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交差点の幽霊

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 田所のおじいちゃんがいた。

 ねずみ色の空が、ぽつぽつと涙のような雨をこぼし始めた交差点。
 おじいちゃんは、道路を見ながら立っていた。死んだときと、まるで同じ姿で。

「おじいちゃん!」

 彼には私の声が聞こえていないようだ。
 もう一年が経つけれど、おじいちゃんは、あのときと全然変わらない。その懐かしい姿に、私は思わず彼のもとへ駆け寄る。

「おじいちゃん……!」

 けれどおじいちゃんの肩は、まるで幻のように、伸ばした私の手をすり抜けた。





 田所のおじいちゃんは、私が通っていた小学校の通学路で、見守り隊をしてくれていた人だ。田所というのは上の名前で、タドコロさん。でもさん付けはよそよそしいし、自分のおじいちゃんと区別するために、みんな田所のおじいちゃんと呼んでいた。
 結婚はしていなかったから、小学校に孫がいたとか、そういうわけじゃない。あくまで地域のボランティアとして、おじいちゃんは登下校する私たちの安全を、毎日旗を片手に見守ってくれていた。

 優しいおじいちゃんだった。
 何でもおじいちゃんが住んでいたマンションにいた小さな女の子が、この交差点で事故に遭い、亡くなったらしい。運転していた人は心臓の発作を起こしていたみたいだけど、田所のおじいちゃんは、交差点自体も危ないところだといつも思っていたそうだ。そんな矢先に事故が起きたという。

 おじいちゃんは悔しそうに言っていた。

(おじいちゃんはね、危ないなって思うだけで、何もしなかったんだ)

(そしたらあの子が死んでしまった)

(フーコちゃんって言うんだけどね。絵を描くのが好きで、おじいちゃん、似顔絵をもらったことがある。かわいい子だった)

(これじゃ駄目だ、あの子のためにも何かしなくちゃって、そう思ったんだよ)

 私たちの町の少し先には空港がある。だからこの交差点は、荷物を配送するワゴンやトラックが、毎日たくさん通っていた。

 田所のおじいちゃんが気にしていたのもそこだと思う。たとえきちんと横断歩道があっても、きちんと信号があっても、いっぱい車が通ったら、危ない運転をする人も増えてくる。でも、私みたいに町の北側に住んでいる子どもたちは、学校に行こうとすると、どうしてもこの交差点を通らなければいけなかった。学校は南側だから。買い物をするのも同じで、大きなスーパーはみんな南側だったから、小さい子どもがいるお母さんたちもよくここを通っていた。

 おじいちゃんに聞いたら、町の北側はもともと、工場ばかりであまり家が建っていなかったそうだ。でも「再開発」とかでマンションがたくさんできて、この十年くらいで人がいっぱいになったんだとか。

 確かに私も、この場所は少し怖いな、といつも思う。空港へ急いでいるのか、交差点を通る車のスピードはかなり速い。

 歩道橋があるといいんだけどね、とおじいちゃんは繰り返し言っていた。
 この場所はやっぱり危ない、いつかまた同じような事故が起こるぞ、と。

 そしておじいちゃんの心配は、一年前、本当に現実のことになってしまった。





 おじいちゃんが、帰ってきてくれた。

 田所のおじいちゃんは、小雨の中、寂しそうな目をして交差点を見ている。
 私の顔は見えていないみたい。やっぱり、目に映る世界そのものが違ってしまっているのかもしれない。生きた人間と、死んでしまった幽霊とは。

 おじいちゃんの格好は、本当に、あの日と同じ服装のまま。きちんとしたスーツの上下と、薄紫色の花柄のネクタイ。
 私は思わず涙が出そうになる。
 あれは、おじいちゃんの誕生日に、私がプレゼントしたネクタイだ。

 そう、あの日も、田所のおじいちゃんは私があげたネクタイをつけてくれていた。
 彼がずっと恐れていた事故、私たちの登校の列にワゴンが飛び込んできて二度目の死者が出てしまったあの日。
 死んでしまったその瞬間も、おじいちゃんの胸には、あの薄紫色のネクタイが揺れていた……。





 おじいちゃんはもう定年退職していて、会社には行っていなかった。
 それならどうしていつも、動きにくそうなスーツを着ているの、とたずねると、おじいちゃんはちょっと答えにくそうに返事をした。見た目の問題だよ、と。

(ほら、今どきは、悪い大人の人もいっぱいいるだろう? 学校でも気をつけなさいって言われているんじゃないかな。それじゃ、何に気をつけるかっていうと、最初は見た目ってことになるんだよ、やっぱり。もちろんそれが全てじゃないんだけど)

(おじいちゃんがいつもだらしない服装をしていたら、みんなのお父さんやお母さんも、学校の先生も、不安になるだろう?)

(だからおじいちゃんは毎日きちんとした服装をしたいんだけどさ、きちんとした私服って、逆に難しいんだ。だから結局、会社勤めしてたときの格好になっちゃって)

 そんな気遣いもあってか、田所のおじいちゃんは誰からも評判がよかった。
 礼儀正しくて、いつもきちんとしたスーツ姿だったおじいちゃん。
 私の両親も含めて、この辺りの子どもたちの親は空港まわりで働くことが多く、仕事の時間が不規則でなかなか通学路の見回りに立つことができなかった。それもあって、毎日しっかりしたおじいちゃんが交差点に来てくれてとても安心だったと思う。

 私の母は感心したように言っていた。
 田所さんはすごいわね、私、毎日あんなに綺麗にアイロン当てられないわよ、と。

 ただ、女の子の私は、ちょっとだけ田所のおじいちゃんの服装に「ダメだし」をしていた。おじいちゃんのネクタイは、少し古臭かったのだ。何だか色あせてもいた。

 だから私はおじいちゃんの誕生日に、お年玉の残りを使って、女の子のセンスを精一杯発揮したお洒落なネクタイを贈った。
 おじいちゃんは本当に喜んでくれた。
 あんまり何度も何度もお礼を言ってくれたから、逆に私はかなり気恥ずかしくなったのを覚えている。でも喜んでもらえて本当に嬉しかった。

 だけど。
 今になって、私は思う。

 おじいちゃんのスーツ姿は、やっぱり少し動きにくかったのかもしれない。

 あのとき、急ブレーキとともにワゴンが登校する私たちの列に突進してきて。
 咄嗟に警告をしてくれながらも、おじいちゃん自身の動きは少し遅れてしまった。

 そしてそこに、車が迫ってきて……。





 おじいちゃんは、随分長い間交差点を眺めた後、ゆっくり道路にかがみ込んで、何かを地面に置いた。
 薄紫色の小さな花束だ。
 私は気がついていなかったけれど、最初から手に持っていたらしい。
 彼は、ぽつりと言う。

「ごめんな。……また来るよ」

 再び立ち上がったおじいちゃんのスーツ姿は、本当にあのときと変わっていない。

 私が死んだ、あのときと。

 田所のおじいちゃんは、ひどく肩を落としながら、とぼとぼと歩き始める。強さを増した雨風に、ふわりと薄紫色のネクタイが舞い上がった。私が死んでしまった瞬間も、身に着けてくれていたネクタイが。

 交差点から立ち去って行く背中に、私は必死で呼びかける。

「おじいちゃん!」

 私はこの場所を離れられない。だから精一杯、叫ぶことしかできない。
 たとえ私の姿がおじいちゃんには見えず、私の声が耳に届かなかったとしても。

「歩道橋ができたのは、おじいちゃんが頑張ってくれたおかげでしょう? みんながおじいちゃんに感謝してたよ。私、ずっとここにいて、何度もみんなが話しているのを聞いたもの!」

 おじいちゃんの後ろ姿が遠くなる。
 それでも私は、懸命に叫び続ける。

「他の子たちが怪我だけで済んだのも、おじいちゃんがいてくれたおかげだよ。私は逃げ遅れちゃったけど、でもおじいちゃんを恨んでなんかいない。ねえ、だから」

「だからお願い、自分を責めないで!」

 小さくなった背中が見えなくなる。
 おじいちゃんは行ってしまった。

 雨の交差点には、もう誰もいない。

 私の言葉は、ほんの少しでも田所のおじいちゃんに届いただろうか。
 ダメだったかもしれない。でもそれなら何度でも彼に呼びかけよう。
 何度でも、何度でも。
 いつかおじいちゃんが、もう一度心から笑うことがきる、そのときまで。

 私はそっと、地面に置かれた花束に手を伸ばす。おじいちゃんのネクタイに私が咲かせたのと同じ、薄紫色の花。

 すっと、まるで幻のように、私の手は薄紫色の花びらをすり抜けた。 
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