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雨の夜の幽霊

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 午前三時。ひどい雨が降っていた。

 何気なく扉を開けて店の外の様子を見たのは、雨音があまりに激しかったからだ。
 別に人の気配を感じていたわけじゃない。だから、軒下でしゃがみ込んでいる若い娘の姿を見たときは本当に驚いた。

「……雨宿りか?」

 声をかけると、相手は長い髪をかき上げながら俺を振り向いた。
 透き通るような白い肌。切れ長の瞳。
 けれど、目の周りにはひどい痣がある。殴られたような、青黒い痣。

「雨宿り、兼、暇つぶし」

 彼女はスカートを払いながら立ち上がる。

「ごめん、お店の邪魔?」
「いや、別に。まだ開店してない」
「ここ、何の店?」

 俺は黙って店の看板を手で示す。娘は初めて気がついたように看板を見て、

「スープタイム? スープ屋さん?」
「そう」
「お酒は?」
「出さない。スープだけ」
「何でこんなところでやってるの?」

 ここは歓楽街の片隅。あるのは飲み屋と風俗店とラブホテル、その他もろもろのいかがわしい店ばかり。確かに相手が言う通り、俺のスープ屋はこの街にあまり似つかわしい店とはいえない。俺は肩をすくめた。

「夜の商売の人間が寄ってくれるかと」
「あ、なるほど。意外と儲かるんだ」
「いや、全然。残念ながら大赤字」

 こちらの言葉に彼女は無遠慮に笑った。
 同時に、一際強い雨が吹き込んできた。どこかで雷も鳴っているようだ。

「どうでもいいが、中に入らないか?」
「お店、まだ開いてないんでしょ?」
「客じゃないだろ。雨宿りしていけよ」
「あたしにいやらしいことしない?」
「しない。スープの仕込みで忙しい」

 若い娘とのやり取りは面倒くさい。扉は開けておくから好きにしろ、と言い残して、鍵はかけずに店内に戻った。俺がカウンターに戻って再びタマネギを炒め始めると、入り口の扉が開いて、彼女が中に入ってくる。飾り気のない黒いTシャツとスカートを着ているが、全身濡れそぼってひどい有り様だ。

「こんな早い時間から仕込み?」
「早朝に開店して昼すぎに閉めるから」
「眠くない?」
「夜は眠れないからちょうどいい」

 店内を見回してる娘の横顔を見て、おや、と俺は思った。痛々しい痣に目を奪われてこれまで気がつかなかったが、見たことがある顔のような気がする。たまに来てくれる客の一人に、よく似た顔の女性がいた。俺はタオルを渡してやりながら聞いてみる。

「君、前に店に来たことなかったっけ」
「ああ、多分それ、妹のチアキ」

 娘はタオルで髪を拭きながら答えた。

「妹はこの街で働いてるの。夜にね」
「そうか。よく似てるな」
「ちなみにあたしはチナツ」
「はじめまして」

 俺も名乗ろうかと思ったが、やめた。礼を言って返されたタオルを受け取って、後はスープの仕込みに専念することにする。
 今日のスープはタマネギを飴色に炒めたオニオンスープと、鶏ガラを丁寧に煮込んだ中華風スープ。どちらもシンプルだが、火加減など意外と手間でやることが多い。
 
 チナツはスツールに腰をおろし、カウンターに肘をついて俺を眺め始めた。

「何も聞かないんだね、顔の痣のこと」
「聞いても俺には何もできないからな」
「何かして欲しいわけでもないけど」
「喋りたければ喋ってくれ」

 彼女はしばらく黙った後、やめとく、とどこか冷めたような顔で言った。

「それより、お店のことを聞かせて」
「何が聞きたい?」
「大赤字なのに何で続けてるわけ?」
「実は金に困ってない」

 予想外の言葉だったのか、チナツは目を見開いて俺を凝視した。

「そうなの?」
「ああ、親が金持ちだったから」
「へええ、凄い」
「別に凄くない。特に俺自身は、何も」
「じゃあ、お店は趣味?」
「趣味というより、単なる時間潰しかな」

 彼女の目つきが少し反感を含んだものに変わった。まあ仕方ない。苦労知らずの道楽と言われれば、その通りだ。

「スープ、余ったらどうするの?」
「知り合いのお節介な女が持っていく」
「お節介な女?」
「飯に困ってる人に配ってるらしい」

 それっていい人なのに何その言い方、と怒られた。年下なのに手厳しい。

「あたしにはご馳走してくれないの?」
「スープか?」
「他には何もないでしょ」
「まだできてない」

 チナツは乾いた声で笑った。

「それは残念。でも実はさ」
「ん?」
「あたし、味覚がないんだ」
「味覚がない?」
「味覚も痛覚もないの。だってあたし」

 黒髪の娘は、痛々しい痣のある顔で俺を真正面から見た。

「あたし、幽霊だから」



 一ヶ月ほど後のこと。
 俺はしばらくぶりに店を訪れた客の顔を見て、思わず声を上げた。

「あ!」

 しまった、と思う。飲み屋でもないし客に無駄に接触しないようにしているのに、ついつい声を出してしまった。

「ど、どうかしたんですか?」

 目の前に立っていたのは、色白で切れ長の瞳の若い娘。長い黒髪がよく似合っている。
 雨宿りをしていたあの娘だ、と俺は一瞬思ったのだ。でも、そっくりだが顔に痣はないし、言葉遣いも違う。この街で夜に働いているという妹の方なのかもしれない。

「いや、すまん。君、お姉さんいる?」
「え、私ですか?」
「チナツって子が前に来たんだけど」

 彼女はきょとんとした顔で俺を見る。

「いいえ、私、一人っ子ですけど?」

 どういうことだ、と疑問に思いつつも、俺はすぐに表情を取り繕った。ここは歓楽街、客に何やかやと聞くべきではない。

「じゃあ人違いかな。申し訳ない」

 強引に話を打ち切ったつもりだったが、相手はコーンスープの器を持ったまま、少し考え込んだ。上目遣いで俺の方を見ながら、

「私のお店に来てくれたことあります?」
「店? ええと、君の働いている店?」

 彼女は、はい、とうなずく。

「私、そこではチハルって名前を使ってて」
「いや、ごめん、行ったことはないと思う」

 話が変な方向になってきたので、俺は慌てる。そもそもこの街に店を構えていながら、生活用品や食料品以外の店にはまるで行ったことがない。もちろん、目の前の娘がどんな店で働いているのかも知らない。

「チナツって、ちょうど中間の名前ですね」

 彼女は微笑みながら言葉を続ける。

「私、本当はチアキって名前なんです」



 数ヶ月後の、午前三時。
 ひどい雨が降っていた。横殴りの雨。

 前にもこんな日があったな、と扉を開けて店の外を見てみると、軒下に長い髪の若い娘がいた。顔に青黒い痣がある。

「よう、久しぶり」
「あたしがいるような気がした?」
「何となくな。入れよ」

 店に入ってきた彼女の格好は、黒いTシャツとスカート。相変わらず黒ずくめだ。

「ええと、君はチナツだったっけ?」
「うん。覚えててくれたんだね」
「チアキって子が店に来たけど」
「あ、そう」
「自分は一人っ子だって言ってた」

 チナツは乾いた笑い声を立てた。

「だから言ったでしょ?」
「何が?」
「あたし、幽霊なんだってば」

 俺は今回もタオルを渡してやる。

「幽霊のわりに水に濡れすぎじゃないか?」
「大丈夫、あたし、感覚ないから」

 彼女は髪を拭きながら、店内をぐるりと見回した。スツールに腰かけて、

「今日は何のスープ?」
「ブイヤベースもどきと、お吸い物」
「そもそも何でスープ屋やってるの?」

 ありがと、とチナツは礼を言ってタオルを返してきた。わずかに触れた彼女の手は冷たいが体温はある。幽霊には思えない。

「父親の愛人がスープが好きでさ」
「父親の愛人?」
「昔色々作ってもらって、うまかった」
「ふうん」
「その思い出の味を探してる」
「本人にレシピは聞けないの?」
「もう死んでるから、聞けない」

 チナツは何かを言いかけたが、結局言葉を飲み込んで口を閉じた。しばらくの沈黙。
 俺はコトコトとスープを弱火で煮込みながら、彼女に問いかける。

「一つ聞いていいか?」
「どうぞ」
「幽霊は君以外にあと何人いる?」

 チナツはほんの一瞬、泣き笑いのような表情になった。目を伏せながら言う。

「なんだ、気がついてたんだね」
「俺が気づいたわけじゃない」
「あたしのこと、誰かに話したの?」
「知り合いのお節介な女に話した」
「ああ、余ったスープを引き取る人」

 相手は悪戯っぽい表情になって言葉を続ける。にやにやしながら、

「その人、彼女か元カノ?」
「鋭いな。昔付き合ってた」
「元カノね。よりは戻さないの?」
「とんでもない。深く憎まれてる」
「何かひどいことしたわけ?」
「ああ。俺は昔、勘違い野郎だったから」
「勘違い野郎?」
「親が金持ちだと自分も偉いと思ってた」

 チナツはカウンターに頬杖をつく。

「それはウザいね」
「全くだ。返す言葉もない」

 俺は一枚の名刺を取り出し、カウンター越しに彼女に渡した。細い指がそれをつまむ。

「これは、元カノさんの名刺?」
「気が向いたら連絡してみてくれ」
「幽霊も片付けてくれるってわけ?」

 余ったスープみたいに、とやや自虐的にチナツは続ける。俺は肩をすくめた。

「助けになりそうな人を紹介できるらしい」
「へええ、そうなの?」
「無理強いはしない。捨ててもいいよ」
「ううん、ありがと。チトセに相談する」
「チトセ?」
「あたしたち、幽霊のリーダー」

 彼女は髪をかき上げて、幽霊は全部で四人いるよ、と呟いた。

「まず、チアキが日常生活全般の担当」
「あの子もその、幽霊、なのか?」
「うん。で、チハルはエロ担当」
「源氏名みたいに言ってたけど」
「夜のお仕事中、入れ替わってるの」
「便利だな」
「チアキはその自覚はないけどね」
「君のことも知らないようだったけど」
「あたしの存在はチトセしか知らない」
「それが、幽霊のリーダー?」
「そうだよ」
「君は何を担当してるんだ?」
「殴られたり蹴られたり、痛いこと全部」

 俺はカウンターに身を乗り出し、そっとチナツの顔に手を伸ばす。彼女は避けようとはしない。顔の青黒く痛々しい痣に触れても、何の反応もしない。ちなみに、顔の痣は真新しく、前に来たときとは微妙に場所が違う。

 つまり、彼女はまた殴られたのだ。

 単純なことでしょ、と俺の知り合いのお節介な女は言っていた。

(殴られた女の子がお店にきた)
(その子が痣が治ってまた来ただけ)
(だから、チナツとチアキは同一人物ね)
(ひどい痣の子は客を取れないでしょ?)
(痣が治るまで働けない)
(でもその子は家にはいられなかった)
(多分夜に家にいたら暴力を受けるのよ)
(雨の日も、街をさまようしかなかった)

 痣が治ったのに、チナツはまた殴られた。
 いや、殴られたから、またチナツが出てきたと言うべきだろうか。彼女が口にしている「幽霊」とは、おそらく一つの身体に宿る複数の人格のことだろう。要は多重人格だ。

 多分チナツは、暴力に耐えるために産み出された人格の一つ。身代わりの幽霊。
 だから痛覚がない。何も感じない。
 味覚もないというから、俺がどんなスープを飲ませても、彼女を喜ばせてはやれない。

「本来の身体の持ち主は、何て名前だ?」

 俺の言葉に、チナツは静かに微笑んだ。そっと左胸に手を当てながら、

「フユミ。彼女はずっと眠ってるの」



 半年が経った、ある日の午前四時。
 またひどい雨が降っていた。

 二回目にチナツと会って以降、同じ顔をしたチアキも店に来なくなった。俺は半ば思い出をたどるように、何となく店の扉を開けてみる。案の定、外はどしゃ降りだ。

 そして軒下に、髪の短い娘がいた。

「開けてくれると思っていたよ」

 歯切れの良い、少年のような喋り方。けれど切れ長の瞳と、透けそうに白い肌の顔には明らかに見覚えがある。
 顔に痣はない。
 髪は短く切っている。話し方も違う。
 でも、目の前の娘は間違いなく、前に店に来た「チナツ」と同一人物だった。

「中に入っていい?」
「ああ。ええと、君は……?」
「僕はチトセ」

 名前は聞いたことがあるよね、と彼女は言った。幽霊たちのリーダーとチナツが言っていた人格だろう。喋り方からして、もしかすると、彼、と呼ぶべきかもしれない。だが少なくとも、身体つきはこれまで通り女性そのもの。今日はシャツとジーンズ姿だ。

「顔は治ったのか?」

 いつものようにタオルを渡してやり、俺は問いかける。「チトセ」はうなずいて、

「おかげさまで。今日は礼を言いにきた」
「礼?」
「あなたが繋いでくれた糸のお礼」

 彼女は細い指で小さな紙を取り出す。前に俺が渡した知人の名刺だ。

「意外にも、本当に助けになった」
「そうなのか?」
「ああ。実はあまり期待してなかったけど」
「いい結果になったなら良かった」
「街を出るよ。前向きな理由で」

 だからお別れも言いにきた、とチトセは言った。彼女は濡れた頭をタオルで拭くと、髪をかき上げる。俺は少しおかしくなった。髪は短くなっても、仕草は全く変わらない。
 スツールに座り、娘は真顔で俺を見る。

「僕たちは成仏できるかもしれない」
「人格が……消えるのか?」
「一つに統合される。うまくいけば」
「へええ」
「もちろん失敗する可能性もあるけどね」

 礼を言って俺にタオルを返した後、チトセはカウンターに頬杖をつく。悪戯っぽく微笑みながら再び口を開いた。

「今日のスープは?」
「しじみの味噌汁と、コンソメスープ」
「どちらか飲ませてくれないかな?」

 未完成でも構わない、と相手は続ける。

「実は、チナツが飲みたがってたんだ」
「あの子は味がわからないんだろう?」
「うん。でも、最後かもしれないから」
「そうか。だけど彼女は」
 
 言いかけて、俺は黙る。
 チナツは、痛みに耐えるための人格。
 たとえば、俺がもう一度彼女に会いたいと思ったとしよう。でも、チナツが現れるということは、彼女の身体が痛い目に遭っているということ。辛くて、ひどい目に。
 なら、会いたいなんて思ってはいけない。
 願うのなら、むしろ彼女に会わないことを願わなければならない。でも、それは、

 それでは、
 チナツという存在はあまりに悲しい。

「まだ途中だから熱い。気をつけろよ」

 俺はまさに火をかけているコンソメスープを器に入れ、カウンターのチトセに渡してやる。彼女は礼を言うと、器を手に取って、

 熱いスープを一気に半分ほど飲んだ。

「おい待て! まだ熱い……」

 言いながら、俺ははっとする。
 まだ熱すぎるスープ。
 一気に飲んだら舌に火傷をしてしまう。
 火傷。舌が、ひどく痛く……?

 止めようとして身を乗り出していた俺は、突然、カウンター越しにぎゅっと頭を抱きしめられた。耳元で、先ほどまでとは明らかに喋り方の違う声が囁く。

「ありがと、雨宿りさせてくれて」

 それは「チナツ」の声だった。

「本当に嬉しかったよ。……バイバイ」

*

 それからというもの。
 彼女たちが店に来ることはなかった。

 チアキも。
 チトセも。
 そして、チナツも。 

 俺は変わらず店を続けている。
 相変わらずたいして客は来ず、街は変わらず猥雑で、夜に眠れない俺は時間潰しにスープを作り、思い出の味はまだ見つからない。

 けれど、一つだけ新しい習慣ができた。
 雨音の強い夜、俺は扉を開けて、店の外を眺めることにしている。

 軒下には誰もいない。
 それでいいのだ。俺は少し安心して、雨を降らす夜の闇に向かってそっと祈る。

 どうか、幸せで。
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