汀(みぎわ)

大秦頼太

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汀26

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汀26



 新谷幸太。




「新谷幸太さんですか?」
 数ある人生の中で一体どれくらいの人間が、突然元女子アナが家に尋ねてくるなんて言う経験をしたことがあるだろうか。それも番組でもなく。ツキが落ちたのはこれが原因だったか。のぞき窓の向こう側に元女子アナが立っている。こんな小汚いアパートに天使がやってきた。。
「そうですそうです」
 元女子アナの大山サチコがうちに来た。慌ててドアを開く。後ろにマネージャーみたいなやつがついているけど関係ないや。なんか聞きたいことがあるって言うんで二人を室内に入れる。床に広がった服や容器は足でどかしてスペースを作る。
 大山サチコが取材してくるのかと思ったらマネージャーの方が色々聞いてくる。こいつはマネージャーじゃなくて記者だったのか。
「おじいさんからなにか面白い話を聞いたことは有りませんか?」
「ジジイから?」
 あのジジイが一番ムカつく。
「無いかなぁ」
「そうですか」
「あのジジイさ、頭がオカシイんだよ。小さい頃にこの家も財産も全部お前にやるからなって言ってたくせにちょっと前借りしたら気が狂ったみたいにお怒り出してさぁ」
「吉十郎さんってそんなに怒りっぽかったんですか?」
「いや、いつもは全然。どんな悪戯しても笑ってやがったけど、盗みだけは許せなかったみたいだな」
「盗みですか」
「あー、うん。若気の至りってやつ。家の家宝を勝手に売ったら大激怒よ」
「そりゃあ、怒りますよね」
「でもさぁ、全部俺のものだって言ってたのにひどいと思わない?」
 大山サチコが愛想笑いをする。マネージャー記者が割ってくる。空気の読めないやつだよなぁ。
「家宝ってなんですか?」
「え? かほー?」
 何の話をしてたんだっけ。あぁ、俺が売っぱらった家宝の話か。
「古い顕微鏡セットと革製の旅行カバンだろ、丸っこい線香とそれを入れる置物に動かない鎖付きの時計だったかな。一番高かったのは顕微鏡で二番目が壊れてたけど時計。時計ってやっぱすごいんだな」
 って、二人とも俺の話を聞いてないや。なんだよ。そりゃあ、物凄えお宝だったら記事にもなっただろうけどよ。
 相談が終わるとマネージャー記者がグイグイ聞いてくる。
「その丸い香と香炉って、どこに売ったか覚えていますか?」
 どこってそりゃあ、
「骨董店だよ。一ヶ月位でバレてさ、その後に買い戻しに行ったみたいだけど、どれももうなかったって話だぞ。だから俺は勘当されちまったってわけさ」
「吉十郎さんはアレを研究してなんなのか知っていたのにそのまま持ち続けていたのか。これは何かありますね」
「どういうことですか?」
「なに何かって?」
 大島っていうマネージャー記者は俺の疑問を置き去りにして顔を近づけてくる。おいおいどうせなら大山サチコにしてくれよ。俺にはそっちの趣味はないぜ。
「お香を使ってみたことはありますか?」
「ない。仏壇とか嫌いだし」
「そうですか。ありがとうございます」
 二人はすっと席を立つ。え? これで終わり? 大山サチコの独占インタビューとか無いわけ? まぁ、俺は一般人で特になんの特技があるわけでもないけどさぁ。
「ジジイに聞けばどこまで探したかわかるはずだぜ。連絡先を教えてやるよ。まだ暗記してるんだ。電話番号も住所も」
「ご存じないんですか?」
 大山サチコが驚く。
「ご存知なんですよ。俺の記憶力もなかなかなもんなんですよ」
「そうじゃなくて、ご存じないんですか?」
 さっきよりゆっくり大山サチコが言う。
「お祖父様亡くなったんですよ」
「え?」
 マジかよ。思考が鈍る。なんだ? 誰も教えてくれなかったぞ? それじゃあなんだ? 俺の取り分は?
「家族とは縁遠くてさ。誰も教えてくれなかったんだよね。いつ?」
「平成13年です」
「うわマジかよ。追い出されて大体6年か。割とすぐじゃんか。なんだよ、親父もかあちゃんも冷てえなぁ」
「ご家族も亡くなってます」
「は?」
 なにこれ? ドッキリ?
「新谷満子さんだけがご存命です」
「ばあちゃんは生きてんのね! なにそのリアルな設定」
 大島とか言うマネージャー記者が名刺を出してきた。
「東東大助教授? マネージャーじゃないの?」
「はい。何か思い出したらそこに連絡をください」
 マジかよ。色々わけのわかんないことばっかりだ。
 二人はそのまま外に出ていった。ネタバラシもせずに。俺はサンダルで追いかける。
「なにか忘れてないか?」
 その問いかけに大山サチコもなんとかって奴も顔を見合わせてわからないようだった。
「看板、看板、テッテレーってやつ」
 大山サチコが眉を寄せる。
「ご家族が亡くなったのは本当のことなんです。満子さんに確認してみてください」
 マジカ。俺はちょっと立ってる力が弱くなっちまって電柱に方を預けた。お辞儀をして去っていく大山サチコ。親父も母ちゃんも武も俊も死んじまったのか。ひでえ話だよ。なんで誰も教えてくれないんだよ。
「そっか。だからか」
 だからツキが落ちてたんだ。
 そういうことか。
「ってことはさぁ、親父たちの分の遺産は全部俺のもんじゃんか。マジかよ」
 腰が抜けた。超万馬券だ。




「もしもし、婆ちゃん? オレオレ」
 いや、これじゃあオレオレ詐欺みたいだな。ちゃんとしないと怒られるわ。
「えっと幸太です。幸太。あなたのお孫さんの。ご無沙汰してます。あの、親父たちが亡くなったって本当ですか?」
「幸太は亡くなりました」
 電話を切られた。直接会いに行くとなると金もかかるし、服装も気をつけないといけなくなる。何よりもこっちの思惑を見抜きそうで怖い。
 もう一度電話を掛ける。
「ご無沙汰しております。電話を切らずに話を聞いてください。高校二年の頃に倉泥棒をして家を追い出された幸太です。親父の名前は浩二で母は由紀恵、弟が二人いて武と俊です。小さい頃はよくいたずらをしていました。その幸太です。本物なんです」
「え? ちょっとお待ち下さいね。幸太はもう何年も前に死んだって聞かされてたけど、あなた本物なの? 電話じゃわからないから会いに来なさい。住所はわかるわよね?」
 金を借りる話をする前に電話を切られたが、次にまた電話をかけて「交通費を貸してくれ」と言ったら完全に詐欺だと思われてしまうだろう。
 結局、顔を見せることになったが、しょうがない。必要経費だと思って金を借りていくとするか。後は誰が貸してくれるかの問題だ。友達からは金を借りるのはやめたほうがいい。縁を切るやつからは借りるといい。なんてことを言ってたら側には誰もいなくなってたけどな。知り合いに利子つけて返すからとでも言って交渉するしか無いか。

 蹴っ飛ばされる。

 ぶん殴られる。

 ビンとか雑誌とか物が飛んでくる。

 繰り返し。

 ダメだ。ろくな奴がいない。この世の中っていうのは本当に困っているやつを助けてくれるようには出来ていないんだなぁ。いや、俺が悪善悪善の半端者だから類は友を呼びみんな半端者になるんだろう。善に溺れているやつが知り合いに欲しいなぁ。完全な善人でもいいや。そいつは疑うことを知らないから俺に金を貸すだろう。すると今の俺の気分だと10倍にして返してやるだろうな。そうなると善人はすごく得をするんだ。だが、善人は受け取ろうとしないだろうな。完全な善人だから。だから俺は言ってやるのさ、
「じゃあ、その金で困ってるやつを助けてやってくれ」
 そうすると完全な善人はバカだから俺も善人だと思いこむのさ。俺は半端者だからちょっといい気持ちになって善人を気取るんだ。
 だがよぉ、この町には善人がいないんだよ。本当に冷たい町だぜこりゃ。
 もううずくまるしかねえや。
 道路の端に座り込んでアスファルトを見つめる。革靴を履いたサラリーマンが目の前で立ち止まった。俺は靴磨きじゃねえぞ。子どもの声が降ってきた。
「幸太兄、警察でお金を借りることができるよ」
「はぁ? 冗談じゃねえよ。警察なんか」
 返事をしながら顔を上げても道路には誰もいなかった。
「今、足があったよな? あれ?」
 何がなんだかわからなかったがとりあえず警察に行ってみることにした。




「こうつうせつぶんべんしょうひ?」
「公衆接遇弁償費、です。」
「それそれ」
 交番っていうのはなんか独特の空気感があって苦手だ。まぁ、得意なやつはお得意さんしかいないかもしれないけど。ちんまりした建物が古いせいなのか組織が古いせいなのかわからない。あ、でも新しい交番もあるから建物のせいじゃないか。
「ご家族が亡くなったんですか?」
「はい。そうです」
「職場の方とか、お友達は?」
「仕事は先月クビになりまして、友達はみんな金よりも暴力を出してくるんですよ。見てよこのアザ」
 シャツをめくろうとすると警察官がうんざり顔で制止する。
「結構です。じゃあ、これに記入してください。それから返済がなかった場合、逮捕することもありますから。あと記録にも残りますからね」
 警察官の目が怪しく光る。
「返します返します。家族が亡くなったんで急に帰らなきゃいけなくなっただけですから。え? 大丈夫です。期間内に返しますから。遺産相続もあるんで大丈夫です」
 対応した警察官は手続きの終わりに千円札を一枚出してきた。
「え?」
「え?」
 千円では田舎には帰れんなぁ。いや、待てよ。駅まではなんとか行けるか? いや数十円足らんなぁ。そこからはタクシーを拾って婆ちゃんにたかる手もある。顔さえ見せればなんとかなるだろう。それでもマジでギリギリアウトだ。
「あと百円なんとかなりませんか?」
「上限の千円を出すだけでも大分例外的なんですけど?」
「ええ、ありがとうございます。ただ、そこから祖母の家までのタクシー代の立替も考えると一駅ってデカイわけですよ。田舎ってやつは」
「なるほど。なら都心の駅を2つ3つ歩いたら大丈夫ですよ」
 警察官は千円札の両端を持って引っ込めようとした。
 千円札を両手で挟む。なんだよ千円くらいで偉そうに。笑顔の抗議だ。これはもう俺のものだ。
「返済がなかったら逮捕しますからね」
「ありがとうございまーす」
 交番を出ると案外儲かったような気がした。善人に十倍払うより警察にそのまんま返したほうが金額も節約できるし恩に感じることもないからな。
 とりあえず駅から駅を歩くしか無いか。後は電車賃との相談だな。




 祖父母の家に到着したときにはすっかり夜だった。祖母に頼み込んでタクシー代を払ってもらう。玄関先で立ったままでいると祖母が驚いたふうな顔を見せた。
「あらあら、本当に幸太なのねぇ。顔とか声もそうだけど、玄関で立ったままのその姿勢が本当にあなたね。小さい頃から全然変わってないわ」
「そんな変かなぁ?」
「どうぞお入りなさい」
 家の中に案内されると不意に懐かしさが込み上がってきた。玄関からすぐ側に居間があり、仏壇が置かれていてそこには祖父吉十郎の写真と父浩二、母由紀恵、弟の武と俊の家族写真があり端っこに追いやられるように中学生くらいの時の自分の写真があった。
 よくわからないが線香をつけて手を合わせた。煙が目に染みて鼻を刺激すると勝手に涙がこぼれ落ちてきた。
 悲しいわけじゃないんだ。だってそうだろ。ジジイは俺を追い出したし、親父も母ちゃんも俺を守ってくれなかった。弟たちとはアレっきりだ。だけどよぉ。もしかしたら来年くらいに急に俺を思い出して呼び戻してくれたかもしれないじゃないか。
「あの人、お祖父ちゃんね、新谷家の長男は早逝するんだってよく言っていたのよ。お祖父ちゃんのお兄さんも病気でなくなったそうだし、お父さんにもお兄さんがいたのよ。生まれてすぐに死んでしまったけど。だからあなたもそうなのかなって」
 祖母満子は大分疲れているようだった。
「疲れてるでしょう。お風呂に入ってきなさいな。食事の支度をしておきますから」

 汗を流した後、祖母と食事をした。ご馳走でも豪華でもなんでもなくただ普通に御飯と味噌汁、肉野菜炒めみたいなそんなありふれたメニューにお漬物があった。
「本当に幸太なのねぇ。顔とか声もそうだけど、食べる姿は本当にあなたね。小さい頃から全然変わってないわ」
 祖母と話すのは特に苦痛ではなかったが話題もなく、つけっぱなしのテレビが20年くらいの歳月の間に入ってくれた。今どうしているの? 仕事はどうしているの? どこに住んでいるの? などということは聞かれなかった。死んだと思っていた人間が生きていたっていうのにとても淡白な対応だと感じた。一応こっちとしては何を聞かれても答えられるように想定問題として適当な答えは用意していたのだが意味がなかったようだ。
「本当に幸太なのねぇ。顔とか声もそうだけど、食べる姿は本当にあなたね。小さい頃から全然変わってないわ」
 遺産とか保険の話はもう少し後でいいだろう。すぐに切り出したら心証が悪い。俺の中の悪の魂が言う。善の魂は黙ったままだ。
「少しここにいようか?」
 そう言うと祖母は嬉しそうな顔をしたが、ちょっと困ったような顔もした。
「そんな悪いわ」
 いいんだよ。どうせ暇だし、やることねえし。ここにいて掃除をするふりをして家探しでもすれば期待以上の成果もあるかもしれないしな。
「家族だろ」
 祖母が指で涙を拭った。笑った顔と泣いた顔はよく似ている気がする。
「本当に幸太なのねぇ。顔とか声もそうだけど、根が優しいところは本当にあなたね。小さい頃から全然変わってないわ」
 あれ? なんかおかしくないか。なんだろうこの変な感覚は。祖母を見ると俺を見て微笑んでいた。
「奥の2階屋は全然片付けてないのよ。今日はこっちで寝たほうがいいわ」
 奥の2階屋というのは子どもの頃に暮らしていたところで簡単に言えば二世帯住宅みたいなものだろうか。長い廊下があるだけで特にドアがあるわけでもなく、言い方は難しいがこの家は平屋と二階建てがくっついているわけだ。平屋部分を祖父母が使い、二階屋をうちの家族が主に使っていたのだ。
「こっちは幽霊が出るって武が怖がってなかったっけ?」
「そんな事もあったわね」
 共有できる思い出話も少しはあったわけだ。




 とととととととととととと。
 夜。ふとした足音に目を覚ます。長い廊下を誰かが歩いていた。ネズミかもしれない。ハクビシンとかそういう奴かもしれない。噛まれたら嫌だな。というか眠りを邪魔しないで欲しい。
 しゅる。しゅる。しゅる。
 今度はなんだよ。誰かが何かを引きずって歩いているような音。
「幸太兄、帰ったほうがいいよ」
「バカ言うなよ。せっかく遺産が貰えるんだからよ……」
 目を開ける。誰かが話しかけてきた気がして答えたが、ここには俺しかいない。祖母も少し離れた別の部屋にいる。というか男の子の声だった。そうだ。前に道端で聞いた子どもの声に似てる。その前にもどっかで聞いたことがある声だったけど思い出せなかった。
 大体、警察から金を借りろとか帰れとか随分勝手なことを言う。幻聴か。幻聴だろう。そうでなければ何だ。夢を見始める。そうか、全部夢の一端だ。緊張していたのが緩んだせいなんだ。夢は続きに進む。ジジイの膝で遊んでいる俺。頭をなでながらジジイが俺に言う。
「大きくなったらこの家の財産はお前にやるからな」
 嘘つきジジイ。俺を追い出しやがって。
「その代わりお前の体と魂をよこせ」
 ドキッとして目を開く。時計を探して時間を確認する。3時過ぎだ。まだ起きるには早い時間だ。でもよぉ、ちょっとそのまま寝るには気持ちが悪い。布団から出て座り込む。
 とりあえずどうするか。家探しを初めて咎められたとしても、トイレを探してたなんて言い訳は聞かない。トイレの場所はとっくにご存知だからだ。
「ま、とりあえず小便だな」
 それでも出すものは出しておかないと具合が悪い。戸を開いて部屋を出る。ガラス木戸と障子戸の長い廊下を進む。ガラス木戸の向こう側は雨戸だから外は見えない。暗いから自分の影か姿が少し見えるくらいだ。ぎ、ぎ、ぎ。床板のきしむ音がする。洗面所の脇のトイレの戸を引いて汲取式の和式便所を確認する。ジョジョジョジョジョと用を足すと洗面所で手を洗う。
 廊下の先に影が見えた。婆ちゃんか? それとも武が怖がっていたお化けか? まぁ、仮にお化けが出たとしても古い家だし、そういうこともあるだろう。再び廊下を歩き始めると、障子戸が少し開いていて中が見えた。来るときは気が付かなかった。ガラスに映る自分の影を気にしていたからだろう。誰かが座っている。これがお婆ちゃんならさっきの影は別物になる。逆もまたそうだし、両方とも違うということも考えられる。唯一わかるのはどちらも祖母であるパターンの可能性はゼロということだ。そんなもの当たり前だ。怖いなって思ってよくわからなくなっている。俺は今怖がっている。
 部屋の中に座っている人間を確かめたほうがいいのか。それとも知らんぷりして布団に潜り込んだほうがいいのか。どっちがいいのか。障子戸に手をかける。
「やめたほうがいいよ」
 また子どもの声。障子戸の隙間を閉じる。開いているから見たくなるんだ。閉めてしまえばいい。いなかった。そう誰もいなかった。ゆっくりと部屋に戻り始める。
 布団の中に入って目をつぶれば朝だ。朝が来れば俺の勝ちだ。勝ち? 誰かと勝負でもしていたか? わかんないけど今はそれでいいじゃないか。
 部屋に戻ると布団の横に香炉が置いてあった。俺が骨董屋に売ったあの香炉が。布団に入る前に確認しておきたかった。恐ろしかったが香炉の蓋を持ち上げて中を見てみる。これが壮大な夢であることも考えられる。中にあるのは黒い塊。これも売った。ジジイは買い戻していたのか。
「だったら呼び戻してくれればよかったのに」
 それは甘えか? 失ったのは信用だからな。物が戻ったから元通りというわけにはならないか。
 香炉か。線香だよな。使ってみるか? 使えってことかもしれない。そうだよな。あ、さっきの影はやっぱり婆ちゃんでこれを置いていったのかもしれない。多分こんな時間に起きているから安眠が出来ていないんだろうとかそういう心配をしたんだろう。
 本当にそうか? なんか違う気がする。だが、必死になって買い戻した線香だ。きっといい香りなんだろう。あ、線香って線になってるから線香なのか。すげえことに気がついたわ。じゃあ、これは線香じゃなくて丸香だ。丸香を使って朝までぐっすりということにしよう。
「帰ったほうがいいよ」
 子どもの声。うるせえ。マイナスのまま終われるかよ。勝負はまだ決まっていないんだからな。

 居間の明かりをつけてライターを探す。家族の写真がこっちを見ている。みんな笑っている。俺はいないけど。安心してくれ、あんたたちの残した財産は俺がきちんと使ってみせる。税金もきちんと収めるし、警察にも千円を返す。なんたって俺には善の魂が2つもあるからな。
 ライターは仏壇の直ぐ側にあった。今の電気を消して寝ていた部屋に戻る。

 少し体が冷えてきたので布団を被りながら丸い香に火を付ける。変な匂いがする。古くなって埃を吸っているせいかもしれない。もう少し燃やせばいい香りになるだろう。煙が大分出るようになったので香炉に乗せて蓋をする。隙間から煙が溢れ出てくる。布団に入って目をつぶる。煙が少し多いようだ。目に染みる。咳が出る。呼吸が苦しくなる。とてもじゃないが目が開けられない。手探りで香炉を探す。手は香炉ではなく人の足に触れた。
「よく戻って来れたな」
 男の声だった。この声を俺はよく知っている。20年以上経つが今も耳の奥に残っている。最後に聞いた言葉は、
「出ていけ! 二度と戻ってくるな!」
 ジジイの声。そのジジイの声を思い出しながら俺の意識は暗闇の中に落ちていった。深く深くどこまでも深く。




 朝になると、新谷幸太は姿を消していた。投げ出された布団の側には香炉が粉々になっていて割れた陶器のクズや欠片はあったが不思議なことに灰はなかった。
 廊下に面した障子戸の向こう側の室内で新谷満子の遺体が発見されたのはそれから数日後のことである。死因は一酸化炭素中毒によるもので死後数日が経過しており、警察関係者が前日に尋ねてきた孫の新谷幸太氏を参考人として行方を探しているという。

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