汀(みぎわ)

大秦頼太

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汀23

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汀23



   輪勝寺石海。




 田沼源次郎という存在が死んだあの日から私はずっと律子と私たちの子の冥福を祈り続けてきた。新しく名前が変わっても訪れる日々は静かな苦しみの中にあった。それでも流れ行く時間とともに消えていく記憶もあり、平穏が訪れたのだと思っていた。
 新谷吉十郎に再会したのは平成になって少しした頃だと思う。日記を遡ればはっきりするが頭は過去に戻ることを拒否してしまう。
 律子の墓参りに来た新谷を見かけた。姿を隠そうとして逆に物音を立ててしまった。顔を上げた新谷と目が合った瞬間、彼は一瞬怯んだように見えた。いや、怯んだのは私のほうかもしれない。彼は驚きながらもすぐに笑顔を見せて近づいてきた。死人が生きていたのだ。驚くのも無理も無いだろう。彼が知っている私はとうの昔に死んでいたのだから。
「まさか田沼先生ですか?」
 もはや隠すことはなかった。私はゆっくりと頷いた。そして彼に聞かせてやった。汀子に黒い血液を注射した後、逃げるように汽車に乗り込んでここに来て死のうとしたことや、先代の住職に説得されたこと、先に死んだ自殺者を身代わりにしたことなど全て。
「中山には悪いことをした。彼の遺体をそのままにしてきてしまった。それだけが心残りだったんだ」
「中山は死んでませんよ。死んだのは汀子さんです」
 耳を疑った。黒い血液を注射された汀子が死ぬわけがない。
「汀子が死んだ? バカな」
「新聞は読まなかったんですか?」
「外の世界とは縁を切った。……つもりでいた」
 新谷は少し戸惑っているようだった。
「中山は先月家を訪ねてきました。どうも頭がおかしくなったみたいで、ずっとおかしなことを言っているものだから、すぐに追い返しました。一体何があったんですか?」
「わからない。でも、あの深手で中山が生きていられるわけもない」
「新聞を見て復讐を果たしたんだと思っていました」
「私も今の今まで成功を疑っていなかったよ」
 戦後、神川の家に中山が訪ねてきてその口から汀子の悪行を聞かされた。証拠を調べようと汀子を出掛けさせ荷物を検めた。そしてその中に私から律子に当てた手紙を見つけた。
 疑惑は確信へと姿を変えた。腹の底に復讐心が生まれた。それは一瞬で燃え上がり私の中の黒い科学者魂を赤熱させた。その日から中山には日々の汀子の見張りをさせ、私は新谷を呼び寄せて屋敷の奥の部屋を研究室に変え、一緒に過去の研究の続きを再開した。
 研究の素になった材料は、新谷の父親が満州から引き上げる際に寺院からくすねた黒い塊であった。新谷の父は戦没者遺族の家を回ってはこれを少し削っては火に焚べて戦没者の幻覚を見せてお礼をもらっていたそうだ。これはいわゆる火に焚べると死者の姿を見られるという反魂香であり、新谷の父は晩年、これを不老長寿の秘薬だと言っていたそうである。
 新谷は戦時中にこれを使い子どもを一人助けたとも言っていた。削った欠片のゴマ粒ほどの量でも死に際の子どもを完治させたという。これが自分の娘だったことはもっとあとに知ることになるのだが。
 我々は黒い塊を素に死なない人間の研究を秘密裏に再開したのだ。すでに戦争は終わっていたが、もはや国家のために研究をするのではない。失った者に対する後悔の念とそれを奪った者に対する復讐心が私を真っ黒な狂気へ向かわせた。
 死は罰ではない。未来永劫生き続けるほうがより地獄であるように思えないだろうか。少なくともこの時の私には妻も娘もいないこの地上はすでに地獄であり、妻と娘のいる死の世界のほうが極楽浄土であると思っていた。今すぐ死んでもいいがあの悪魔だけは野放しにしておくわけには行かなかった。研究の末に黒い血を作り出すことができれば、私の復讐は成ったも同然であった。
 黒い塊の主な成分は炭素と鉄分、油などであり、不老不死の薬とは呼べないような代物だった。固まったタールとでも言おうか鼻を刺激するニオイもあった。触れる物の腐敗速度を著しく低下させる性質などもありなど不老不死の薬と間違われたことも納得だった。当時の検査器具ではわからないことだらけであった。

 黒い血は完成はしたが、納得はしていなかった。はっきり言ってしまえば我々はこの塊を塩分濃度を調整して液体へ変化させただけだ。量に不安があったため新谷は黒い塊がまだ残っていないか実家に戻っていた。しかし、中山の尾行がバレたその日、私と中山になじられた汀子が突如発狂して彼の腹を刺し暴れ狂ったため、私は予定を早め汀子を制圧して彼女の体内に黒い血を注射した。
「あの血液を取り込んだ汀子は体内を流れる黒い血液により細胞は腐らず、死を遠ざけて永遠の生き地獄を味わうはずだった」
 いや、最初から無理があった。海水では成功したかも知れないが他の人工物を注入されて人が生きていけるわけがなかったのだ。異物を注射された汀子はショック死をした。私の復讐は単純に汀子を殺すことで終わり、汀子に罰を与え続けることは出来なかったのである。

 今こうやって時を重ねて見る新谷の顔には苦しみが刻まれているように見えた。今なおそれが続いているのだろうか。汀子を殺すことで復讐を遂げてしまった私の心とは何かが違うと感じた。問い詰めると、新谷が重々しく言った。
「実は先生の娘さんは生きています」
 我が子が娘であることを四十年ほど経って初めて知ったことの衝撃を私は忘れないだろう。律子の腹の中にいた赤子は生まれる前に死んだと聞かされていたからだ。
「倒れている律子さんを研究所の処置室に運んでなんとか助けようと思ったのですがダメでした。それならお腹の中の子だけでもと、腹部を切開してみたのですがそっちももうダメで、どうしたらいいのかわからなくなって、そうしたら研究所の隅にガラス容器に入ったアレが目に入ったんでそれを一欠片切り出して赤ちゃんの口に入れたんです」
 新谷の胸ぐらをつかんで地面に引き倒す。自分も勢い余って地面に転がってしまう。
「きさま! なんということを! あんなわけのわからないものを! 人の子を実験に使うなんて!」
「でも、助かったんです。助かったんですよ。子どもは息を吹き返したんです。その後、律子さんにも欠片を飲ませたんですどダメでした」
「子どもが息を吹き返したのは、キサマの気が動転していて死んでいると錯覚したからだ! 実験でわかっただろうが! アレには腐敗を遅らせるぐらいの効果しかないんだ」
 新谷は泣いて詫たが私は許さなかった。「二度と来るな」と追い出した。後に娘の居所を書いた手紙を送ってきたが、返信はしなかった。新谷を許せなかったのではない。むしろよく娘を助けてくれたと思っている。ただ、それを知っていたら私は凶行に走ることはなかったかもしれないし、今も娘と暮らして……。いや、それはないのだろう。汀子が私達の幸せを破壊したことだろう。アレはそういう女だ。
 生存を知った以上いずれ娘には会いに行かねば成るまい。だが、娘は別の親の元で暮らしている。おそらくは四十年も経った今では家庭を得ているだろう。このまま会わないことが彼女の幸せかもしれない。
 だが、娘の体の中に今もまだ黒い塊の欠片が体内に残されているのだとしたら娘に悪い影響を与えているかもしれない。以前は気が付かなかったことではあるが、アレには微弱だが磁性がある。つまり、カセットテープやビデオテープのようになにかを記憶しているかもしれないのだ。黒い塊の正体ははっきりとしない。もしかしたら古代の人間の血液の集合体でありそれには様々な記憶が……。いや、そんなことがあるわけもない。
 黒い塊の成分を取り除く方法は新たに思いついている。私が戦場で行っていたような無輸血治療を応用し、それを何度か繰り返すことで成分を体内から取り除くことは可能だろう。
 それにしてもと思う。新谷を許すつもりはないが、なぜもっと早くに教えてくれなかったのだろうか。彼の苦悩も納得して理解しているつもりでも時々思ってしまう。黒い塊のことなど知らずに日本に戻ってきた時に娘のことを聞かされていれば私は新谷に感謝をし、律子のことをこらえることが出来たかもしれなかった。なぜ、新谷は復讐へ向かう私を止めなかったのか。いや、もしかしたら言っていたのかもしれない。当時の私は怒りで心を焼かれていた。何を聞いてもあの女に復讐をしただろう。
 そう。あの女がいる限り私は苦しめ続けられたのだ。私のやったことは許されることではないが、私には少しの悔いもない。
 今も側で律子の声が聞こえるような気がする。
「源次郎さん。生きていてくださいね」
 想う人との約束は呪いのようでもある。



 早坂神社。
 大島賢は田沼源二郎の日記を閉じる。
「それで会いに来たんですね」
「来たわ」
 千景が答える。
「感動の親子の再会にはならなかったわ。お互いに思い出が少しもなかったし、私には母の記憶なんてあるわけがなかった。私があなたの本当の父親です。はい、そうですかみたいな感じよ。田沼源次郎はあなたの体には良くないものが入っていますと言ってきてね。私なら治療できますって。結構ですって断ったわ。そうしたら何も言わず何も聞かずに帰っていった。その後は親から話を聞いて納得したわ。それでいつも目の前に現れる女の霊が母だと知ったしなぜ彼女が田沼源次郎の側に立っているかも理解できたのよ。もっと若かったなら感情も激しく動いたでしょうね。その頃には私も人の親になっていたから、年老いた実の父がなんで今さら会いに来るんだろうかね。寂しく一人で死ぬのが嫌になったのかねって邪険な扱いをしたのは認めるわ。今はもう一人の父として認めてはいるけど」
「どうするつもりですか?」
「どうってもう亡くなったのよ。どうするものではないわね」
「英二くんのことです。このまま放っておくんですか?」
「あの子の中にいる限り、田沼汀子の巻き添えになる人はいないわ。この名前だって口に出してもなんの問題もなくなった」
「でも、それじゃあ英二くんが生贄になっただけじゃないですか」
「そうね」
「無輸血治療をしましょう。やり方はお父様の手記にありました」
「サッちゃんが受けている治療の方法ね。確かに田沼汀子の影は見えなくなったわ。でもね、田沼汀子を英二から追い出してどうするつもり? また無差別に人を殺し始めるわよ。彼女は今、英二の体に閉じ込められているのだからね」
「あなたにはどうすることも出来ませんか?」
「無理ね。私にも感情があって、それは良くないものよ。マイナスの感情を奪われて飲み込まれてしまうわ。彼女は私の親を殺したのよ」
 大島賢は考え込む。
「こういうときって霊って役に立たないんですか?」
「幽霊ってね。そんなに便利なものじゃないのよ。持っている記憶が本当に少ないの。実の母は側に立ってくれるだけで何も言ってはくれなかったし」
「それは脳がないからですか?」
「面白いことを言うわね。でも、そうかも知れないわね。あなた達がよく言うハードなんとかがないってやつね。」
 しばらくの無言。
「方法はないんですか?」
「……無いわ」
 大島賢が立ち上がる。千景がそれを見上げる。
「わかりました。教えたくなったら教えて下さい。私は田沼汀子が静かになっているうちに人を探し出します」
 千景は怪訝な顔をする。
「……誰を?」
「新谷さんのお孫さんです」
「父の研究を助けていた人のお孫さん?」
「はい」
「ご家族は事故で亡くなって今はもう奥さんしか残っていないはずじゃ?」
「それがですね。その奥様、つまり祖母の満子さんのお話によると、長男の方がいてですね。とんでもない放蕩息子だったらしく成人になって早々に分籍されて縁を切られたそうなんですよ。ですから戸籍にも名前がなかったんです」
「まぁ、そんな放蕩者が役に立ってくれますの?」
「わかりませんが、探して見る価値はあると思います」
 千景は大して期待もしない風で大島賢を送り出した。



 憎い女の食べるものに毒を入れる。私はこの瞬間がとても好きだ。何度でも思い出して何度でも背中に走る緊張感と下腹部に感じる快感を思い出したい。それだのにここ数日その機会が訪れない。毎日は繰り返し退屈で飽き飽きする。この国はもう戦に負けそうで誰もその事に触れないがそのことに対する不安と期待が周囲にも漂っている。早くしなければいけない。早くしなければ源次郎さんが帰ってきてしまう。源次郎さんが帰ってきたら全てはあの女の思惑通りになってしまう。私はまた除け者にされ虐げられ住む場所を奪われるのだ。なにもしていないのに。あの女が悪いんだ。あの女がすべて。憎い。
「おかしい」
 昨日と同じだ。毎日同じことの繰り返し。意味はわかる。退屈な日が続くことだ。でも、これは違う。日付は確かに進んでいるし、自分にもその感覚がある。でも、いつもはこの後に晩御飯の支度をして女中共がいなくなったスキを見て椀のものにネコイラズを入れる記憶だったはず。そうだ。これは記憶だ。その後でまんまとそれを食ってあの女がうめき声を上げて腹の中の子もろとも息絶えるはずだった。私はそれを離れたところで聞いて心配そうに駆け寄って「どうしたんだい? 中毒かい?」って騒ぐんだ。後は「医者だ医者だ」と騒ぎになってその頃にはもうネコイラズの入ったものは全部処分が済んじまうんだよ。そうさ、これがいつもさ。
「いつもだったら……」
 いつもだったら。いつもだったら? 今日、殺すはずだろ。楽しみが過ぎて頭の中で何度もあの女を殺しているせいでおかしくなっちまったのかね。今日だけは優しくしてやるよ律子。お前が死ねば、あの人は私のもんだからね。今日、お前は死ぬんだ。
 これは見たことがある。昨日も感じた。毎日が同じだ。同じ日を繰り返している。でも、昨日のことも覚えている。よくよく思い出してみると昨日は今日じゃない。でも、ずっと今日を続けているように思える。なぜだろう。
「わかった」
 律子を殺してないからだ。今日、律子を殺す。いや、殺したんだ。私はもう律子を殺している。でも、今は殺していないから快感が得られない。快感がないから私は今日をくりかえしていることを理解できるようになったのだ。もう何日も今日律子を殺していない。
「なんでさ」
 原因はわからない。でも、私は毎日のように今日律子を殺している。律子を殺していたはずだった。なにかが邪魔をしている。誰かが邪魔をしている。
「なんで邪魔するんだよ!」
 土間にいた女中共が一斉にこっちを見る。
「なに見てるんだよ! 未来の奥様をそんな目で見るんじゃないよ!」
 女中共は仕事に戻る。大根を投げ付けて当たっても女中は文句を言わないで仕事を続けている。私の記憶には今のはなかった。でも、女中共は私を見た。
「なにかがおかしい」
 包丁を手に取って女中の一人の首元めがけて突き刺す。小さな悲鳴を上げて女中が倒れる。でもそれだけ。誰もこっちを見ない。しばらくすると包丁が首に刺さった女中が仕事を再開する。ほら、こんな記憶じゃなかったからね。当然のこと。一体誰が? あの四角い顔のいやらしい男かしら? いや、あの男にはもう私に逆らう力はないはず。
「そうだろ?」
 土間の隅に男が転がっている。さっきまではいなかったが今はいる。四角い顔の男で確か名前は中山常茂とか言ったか。
「もう許してください。俺をここから出してください」
 薪を拾ってぶん投げる。
「戦時中なんだよ。贅沢なこと言うじゃないよ!」
 そうこれは戦争だ。私があの女を殺して源次郎さんを取り戻すための戦争なんだよ。
「邪魔するやつは誰であっても許さない」
 今夜こそ、あの女をもう一度殺してやるのさ。そして、私を邪魔してるやつを探し出してやるんだ。




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