのよ。

団子はこの大きさにしてね。

一日二回、三つずつだけでいいわ。

欲しがって鳩みたいにクークー鳴く時があるけど、可愛いからってあげちゃダメよ」

「分かりました」

「鼻先に近づけると匂いを確認して受け取るわ。

一個ずつ手であげてね」

「はい」

皿を受け取って偽物の前に立つ。

隣にヘイリーがいなければ本当に彼だと信じるだろう。

私はヘイリーの言っていた違うところを探した。

間違い探しをしている間、カッパーの視線が私の手にした皿に注がれる。

「お腹空いた」とカッパーが言った。

急に喋るので驚いた。

「変身するのに魔力を消費するからお腹空くのよ。

可哀想だから勿体ぶってないであげてよ」とマリー王女が促す。

団子を一つ摘んで鼻先に近付けた。

クンクンと匂いを嗅いで、彼は口で餌を受け取ってそのまま呑み込んだ。

蛇だから噛まないんだな…

次を求めるようにカッパーが私を見た。

アイスブルーの瞳と視線が交差した。

純粋に一色だけの瞳はプリズムの光を宿してはいなかった。

当たり前だ、彼はエマヌエル病じゃない…

その瞳を見て少しだけホッとした。

これはヘイリーじゃない…

「もっと欲しい」とカッパーが口をきいた。

私は頷くと団子をもう一つ摘んで彼に与えた。

✩.*˚

フィーア王国の南部侯ヴェルフェル侯爵家の所領は、そのほとんどが旧ウィンザー公国領である。

ウィンザー公国は、フィーア王国との戦争で滅んだオークランド王家の分家に当たるウィンザー大公の支配してた国だ。

その時に活躍したヴェルフェル侯爵家に南部侯の地位と共に与えられたのがユニコーン城であり、現在のアインホーン城となっている。

黒い狼を踏みつける白い一角獣の意匠は、諸外国からの脅威を駆逐するヴェルフェル侯爵家の紋章だ。

城壁に掲げられた赤くはためく旗は、代替わりしても百年もの長い間その意匠を変えることは無かった。

フィーア王国の中でも南部は異質だった。

熱気と活気のある多民族の混ざる土地だ。

度重なる戦役のため、街は高く厚い壁に覆われ、大きな傭兵ギルドが各地に点在する。

人間以外も多く、亜人やその混血、はたまた異国の商人が街中を歩き、主要街道である・葡萄街道トラウベシュトラーセには驚く程大量の商品が並ぶ。

もちろんそこに並ぶのは形のあるものから形のないものまで様々だ…

「金払いのいいヴェストファーレン様にピッタリの商品があるよ」

酒場と娼館を兼ねた《燕亭》に遊びに来ていたトリスタンに女将が声をかけた。

小柄な美女を抱いて酒を楽しんでいた彼だったが、耳寄りな情報が聞けるとあって興味を引かれたようだ。

「へぇ、いい話か?悪い話か?」

「それはあんた次第さね」

そう言って女将は店の奥を指さした。

「悪いな、お嬢ちゃん。

お前らもここで待て」

抱いていた美女と部下をその場に残して、女将に案内されて店の奥に向かった。

店の裏方は床が湿っていて、腐った油と酒の匂いの混ざった残飯の臭気が鼻につく。

「うぇー…客を通すならもっと綺麗に掃除しろよな…」

「うっさい男だね、結婚できないよ」

「靴が汚れるだろ?

服にも汚ねえ汁が飛ぶ」

「そういう所はヴェストファーレン様に似て気にするんだね」

汚れを気にして嫌がるトリスタンを見て女将が笑った。

「本当ならあんたじゃなくて親父さんに言うんだが、しばらく見てないね…」

「親父殿はヒルダとアーケイイックに居る。

またしばらくしたら顔を出すさ」

トリスタンはそう答えて煙草を出して咥えたが、咳込んで取り落とした。

汚い床に落ちて舌打ちする。

「何だ?風邪かい?」

「…親父殿に仕置されて右の肺に風穴空けられた。

怖ぇ親父殿だ」

「あんたら何してんだい?」

「うるせーよ、それより話ってなんだよ」

多少苛立たしげな声でトリスタンが話を促した。

煙草を吸うのは諦めたらしい。

話を促された女将は「その前に」と手を出した。

前金の催促だ。

銀貨を弾いて彼女に渡すと、潤滑油でも塗ったように口が軽くなった。

「北でゴルトベルクが戦争の用意をしてるよ」

フィーア王国の北方に面する王国の名だ。

トリスタンが言葉を失う。

黙ってしまったトリスタンに、女将が言葉を続けた。

「ゴルトベルクとオークランドで使者の行き来がある。

あいつらは隠し事が苦手らしいね。

ゴルトベルクはフィーア、オークランドと中立だったけど、去年の大雪の影響でまずい状況だ。

それでもあの龍の背骨が邪魔をしてアーケイイック側には軍隊を進められない」

「あの龍骨山脈を越えれる軍隊なんかねえよ」

最高地点は七千メートルとも言われる最高峰で、天然の要塞だ。

飛竜に乗っても越えられない高さで、軍隊が越えるのは不可能と言われている。

ゴルトベルクより北の国もあるが、北方の少数民族の国は遊牧民達の土地で実りは少ない。

食べ物を産出する土地を求めるなら南下するしかない。

「あいつら手を組んだのか?」

「目的が一致してるのかは怪しいがね」

「北部侯は?クロイツェル侯爵がゴルトベルクの情勢を知らないわけないだろう?」

北部侯クロイツェル家は、南部侯と同じく武人の家系で《黒火龍》の異名を持つ。

龍神ヴォルガを守る役目の騎士のような黒い鱗の火竜の紋章は、王家から北方の守りを任された証だ。

正直な話、他所様の心配をしてる状況ではないが無視できる内容でもない。

「何らかの対策はしてるだろうけど、まだ何も起きてないから中央にまで話がいってるのかは微妙なところだろうね…

あたしはヴェストファーレン様に頼まれ事をしてたから、そのついでに仕入れた情報だよ」

「他に誰が知ってんだ?」

「さあ?あたしからは坊ちゃんにしか言ってないよ」

「坊ちゃんなんてガラじゃねえよ」とトリスタンが笑った。

ポケットから金貨を取り出して女将に投げた。

思わぬ報酬に女将が驚いた顔をする。

「あんた最高の女だぜ。

もっと若けりゃ抱いてやったのにな」

「へぇ、ヴェストファーレン様に似てやっぱり金払いがいいね」

「どうせ親父殿の金だ」

後で請求するさ、と笑うトリスタンはご機嫌だった。

汚い裏方を後にして部下の元に戻った。

「戻ったぜ」と席に戻ると、元のようにお気に入りの娘を抱いて座った。

麦酒を注文して、何事も無かったように煙草に火をつける。

「何の話しでしたか?」という部下にトリスタンがニヤリと笑って答えた。

「教えてやるけど後でな、ここは耳が多すぎる…

俺は口が硬いんだ」

「それに」とトリスタンが女の肩を抱いた。

「ここは酒と女を楽しむ場所だ。

そうだろ、お嬢ちゃん?」

トリスタンの言葉に女の赤い唇が笑った。

彼女は細い白い腕を伸ばして猫のようにトリスタンに擦り寄った。

やっぱり女は小さい方がいいな…

酒に煙草に女もある。

フィーアの夜の街は最高だ。

✩.*˚

我々もフィーアに帰る日になった。

偽物の侯爵は騎竜に乗れないので、カッパーはウィルと一緒に竜車に乗り込んだ。

「揺れるが怖がらなくて大丈夫だ」

ヴェルフェル侯爵に扮したカッパーに手を貸して、ウィルはいつも通り世話を焼いている。

誰も彼が偽物だとは気づかないだろう。

「ありがとう」と礼を言うカッパーは本物のように上品に柔らかく笑った。

本物は見送りに来れない。

マリー王女も見送りに来なかった。

『私の姿を見せたらカッパー君が可哀想でしょ?』

そう言って珍しくしょぼくれていた。

「道中気を付けて」と不死者の王が我々を見送った。

「今回もまた勇者を貰いそこねました」

冗談でそう言うと、彼は面白そうに笑った。

「彼はもう私の息子みたいなものでね、誰にも渡さないよ。

君が私のところに来てくれるなら、考えなくもないけどね」

「私はフィーアの人間ですよ」

「なら彼はこのアーケイイックの人間だ」

ふふっと笑って彼は私の肩を叩いた。

「まあ、二人は私が責任もって預かるよ、安心したまえ」

「とんだ《じゃじゃ馬》です。

お見苦しい真似をするかもしれませんが、どうぞ大目に見てやってください」

ヒルダの荷物に紛れて侯爵の必要物も送ることになっている。

彼女を残すことになったので、多少誤魔化しやすくなった。

「そういえば、シャルル殿には娘を嫁に欲しいと言われましたが、正式にお断りをし損ねてました」

「あぁ、そんなこともあったな。

私から伝えよう」

「よろしくお願い致します」

「君たちが来ると大騒ぎして退屈しないな」と髑髏がカラカラと笑う。

「今度はどういうおもてなしをしようかな?」という陛下はとても楽しそうに見えた。

「また一ヶ月後、良い知らせを楽しみにしております」

「うむ、私も良い報告をしたいものだ」

だった一ヶ月だが気が遠くなるような長さに思えた。

陛下と別れて、帰り支度を済ませた部下たちの元に戻った。

私の騎竜が用意されていたが断った。

「少し侯爵と話がある。

途中まで私も竜車に乗るからそれまで預かってくれ」

「かしこまりました」

「アインホーン城に帰るぞ」

そう部下に告げて、竜車に乗り込むと、彼らは来た時と同じように隊列を組んで動き出した。

行きと帰りで違うのは、やかましい子供たちがいないことと、侯爵が蛇になってしまったことくらいだ。

「…マリー」

侯爵の口から言葉が漏れた。

動き出した窓の外を見て、鳩のようなクークーと鳴く声がした。

カッパーが喉を鳴らしている。

寂しい時などによくそうやって鳴くらしい。

気が滅入りそうな悲しい声だ。

「カッパー、マリーと約束したろう?」

ウィルが優しい声で彼を励ました。

彼は視線はそのままに頷いて答えた。

「うん…マリーと約束した」

「私も我慢してる。

君も可哀想だが我慢してくれ」

ウィルの言葉に、カッパーは寂しそうな顔でウィルを見た。

蛇なのに泣いているような顔をしていた。

「うん…マリー、褒めてくれる?」

「そうだな、次に会ったらきっと褒めてくれるよ」

「ありがとう、ウィル」

そう言ってカッパーは少しだけ笑った。

ウィル、お前だってすごく無理をしてるんだろう?

偽物の頭を撫でるウィルは、寂しそうにカッパーを眺めていた。

✩.*˚

「行っちまったかな?」とヒルダが言った。

彼女は見送りに行けたのに行かなかった。

「ヴェストファーレンを見送らなくて良かったのかい?」

「重傷者なんでね」と都合よく怪我のせいにした。

「それに、誰かさんがずるいって言うかもしれないからさ、遠慮しちゃったよ」

「お気遣いどうも」

彼女なりに気を使ってくれたらしい。

彼女はにっと笑って言った。

「まぁ、一ヶ月、あたしと仲良くしようじゃないか?

アーケイイックはいいところだし、多少楽しんでもバチは当たらないだろ?」

「そうだね」と力なく笑うと、彼女は私に歩み寄っていきなり腕を伸ばした。

私よりしっかりした左腕と胸に抱かれる。

大きな手が私の髪を撫でた。

「しみったれた顔しやがって…

泣くんならさっさと泣いて楽になれよ。

我慢ばっかりして昔っからから変わりゃしねえな、ヘイリー」

その言葉に目頭が熱くなる。

不安だったのは私もウィルと同じだ…

生きると言っておきながら、常に死の影に怯えていた。

「ヴェストファーレンは何があってもヴェルフェルを捨てないから安心しな」

「ありがとう、ヒルダ…」

犬でもあやしてるみたいに、乱暴に髪を撫でる手は温かだった。

「全部吐き出しちまえ。

毒を吐いて楽になれ、ヘイリー…

誰も聞いちゃいねえよ、あたしもすぐに忘れてやる。

ここはアーケイイックだ」

ヒルダの表情は分からない。

彼女の胸に身体を預けて叫んだ。

心の底から…吐き出していいと彼女が言ってくれたから…

「死にたくない!私はまだ死にたくない!

生きたい、生きたい!

死にたくない!

死にたくない…生きていたいんだ…」

喉が裂けるかと思うほど叫んだ。

涙が溢れて全身の力が抜ける。

こんな事、ウィルにもヴェストファーレンにも言えるはずない。

二人を苦しめるだけだ…

私の体重を支えながら彼女は微動だにしなかった。

「生きろよ、ヘイリー」

抱きしめる腕に力がこもる。

生命力に満ちた彼女が羨ましい…

自分には彼女のように生きることさえ許されないのに…

「何で…なんで私なんだ!どうして…」

答えのない言葉を口にする。

別の誰かだったらいいと思うのは最低だろう…

でもその考えはいつも私の中に燻っている。

ヒルダはそんな考えも否定せずに静かに「そうだな」と言った。

「何であんただったんだろうな?

でも、あんたの病気のおかげで、あたしもトリスタンもウィルだって親父殿に拾われたんだ…感謝してる」

ヒルダの声は柔らかかった。

いつもの男みたいな朗々とした声じゃなくて、受け止めるような優しい女の声だ。

「お前は侯爵という偶像みたいに理想的な美しさなんてなくてもいいんだ。

我慢しすぎだよ、バカ…

あたしはバカで、頭も良くないからヘイリーの病気を治したりは出来ないけど、泣く場所くらいは貸してやるよ。

親父殿みたいにハンカチは無いけどな。

胸なら貸すよ、それで良いだろ?」

「ありがとう…」

「いつも無理してるお前より、今の泣いて鼻垂らしてるお前の方が本物っぽいよ」とヒルダは笑った。

「死にたくないって奴はいっぱい見てきた。

ちっせえガキも、梅毒になった女も、傷付いた敵も味方も…

皆そうなんだ…お前は普通だよ、普通の人間だよ、ヘイリー。

だから安心しな、お前だけじゃない。

死にたくないって言っても良いんだ。

むしろ口に出して言うべきなんだよ。

上手に言えたじゃないか?

偉いな、偉かったな」

苦しいものを吐き出した後の空っぽの身体に、彼女の温かい声で満たされる。

ずっと言いたかった言葉を吐き出して、心が漂白されたようなまっさらな気持ちで楽になっていた。
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