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58 一からのスタート
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引っ越しの準備は簡単だった。
これまでの部屋は家具付きだったから、元のアパートに持って行くのは食器や調理器具、その他細々とした日用品と衣類ぐらいだ。あとは本や僅かばかりの思い出の品。小さめの荷馬車一台あれば事足りる。
割引してもらっているとはいえ、家賃の事を考えれば一刻も早く引っ越した方がいいだろう。ジョイと話し合った結果、現在は仕事を休職しているアナリーズが一人で引っ越しの作業をすることになった。
そして、引っ越し先のアパートへと着いてアナリーズは驚いた。
アナリーズが元々住んでいた部屋は既に他の入居者がいて、引っ越し先は元の部屋の隣と聞いていたのに、いざ着いてみたら以前とまったく同じ部屋だったからだ。
壁の傷も、床の傷も、アナリーズが引っ越した当時のままだった。
「大家さん、これは……?」
「うふふ、驚いた? 実はね、アナリーズさんが元の部屋を希望していたから、既に入居していた方にお願いして隣室に移ってもらったの」
「すいません! ただでさえ引っ越したり戻ったりとご迷惑をおかけしているのに、大家さんにも既に住んでいた方にもお手数をおかけしてしまって……!」
「ふふ、住んでいたと言ってもまだ荷物も解いていない状態だったし、家賃もそのままでいいって言ったら快く応じて下さったわ。それにね、あちらはもちろん私としてもメリットがあるのよ。あのね……」
大家さんによると、アナリーズ達が引っ越した後、この部屋は中々借り手が決まらなかったらしい。
それというのも、元々この部屋にはアナリーズが一人で住んでいたのだが、そこに、まだ学生だったジョイが転がり込んできたという経緯がある。
結婚してからもそのまま住み続けていたのだが、ジョイの獣人としての本能なのか、爪とぎ痕などは防ぎきれずに傷が目立っていた。そこを敬遠されてしまったらしい。
家賃を割引くことでようやく新たな入居者が決まったが、ちょうどそこへ引っ越し先を探すアナリーズから問い合わせがあり、入ったばかりの入居者には空室だった隣室にそのままの条件で移ってもらった。
大家さんとしては、顔なじみであるアナリーズ夫妻に住んでもらうのは嬉しい。でも大家として部屋の傷みは最小限にしたい。アナリーズは同じ部屋を希望していたから元の部屋に戻ってもらえば解決だし、既に入居していた居住者も格安のままキレイな隣室に移れて、皆が満足――ということらしい。
「……! す、すいません! 大切なお部屋を傷だらけにしてしまって……あの、もちろんこちらは正規のお家賃をお支払いしますので」
「そう? 助かるわ。でも、あまり気にしないでね。最初に保証金は貰っているし、人が住めばどうしても傷は入るわ。気にする人は気にするってだけ。それにアナリーズさんには私が倒れた時にお世話になったし、ジョイ君にも重たい荷物を運んで貰ったりしていたもの。二人に戻ってもらえて嬉しいわ。それにね、せっかくだから今度からこの部屋は獣人専用にしようと思っているの。王都でも結構見かけるようになったし、獣人の方はあまり細かい事は気にしないから丁度いいと思って。でも、私としても慣れた人の方が安心だから、出来るだけ長く住んでくれると嬉しいわ」
「ありがとう、ございます……」
以前。アナリーズがまだジョイと出会う前。
アナリーズは家賃を支払いに行った際に、倒れていた大家さんを見つけて病院まで運んだことがある。
遠くに住んでいた大家さんの御家族と連絡が取れるまでの約一カ月間、アナリーズが病院へ着替えを届けたりしていたのだが、大家さんは随分とそのことを評価してくれていたらしい。
大家さんが倒れているのを見つけたのは偶然だし、その後のことだって極々当然のことをしただけなのに……。
新たな入居者を募集するのに値引きが必要なほど部屋に傷をつけてしまっただけでも申し訳ないのに、事情があったとはいえこちらの都合で出たり入ったり。
大家さんに迷惑ばかりかけているのは心苦しいが、こうして再び受け入れてもらえたことがアナリーズは嬉しかった。
引っ越しの様子を見に来てくれた大家さんを見送って。
改めて部屋を見回すと家具のない部屋はガランとしている。
この部屋はこんなに広かったっけ、と少し寂しく感じてしまうが、傷の入った床も、少しはがれた壁紙も、アナリーズにとってはジョイとの暮らしを思い起こさせてくれるものだ。
この部屋に戻ることが出来て本当に良かったと思う。
後で、隣室に移ってくれた住人にもお礼を持って挨拶に行かなくては。
でも、今は――。
仕事に行っているジョイが帰ってきた時に少しでもくつろげるように、荷物の片付けを進めておきたい。
それに、挨拶には夫婦そろって伺った方がいいだろう。
とりあえず、午後には最低限の家具が届くことになっている。あの部屋での暮らしで随分貯金を減らしてしまったが、月々の家賃を考えればそこまで負担という訳でもないはずだ。
疲れて帰ってくるジョイの為にベッドは最優先で買った。後は食事の為のテーブルと椅子。残りは、この先ジョイと相談した上で少しずつ買い足していくつもりだ。
あちらへ引っ越す時にほとんどの家具を手放したせいで、一からのやり直しにはなるが――こうして同じ場所へと戻れたのだ。以前のような居心地のいい空間を作れるように頑張りたい。
あちらほど立派ではないが、この部屋にも小さな備え付けの棚などはある。多少古くても使いやすくてアナリーズのお気に入りだ。
食器。調味料。お茶。
元の位置に同じ物を置いて行くと少しずつ幸せな頃に戻っていく気がする。
幸せだった頃の二人に戻れるように――。
アナリーズは夢中になって片付ける手を動かした。
これまでの部屋は家具付きだったから、元のアパートに持って行くのは食器や調理器具、その他細々とした日用品と衣類ぐらいだ。あとは本や僅かばかりの思い出の品。小さめの荷馬車一台あれば事足りる。
割引してもらっているとはいえ、家賃の事を考えれば一刻も早く引っ越した方がいいだろう。ジョイと話し合った結果、現在は仕事を休職しているアナリーズが一人で引っ越しの作業をすることになった。
そして、引っ越し先のアパートへと着いてアナリーズは驚いた。
アナリーズが元々住んでいた部屋は既に他の入居者がいて、引っ越し先は元の部屋の隣と聞いていたのに、いざ着いてみたら以前とまったく同じ部屋だったからだ。
壁の傷も、床の傷も、アナリーズが引っ越した当時のままだった。
「大家さん、これは……?」
「うふふ、驚いた? 実はね、アナリーズさんが元の部屋を希望していたから、既に入居していた方にお願いして隣室に移ってもらったの」
「すいません! ただでさえ引っ越したり戻ったりとご迷惑をおかけしているのに、大家さんにも既に住んでいた方にもお手数をおかけしてしまって……!」
「ふふ、住んでいたと言ってもまだ荷物も解いていない状態だったし、家賃もそのままでいいって言ったら快く応じて下さったわ。それにね、あちらはもちろん私としてもメリットがあるのよ。あのね……」
大家さんによると、アナリーズ達が引っ越した後、この部屋は中々借り手が決まらなかったらしい。
それというのも、元々この部屋にはアナリーズが一人で住んでいたのだが、そこに、まだ学生だったジョイが転がり込んできたという経緯がある。
結婚してからもそのまま住み続けていたのだが、ジョイの獣人としての本能なのか、爪とぎ痕などは防ぎきれずに傷が目立っていた。そこを敬遠されてしまったらしい。
家賃を割引くことでようやく新たな入居者が決まったが、ちょうどそこへ引っ越し先を探すアナリーズから問い合わせがあり、入ったばかりの入居者には空室だった隣室にそのままの条件で移ってもらった。
大家さんとしては、顔なじみであるアナリーズ夫妻に住んでもらうのは嬉しい。でも大家として部屋の傷みは最小限にしたい。アナリーズは同じ部屋を希望していたから元の部屋に戻ってもらえば解決だし、既に入居していた居住者も格安のままキレイな隣室に移れて、皆が満足――ということらしい。
「……! す、すいません! 大切なお部屋を傷だらけにしてしまって……あの、もちろんこちらは正規のお家賃をお支払いしますので」
「そう? 助かるわ。でも、あまり気にしないでね。最初に保証金は貰っているし、人が住めばどうしても傷は入るわ。気にする人は気にするってだけ。それにアナリーズさんには私が倒れた時にお世話になったし、ジョイ君にも重たい荷物を運んで貰ったりしていたもの。二人に戻ってもらえて嬉しいわ。それにね、せっかくだから今度からこの部屋は獣人専用にしようと思っているの。王都でも結構見かけるようになったし、獣人の方はあまり細かい事は気にしないから丁度いいと思って。でも、私としても慣れた人の方が安心だから、出来るだけ長く住んでくれると嬉しいわ」
「ありがとう、ございます……」
以前。アナリーズがまだジョイと出会う前。
アナリーズは家賃を支払いに行った際に、倒れていた大家さんを見つけて病院まで運んだことがある。
遠くに住んでいた大家さんの御家族と連絡が取れるまでの約一カ月間、アナリーズが病院へ着替えを届けたりしていたのだが、大家さんは随分とそのことを評価してくれていたらしい。
大家さんが倒れているのを見つけたのは偶然だし、その後のことだって極々当然のことをしただけなのに……。
新たな入居者を募集するのに値引きが必要なほど部屋に傷をつけてしまっただけでも申し訳ないのに、事情があったとはいえこちらの都合で出たり入ったり。
大家さんに迷惑ばかりかけているのは心苦しいが、こうして再び受け入れてもらえたことがアナリーズは嬉しかった。
引っ越しの様子を見に来てくれた大家さんを見送って。
改めて部屋を見回すと家具のない部屋はガランとしている。
この部屋はこんなに広かったっけ、と少し寂しく感じてしまうが、傷の入った床も、少しはがれた壁紙も、アナリーズにとってはジョイとの暮らしを思い起こさせてくれるものだ。
この部屋に戻ることが出来て本当に良かったと思う。
後で、隣室に移ってくれた住人にもお礼を持って挨拶に行かなくては。
でも、今は――。
仕事に行っているジョイが帰ってきた時に少しでもくつろげるように、荷物の片付けを進めておきたい。
それに、挨拶には夫婦そろって伺った方がいいだろう。
とりあえず、午後には最低限の家具が届くことになっている。あの部屋での暮らしで随分貯金を減らしてしまったが、月々の家賃を考えればそこまで負担という訳でもないはずだ。
疲れて帰ってくるジョイの為にベッドは最優先で買った。後は食事の為のテーブルと椅子。残りは、この先ジョイと相談した上で少しずつ買い足していくつもりだ。
あちらへ引っ越す時にほとんどの家具を手放したせいで、一からのやり直しにはなるが――こうして同じ場所へと戻れたのだ。以前のような居心地のいい空間を作れるように頑張りたい。
あちらほど立派ではないが、この部屋にも小さな備え付けの棚などはある。多少古くても使いやすくてアナリーズのお気に入りだ。
食器。調味料。お茶。
元の位置に同じ物を置いて行くと少しずつ幸せな頃に戻っていく気がする。
幸せだった頃の二人に戻れるように――。
アナリーズは夢中になって片付ける手を動かした。
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