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第一章

奥様

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 二週間ぶりにローレイヒの屋敷へ帰ると、駆けるようにしてルーナが出迎えてきた。

「レオン、お帰りなさい!」

 まるで、久しぶりにレオンハルトに会えて嬉しくてたまらないとでも思っていそうな明るい笑顔だ。
 初めて会ってから約一ヶ月。紙の上での関係でしかない、ほとんど他人の夫に会えて何がそんなに楽しいんだか。

「ただいま戻りました」

 結婚してすぐに、ルーナを南部のローレイヒという街の外れにある新しい屋敷に残して、レオンハルトは王都へ向かった。急な結婚と異動に、業務が追いついていないのだ。この屋敷でルーナと過ごした日数などほとんどないくらいだ。つまり、ルーナと顔を突き合わせることもほとんどなかった。

「お腹が空いているんじゃなくて? 昼食をいっしょに摂りましょうよ」
「いいえ、すぐにまた出かけなければいけないので食事は兵舎で頂こうかと」
「まぁ、久しぶりに帰って来られたのに大変ですわね……。では夕飯は? 何時頃お帰りになって?」
「遅くなりますので。貴方は先に召し上がっていてください」
「そうですか……でも、もし早くお帰りになれたらごいっしょしませんこと?」

 だから……と言いかけて、ルーナの顔を見た。ルーナはキラキラと瞳を輝かせて有無を言わせぬオーラを出している。なぜだろう。とても断りにくい。

「……分かりました。もし、早く帰れたらいっしょに食事を摂りましょう」
「……! ありがとうございます!」

 圧に負けた。ありがとうございますだなんて、食事如きでこんな大層なお礼を言われるとは。魔女のくせに変な女だ。

――――――――

「変わったことはなかったか」
「はい。特にぼっちゃ……旦那様のお耳に入れるようなことはございませんでした」

 今まで坊ちゃんと呼んでいた頃の癖がなかなか抜けないのか、メルケンは慌てて言い直していた。いきなり家を離れて屋敷の当主になったことに、使用人たちも戸惑っているのだろう。
 
「……あの女は? 何か不審な動きはしていないか?」
「はい、奥様にも特にお変わりはございません」

 ……奥様?
 
 執事長を任せているメルケンを振り返った。メルケンは生家のアイレンブルク家で長く勤めている男だ。忠誠心が高く、アイレンブルク家からも信頼されている。
 この屋敷には生家から使用人を何人か連れてきていて、ルーナも何人かメイドを連れてきた。あとは現地の者で賄っていた。
 ルーナがツェーリンゲンの魔女であること、この結婚はルーナの監視が目的だということはアイレンブルク家から連れてきた使用人しか知らない。レオンハルトが不在の間、ルーナを見張るのが彼等の仕事でもあった。
 散々ルーナには注意しろと言ってある。そもそも永らく王都で暮らしてきたのだ。悪名高い"魔女"の噂なら、彼等も聞いたことがあるだろうに……。
 
 なのにあの女のことを"奥様"だと?

 ルーナの前では使用人として正しく振る舞ってもらう必要があるが、レオンハルトの前では必要ないはずだ。
 もう手懐けられたのだろうか。ルーナの生家の使用人達も、ルーナを慕っているように見えた。本当に魔法でも使っているのかもしれない。

 かつてこの国にもあったという魔法。
 ある日、一人の青年が光の女神に魔力を与えられ、魔法を教わった。その青年は光の女神を娶り、この国を作って王となった。以来この国聡明で勇敢な王と魔法、それから光の女神の加護によって発展してきたという。

 しかしあるとき、王に恋をした闇の女王が、王を手に入れられない苦しみから黒魔法を使い国を滅ぼそうとした。国全体を巻き込んだ戦いは長くて激しいものだったため、国民は疲弊し、国は荒れ果てた。そしてついに王は闇の女王に殺されてしまった。

 光の女神は嘆き悲しみ、生まれたばかりの赤ん坊を残し、王の仇を取ったが闇の女王と相討ちになり死んでしまう。そして魔法を使える者は誰もいなくなってしまった。 光の女神と王の間に生まれた子はやがて立派な王となり、この国を再建した。王の母である女神は死んでもなお、この国の守り神として神殿にいて、神託によりこの国を助けてくださっている。

 ーーという国の成り立ちは、この国に生まれた者なら皆学校で習う。つまり今の王室の先祖が光の女神であり、現女王陛下やナディア王女も光の女神の子孫である。
 
 また、昔は存在していたとされているが、今は魔法を使える者などいないということだ。 
 なのでいくら人々から魔女と呼ばれようが、ルーナが実際に魔法を使えるわけではない。しかしそういうことならば、ルーナは自力で使用人を手懐けたのだろうか。妙に人懐っこいところがあるとは思っていたが……。

「メルケン」
「はい、旦那様」
「あまり情を移すなよ」

 長くてもあの女を「奥様」と呼ぶのもあと三年なのだから。

――――――――――――

 思っていたよりも遅くなった。
 レオンハルトは結婚に伴い、南部の軍へと赴任となった。伯爵という爵位もあってか、レオンハルトに新たに与えられた役職は副団長だ。異例の出世である。

 突然王都からやってきた十七の若造が突然副団長に就任したのだ。内部からはやっかみや不満が飛び交うだろうと予想していた。
 しかしそんなレオンハルトの想定とは逆に、南部の軍はレオンハルトを歓迎した。

 レオンハルトの国境での活躍は南部にまで届いていたらしい。レオンハルトよりもうんと歳上の騎士達が副団長! とレオンハルトを呼び、国境での戦いの話を聞かせてくれと強請ってきた。
 これからの軍での生活を思うとそんな彼等を無碍にすることもできないため、レオンハルトは南部での引き継ぎ業務に加えて騎士達との会話までこなさなければならず、気が付けばとっぷりと日が暮れていた。

 騎士達は「副団長! 新婚なんですからお帰りにならないと!」と先程までレオンハルトを引き留めていたのは自分達だというのに、追い出すようにレオンハルトを退勤させた。

「旦那様、おかえりなさいませ」

 屋敷で出迎える使用人達の"旦那様"にも、メルケン同様自分自身もまだまだ慣れないなと思いながら「風呂に入りたい。湯の準備を頼む」と告げれば、メイド長のカトリーヌが「あの……」ともの言いたげに近付いてきた。

「先にお食事にされてはいかがでしょうか?」
「なぜ?」
「奥様がお待ちですので……」
「……?」

 なぜあの女が私の帰りを待っているのだろうと不思議に思った次の瞬間、朝交わした会話が急に脳裏によぎった。
 ――もし早くお帰りになれたらごいっしょしませんこと?

「…………」

 思い出した。そういえばそんなことも言っていたような……。

「妻は?」 
「奥様のお部屋にいらっしゃいます。旦那様がお帰りになったら一緒にお食事を摂ると仰っていて……」

 レオンハルトはふぅとため息をついた。なんて手のかかる女なんだと思った。正直言って煩わしいったらありゃしなかった。

「では妻を迎えに行ってから食事に向かおう」
「はい」

 コンコン、とルーナの部屋のドアをノックしたが中からの反応はなかった。

 いつもは必ずと言っていいほど見送りと出迎えに来るのに今日はなかったし、レオンハルトの帰りが遅かったことにへそを曲げているのだろうか。
 レオンハルトは少し迷ってから勝手にルーナの寝室のドアを開ける。

 ルーナがいたのはベッドだった。規則的に肩が上下している。寝ているのだろうか。寝間着に着替えていないということは眠るつもりはなかったのだろうが、待ちくたびれて眠ってしまったのだろう。

 レオンハルトはベッドに近付き、横たわるルーナの顔を覗き込んだ。ルーナはやはり眠っており、金色の瞳は長いまつ毛に隠されていた。
 寝ていても分かる造形の美しさだ。神託さえなければ、今頃王女と並ぶ社交界の華となったことだろうに。

「……ん……レオン?」
「おはようございます」
「あらやだ、眠ってしまっていたわ」

 ルーナは勢いよく体を起こすと、急いで乱れた髪を手で直しだす。

「僕を待っていたそうですね」
「えぇ。だって、約束しましたでしょう?」
「もしも早く帰れたら、というお話でしょう。遅くなる場合は先に食べていてください」
「でも、私お腹は空いていなかったもの」

 グゥー。突如変な音がした。ルーナの腹からだった。

「……あら、急にお腹が空いたみたい」
「…………」

 無言でじとりと視線を送るレオンハルトに、ルーナは恥ずかしそうに頬をほんのり赤らめた。
 本当に、魔女だなんて聞いていなければただのじゃじゃ馬にしか見えないな。

「なぜそんなに僕と食事を摂りたいんです」
「だって、私達は夫婦ですわ。お互いのことをもっと知る必要がございませんか?」

 お互いのことを知る必要は、ない。魔女とは仲良し夫婦ごっこをやるつもりはなかった。どうせ長くても三年後には離縁するのだ。しかし、あまりに突き放してもしルーナの心にレオンハルトに対する猜疑心や不信感が生まれるのもまずい。

「……そうですね。ではこれからはなるべく食事はいっしょに摂りましょう」
「本当……?!」
「えぇ。ですが、今日のように私が遅くなる時は先に食事を摂っていてください」
「分かりましたわ! これからは南部にいらっしゃるんでしょう? このお屋敷に!」
「えぇ。異動の処理は終わりましたので」

 レオンハルトが頷くと、ルーナはぱぁと顔を明るくした。
 なんだ? 僕が屋敷にいることがそんなに嬉しいのか? もしやなにか不満があってそれを言いたかったとか。

「何か、この屋敷で不自由なことはありませんか」
「不自由なこと?」
「えぇ。何か欲しいものがあれば自由に買って構いません。貴方に支給しているお金があるのはご存知でしょう」
「…………」
「足りないのであれば、」
「違うわ」
 
 考えこんでいたように見えたルーナは、「一つだけお願いが」と指を立てながら言った。

「はい、なんでしょう」
「私のことを貴方、とお呼びになるのはおやめになって」
「……それが不自由なことですか?」
「えぇ。このお屋敷の方々はみなさん私のことを奥様と呼ぶわ。けれどそれが嫌なわけじゃないのよ。私、奥様と呼ばれて嬉しいわ。ずっとこんな日は来ないと思っていたんですもの」
「…………」
「だから、この屋敷の中では"奥様"で居たいわ。けれど、レオンまで私のことを"貴方"なんて呼んだら、誰も私の名前を呼んでくれなくなってしまうでしょう」
「そうですか」

 呼び方なんてなんでもいいと思っていた。ルーナが公爵令嬢だった際にはルーナ様、と呼んだことがあったが、結婚してからはルーナの前だと貴方、使用人の前では妻、事情を知る人間の前では魔女、もしくはあの女だ。
 名前なんてなんでもいい。本人がそんなに言うのなら特にこだわる理由もない。

「では、ルーナ」
「はい、レオン」
「これでよろしいですか?」
「えぇ。まずまずよ」
「……そうですか、ではルーナ。食事に行きましょう」

 立ち上がり、腕を差し出す。ルーナが口を大きく開いて笑った。
 またあの笑い方だ。まるで貴族女性らしくない笑い方。けれど不快にも下品にも思わなかった。
 ただ、ルーナのその顔を見ると、なぜだか懐かしいような、それでいて落ち着かないような気持ちになった。

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