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彼女の優しい嘘の理由 4
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読み切り漫画の最後は無難な終わり方だった。敵地に乗り込もうと意気込んでいる正義の味方が、悪者の城の前で剣を抜いて終わる。誰も倒していないし、誰も死んでいないし、誰も助けられていない。なにも始まっていないし、なにも終わっていない物語。
急に阿保らしくなって漫画雑誌を閉じた。言い表せない虚無感が心に広がる。
コーナーを移し、いつもと変わらない弁当を手に取ると、それをレジに持って行った。弁当を温めている数秒間に、なんとなく女性店員の胸元に目を向ける。もちろんいかがわしい気持ちはこれっぽっちもない。そこに付いている「笹田(ささだ)」と黒く印字された名札を見ていたのだ。
ふと視線を上げると、彼女はジッと俺を見つめていた。笹田という女性店員からすれば、俺は無言で胸元を凝視する危ない高校生。勘違いされまいとしてすぐに視線を外した。
だが、笹田は気にした様子もなく、電子レンジから弁当を取り出すと、袋に入れて俺に手渡した。
そして、コンビニをあとにしてから家に着いたのは九時を少し過ぎた頃だった。台所に向かい、コップに一杯水を汲んだ。リビングで食事を摂ろうかとも思ったが、そこに先客がいるのを確認し、踵を返す。自分の部屋で食べることにしよう。
「―――待てや、いつ帰ってきたんじゃ」
背後で声がした。俺は振り返って声の方を一瞥し、答えた。
「見ればわかるだろ。いまだよ」
「なにかないんか」
「食いもんならないよ。あんた、家にいるかわからなかったから」
俺の言葉を受け、不機嫌そうに相手は鼻を鳴らした。
「ふん。そういうことを言っとるんじゃないわ。帰ったんなら一言くらい言えっつっとんじゃ。だいたい、それが父親に向かっての態度か、それが」
この男は生物学上の俺の父親で、名を鉄ろうという。
鉄郎は、この寒さの中だらしない下着姿で缶ビールを大きく煽った。ぐびぐびと喉を鳴らして飲む様を、俺は白々とした目で見る。
「程々にしとけよ」
一応忠告はするが、しかし、この忠告が受け入れられることはないと知っている。
「ふん。余計なお世話じゃ」
予想通りの返答に、「あっそ」と答えて俺はリビングを出た。
階段を上った先にある安息を求めて歩く。この家で唯一落ち着ける場所は、自分の部屋をおいて他にない。
その部屋の中で、買ってきたばかりの弁当を広げて食べ始める。
俺は基本的に自炊をしない。できないと言った方が正確だろう。母親が家を出て既に三年の月日が経つが、未だに料理を始めようとは思えなかった。わざわざ自分のために作るなんて、そんな虚しいことはしたくないし、言うまでもないが、鉄郎のために作ってやろうなどと思えるはずもなかった。
俺は黙々と箸を進めた。ボリュームはあるが味気ないコンビニ弁当を、特に味わおうともせずに完食する。ゴミをコンビニの袋に戻し、口を縛って部屋の隅に放り投げると、そのまま布団に横になり、携帯電話の画面を開いた。新着メール受信。液晶画面にはそう文字が現れている。受信メールを開き、中身を確認すると、画面には先ほど登録したばかりの名が表示されていた。
【更級沙良】
便宜上の、恋人からのメールだ。
焼却炉前で別れる間際、彼女の方から勇気を出してアドレスを聞いてきたのだ。だからせめて、初めてのメールは俺の方から送るべきではないかと考えていた。すっかり失念していたのだ。
ワシャワシャと頭を掻き毟り、俺はメールの本文を開いた。
『今日はありがとうございました。告白なんてされるの初めてで驚きましたけど、やっぱり嬉しかったです。これからきっといろいろ迷惑をかけてしまうと思いますが、どうかよろしくお願いします』
メールの最後にはペコペコと頭を下げる絵文字が使われていた。更級さんの性格と、絵文字のギャップについつい破顔してしまう。
意外と可愛いところがあるのかもしれない。なにせ今日が初対面のなにも知らない相手だけに、ちょっとしたギャップに驚かされた。
なにも知らない相手。その言葉が、浮かれていた俺の気持ちにささくれ立って突き刺さった。携帯電話を放り投げると、もう眠ってしまうことにする。そうすれば、一時的にでも嫌なことから解放される。更級さんへの罪悪感も、きっと明日になれば薄れているだろう。
そうして布団に包まった姿は、傍から見れば羽化する前の蛹のように見えるかもしれない。だが、俺が大空に翼をはためかせ飛び立つ日など決してこないだろうことはわかっていた。それは、俺の足を引っ張り続ける存在がいるからだ。そのことだけは、忘れたくても忘れられなかった。下の階で酒に溺れる父親の存在だ。
もともと、父親は工場で働く職人だった。身一つであらゆる機器を操作し、生産に次ぐ生産を繰り返す「旭工の鉄」と呼ばれた男だ。旭工とは、俺の住む市に九つある大工場の総称で、その名を含んだ通り名が付くほどに、父親は有能な職工だった。
旭ノ丘市には名産もなにもなく、観光地と成りうる場所も特になかった。どの都道府県にも足を引っ張る市町村があるように、この旭ノ丘市もその一つであることは間違いない。
しかし、高度経済成長から端を発するバブル期にできた『旭ノ丘工場』が、この町のあり方を大きく変えた。大量生産、大量消費の時代に移行するにつれて生産工場の必要性が高まり、都心への物流の便も悪くないこの町に白羽の矢が立てられたのだ。
公害が騒がれていた時期に丁度当たったこともあって、工場建設の反対運動も激しく行われたと聞く。しかし、ある程度広大な土地があるのと、地価の安さから企業側もこの土地から手を引くつもりはなかったらしい。
雇用の場が少ない旭ノ丘市には、そういった大口の働き場所が必要であるのもまた事実だった。若い働き手は都心に移ってしまう一方。市としては、このまま過疎化が進むのを黙って見ているわけにもいかず、結果的に誘致が進み、工場建設は推進派の一方的な独断で決定してしまった。
鉄郎もこの推進派の一人だった。まだ二◯代前半の若さだった鉄郎は、工場建設反対を唱える家庭、一軒一軒に頭を下げて回ったそうだ。
『いまは生産で世の中が回っている。都心がその発信地点なら、ここは物流の拠点となる。この旭ノ丘市が生産の先進を行く、俺たちがそうしてみせる!』
当時若かった鉄郎と、その仲間は夢と希望を工場に見出したのだ。
高校を卒業すると、一部はさっさと旭ノ丘を見捨てて都心に働きに出て、進学する者も都内の大学へと進学し、二度と戻ってくることはなかった。鉄郎やその他の落ちこぼれは、生まれ育った土地を愛すると口では言いながら、その実、知らない土地で生きていく自信がなかったのだ。地方には東京の恐ろしい噂ばかりが流れてくる。真実も中には混じっていたのだろうが、殆どが事実無根の都市伝説に過ぎないレベルのものだった。鉄郎たちは、そんな話を鵜呑みにして、旭ノ丘を出ることを恐れた。自分たちでは都会を生き抜くことができないと、本能的にわかっていたのだろう。かといって農業に従事するのもまた、彼らのちっぽけなプライドが許さなかった。そんな折に持ち上がった工場建設の話しに、飛び付いたわけだ。
工場で働き始めた鉄郎は、みるみる内にノウハウを呑み込み、それを応用・発展させてみせた。鉄郎が生まれ持った唯一の才能が、工場職人のスキルだったのかもしれない。俺が幼い頃は、毎日のように親父の自慢話を聞かされたものだ。
当時、鉄郎が働いていた〝旭ノ丘第四工場〟は、残り九つの工場の中でもトップクラスの生産を記録していた。この時期が鉄郎の最盛期であり、幸せな時期でもあったのかもしれない。同じ工場内で働く同世代の女性と知り合い結婚、その間に一人の子供を設けることになった。七季と名付けらた俺を家族に加え、鉄郎の人生は順風満帆に進んでいるかに思われた。しかし、幻想はいつか終わりを迎えるように、鉄郎の栄光の時代もあっけなく終わりを迎えた。
俺が小学校の卒業を控えた頃の話だ。テレビを付ければ、不景気だ不景気だと喘ぐ世間の負の波は、旭ノ丘市にも波及した。不況と同時に、海外から入ってきた安い輸入製品の影響で工場の生産ラインは徐々に減少の傾向にあり、人員削減も已む無しといったピリピリとした空気が漂っていたようだ。しかし、鉄郎は第四工場でも主任を任されるほどの地位にあり、生産能力も誰より高かった。だから自分は大丈夫だろうと高を括っていたのだ。
だが、世間の不況の波は鉄郎が考えていたよりもずっとずっと厳しいものだった。生産ラインは縮小から停止へと追い込まれ、とうとう工場の規模縮小の話まで持ち上がった。
各工場ではラインが別れており、不要と見なされた工場は容赦なく閉鎖されることとなった。第二、第三、第四、第七工場の閉鎖が告げられ、鉄郎は愕然とした。閉鎖された工場で働いていた職人たちは、全員が路頭に迷うこととなったのだ。人は所詮、資本に過ぎない。工場や資源と同じだ。不要な工場は廃工となり、超過分の生産は縮小され、無駄な人的資本は容赦なく切り捨てられる。その保証金は雀の涙ほどだったという。
丁度その頃、旭ノ丘市内に、大企業『中上グループ』が参入を果たし、「工場などはもう古い」と公言して大型のショッピングモールの建設に乗り出した。工場があった広大な土地は、中上グループによって買い取られ、新しい産業の場となっていった。この新産業は、工場閉鎖に伴って大勢出た就職難民を救う結果となった。大勢の人員を必要としていた中上グループは、それが目的でこの地を買収に掛かったのだ。
世間の流れと同様に、旭ノ丘市も第二次産業から第三次産業、つまり生産からサービス業へと需要が移り変わっていった。
しかし、鉄郎は頑なに工場勤務に拘った。残された第一、第五、第六、第八、第九工場に頭を下げて、なんとか雇って貰えないかと懇願した。しかし、芳しい答えを貰うことはできなかった。各工場ではそれぞれ別種の生産ラインを持っており、別の工場でどんなに良い業績を残していたとしても、そんなものは参考程度にしかならない。別々の物を生産するのだから、結局一から教育し直さなければならなくなり、どこの工場も時間や労力が余りあるわけではない。若手育成ならまだ可能性もあっただろうが、鉄郎は既に三五歳を超えており、工場での新規採用の可能性も皆無だった。
そうして鉄郎は絶望し、現実から目を背けるように酒に逃げた。
実に有り勝ちな話だ。母は、どんな仕事でもいいから定職に就いて欲しいと鉄郎に懇願した。俺は中学校への進学を控え、成長期ということもあり支出面は削ることができない。貯金を崩してやっていくにしても、そう長く保たないことは目に見えていた。
当時、人員を必要としていたショッピングモールならなにかしらの仕事はあっただろうが、しかし、鉄郎は頑としてその言葉を受け入れなかった。中上グループの息の掛かった職場では働けないと怒鳴ってばかりいたのを、いまでもハッキリ覚えている。
工場の閉鎖に直接中上グループが関係したわけではないが、それでも憎むべき相手というのが鉄郎には必要だったのだろう。
いつしか、新設されたショッピングモールで母が働くようになった。中学生になったばかりの俺を守るためには、母が働く他に道はなかったのだと思う。しかし、鉄郎は相変わらず酒を飲む日々。俺は、そんな父親がいつしか大嫌いになっていた。
中学二年に進級する頃、母は職場で出会った男性と恋に落ちた。所謂、不倫というやつだ。鉄郎は妙に勘の鋭い男で、すぐに母の異変に気が付き、母の職場に乗り込んで、酒明けの声を張り上げて二人を糾弾した。二人とは、母とその不倫相手である。
驚愕する母と、狼狽する男。そして絶叫する鉄郎。俺はその光景を間近で見せられていた。その日、中学から帰ったばかりの俺を強引に引っ張って、鉄郎は母の働くショッピングモールへと向かった。とてもじゃないが忘れることのできない苦い思い出だ。鉄郎から発せられる醜い言葉に、母は顔を覆いながら涙していた。気丈な母の涙を、俺はそのとき初めて見た。
母の不倫相手は、なんとか鉄郎を落ち着かせようと必死だった。せめて場所を変えて欲しいと頼んでも、一向にその場所から動こうとしない。店員や買い物客の奇異の目が痛かった。
鉄郎がなぜ俺をその場所に連れて行ったのか、当時は考え及ばなかった。しかし、高校生になり、少しは大人に近付いたいまでは、狡猾な鉄郎の考えが少しだけわかるようになっていた。
それは、俺に母の仕出かした過ちをすべて見せつけることで、効果的に母を断罪することができると考えたからだろう。倫理的に考えれば、子供がいる女性に手を出してしまったという罪悪感を、相手の男性に与えることもできる。鉄郎は、そんな下らないことのために、中学生だった俺を巻き込んだのだ。少しでも親らしい思考があったのなら、そんな残酷な行為には及ばなかっただろう。母と見知らぬ男、そして鉄郎の三つ巴の争いはとても醜く、俺にとっては目を覆いたくなる光景だった。
そして俺はひとりぼっちになった。母は鉄郎との離婚を決意し、離婚から半年後、不倫相手と再婚を果たした。俺は置いてけ堀をくらい、鉄郎と二人の地獄のような日々が始まった。
鉄郎は相変わらず働こうとしないが、それでも当面生活できてしまうだけの慰謝料を、母親の不倫相手からせしめたのだ。同時に、俺の生活費は母親が毎月養育費として支払っている。高校生に上がると真っ先に銀行口座を開き、そこに生活費を振り込んでもらうようにした。鉄郎には絶対に渡すわけにはいかない。そうして、いまも続く絶望的な毎日に俺は失望しきっていた。
急に阿保らしくなって漫画雑誌を閉じた。言い表せない虚無感が心に広がる。
コーナーを移し、いつもと変わらない弁当を手に取ると、それをレジに持って行った。弁当を温めている数秒間に、なんとなく女性店員の胸元に目を向ける。もちろんいかがわしい気持ちはこれっぽっちもない。そこに付いている「笹田(ささだ)」と黒く印字された名札を見ていたのだ。
ふと視線を上げると、彼女はジッと俺を見つめていた。笹田という女性店員からすれば、俺は無言で胸元を凝視する危ない高校生。勘違いされまいとしてすぐに視線を外した。
だが、笹田は気にした様子もなく、電子レンジから弁当を取り出すと、袋に入れて俺に手渡した。
そして、コンビニをあとにしてから家に着いたのは九時を少し過ぎた頃だった。台所に向かい、コップに一杯水を汲んだ。リビングで食事を摂ろうかとも思ったが、そこに先客がいるのを確認し、踵を返す。自分の部屋で食べることにしよう。
「―――待てや、いつ帰ってきたんじゃ」
背後で声がした。俺は振り返って声の方を一瞥し、答えた。
「見ればわかるだろ。いまだよ」
「なにかないんか」
「食いもんならないよ。あんた、家にいるかわからなかったから」
俺の言葉を受け、不機嫌そうに相手は鼻を鳴らした。
「ふん。そういうことを言っとるんじゃないわ。帰ったんなら一言くらい言えっつっとんじゃ。だいたい、それが父親に向かっての態度か、それが」
この男は生物学上の俺の父親で、名を鉄ろうという。
鉄郎は、この寒さの中だらしない下着姿で缶ビールを大きく煽った。ぐびぐびと喉を鳴らして飲む様を、俺は白々とした目で見る。
「程々にしとけよ」
一応忠告はするが、しかし、この忠告が受け入れられることはないと知っている。
「ふん。余計なお世話じゃ」
予想通りの返答に、「あっそ」と答えて俺はリビングを出た。
階段を上った先にある安息を求めて歩く。この家で唯一落ち着ける場所は、自分の部屋をおいて他にない。
その部屋の中で、買ってきたばかりの弁当を広げて食べ始める。
俺は基本的に自炊をしない。できないと言った方が正確だろう。母親が家を出て既に三年の月日が経つが、未だに料理を始めようとは思えなかった。わざわざ自分のために作るなんて、そんな虚しいことはしたくないし、言うまでもないが、鉄郎のために作ってやろうなどと思えるはずもなかった。
俺は黙々と箸を進めた。ボリュームはあるが味気ないコンビニ弁当を、特に味わおうともせずに完食する。ゴミをコンビニの袋に戻し、口を縛って部屋の隅に放り投げると、そのまま布団に横になり、携帯電話の画面を開いた。新着メール受信。液晶画面にはそう文字が現れている。受信メールを開き、中身を確認すると、画面には先ほど登録したばかりの名が表示されていた。
【更級沙良】
便宜上の、恋人からのメールだ。
焼却炉前で別れる間際、彼女の方から勇気を出してアドレスを聞いてきたのだ。だからせめて、初めてのメールは俺の方から送るべきではないかと考えていた。すっかり失念していたのだ。
ワシャワシャと頭を掻き毟り、俺はメールの本文を開いた。
『今日はありがとうございました。告白なんてされるの初めてで驚きましたけど、やっぱり嬉しかったです。これからきっといろいろ迷惑をかけてしまうと思いますが、どうかよろしくお願いします』
メールの最後にはペコペコと頭を下げる絵文字が使われていた。更級さんの性格と、絵文字のギャップについつい破顔してしまう。
意外と可愛いところがあるのかもしれない。なにせ今日が初対面のなにも知らない相手だけに、ちょっとしたギャップに驚かされた。
なにも知らない相手。その言葉が、浮かれていた俺の気持ちにささくれ立って突き刺さった。携帯電話を放り投げると、もう眠ってしまうことにする。そうすれば、一時的にでも嫌なことから解放される。更級さんへの罪悪感も、きっと明日になれば薄れているだろう。
そうして布団に包まった姿は、傍から見れば羽化する前の蛹のように見えるかもしれない。だが、俺が大空に翼をはためかせ飛び立つ日など決してこないだろうことはわかっていた。それは、俺の足を引っ張り続ける存在がいるからだ。そのことだけは、忘れたくても忘れられなかった。下の階で酒に溺れる父親の存在だ。
もともと、父親は工場で働く職人だった。身一つであらゆる機器を操作し、生産に次ぐ生産を繰り返す「旭工の鉄」と呼ばれた男だ。旭工とは、俺の住む市に九つある大工場の総称で、その名を含んだ通り名が付くほどに、父親は有能な職工だった。
旭ノ丘市には名産もなにもなく、観光地と成りうる場所も特になかった。どの都道府県にも足を引っ張る市町村があるように、この旭ノ丘市もその一つであることは間違いない。
しかし、高度経済成長から端を発するバブル期にできた『旭ノ丘工場』が、この町のあり方を大きく変えた。大量生産、大量消費の時代に移行するにつれて生産工場の必要性が高まり、都心への物流の便も悪くないこの町に白羽の矢が立てられたのだ。
公害が騒がれていた時期に丁度当たったこともあって、工場建設の反対運動も激しく行われたと聞く。しかし、ある程度広大な土地があるのと、地価の安さから企業側もこの土地から手を引くつもりはなかったらしい。
雇用の場が少ない旭ノ丘市には、そういった大口の働き場所が必要であるのもまた事実だった。若い働き手は都心に移ってしまう一方。市としては、このまま過疎化が進むのを黙って見ているわけにもいかず、結果的に誘致が進み、工場建設は推進派の一方的な独断で決定してしまった。
鉄郎もこの推進派の一人だった。まだ二◯代前半の若さだった鉄郎は、工場建設反対を唱える家庭、一軒一軒に頭を下げて回ったそうだ。
『いまは生産で世の中が回っている。都心がその発信地点なら、ここは物流の拠点となる。この旭ノ丘市が生産の先進を行く、俺たちがそうしてみせる!』
当時若かった鉄郎と、その仲間は夢と希望を工場に見出したのだ。
高校を卒業すると、一部はさっさと旭ノ丘を見捨てて都心に働きに出て、進学する者も都内の大学へと進学し、二度と戻ってくることはなかった。鉄郎やその他の落ちこぼれは、生まれ育った土地を愛すると口では言いながら、その実、知らない土地で生きていく自信がなかったのだ。地方には東京の恐ろしい噂ばかりが流れてくる。真実も中には混じっていたのだろうが、殆どが事実無根の都市伝説に過ぎないレベルのものだった。鉄郎たちは、そんな話を鵜呑みにして、旭ノ丘を出ることを恐れた。自分たちでは都会を生き抜くことができないと、本能的にわかっていたのだろう。かといって農業に従事するのもまた、彼らのちっぽけなプライドが許さなかった。そんな折に持ち上がった工場建設の話しに、飛び付いたわけだ。
工場で働き始めた鉄郎は、みるみる内にノウハウを呑み込み、それを応用・発展させてみせた。鉄郎が生まれ持った唯一の才能が、工場職人のスキルだったのかもしれない。俺が幼い頃は、毎日のように親父の自慢話を聞かされたものだ。
当時、鉄郎が働いていた〝旭ノ丘第四工場〟は、残り九つの工場の中でもトップクラスの生産を記録していた。この時期が鉄郎の最盛期であり、幸せな時期でもあったのかもしれない。同じ工場内で働く同世代の女性と知り合い結婚、その間に一人の子供を設けることになった。七季と名付けらた俺を家族に加え、鉄郎の人生は順風満帆に進んでいるかに思われた。しかし、幻想はいつか終わりを迎えるように、鉄郎の栄光の時代もあっけなく終わりを迎えた。
俺が小学校の卒業を控えた頃の話だ。テレビを付ければ、不景気だ不景気だと喘ぐ世間の負の波は、旭ノ丘市にも波及した。不況と同時に、海外から入ってきた安い輸入製品の影響で工場の生産ラインは徐々に減少の傾向にあり、人員削減も已む無しといったピリピリとした空気が漂っていたようだ。しかし、鉄郎は第四工場でも主任を任されるほどの地位にあり、生産能力も誰より高かった。だから自分は大丈夫だろうと高を括っていたのだ。
だが、世間の不況の波は鉄郎が考えていたよりもずっとずっと厳しいものだった。生産ラインは縮小から停止へと追い込まれ、とうとう工場の規模縮小の話まで持ち上がった。
各工場ではラインが別れており、不要と見なされた工場は容赦なく閉鎖されることとなった。第二、第三、第四、第七工場の閉鎖が告げられ、鉄郎は愕然とした。閉鎖された工場で働いていた職人たちは、全員が路頭に迷うこととなったのだ。人は所詮、資本に過ぎない。工場や資源と同じだ。不要な工場は廃工となり、超過分の生産は縮小され、無駄な人的資本は容赦なく切り捨てられる。その保証金は雀の涙ほどだったという。
丁度その頃、旭ノ丘市内に、大企業『中上グループ』が参入を果たし、「工場などはもう古い」と公言して大型のショッピングモールの建設に乗り出した。工場があった広大な土地は、中上グループによって買い取られ、新しい産業の場となっていった。この新産業は、工場閉鎖に伴って大勢出た就職難民を救う結果となった。大勢の人員を必要としていた中上グループは、それが目的でこの地を買収に掛かったのだ。
世間の流れと同様に、旭ノ丘市も第二次産業から第三次産業、つまり生産からサービス業へと需要が移り変わっていった。
しかし、鉄郎は頑なに工場勤務に拘った。残された第一、第五、第六、第八、第九工場に頭を下げて、なんとか雇って貰えないかと懇願した。しかし、芳しい答えを貰うことはできなかった。各工場ではそれぞれ別種の生産ラインを持っており、別の工場でどんなに良い業績を残していたとしても、そんなものは参考程度にしかならない。別々の物を生産するのだから、結局一から教育し直さなければならなくなり、どこの工場も時間や労力が余りあるわけではない。若手育成ならまだ可能性もあっただろうが、鉄郎は既に三五歳を超えており、工場での新規採用の可能性も皆無だった。
そうして鉄郎は絶望し、現実から目を背けるように酒に逃げた。
実に有り勝ちな話だ。母は、どんな仕事でもいいから定職に就いて欲しいと鉄郎に懇願した。俺は中学校への進学を控え、成長期ということもあり支出面は削ることができない。貯金を崩してやっていくにしても、そう長く保たないことは目に見えていた。
当時、人員を必要としていたショッピングモールならなにかしらの仕事はあっただろうが、しかし、鉄郎は頑としてその言葉を受け入れなかった。中上グループの息の掛かった職場では働けないと怒鳴ってばかりいたのを、いまでもハッキリ覚えている。
工場の閉鎖に直接中上グループが関係したわけではないが、それでも憎むべき相手というのが鉄郎には必要だったのだろう。
いつしか、新設されたショッピングモールで母が働くようになった。中学生になったばかりの俺を守るためには、母が働く他に道はなかったのだと思う。しかし、鉄郎は相変わらず酒を飲む日々。俺は、そんな父親がいつしか大嫌いになっていた。
中学二年に進級する頃、母は職場で出会った男性と恋に落ちた。所謂、不倫というやつだ。鉄郎は妙に勘の鋭い男で、すぐに母の異変に気が付き、母の職場に乗り込んで、酒明けの声を張り上げて二人を糾弾した。二人とは、母とその不倫相手である。
驚愕する母と、狼狽する男。そして絶叫する鉄郎。俺はその光景を間近で見せられていた。その日、中学から帰ったばかりの俺を強引に引っ張って、鉄郎は母の働くショッピングモールへと向かった。とてもじゃないが忘れることのできない苦い思い出だ。鉄郎から発せられる醜い言葉に、母は顔を覆いながら涙していた。気丈な母の涙を、俺はそのとき初めて見た。
母の不倫相手は、なんとか鉄郎を落ち着かせようと必死だった。せめて場所を変えて欲しいと頼んでも、一向にその場所から動こうとしない。店員や買い物客の奇異の目が痛かった。
鉄郎がなぜ俺をその場所に連れて行ったのか、当時は考え及ばなかった。しかし、高校生になり、少しは大人に近付いたいまでは、狡猾な鉄郎の考えが少しだけわかるようになっていた。
それは、俺に母の仕出かした過ちをすべて見せつけることで、効果的に母を断罪することができると考えたからだろう。倫理的に考えれば、子供がいる女性に手を出してしまったという罪悪感を、相手の男性に与えることもできる。鉄郎は、そんな下らないことのために、中学生だった俺を巻き込んだのだ。少しでも親らしい思考があったのなら、そんな残酷な行為には及ばなかっただろう。母と見知らぬ男、そして鉄郎の三つ巴の争いはとても醜く、俺にとっては目を覆いたくなる光景だった。
そして俺はひとりぼっちになった。母は鉄郎との離婚を決意し、離婚から半年後、不倫相手と再婚を果たした。俺は置いてけ堀をくらい、鉄郎と二人の地獄のような日々が始まった。
鉄郎は相変わらず働こうとしないが、それでも当面生活できてしまうだけの慰謝料を、母親の不倫相手からせしめたのだ。同時に、俺の生活費は母親が毎月養育費として支払っている。高校生に上がると真っ先に銀行口座を開き、そこに生活費を振り込んでもらうようにした。鉄郎には絶対に渡すわけにはいかない。そうして、いまも続く絶望的な毎日に俺は失望しきっていた。
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