汀(みぎわ)

大秦頼太

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汀30

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汀30



 暗闇の中、英二の頭上から汀子が落ちてくる。英二の目の前で汀子の体が折れ曲がった。起き上がった汀子を車が跳ね飛ばす。車は消え見えなくなったが、汀子の位置は変わらずその場で汀子が地面の上を何度も跳ねる。立ち上がったところに見知らぬ女が包丁を持って突進してきて汀子に馬乗りになるとその胸や顔を滅多刺しにする。女が消えると横たわっていた汀子はそのままの形で起き上がった形になりそこに爆発が起こる。バラバラになった汀子の体が空気に溶けたかと思うと地面から灰色の手が出てきて飛び出た汀子が空中をもがく。位置は変わらない。
「死にたくない! 死にたくない! お願いもうやめて!」
 地面の底から追ってくるなにかから逃げるように汀子の絶叫が続く。濡れた新聞のような色の肌は生者のものではない。
「死にたくない! 死にたくない! 死ぬのは嫌ぁ!」
 汀子はもがき続けるが死の瞬間に何度も突き落とされるのだった。
 高所からの転落。車の中で燃やされる。路上で背後から突き刺される。階段から人が飛び出し突き飛ばされて団子となって全身の骨を折る。ダンプに巻きこまれる。タンクローリーに激突される。高架から飛び降りると走ってきた車のフロントガラスに突き刺さる。暴徒とかした人間たちの争いに巻き込まれ、突き倒され蹴飛ばされ足で踏まれ、踏み潰されて身体を滅茶滅茶にされる。意識が途切れるとその瞬間、身体は元通りの灰色で次の死に様がスタートする。それが終わっても次に目を開けば次の死の瞬間に立ち会う。
「もう嫌ぁ、許してぇ、許してよぉ」
 汀子は泣いた。泣いてもなお死に続けた。暴れてももがいても逃げようとしても逃げられずに死んだ。死んで目覚めてまた死んだ。終わりのない死の連続だった。
 同じ数の人間が一緒に死んだとすれば一体どれだけの人を殺したのだろうか。
 英二は汀子の死を見ながら思った。いつの間にか野際律子がいた。ぶつぶつとつぶやきながら汀子の死を眺めていた。
 野際律子の小さな声を英二は聞いた。
「自分が誰かわからなくなるまで死に続ければ良い」
 英二は気がついた。
 汀子は生き続ける。死んでも殺されても何度でも蘇る。田沼源次郎の作り出した黒い血が汀子の体となっている。野際律子が汀子の魂が黒い血から離れることを許さないからだ。源次郎と律子の汀子への憎しみが田沼汀子の呪いを作り出していたのだ。そして、その呪いは田沼汀子という名前がトリガーになって発動するのだ。
「どうして他の人を巻き込むんですか」
 英二は律子を問いただした。律子は死に続ける汀子から目を離さずに笑みを浮かべた。
「あの人は田沼汀子じゃない。それなのに田沼汀子を探すからよ」
「それだけ? それだけであなたは人を殺すんですか?」
「あの人は田沼汀子じゃないの」
 汀子は他人の死に巻き込まれ、あるいは巻き込んで死に続けた。
「律子さん!」
「無駄です」
 英二は律子の肩を掴んで振り向かせようとしたが、後ろから声が聞こえた。その声もまた律子の声だった。振り返った英二は律子が二人いることに驚いた。それを知ってか律子は頷いた。
「あの日、死んだあの日に私の魂はバラバラになったのです。ここにはお汀さんの気の済むままに殺されてやろうと思う私もいれば、子供や源次郎さんと暮らす未来を奪ったお汀さんを許せない私もいるのです」



 眼の前に明かりが落ちる。小さな劇場の中だった。舞台の上ではで様々な事故や事件で汀子が死に続ける。そんな演目を観る観客席には空席がなかった。観客は英二の他はすべて律子だった。
「もうやめてください」
 英二が立ち上がる。後ろの席の律子が座るように促す。隣の席の律子が英二を見上げる。
「何を? まだ始まったばかりですよ」
「もう十分でしょう」
 英二の問いかけに律子は笑った。笑い方は様々だったが一斉に笑い声を上げた。
「あの女は他人を妬んで恨んで陥れて嘘で人生を塗り固めた。私はそういう人間は罰を受けて地獄に行くと思っていたわ。でも現実は違う。嘘を言った人間のほうが得をして長く生き、人生を楽しんでいたわ。源次郎さんが罰を与えなければあの女はずっと長生きをしたでしょう。源次郎さんが私達のことを知らなければ、もしかしたら……」
 そう言った瞬間、笑い声がやんで律子たちは消えていきたった一人だけになった。隣の席の律子は厳しく冷たい顔をしていた。死に続ける汀子をにらみつけるのだ。
「この女を許したら、また私達を殺しにくる。私からあの人を奪う」
「律子さん!」
 英二が律子の手を強く握ると律子は悲しげな顔を向けてくる。律子は立ち上がり空いている手で英二の手を引き剥がした。とても強い力だった。
「私は鬼になったの」
「違う。あなたの心は優しいはずだ」
「人間の心は複雑でいくつもの面があるのよ。そして、誰にも見せることのない暗い暗い顔があるの。これだって本当の私なのよ」
「汀子を開放すべきです。もう死なせてやるべきです。あなただけがそれを出来るはずだ」
 律子は死を繰り返す汀子を見つめる。終わりのない死から逃れようともがき悲鳴を上げる汀子。
「無理よ」
「お母さん」
 子供の声がした。英二と律子が声の方を振り返ると、客席の後ろの出入り口に大山サチコと女の子が立っていた。
 女の子が律子に駆け寄ってきてお腹の辺りに顔を埋めるように抱きつく。
「英二さん」
 サチコが英二の側まで歩いてくる。
「どうしてここに?」
「先生がここに連れてきてくれました」
 サチコが女の子を見る。英二は驚いて女の子を見下ろす。
「英二ちゃん。ごめんなさいね。お母さんとお話させて頂戴」
 女の子の話し方は祖母千景そっくりだった。律子は身動きできずにいた。
「お母さん。今まで一人にしてごめんね。本当はもっと早く会いにこれたのに千景怖かったの」
「私の子供はあの女に殺されたんだ」
 律子が指差す舞台の上では汀子が震えながら座り込み辺りを見回している。
「生きていたのよ。お母さんの魂の欠片が私を助けてくれたの。ほらこれ!」
 千景は両手を合わせてから律子に見えるように開いて見せる。そこには暖かい光があった。
「これ、お母さん!」
 律子は恐る恐る暖かい光に触れようとする。指先が触れる前に手を引いてしまう。
「千景ね、お父さんにもあったんだよ。お父さんね、お坊さんになってたの。お坊さんになってお母さんのお墓を毎日お参りしてたんだって」
 律子が千景の手の下から包むように重ね合わせる。
「千景って言うのね。これを私に返したら、千景ちゃんが死んじゃうんでしょ? 受け取れないわ」
「いいの。千景はお母さんの何倍も長生きしたから、お母さんを助けたいの」
 女の子は両手を放すように暖かい光を律子の手の中に落とした。光は律子の手の中に吸い込まれて消えた。律子がボロボロと泣き出した。席に座り込んで女の子を抱きしめておいおい泣いた。女の子もつられて大泣きした。
「千景ちゃん。本当にごめんなさい。あなたと一緒に生きたかった。源次郎さんと三人で生きたかった。妹も弟も作ってあげたかった」
「お母さん。私に命をくれてありがとう」
 抱き合う母子を見ながら英二もサチコも涙を流した。
「千景、ありがとう。私に私を届けてくれて。ずっと見守らせてくれてありがとう」
 律子は袂から手ぬぐいを取り出して女の子の涙を拭いてやる。それから自分の涙を拭くと席を立ち上がった。
「さ、あちらに参りましょう」
 そう言うと英二たちにも客席を離れるよう促した。すると、出入り口の方から人がどんどん入ってくる。
「大谷さん」
 サチコが大谷マサヒコを見つける。
「まだここにいたのか」
 英二の視線の先には輪勝寺エイクウがいた。まわりには弟子たちがいる。食堂でした接得ではここから離れるきっかけにはならなかったようだ。
 客席に人が座った。満席だった。ここに座るすべての者が田沼汀子に巻き込まれて死んだ者たちだった。
 律子は舞台の上で途方に暮れている汀子の元へ歩み寄った。その耳元に何事かつぶやき、英二を指さした。汀子は目を見開いて叫び声を上げた。律子は哀れんだ目で汀子を見下ろす。それから舞台の真ん中前方に立って深々と客席にお辞儀をする。それから客席に向かって語りかけた。
「皆様、長らくご迷惑をおかけいたしました。この度はわたくしの身勝手により皆様方に不快な思いをさせその大切なお生命を奪ってしまったことを深くお詫びいたします。この舞台の幕が下りれば皆様方も解き放たれます。けれどここにおりますこの女、けっして死ぬことはございません。この女の存在を忘れてやることだけがこの女を消すただ一つの方法なのです。どうか客席を離れる際には、『田沼汀子などいない』と三度唱えてからお立ちください。本日は誠にありがとうございました。皆様の行く先が晴れたものであることを願っております」
 それからまた深々と頭を下げた。
 幕がゆっくりと下りていく。幕が下りきると客席も消えてなくなり、そこは田沼の家の母屋に変わっていた。
 律子が奥からやってきて女の子を抱きしめる。
「もうじき朝が来るわ。あなたも起きた方がいいわ」
 律子はそう言うと女の子の頭を撫でてから「また後でね」と言って奥に戻っていこうとした。英二は慌てて野際律子を呼び止める。
「律子さん、あの時、汀子になんて言ったんですか?」
「少し意地悪なことを言ったのよ。あの子は私のひ孫で、あんたは何も残せなかったって。私、本当は意地悪なのよ」
 女の子がすぐに否定した。
「お父さんと三人で暮らすって言ったんだよね!」
 野際律子は指を口に当ててそれ以上何も言わずに母屋の奥へ消えていった。

 背中側に明かりを感じ振り返ると朝の光に包まれた。眩しくて目を閉じても手で遮っても朝日はその明るさを拒むことを許さなかった。前後も上も下もわからなくなり、気がついて目を開けばそこは見覚えのある天井だった。

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