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続、青春×グラフィティ

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「早くしろ、線引屋っ!」
御堂に促されるまま、スタッフオンリーと書かれたバックルームへと逃げ込んだ。
「ここに入れっ」
御堂に言われるままバックルームに入ったぼくは、安堵の息を吐いた。しかし、あの騒ぎの中に与儀さんを残して来てしまったことを思い出し、戻ろうとする。
「バカ野郎、なにやってんだ!」
止めに入る御堂。
ぼくは腕を振り払い、言った。
「フロアに与儀さんが残ってるんだ。助けに行かないとっ!」
「っ!? それでも駄目だ。お前が戻ったら騒ぎはもっとデカくなっちまう。ここは俺に任せて、お前は自分の身の安全を考えろ」
「でもっ」
「いいから、俺を信用しろっ!」
そう言って、御堂はタイミングを見計らうように、騒乱のダンスフロアに飛び込んで行った。
扉を開いた瞬間、何者かが隙間を縫うようにバックルームへと潜り込んできた。御堂の声で、「なんだお前っ!」という言葉が聞こえてくる。慌てた様子の御堂は、しかし次に襲ってきた何者かの対処に追われ、扉を閉ざすのに精一杯になっていた。
「線引屋、中に一人入ったぞ!」
言葉が示す通り、足音が迫り、ぼくは心臓が止まりそうになる。
襲われるっ。そう思い、おっかなびっくり顔を見やると、そこに立っていた女性にさらなる衝撃を受けた。

ーーー加須浦百合。

彼女が肩で息をしながら、そこに立っていたのだ。
加須浦さんは、息を整えるように二、三度深呼吸すると、ようやく言葉を発した。
「あ、あの……線引屋さん。私のこと、覚えてますか?」
うかがうように見つめてくる瞳に、ぼくはコクンと頷いていた。
「良かった。忘れられていたらどうしようかと思った。今日も、またこの場所で会いましたね」
彼女の言葉に、ぼくは思い出していた。線引屋として加須浦さんと会うのは二度目。確か、前回もこのクラブ『モスキート』だった 。

「ネットで、今日のイベントに線引屋さんが来るって書かれていたから、私、居てもたってもいられなくて来ちゃいました」
来ちゃいましたって……待って、どうしてぼく本人が当日までこのイベントのこと知らされていないのに、他の人間に知られてるの?ネット社会って恐ろしいな。

それにしてもなんだろう。加須浦さんは、どうしてぼくをーーー線引屋を追ってこんな場所までやって来たのだろう。彼女がネットの記事を見て、線引屋に興味を持っていることは知っている。だけど、不良の多いこの街で、クラブイベントに一人で参加するなんてあまりにも無謀過ぎる。なにが彼女をそこまで駆り立てるのだろう。そう思い彼女の様子を観察していると、加須浦さんは、あたふたと緊張した様子をありありと見せながら、たどたどしく言葉をつむいでいく。
「わ、私、どうしてもあの、線引屋さんにお礼が言いたかったんです」
お礼? なんのことだろう。
前回のクラブイベントのとき、彼女を御堂の部下たちのナンパから救ったことだろうか。あんなのはお礼をされるようなことではないし、そもそも彼女自身、困っている様子は見せていなかった。
わざわざ礼など言うようなことだろうか?
その疑問はしかし、次の彼女の言葉によって解消された。

「私、線引屋さんのことを知って、いっぱい勇気もらったんです」

薄暗い廊下でもわかるくらい、彼女は頬を朱色に染め上げていた。
ギュッと握りこんだ拳は震え、まるで緊張の最中の告白みたいなシチュエーションだと漠然と思った。

「初めてあなたがグラフィティを描いた記事を見て、すごい人がいるんだなって思いました。最初は単純に、カッコいいなって、その程度の気持ちだけだったんです」

だけど、と彼女は続ける。

「リバースグラフィティ……喧嘩屋の人を助けるために取った、あの行動、私、あの場に居たんです。実際に線引屋さんのグラフィティを目の当たりにして、本当に感動したんですよ。そして今日、あれだけ大勢の人が集まった中で、無理難題を吹っ掛けられたというのに、それを見事にはね除けたばかりか、観衆を味方に付けてしまった。私は、あなたみたいに強くなりたいんです。最近、仲の良い友達から距離を置かれているんですけど、今日のグラフィティを見て背中を押された気がします。どんな逆境も自分の持ち得るスキルで切り開く、そんなあなたに憧れています!」

彼女の真っ直ぐな瞳がぼくを捉えて離さない。
その唇が一瞬、言うのを躊躇うみたいにつぐまれる。
しかし、すぐに決心を固めたように、一回うんと頷くと、再び口を開いた。

「私、あなたのことを知りたい。言葉だって交わしたことない、それどころか、素顔だって知らないけれど、こんなに心の底から勇気をもらったのは初めてなんです。だから言わせて下さいっ」

ーーーありがとうございます!

彼女はそう言って頭を下げた。
ぼくのグラフィティに勇気をもらったと。
ぼくに憧れているのだ、と。
そう言って、深々と頭を下げたのだ。
だけど、それは違うよ、加須浦さん。
本当は、お礼を言わないといけないのはこっちの方なんだ。
今のぼくがあるのは、加須浦さんのおかげだ。
背中を押してもらったのは、ぼくの方なんだよ。
きっと、彼女は覚えてもいないと思う。もう一年以上も前の話になるから。だけど、ぼくは一度だって忘れたことはない。

高校に入学したぼくは、中学時代にいじめてきた連中と離れられたことに安堵したが、ふと周囲を見渡すと、すでにグループのようなものが出来上がっていることに気付いた。
中学時代、邪魔者扱いされるように排斥され、挙げ句の果てに存在すらも否定されてきたぼくには、進学したところで、新しい輪の中に入り込むことなどできなかった。コミュ障、なんて今でこそ軽口として使っているが、当時は本当に障害と言えるくらい、他人と関わることが怖かった。過去の記憶が、踏み出す勇気を根こそぎ奪ってしまっていたのだろう。ぼくは、進学しても、やっぱり一人だった。
そんなときに、声をかけてくれたのが加須浦さんだった。
一人ぼっちの時間を潰すために、隠れて描いていた絵。
現実逃避するように、アニメやマンガの世界にのめり込んでいったぼくの絵を、席の後ろを通ったときに見かけた彼女は、バカにするでもなく、本心から「すごいっ」と言って、声をかけてきたのだ。

絵の才能がある。隠すなんてもったいないと言って、ぼくの絵を誉めちぎる彼女。内心悪い気はしなかったが、久々の他人とのまともな接触、ましてや女子生徒ともなると、思わず自分を守るみたいに背中も丸まった。
そんなぼくを見て、一喝、

ーーーもっと胸を張るべきだよ。

称賛の言葉とともに、彼女はそう言った。

ーーーきっと、あなたの絵を理解してくれる仲間に出会えるから。

そうしてぼくは、彼女に勧められるまま、美術部の扉をノックした。そこで、廣瀬と中西、ぼくを理解してくれる二人の友達と出会うことができた。おそらく、彼らとの出会いがなければ、ぼくは今でも学校で一人ぼっち………いや、学校に通うことも、やめていたかもしれない。
加須浦さんが背中を押してくれたから、今のぼくがあるんだ。
だから、お礼を言わなければいけないのはぼくの方なんだ。

「っ」

思わず言葉を発しそうになり、口を閉ざした。
加須浦さんは、ぼくのことを知りたいと言った。それが彼女の願いならと、マスクに手を伸ばしかけて、その手が止まる。
彼女は言葉の通り、線引屋に憧れていて、線引屋のことを知りたいというのも本心なのだろう。
だが、いざその正体を明かしたとき、彼女はどんな顔をするのだろう。憧れている線引屋が、クラスでバカにされているオタクなぼくだと知って、それでも喜ぶだろうか。
答えは、目に見えている。

ぼくは伸ばしかけた手を、再びだらりと下げた。
彼女をがっかりさせるくらいなら、ぼくは自分の正体を隠し通す道を選ぶ。ぼくを救ってくれた彼女のためにも、ぼくは正体不明のグラフィティライターを演じ続けてみせよう。

「なにも、言ってくれないんですか?」

加須浦さんは、どこか寂しそうな声でそう言った。
答えてあげたい。でも、答えられないこの状況がもどかしかった。

そのとき、鋭敏に尖っていた神経が背後の足音を聞き取り、即座に振り返ると、ステージの袖に抜け道でもあったのか、MC導歩がそこに立っていた。
その目はギラついていて、だけど口元には笑みをたたえている。
これはヤバいかもしれない。
つかつかと歩み寄るMC 導歩から、加須浦さんを守るように立ちはだかるぼく。さっきの下品なラップが頭を過り、強く思った。

ーーー彼女の貞操が危ない!

すぐ目の前までやってきたMC導歩は、ぼくの右手を乱暴に取った。そして親指を組ませるように握ってから、なんか手をコネくり回し、ぐいと引っ張て胸をぶつけてくると、息がかかるくらいの距離で言った。
「マイメ~ン」と。

ーーーぼくの貞操が危ない!?

文字通り身の危険を感じたぼくに、MC導歩は続けて言った。

「さっきは煽るようなこと言って悪かったな。イベントを盛り上げるために、どうしても必要な演出だったんだ」
ぼくを挑発するような言葉はすべて演技だったと言うのか?
まあ確かに、言われてみると不自然な点はあった。
ぼくがステージ上でグラフィティを描き終えた直後のことだ。
MC導歩は、退屈な絵だとぼくにだけ聞こえる声で言った。
しかし、それはおかしくないか?
ディスもコミュニケーションなんて言ってのける人間が、オーディエンスに聞こえないような小さな声でぼくをディスるだろうか。
ましてや彼は、マイクパフォーマンスのプロ。あれではまるで、オーディエンスにはぼくのグラフィティをディスったことを悟らせないように気を使っていたとしか思えない。

「線引屋。お前のディス、めちゃくちゃ痺れたぜ。これだからフリースタイルはやめられねえ。俺はマイク、お前はスプレー缶、手にするものは違うが、ストリート魂はこれっぽっちも劣ってなかった。いや、違うな。劣っているどころか、俺の完敗だ。最初はつまらねえグラフィティ返してきやがったと侮ったが、あのドリップには完全にやられた。マジリスペクトしたぜ、お前のこと。マイメンだ」

なにを言っているのかよくわからないが、取り敢えず敵対する気はないようなので安心した。
ぼくは思わず庇うみたいに加須浦さんの視界を奪ってしまっていたため、慌てて横にずれる。
すると、タイミングを見計らっていたように彼女は言った。
「あなたが線引屋さんに敵意がないことはわかりました。だけど、会場の荒れ様を見ましたよね? あれ、どうするつもりなんですか」
「ああ? そのことなら心配いらねえよ。あれは俺の部下が勝手に熱くなって暴れたのが原因だ。だから、ここに来る前に号令を出してきた。そろそろ収まっている頃じゃねえか?」
言われてみると、さっきまでの暴れまわるような激しい物音はなくなっているような気がする。
まあ、収まったなら良かった。
そう思ったぼくとは裏腹に、加須浦さんは納得いかないのか、言葉を返した。
「無責任じゃありませんか? あなたが線引屋さんを煽って、ステージ上に無理やり立たせたんですよね。それなのに、負けたからって、部下を暴れさせるなんて間違ってる。意図したことじゃなかったにしても、もっと早く止めるべきよ。もし、線引屋さんの身になにかあったらどうするつもりなんです?」
「へえ」と興味深そうに顎をさすったMC導歩は、
「可愛い顔してずいぶんとハッキリ喋るな、あんた。俺が怖くないのか?」と半笑いで聞いた。
すると彼女は、
「怖いですよ、決まってるじゃないですか」
と若干震える声で答えた。

一瞬間が空いてから、MC導歩の大きな笑い声がバックルームに響き渡った。ぼくの肩をバシバシと叩くと、
「いやぁ、勇ましいじゃねえかよ、あんたの女!」
そう言って、がっはっは、と笑う姿を見ていると、こんな不躾なことを言われても腹を立てるだけバカバカしく思えてくる。

やがて笑い声も止むと、MC導歩は言った。
「今回の一件だが、まあ、すでに察しているとは思うんだが、最初から計画されてたことだったんだわ。そこの嬢ちゃんが言うように、こっちの不手際の部分が大きくて騒ぎがでかくなっちまったが、このイベントのレペゼンとして、いや、なによりイチMCとして、 俺はお前の能力を確かめてみたかった。名ばかりのアーティストなんかに用はねえ。ストリートを代表するライターの腕前がどれだけのものか、ヒップホップの現場上がりの連中が集まるこの場所で、はっきりさせたかった。そう思ったから、お前をステージに上げてくれ、と言ったオーガナイザーの依頼を飲むことにしたんだ」

ん、誰だそれ?
彼が責任者ではないのか、このイベントは。
すると、フロアに通じる扉が開かれ、その音に振り返ると、変人ーーーいや、ブランドKTのオーナーである小内さんがそこに立っていた。
MC 導歩は、彼を指差し「あの人の指示だ」と言った。
つまり、このイベントの真の主催者は小内さんだったということか。確かに、さっきのカラオケボックスでも、店員の態度からしてただ者ではない様子はうかがえた。これだけ大きな箱を用意できる資金繰りも、人気ブランドオーナーの彼なら可能ということなのだろう。
「黙っていてソーリーです。ですが、ミーは茶番劇が大嫌いなんです。だから、リアルなあなたの実力が見てみたかった。追い込まれた環境でこそ、フルに発揮すると言われている噂のライターの真の実力。アンチに囲まれた状況で、それをリバースさせるだけの機転。クールラッパー導歩のパンチラインを凌ぐ線引屋のラインが、結果的にこの会場の境界線ボーダーラインを大きく変化させた。そのビッガーな求心力を、ミーのブランドは求めていました。そのために、御堂ちゃんに線引屋との接触を頼み、このイベントに参加するという話を聞いて、MC導歩にバトルを仕掛けるよう頼んだんです。どうしても、ミーのシルバーを着けたあなたをステージに立たせたかったのでね」

つまり、このふざけた口調の男が、裏ですべてを操っていたということになる。人は見た目では判断できないと言うが、本当なのだなと、このときつくづく思ったよ。

うん、と咳払いしたMC 導歩は、この場の注目を集めてから、口を開いた。

「さあ、種明かしも終わったことだし、そろそろステージに戻るぞ線引屋。騒ぎはおさまったが、俺たちが戻らねえとイベントが締まらねえ。嬢ちゃんもフロアに戻りな。熱心な追っかけも構わないが、こんなところまで入っちゃいけねえよ」

そうしてぼくは、加須浦さんとわかれ、ステージ袖に続く階段をのぼる。
一足先にステージの中央に飛び出したMC導歩が、拍手の中迎えられる。
ここで待て、と言われたぼくは、ステージの袖に隠れながら、ときどきフロアの方にも目をやる。この位置からはよく見えないが、御堂や与儀さんは無事なのだろうか、それだけが心配だった。

ステージの上で、MC導歩がマイクを握った。

「ヘイヨー、みんな、待たせたな。熱くなった頭、少しは冷えてきたか? さっきの騒ぎは俺をリスペクトしてくれてる仲間が少しばかり短気起こしちまっただけなんだ。許してくれ」
そう言って頭を下げたMC に、観衆から拍手が向けられる。
気にしてはいない、ということなのだろう。
さすがはストリートを生きるヒップホップアーティストたちだ。
その拍手を聞いたMCは、顔を上げ、再びマイクを握り直した。
「言うまでもねえが、俺と線引屋の間でビーフに発展するなんてことはありえねえ。だってよ、お前らも見ただろう? あのクールなグラフィティを!あんなもん見せられた日には、マジリスペクト。フリースタイルラップイベントで連覇してる最近じゃ、こんな気分は忘れかけてたわ。俺の頭に冷水をぶっかけてストリート魂を思い出させてくれた男、そしてお前らの心に炎を灯した男、そうだ、あらためて紹介するぜっ! マイメンーーー」

ーーー線引屋っ!!

ドッとわきあがるフロアからの熱気。
割れんばかりの拍手と歓声が、ステージに向けられる。
先程、グラフィティをやることになったときとは明らかに違う『線引屋っ!』コール。ぼくの登場を心から期待するような、そんな声音。
そのあまりの歓声に圧倒され、動けなくなった。体は硬直して、足が震える。
呆然と立ち尽くすぼくを見たMC導歩が、「早く来い」とでも言わんばかりに、顎をしゃくった。

ーーーもっと胸を張るべきだよ。

加須浦さんが昔、言ってくれた言葉を思い出していた。その言葉が臆病風を吹き飛ばす。
震える足を殴り付けると、ぼくは、武者震いだと自分自身に言い聞かせ、足を踏み出す。
やがて、ステージの中央で立ち止まると、会場全体が揺れ動くような大きな声援が向けられる。
フロアの大勢の人達が顔を上げてこちらを見ている、その一つ一つを、確かめるようにぼくは眺めていった。
ネオンの光と、カメラのフラッシュが眩しく光る中、フロアの中腹あたりで御堂を見つけた。良かった、無事だったみたいだ。その隣には、与儀さんの姿もあった。ぼくを助けてくれた、剃り込みやスタジャンを着た人も、歓声をあげながらステージを見ていた。

その中に、ぼくを見つめる、一人の女性の姿を発見する。
まっすぐ向けられる瞳には、線引屋としてのぼくの姿が映っているのだろう。

ーーーきっと、あなたの絵を理解してくれる仲間に出会えるから。

彼女の言葉が頭の中を流れ、もう一度フロアを見渡して思った。
本当だったんだね。加須浦さんの言う通りになったよ。
君が背中を押してくれたから、ぼくはこれだけ多くの人と、出会えることができたんだ。
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