上 下
10 / 94

10 記憶の痕跡

しおりを挟む

「これでよし、と。こまめに掃除をしていても、結構汚れってたまるものなのね」


 アナリーズは掃除の手を止めて、額の汗を拭った。

 商会が休みの週末。どうせやるなら徹底的に掃除をしよう! ……と思い立ち、アナリーズは自宅で忙しく動き回っていた。やり始めたらきりがないのは解っていたが、元々アナリーズは凝り性なのだ。

 結婚する前などは何かにハマり込むと、一日中そのことだけに費やすことも多かった。

 掃除だったり。勉強だったり。

 商会に入りたての頃は異なった価値観を持つ獣人商会員とのやり取りを円滑に進める為だけに、一日中王都にある図書館に籠って獣人に関する書籍を読み漁っていたこともある。

 真面目と言えば真面目だが、それだけ他者との関わりが少なかった、とも言える。



 アナリーズは田舎町の出身だ。近所にはたまたま年老いた獣人の学者が一人で住んでいて、小さい頃はよくその人に勉強を見てもらっていた。

 田舎町。しかも今より更に獣人が珍しい時代ではあったが、特に変なことを言う者もおらず、穏やかな老獣人は自然と町に溶け込んでいた。かなりの高齢で、現在の王都で言われているような獣人の力強さばかりを強調した恐怖の対象というよりは、『陽だまりの中でお昼寝している老猫』といった印象の方が強く、そのお陰もあったのかもしれない。

 彼が何の研究をしているのかはよく解らなかったが、気のいい老獣人は近所の子供達を集めて勉強を教えてくれていた。アナリーズもそんな中の一人だ。

 老獣人から遊びの延長のように教えられる勉強はとても面白くて、その後両親を早くに亡くしたアナリーズが奨学金を貰いながらも勉強を続けられたのは彼のお陰と言っていい。

 獣人に対してそんな印象が強かったせいだろうか。 

 就職の為、王都に在る商会で面接試験を受けた時に『この先ウチの商会は獣人国との取引に力を入れていく予定なんだ』と面接官に言われて満面の笑みになったのはアナリーズただ一人だったらしい。そのお陰もあって、アナリーズは無事に今の商会で雇ってもらえることになったのだ。
 そう言った意味ではアナリーズは恩師である獣人学者に就職先まで面倒を見てもらったことになる。

 残念ながら進学のため地元を離れている間に老学者はどこかへ引っ越してしまったらしく、お礼を言えず仕舞いになってしまったが、彼の存在は今もアナリーズの胸の中にしっかりと残っている。


「……そう言えば先生っていったい何の獣人だったのかしら?」

 可愛い耳がついていて獣人なのは間違いないが、そもそも獣人に種族があることすら理解していなかった頃の事なので正直よく判らない。しっぽでも覚えていれば少しは違ったのだろうが、あいにく教科書や黒板を見るのに忙しくてしっぽの記憶はまったくない。

 散々お世話になっておいて薄情な事この上ないが、アナリーズにとって恩師である先生はあくまでも『先生』であって、彼が獣人であることは彼を構成する要素の一つでしかなかったのだ。

 恩師のお陰もあり多種多様な獣人達が働く王都の商会で毎日楽しく働いていたが、残念ながらキラキラした都会育ちの人間の同僚とは話が合わないせいかあまり交流がなく、それもあって休みの日は家で過ごしていることが多かった。

 せっかくの休日。こうして一人で掃除をして過ごしていると、王都に馴染めず少し寂しかったあの頃のことを思い出す。

 けれど――あの頃とは違い、部屋のあちこちには確実に『夫』の痕跡が残っているのだ。


 駄目だと言っているのに夫はアナリーズの気に入っているテーブルで爪を研ぐから傷だらけだし。
 棚の上の飾りを勝手に動かすから、すぐにぐちゃぐちゃになってしまうし。


 そうした何気ない日常の痕跡が、アナリーズの沈みそうになる気持ちを慰めてくれる。


「これは……傷を隠しても無駄かしら。ううん、とりあえずやるだけはやってみよう。ふふ……爪とぎあとが全部無くなっていたら驚くかしら? あらやだ、このぬいぐるみこんなところにあったのね。もー…ボロボロじゃない。私、この子のことすごく気に入っていたのに……キレイに直るかしら?」


 そうやってアナリーズが部屋に残った夫の痕跡と格闘しているうちに、あっという間に夫不在の一カ月が過ぎていった。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

どうぞご勝手になさってくださいまし

志波 連
恋愛
政略結婚とはいえ12歳の時から婚約関係にあるローレンティア王国皇太子アマデウスと、ルルーシア・メリディアン侯爵令嬢の仲はいたって上手くいっていた。 辛い教育にもよく耐え、あまり学園にも通学できないルルーシアだったが、幼馴染で親友の侯爵令嬢アリア・ロックスの励まされながら、なんとか最終学年を迎えた。 やっと皇太子妃教育にも目途が立ち、学園に通えるようになったある日、婚約者であるアマデウス皇太子とフロレンシア伯爵家の次女であるサマンサが恋仲であるという噂を耳にする。 アリアに付き添ってもらい、学園の裏庭に向かったルルーシアは二人が仲よくベンチに腰掛け、肩を寄せ合って一冊の本を仲よく見ている姿を目撃する。 風が運んできた「じゃあ今夜、いつものところで」という二人の会話にショックを受けたルルーシアは、早退して父親に訴えた。 しかし元々が政略結婚であるため、婚約の取り消しはできないという言葉に絶望する。 ルルーシアの邸を訪れた皇太子はサマンサを側妃として迎えると告げた。 ショックを受けたルルーシアだったが、家のために耐えることを決意し、皇太子妃となることを受け入れる。 ルルーシアだけを愛しているが、友人であるサマンサを助けたいアマデウスと、アマデウスに愛されていないと思い込んでいるルルーシアは盛大にすれ違っていく。 果たして不器用な二人に幸せな未来は訪れるのだろうか…… 他サイトでも公開しています。 R15は保険です。 表紙は写真ACより転載しています。

真実の愛は素晴らしい、そう仰ったのはあなたですよ元旦那様?

わらびもち
恋愛
王女様と結婚したいからと私に離婚を迫る旦那様。 分かりました、お望み通り離婚してさしあげます。 真実の愛を選んだ貴方の未来は明るくありませんけど、精々頑張ってくださいませ。

私も貴方を愛さない〜今更愛していたと言われても困ります

せいめ
恋愛
『小説年間アクセスランキング2023』で10位をいただきました。  読んでくださった方々に心から感謝しております。ありがとうございました。 「私は君を愛することはないだろう。  しかし、この結婚は王命だ。不本意だが、君とは白い結婚にはできない。貴族の義務として今宵は君を抱く。  これを終えたら君は領地で好きに生活すればいい」  結婚初夜、旦那様は私に冷たく言い放つ。  この人は何を言っているのかしら?  そんなことは言われなくても分かっている。  私は誰かを愛することも、愛されることも許されないのだから。  私も貴方を愛さない……  侯爵令嬢だった私は、ある日、記憶喪失になっていた。  そんな私に冷たい家族。その中で唯一優しくしてくれる義理の妹。  記憶喪失の自分に何があったのかよく分からないまま私は王命で婚約者を決められ、強引に結婚させられることになってしまった。  この結婚に何の希望も持ってはいけないことは知っている。  それに、婚約期間から冷たかった旦那様に私は何の期待もしていない。  そんな私は初夜を迎えることになる。  その初夜の後、私の運命が大きく動き出すことも知らずに……    よくある記憶喪失の話です。  誤字脱字、申し訳ありません。  ご都合主義です。  

貴方といると、お茶が不味い

わらびもち
恋愛
貴方の婚約者は私。 なのに貴方は私との逢瀬に別の女性を同伴する。 王太子殿下の婚約者である令嬢を―――。

婚約者の浮気相手が子を授かったので

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。 ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。 アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。 ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。 自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。 しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。 彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。 ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。 まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。 ※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。 ※完結しました

比べないでください

わらびもち
恋愛
「ビクトリアはこうだった」 「ビクトリアならそんなことは言わない」  前の婚約者、ビクトリア様と比べて私のことを否定する王太子殿下。  もう、うんざりです。  そんなにビクトリア様がいいなら私と婚約解消なさってください――――……  

ずっと好きだった獣人のあなたに別れを告げて

木佐木りの
恋愛
女性騎士イヴリンは、騎士団団長で黒豹の獣人アーサーに密かに想いを寄せてきた。しかし獣人には番という運命の相手がいることを知る彼女は想いを伝えることなく、自身の除隊と実家から届いた縁談の話をきっかけに、アーサーとの別れを決意する。 前半は回想多めです。恋愛っぽい話が出てくるのは後半の方です。よくある話&書きたいことだけ詰まっているので設定も話もゆるゆるです(-人-)

処理中です...