彼女の優しい理由

諏訪錦

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彼女の優しい嘘の理由 12

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 自己中心的にものごとを捉えると、それはすべてが希望に満ち溢れて見えるものだ。あらゆる幸福が自分のためにあるような錯覚に溺れ、他人との距離感を逸してしまう。悪意などはそもそも存在しないと高を括り、むざむざとその坩堝に嵌る。それを人は、愚か者と呼ぶのだろう。そういう意味で、いまの俺はまさに愚か者であると言えた。
 幸福感と高揚感が常に胸の内を支配し、気が付けば甘い溜息を吐いている。時間ばかりを気にして、彼女に会えるのを待ちわびる。
 近頃は更級さんの呼び方が〝沙良〟に変わり、俺たちの親密度は確実に上昇した。俺はそんな日々に充実感を覚えていた。沙良と知り合い、そして体を重ねてから三週間が過ぎていた。
 悶々とする気持ちで布団の中に埋もれていると、どうしたって沙良と交わった日のことを想起してしまう。清廉潔白とした彼女を汚すイメージが無性に情欲を刺激し、興奮はピークに達する。膨れたイメージという名の風船は幸福感と一緒に破裂して、俺の情欲を鎮めた。
 冷静さを取り戻した思考は、一転してネガティブな方向に走る傾向にあった。沙良の存在がこんなにも幸福な気持ちを与えてくれるのなら、逆に、彼女が自分の前からいなくなったとき、どれほどの悲しみが訪れるのだろうと思う。
 そのことを考えると、いつも言葉にできない不安に襲われた。宝物を手に入れるということは、それと同時に失う恐怖が生まれる。ましてや人の感情なんてものは、うつろいゆくものだ。鉄郎と母がそうであるように、一度は家庭を築く間柄でも、心はすれ違うことがある。
 なにか絆となるものが必要だ。最近はそんなことばかり考えている。沙良との間に目に見える絆がほしい。二人をどんな苦難が襲っても、いまの気持ちが失われることのない、そんな絆が。
 そのとき、携帯電話に着信が入った。相手を確認してみると、まさに思考を支配していた沙良からの連絡だった。
 すぐさま電話に出ると、沙良は出し抜けに短い言葉で、いまから会えないかと聞いてきた。
 沙良の話によると、弟の試験勉強の追い込みのために塾の企画で両親一緒の泊まり込み合宿が週末にかけて行われているのだそうだ。そのため、今日は夜更けの外出を止める親がいない。
 俺は即決で了承し、通話を切って厚手のダウンジャケットを羽織ると足早に廃工場へと向かった。
 約束の場所に到着した俺を、沙良は手を振って出迎えた。
「急に呼び出したりして、ごめんなさい」
 俺はかぶりを振って、
「そんなことより、いまはとにかく工場の中に入ろう。話はそのあとだ。警官にでも見付かったら確実に補導されるぞ」
 沙良は首肯し、前と同じ動作で敷地内に足を踏み入れる。
 前回きたときよりもスムーズに中に入ることができ、どちらが先ともなく廃工場の側面壁を横目に見ながら、裏手へと向かった。
「やっぱり、ここは静かでいいですね」
 感じ入るように沙良は言った。夜の月明かりだけが、辺りを照らす唯一の光になっている。
 小屋の中に入ると、間髪入れず俺は彼女の肩に腕を回す。そうして、彼女の温もりと香りを楽しむように、顔を首筋に近付けた。二度三度と匂いを嗅ぎ、今日は香水を付けていないのだなと、そんなことを思った。ほんのりと甘い彼女自身の香りが情欲を誘い、沙良の首に唇を押し当てる。二人きりですることと言えば、こういうことだ。
「ちょっ、ちょっと待って下さい」
 沙良は小さな抵抗を見せたが、力で俺に勝てるはずもない。
「いきなり、どうしたっていうんですか?」
 うるさい口を唇で塞ぐことにした。
 長い接吻のあと、空気を求めるように沙良は荒い息になる。建物の中とはいえ、小屋の中はやはり寒く、白い息が大気で拡散した。
 戸惑う彼女の襟首を掴み、引き寄せて再び唇を重ねた。舌を無理やりねじ込み、中で絡め合うように舌を動かした。それから、沙良の肌膚を這うように舌を動かし、首筋にかけてゆっくりと動かす。彼女は目を固く引き結び、甘美な声を上げた。その苦しそうに悶える姿が、無性に愛おしく思える。
 それから服のボタンを順繰りに外していき、上三つのボタンを外したところで彼女の白いブラジャーが見えた。手を差し込み、優しく力を込める。
 次の瞬間、沙良は立ち上がり、俺の手から逃れるように距離を置いた。なにが起きたのかわからず、茫然と彼女を見た。
「今日は話したいことがあるって、言いましたよね?」
 胸元を隠すようにしてたたずむ彼女の足が震えていることに、俺はようやく気付いた。
「七季君は、自分さえよければそれでいいんですか?」
 その瞳には涙が浮かんでいた。一筋の涙がこぼれ落ちたのと同時に、吐き捨てるように沙良は言う。
「そんなの、最低です」
 俺は、いまさらながら自分の仕出かした過ちに気付いた。沙良の話に耳を傾けようともせず、浮かれていて強引に彼女の身体を求めた。それは沙良の言うように最低な行為だ。
「そんなつもりじゃなかったんだ」
 弁解を試みようと彼女の肩に触れると、サッと身を翻して俺の手から逃れてしまう。その動作がひどく心を締め付けた。取り返しのつかないことをしてしまったのだと、自覚した。
「結局、七季君は欲求を満たすためだけに、ここへきたんですね」
「そんなこと―――」
 ない、とは言えなかった。なんとかわかってもらおうとするが、蔑視するような眼差しに当てられ、その先の言葉が思い付かない。
 そんな目で俺を見るな。
 彼女の瞳は、まるで他人に向けられるそれだった。およそ興味の範疇から外れたものを見るような、そんな冷たい瞳。
 頭にカッと血が上り、奥歯に力がこもると、ギリッと顎が痛いほど軋んだ。
「なんだよっ、俺だけが悪いって言うのかよ。こんな風に呼び出されたら誰だって勘違いするさ!」
「私の所為だって言いたいんですか? そうやって自分に都合が悪くなったら相手の所為にする。自分の思い通りにならないと相手を怒鳴り散らす。まるで、七季君が話してくれた、大嫌いなお父さんにそっくりですね」
 ぐうの音も出なかった。彼女は知っているのだ。俺がなにを言われたら傷付き、悔しく思うのかを。
 ようやく俺の口を出たのは、泣きごとに似た言葉だった。
「俺はただ、沙良との絆を確かめたかっただけだ」
 目に見える絆を、繋がりを求めた。そのために彼女の温もりをこの手で確かめようとするのが、そんなにもいけないことだろうか。
 だが、俺の思いは少しも伝わらず、沙良は冷たく俺を一瞥した。その目があまりにも冷淡で、恐れていた事態が起きたのだと理解した。沙良はきっと失望したに違いない。
「私は、これでも七季君を受け入れるために努力してきました。でも、七季君は少しでも変わろうとしてくれましたか? 私を守ろうとは、してはくれないんですか?」
 なにも答えることができなかった。
 俺から返事がないとわかると、沙良は諦観の眼差しを向ける。
「話があるっていいましたよね。今日は、七季君にお別れを言いに来たんです」
 俺は驚愕に目を瞠る。沙良のひどく真剣な眼差しを見て、それが冗談や酔狂の言葉でないことがわかる。
「ど、どうしてだよ。ずっと一緒だって言ったじゃないか。それなのに、どうして別れるなんて言うんだよっ」
 羞恥をかなぐり捨て、俺は叫んだ。
「嫌いになったんならそう言えばいいだろう。どうせ、俺のことなんて鬱陶しいって思ってるんだ。みんなそうだ。俺が信じた人は、みんな俺を裏切って目の前から消えていく。裏切るくらいなら、初めから優しくするなよ。期待させんなよっ!」
 怒りに任せて機材を殴りつけると、乾いた接触音が小屋の中に響いた。寒さも相まって、殴った拳が痺れて痛む。だけど、その痛みが熱くなった頭を冷やしてくれた。
 俺はたった一言、伝えたい言葉を口にする。
「好きなんだ、沙良のことが。本当に」
 彼女は目を大きく開いて俺を見た。どうしてそんなに驚いた顔をするのか一瞬わからなかったが、考えてみると、付き合ってから一度もその言葉を口にしていなかったことに思い至る。俺は、このときになって、はじめて彼女に恋をしたのだと理解した。これまで過ごした時間は、きっとごっこ遊びでしかなかった。もしやり直せるのなら、彼女に打ち明けておかなければならないことがある。その結果、彼女が俺から離れて行ってしまったとしても。
「次は俺の番だな。別れるなら別れるで沙良の好きなようにしていいから、まずは俺の話を聞いてくれ。頼む」
 彼女が首肯するのを見届けると、俺は覚悟を決めて話し始めた。
 友人たちと行った悪質な遊びの話。その内の一人が罰ゲームを提案して、内容が女の子に告白をするというものに決まったこと。沙良は、その時点で言わんとすることを理解したのか、顔を歪めた。それでも俺は話し続けた。罰ゲームの標的が沙良であったことを告げ、振られる前提で告白して、いまに至っていることも、包み隠さずに語った。本当は好きな相手がいたことも、全部、話した。
「―――なんとなく、わかってました」
 彼女は、見るからに無理しているとわかる笑顔で言った。
「初めてデートした日、ショッピングモールの噴水広場で、七季君がなにを言おうとしていたのか本当はわかっていました。わかってて言わせまいと必死になったんです。別れたく、なかったから」
 確かに、デートした日の沙良はどこか必死な様子だった。
「あのときの俺は沙良と別れたいと思ってた。だけどもう駄目なんだ、お前がいないと。それとも、やっぱり愛想をつかしたのか?」
 そう聞くと、沙良はふるふると何度もかぶりを振った。
「だったら、もう一度やり直せないのか? 俺は沙良が好きだ。ようやくそのことに気付けた。気付かせてくれたのは誰でもない、お前だ、沙良」
 だが、彼女の動作は一貫していた。目を固く引き結び、同じように首を横にふるばかりだった。
「どうしてだよ。好きだから一緒にいたい。それじゃ駄目なのか?」
 相変わらず沙良は一貫していた。目尻からぽろぽろと涙をこぼしながら、かぶりを振る。
「私も一緒にいたい。だけど七季君に迷惑をかけたくないんです。だから、これ以上私を困らせないで下さい。それとも、私を守ってくれるんですか? どんなことがあっても」
「みくびるなよ。俺にだって、好きになった相手を守るくらいの意地はある」
 すると沙良は、「そうですか」と言って試すように目を細めた。
「さっき、私との繋がりを求めているって言いましたよね? それならありますよ。七季君との繋がりが〝ここ〟に」
 俺は首を傾げた。彼女の手が腹部に添えられる。それがどうしたというのだろう。
「わかりませんか?」
 困ったように微笑んでから、沙良は告げた。
「たぶん妊娠してます、私」
 あまりの言葉に絶句し、俺は息をするのも忘れた。その反応を予想していたのか、沙良は別段気に留めるでもなく話しを続けた。
「七季君と、その、した日からこないんです………生理が」
 顔を朱に染め、沙良は言い切った。
 あの日、プレハブ小屋で性交したときのことが想起される。
 確かに、彼女に促されるままに挿入を果たし、欲望のまま腰を振った。なにも考えずに彼女の中で果てたのは間違いない。だけど、
「本当なのか? 本当に赤ちゃんが?」
 ゆっくりとした動作で頷く彼女の表情は、複雑なものだった。
「それでも七季君は、私を護ると言えますか?」
 沙良が俺を呼び出した理由が、ようやく理解できた。彼女は妊娠したことを打ち明けようとして俺を呼び出したのだ。そしてすべてを打ち明けてから、俺を解放しようと考えたに違いない。それが別れようという言葉の意味だったのだ。
 俺はかぶりを振って、そんな考えを振り払おうとする。
「沙良の中には、俺との間にできた子供がいるんじゃないのか。だったら、別れてどうするつもりだったんだよ?」
 質問しておいてなんだが、沙良の考えはわかりきっていた。それがあまりにも彼女らしくて、腹立たしくさえ思えた。
「決まってるよな。沙良は妊娠の事実を全部一人で背負い、俺に責任を取らせないために俺から離れようとした。そうすれば責められるのは自分だけになる。それが真実なんだろう?」
 俯きながら、肩を震わせていた彼女は必死になりながら喋った。
「七季君の重荷になりたくないんです。だって、もう十分過ぎるほど苦しんでるじゃないですか。あなたの生きる理由になるって言ったのに、これじゃまるで正反対です。お腹の中の子供が七季君の邪魔にしかならないのなら、私は、いっそ消えた方がいい。だから、手遅れになる前に離れないといけないんです」 
「身勝手だな」
 その一言で、俺は彼女の思いやりを一蹴した。
「一人で全部背負おうとするなよ。俺の生きる理由は沙良だって言っただろう? それがもう一つ増えようとしているんだ。これからは、沙良とお腹の子が俺の生きる理由だ。俺に意味を与えてくれるのはいつだって君だよ」
 そう言って、彼女の温もりを求めるように抱きしめる。
 沙良は、この状況が信じられないのか身体を震わせていた。
「この子を、認めてくれるんですか?」
 仄かに香る沙良の匂いを感じながら、俺は首肯する。
「今度こそ誓うよ。沙良とお腹の子を守れるくらい強くなってみせる。だからずっと傍にいてくれないか? 俺がまた弱音を吐かないように、隣で笑っていてくれ。それさえあればもう間違ったりしないから」
 胸の中で彼女の嗚咽が聞こえる。
 俺の胸に顔を埋めながら、沙良はわんわん泣いた。
「居たい。七季君と、ずっと一緒に居たいです」
 沙良を腕に抱きながら、俺は自らの力ない両手を見た。ようやく手に入れた目に見える絆と、そして守りたいもの。絶対にこの絆だけは守り抜いてみせると、この手に誓った。

 そして、夜が明ける前に彼女を家まで送った。翌日が休日ということもあり、沙良はそのまま一夜を共にしても大丈夫だと言ったのだが、それを俺が制した。彼女の両親がいつ帰ってくるともわからないので、軽率な行動は慎むべきだろうと考えたのだ。
 それになにより、俺としてもやっておきたいことがあった。
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