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男と隠して結婚した受けの話
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雨が粉砂糖のように降る日、受けは教会で「結婚契約書」を前にしていた。
隣には厳つい男が騎士団の礼服を纏って立っている。
腰に下げているサーベルは恐ろしく、受けは萎縮して、手が震えた。
ペン先にまで震えが伝わる。
「早くしろ」
小声で、だが厳しい音を纏った言葉に受けはびくりと肩が跳ね、名前を書き綴っていった。
自分ではない女の名前を。
事の発端は父親同士の約束だった。
賭に負けた受けの父は、借金のかたとして娘を差し出すと誓約書まで書いた。
しかし産まれたのはどれも男で、差し出すことができない。
末子に当たる受けが女の格好をして嫁に行くこととなった。
当然先方は知らない。
嘘をつくことに慣れていない受けはただただ怯えていた。
侮辱されたとあのサーベルで殺されるかもしれないと。
本名にちなんだ女の名前を綴り終わる頃には、手は汗に濡れていた。
この瞬間、隣に立つ男は夫となったのだ。
肘を差し出され、それに手をかけて教会を出る。
慣れないヒールは足元をふらつかせ、このまま倒れてしまうんじゃないかとすら思った。
教会の外には参列者が並びライスシャワーを二人に浴びせる。
「まあなんて美しい花嫁なの」
「一度も社交界で顔を拝見したことはないけれど、なんて儚げなお嬢さんですこと」
「跡継ぎの結婚相手がこれほど美しい令嬢ならば、将軍もさぞお喜びだろう」
「ヴェールを上げずに出てくるなんて珍しいわ」
参列者は口々に好き勝手を言う。
だが夫は顔色一つ変えず、真っ直ぐに二人を待つ馬車へと歩き続ける。
背が高い夫の一歩は受けには大きく、小走りで追いかけても遅れてしまう。
しかも慣れない高いヒールが動きを邪魔する。
遅い受けに小さく舌打ちをし、夫が止まった。
重い純白のウエディングドレスを纏った身体を軽々と抱き上た。
参列客からざわめきが起こり、驚いた受けは悲鳴を上げそうになるが、構わず夫は馬車に乗り込んだ。
「このまま屋敷に行く」
扉が閉まると夫はそれだけ言ってそっぽを向いた。
きっと好きな人がいたのだろう、もしかしたら心を寄せ合った人がいたのかもしれない。
受けは馬車の中で小さくなって、声を漏らさないよう必死に唇を噛み締めた。
申し訳なさと恐ろしさとで指は震えたままだ。
到着した屋敷は大きく、生家などとは比べものにもならないほど立派だ。
使用人も多く、果たしてこのまま隠し通せるのかと恐ろしくなって、怖じ気づいた。
それが身体に出たのか足が縺れ、転びそうになる。
すぐに夫が支え、また抱き上げた。
執事に案内されたのは夫人の部屋だ。
美しい丁度で整えられ、どの家具も古いが綺麗に磨き上げられていた。
これからここを居室にするとなれば、普通の令嬢ならば喜ぶだろうが、受けには大きな寝台が恐ろしく写った。
夫の腕の中で怯え続けた。
ソファに下ろされ、初めてヴェールを上げられた。
「不本意だろうが、お前は私の妻だ。逃げられると思うな」
容赦ない言葉に離縁は許されないと突きつけられたようで、一層夫が恐ろしく感じられた。
受けはポロリと涙を流したが夫はそれを見ても表情を変えず「晩餐までゆっくり休め」とだけ残し部屋を出て行った。
すぐさま侍女が入ってくる。
実家から連れてきた者ばかりだ。
「受け様、お着替えしましょう」
乳母だった侍女が優しく促し、クローゼットを開ける。
ずらりと並んだ豪奢なドレスに、これから自分はどうなるのだろうかと不安になった。
夫は受けの部屋の隣にある自分の部屋に戻ると、寝台に拳を打ち付けた。
「なんて可憐なんだ、私の妻は……!」
生まれた時からずっと男ばかりに囲まれ、剣の稽古に乗馬にと女っ気のない生活をしてきた上に今は騎士団に所属する夫は、儚く美しい受けの姿に一目で魅了された。
抱き上げた時の重さが残る腕を見つめてまたぽふっとそれを寝台に打ち付ける。
そうしなければいつまでその存在が腕に残ったまま、夜にもなっていないのに淫らなことをしそうになる。
これから結婚祝いの晩餐会があり、手を出すなど言語道断と判っているからこそ、理性を総動員しなければならなかった。
「それはぜひとも奥様に直接仰ってください」
執事が熱いお茶をティーカップに注ぎながら冷たく放つ。
「できたら苦労しないっ!」
なにせ女の扱いなど分からない朴念仁である、妻を迎えたからと言って喜びそうなことなど咄嗟にできるはずもない。
執事は嘆息してお茶を差し出す。
「くれぐれも奥様に乱暴だけはなさらないよう、重々お気をつけ下さいませ」
「分かっている!」
上品に飲むことなど知らない夫は一気にカップを傾け、熱いというのに飲み干してしまう。
はーっと息を吐き出し、教会での出来事を思い出す。
父に手を引かれ登場した受けの儚さにハッとし、それからというもの緊張で動きがぎこちなくなってしまった。
少しでも怖がらせては取りやめられるかもしれないと緊張に顔は強ばり、声も硬くなったように思える。
そのせいか受けは怯え、ペン先が見て分かるように震えてしまったのだ。
しまったと思っても時すでに遅し目も合わせてくれなくなった。
どうしていいか分からず、気にかけても何を話せば分からず、けれどずっと見つめては押し倒してしまいそうで、どうやって馬車での時間を過ごしたか思い出せないくらい緊張してしまった。
「きっと妻は私のことを恐ろしく感じてしまっただろう」
「でしょうね、お顔の色がよろしくありませんでしたからね」
「……他の言い方はないのか、もっと私を助けようとは思わないのか」
「それは夫婦のこと、私が口出しすることではありません」
幼馴染みとして育った先代執事の息子は、夫の性格を熟知しすぎて当たりが強い。
フォローも助言も貰えなかった夫はこれからどうやって受けと接すればいいかを思い悩んだ。
あっという間に時間は過ぎ、晩餐会。
受けを伴って広間に赴き、挨拶をして回る。
純白のウエディングドレスを脱いで淡い紫色のドレスを纏った受けの美しさにメロメロになるが、疲れた色を濃くしていくのが気になった。
愛そう笑いを浮かべるばかりで、ちらりとも夫を見てはくれない。
それが寂しくあった。
(いや、まだ緊張しているのだろう。これから家族になるのだ、時間は充分にある。私のことを知ってもらい、子作りについても話し合わなければっ!)
だが、こんなにも細くて妊娠などしたらどうなってしまうのだろうか。
いやいやその前に、こんなにも美しい人だ、すでに将来を誓い合った相手がいてもおかしくはない。
もしかしたらこちらを見ないのはこの結婚を嫌がっているのかもしれない。
親が勝手に交わした約束。
しかも二人が生まれる前のものだ。
(もしや……離縁を望んでいるのか?)
約束通り結婚し、すぐに離縁すれば良いと思っているのだとしたら……自分はどうすればいいのだろうか。
嫋やかで腕など掴んだら折れてしまうのではないかと思うほど細い受けを相手に、果たして自分は引き留めることができるだろうか。
夫は心で思いきり溜め息をつくのだった。
深夜まで続く晩餐会を早めに切り上げ、二人は妻のための寝室へと戻る。受けを実家から連れてきた侍女に渡し、湯浴みをする。
これから初夜だ。
自然と緊張と期待が一点に漲ってゆく。
その大きさを見て……心配になる。
あれほど細い受けの中に果たしてこれが挿るだろうか、と。
(急くことはない……はずだ。ああ、どうしたら良いんだ)
落ち着くためと、右手で一度絞り取るのだった。
初夜、どうすればいいか分からず受けは身体を小さくさせた。
薄い絹の夜着は柔らかく高級なのは分かるが、貧相な身体が浮き彫りにしている。
女性とは違うぺったんこの胸、これだけで男だと知られてしまうのではとガウンを羽織ったが、しとしとと降り続く雨に暑く感じてしまう。けれど脱ぐこともできない。
ベッドに腰掛け、どうすれば良いかを思い倦ねていると壁の中央にある扉が開いた。
夫のみが明けることが許されたその扉にびくりと肩が震えた。
騎士団に所属する騎士……しかも父親は将軍と武門の良家である夫が娶ったのが男と知ったら、どれほど矜持を傷つけられたと怒るだろうか。
怖くてあれほど暑いと感じていたのに己の身を抱き締めてしまう。
乳母からは「素直にすべてをお話ししましょう、受け様」と言われているが、恐ろしい夫を前にすると口を開くこともできない。
「……どうしたのだ」
恐ろしい声が下りてきて、またびくりと肩を震わせる。
「寒いのか」いいえ、寒くはありません。
それすら言えず、唇が戦慄く。
「初夜の務めを果たせるのか、そのような様で」
冷たい言葉が疲弊する受けの心に冷たいナイフを立てていく。
一家総出で騙そうとしているのだ、このような扱いを受けても当然だと思う一方で、どこまでも夫が恐ろしくて、声を上げることができない。
俯いて首を振った。
ポロポロと涙が飛び散る。
その一つが夫の手の甲に当たったとも知らずに。
「私が嫌か。分かった」
夫はそれだけ言うと、すぐさま部屋を出て行った。
「ああ……どうしたら良いんだろう。あの人を怒らせるばかりだ……私たちが悪いというのに」
真実を伝え許しを請えずに騙すようなことをしたばかりに、彼を傷つけてしまう。
どうしたら良いのか分からないまま泣き続け、受けはそのまま眠ってしまった。
翌朝腫れ上がった瞼と美しく纏ったままの夜着、そして共に眠った形跡のない寝台で乳母はすべてを悟ったが、何も言わず支度を受けの支度をした。
クローゼットにあるのはどれも豪奢なドレスだ。
まるで夜会に着ていくような華やかなものばかりで、日常的に着るには気が引けるが、それしかないのだからと袖を通す。
軽く化粧を施され髪を結われれば貴婦人のできあがりだ。
鏡に映る自分の姿にまた嘆息した。
「私はどうしたら良いんだろうね、乳母」
「皆様が素直に真実を口にするのが最善でしょうが、旦那様は頑固なお方。難しいでしょうね」
香水を振りかけ、できあがりと受けを立たせた。
「そうだね……けれどあの人は知ったらどうするのか私は怖いのだ。殺されてしまうかもしれない」
「騎士は気性の洗い方もいらっしゃると聞きます。このように名誉を傷つけられたのならばどれほどお怒りになるか……。けれどこれ以上隠すことはできませんでしょう」
その通りだ。
しかし、それを伝えるのが自分では恐ろしいのだ。
いつまでも部屋にいることもできないと食堂に行けばもう夫が座って待っていた。
「遅かったな」
「申し訳ございません」
頭を下げ、執事が待っている椅子へと向かう。
すぐに料理が運ばれたが、とても口にできず、少しだけ囓り、カトラリーを置いた。
「それだけで良いのか」
「充分でございます。あのっ!」
「なんだ」
顔を上げた夫の鋭い眼差しに怯え、決意はすぐに萎んでしまう。
「部屋に戻ります……」
「そうか」
素っ気ない言葉が恐怖を煽る。
ああ、やはりダメだ真実を知られては。
隠し通さなければ……もしくは離縁をして貰うしかない。
部屋に戻った受けはどうすればいいか分からないまま、寝台へと突っ伏すしかなかった。
そんな受けを助けるように、戦争が勃発し夫は戦地へと赴いたのは式を上げた10日後であった。
「なぜ新婚早々戦地に向かわなければならないんだ!」
「将軍のご指名です、しっかりと格好いい知らせを届ければ奥様も旦那様に惚れるだろうと」
「それでは私が苦しい!」
なにせ屋敷に戻ってから一度として受けに触れ合うことができなかったのだ。
夜も拒まれて部屋に戻ってはシクシク泣いていたくらいだ。
戦地から届く武勇伝などで果たして惚れて貰うことなどできるか。
「やはり他の男と心を交わしていたのだろうか、妻は」
「さあ、存じません。そうだとしても心変わりをして貰えばすべて済むと将軍はお考えです」
「あのくそ親父が……」
賭のかたとして出会わなければ一縷の望みもあっただろうが、過去を覆ることはできない。
「はあ。あれほど可憐な妻を残して戦地に赴かなければいけないのは心苦しい。できれば変な男が出入りしないかをしっかり見張ってくれ」
「はいはい、分かりました。さっさと行ってください」
「はいは一回だ!」
すごすごと戦地に赴くため屋敷を出ようとした夫を見送るために玄関で待っていた受けを目にして、またしても「行きたくない」と思ってしまうのだ。
こんな可憐で美しい妻ならばすぐに悪い虫が付くに決まっている!
ああああああ、執事は頼りにならないし、だからといって受けが屋敷から連れてきた侍女に懇願するなどみっともない。
どうしたら良いものかと思い倦ねて「行ってくる」と硬い言葉をかけて馬に乗るしかなかった。
素っ気なかったことを思いっきり後悔しながら。
夫が戦地へと赴いてから受けは女主人として家を切り盛りしなければならなかった。
屋敷にいる使用人達にどう接していいか分からないまま、執事からやってくる書類に目を通し、采配を下す。
将軍家は侯爵位を賜り、領地も広大だ。
実家で兄の手伝いをしていたが覚えなければならないことも多く、初めは疲弊して自分の無力さに落ち込むばかりだったが、三年も経てばそれなりにやれるようになった。
時折執事から夫に手紙を送ってくれないかと便せん片手に懇願される時間が恐ろしく、なにを書けば良いか分からず筆が止まってしまうが、乳母の進言で領地経営についてを書くようになってからは気も和らいだ。
夜会や茶会の誘いはひっきりなしに来るが、戦地の夫が心配で屋敷を出ることができないと返事をすればそれすらも次第になくなっていった。
だが、秘密にしたままの嘘は心に重くのしかかっていく。
何度も父や兄に手紙を出しては「なんとかしてくれ」と懇願するが、どちらからも色よい返事はない。
むしろこのままなんとかならないかと懇願されてしまう。
なんとかなるのであれば受けだってこれ程までに心を痛めはしない。
戦地からは素っ気ない返事と共に、必ず贈り物が添えられているのだ。
名産だという酒や、有名な刀鍛冶が作り上げた短剣、足が速く頑強な種類の馬と大金が使われていると一目で分かる数々に申し訳なさが募る。
男だと知ったら、夫はどうするだろうか。
戦地で死闘を繰り広げ戻ってきたら、妻が実は男だったと知ったらば、激高して当然だ。
考えれば考えるほど悪い結果にしかならず、食は細いまま、巧く眠ることもできない。
嫁いだ時よりも痩せていく受けを乳母は心配し、東奔西走するが、どうしたら良いかは三年が過ぎた今でも結論が出ない。
恐ろしい夫の印象がより強くなり、自分に剣を振ってくる夢まで見る始末だ。
心も身体も疲弊しきった頃、戦争が終結した。
自国の大勝という素晴らしい結果だが、社交界に顔を出さない受けは夫の活躍を知るよしもなく。
どうすればいいかと日ごとに顔色を悪くしていった。
戻ってきた夫は、変わらず恐ろしい顔をしていた。
受けをちらりと見ると「細すぎる」と叱ってきたのだ。
妻にまともな食事を与えていないと思われてしまうのを怒ったのだろうとすぐに謝罪したが、夫は執事に荷物を預けすぐさま部屋に戻っていった。
やはりすべてを告げて許しを得るしかない。
三年も居座ったのが男と知って殺されるかもしれないが、致し方ない、父に諫言せずに侮辱と分かることをしたのだから。
その夜、受けは部屋にやってきた夫に深く頭を下げた。
「離縁をしてくださいませ。私が密通をしたと教会に訴えてくださいませ」
密通は重罪だ。
夫以外の子を成すことも。
教会は受けと受け一家を断罪するだろう、そうなれば夫や侯爵家の体面は保たれる。
長らく嘘をつき続け妻の地位に居続けた罪滅ぼしのつもりだった。
「密通をしたのか」
血を轟かすような声が這い上がってきた。
恐ろしさに受けは震え、夜着を固く握りしめた。
「これは旦那様のためでございます。妻が男などと知られてしまっては、皆に笑われてしまいます」
「そのような戯れ言で私を謀るつもりかっ!」
夫は激怒し、受けを寝台に倒した。
殴られる覚悟をして奥歯を噛み締めた。
夫は受けの夜着を破り、その身体を余すことなく険しい眼差しで舐った。
「男というのは本当なのか」
「……申し訳ございません、申し訳ございません」
「男の身体で密通をしたのかっ!」
「いっ!」
男どころか女も知らない身体を組み伏せ密かな蕾を暴いた。
「そのようなところ……くっ……いたっ!」
指を挿れ嬲り始めたのだ。
「さすがに私が帰ってくるとなって控えたか。だが離縁は許さん。お前は私の妻だ!妻の務めを果たさせてやる」
恐ろしい声と共に、恐ろしいものが蕾に宛がわれた。
夫は怯える受けなど構いもせず窄まろうとする蕾にいきり勃った長大なものを突き挿れた。
そして容赦なく蹂躙した。
受けは悲鳴を上げ、泣き、拒む言葉を発しても、夫は止めてはくれなかった。
痛みばかりの行為に、身体だけではなく心までもが傷んだ。
けれど、当たり前だ。
先に酷いことをしたのは受けとその一家なのだ。
夫には何の罪もない。
受けは白布を握り絞め堪え続けた。
何度も夫の蜜を最奥に浴び身体を噛まれても、仕方ないと諦めた。
ようやく夫が受けの上から退いた時、繋がった場所から蜜に混じった血が流れ落ちた。
やっと終わったんだ。
受けはそのまま気を失った。
怒りにまかせて受けを抱いた夫は、赤く染まった白布と流れ出る白濁に混じる血を見て慌てた。
いくら騎士団では衆道が当然のように行われているからといって、準備もせず挿れれば傷つくのは当然だ。
「だ、誰か!」
声を張り上げればすぐに受けの侍女が入ってきた。
老齢な侍女は受けの姿を見て悲鳴を上げ、すぐさま手当を始めた。
責めるような眼差しにいたたまれず部屋に戻れば、飄々とした執事がお茶を持ってきた。
「……妻は男だったのか」
「さようでございますね。領地運営もしっかりしてくださって助かります」
「なぜお前はそれを知っているんだ!もしや密通相手はお前かっ!」
「……何馬鹿なことを言っているんですか。しっかりと喉仏があったではないですか……もしかして本当に女と信じていたのですか!?」
信じられない、屋敷の誰もが知っているのにと驚愕されて、夫も驚愕してしまう。
あれほど美しく嫋やかな男がいるなど誰が信じるか。
しなやかな手足に細い腰はどう見たって女だと……女遊びの一つもしてこなかった夫は愕然とした。
執事は深く嘆息した。
「あの大旦那様ですらすぐに男だと気付いたというのに……なにをなさっているんですか旦那様……もしや奥様に無理強いを……!」
「……私はどうすればいいんだ。嫉妬で妻に乱暴をしてしまった」
頭を抱え執務机に沈んだ。
これには飄々とした執事も天を仰ぐ。
「すぐに奥様に薬を届けます。あれほど口を酸っぱくして無理をさせてはならないと……ああしてしまってはもう遅いですね」
なぜそこで追い打ちをかけるんだ。
他の男に心を寄せていたのではないかとずっと疑念を抱いていたのだ。
戦地に赴いている間も逢い引きするのではないかと気が気ではなかった。
帰ってきて聞いた妻の第一声が「離縁してくれ、密通した」だったら憤って当たり前だ。
そう自分に言い訳をして、けれどと思う。
『娘を息子の妻にする』約束だったではないか。
反故にされただけでなく、騙されていたのだ、ならば……。
そこにつけ込んで妻を縛り付けるしか思いつかなかった。
卑怯な手と理解していても、他に引き留める手立てを持たない夫は次の日から妻を抱いた。
傷つかないよう、衆道の際に使う香油を繋がるための蕾に塗り、想いのまま妻を貪った。
男と分かっても手放せない程、想いが募って爆発寸前まで肥大してしまった。
だから自分の下で悶える受けの姿に興奮しては何度も抱いてしまうのだった。
次第に受けの身体は夫を受け挿れるのに慣れ、長大なもので蹂躙しても悦びの声を上げるようになった。
嬉しかった。
この手に堕ちてくれたのが。
「約束を違えたこと、その身体で詫び続けるのだ」
心にもないことを口にして、受けをこの家に、自分に縛り付ける。
だが気になることもあった。
夫に抱かれ悦び悶えても終わった後には涙を流し、その身体を抱き締めるのだ。
あれほどしがみ付いてくれたのが白昼夢だったのではと思うほどに悲愴な顔をする。
そして食事も減った。
啄む程度で下げてしまうのだ。
日に日に細くなっていく受けに労りたいのに、できなかった。
どこかで自分の存在をもっとその身に刻みつけたいと願っていた。
屋敷にいなくても忘れる暇がないほどに夫のことだけを考えて欲しかった。
執事は何度も夫を止めたが聞き入れはしなかった。
その日も妻の寝室を訪れた。
夜着を身につけ寝台に座っていた受けはビクリと細い肩を震わせ、同じように震える手でそれを脱いだ。
痩身が姿を現す。
浮き出たあばら、尖った肩、木の枝のような腕。
どれも痛ましいのに、美しい彼のすべては自分のものだと思えば滾り、それを愛おしいと告げる代わりに身体にぶつける。
騎士の体力をぶつければ相手が毀れると分かっていても、止められなかった。
夜毎確かめなければ発狂しそうだった、このすべては自分のだとただ確かめたかった。
受けは恭順に受け入れ、そしてすべてを受け止めてくれた。
無理をさせたと分かっていてもどう労れば良いか分からない。
ほろりと受けの眦から涙が零れ落ちた。
「……泣いても話してはやらぬ。お前のすべてが誰のものか刻み込んでやる」
違う、言いたいのはこんな言葉ではない。
初めてその姿を目の当たりにした時に心奪われたのだ。
世界にこれほど美しい存在がいるのかと、それが自分の妻になるのかと神に感謝したほど、惹かれてしまったのだ。
けれど、力でしか制することを知らない夫は、心の底にある本心を受けに向けて紡ぐことができずにいた。
すべてを告げたらこの手からすり抜けて逃げてしまうのではと不安に囚われてしまったからだ。
硬い親指の腹で涙を拭い、それを舐めた。
甘くてもっと欲しくなった。
もう一度受けを貪るために覆い被さったが、悦びの音楽を奏でるばかりだった受けの唇が歪み、何度も開閉した後、小さな音を転がした。
「お怒りのまま、誅戮してくださいませ」
また一粒涙が零れ落ちた。
それもまた指で掬い舐める。
「殺しはしない。お前は一生を私の元で過ごすのだ」
「……死ぬことすら許されないのですね」
受けは顔を寝台に埋め泣き声を殺して涙を敷布に吸わせた。
ぎりっと奥歯を噛み締めた。
「ああ、許さぬ。お前のすべては私のものだ。勝手にできると思うな」
死ぬなどと言わないでくれ。
側を離れると願わないでくれ。
祈りを込めて細い身体を抱いた。
ただ抱き締めた。
小さな頭を胸に抱き寄せれば、敷布に吸わせた涙が夫の胸を濡らした。
このままではダメだ、本当に受けが死んでしまう。
自分が追い詰めたというのに、あまりの細さに怖くなった。
なんとかしなければ……。
受けが泣き疲れ眠るまで抱き続けた。
結婚して緩やかに寝台に横たわるのすら初めてであると気付かないまま。
夫が夜、訪わなくなった。
夜毎罪を濯ぐように抱かれたが、とうとう飽きられたのだろうか。
自嘲して受けは窓から遠くを見た。
あれほど辛く死にたいと思ったのに、抱かれなくなれば寂しいと思うなど勝手だ。
元はと言えば一家で夫を騙したこちらに非があるというのに、蹂躙されて被害者面も甚だしい。
だが辛いのだ。
男と判って道具のように使われるのが。
自分もまた道具になれればこれほどまでに苦しみはしなかっただろう。
けれど貪られ身体中をまさぐられ、沸き立つのが悦びとなってしまった。
同時に求めてくれるのを勘違いしそうになる、罪があるから罰するのではなく、この身を欲してくれているのではないかと。
愚かにも夢想してしまうのだ。
自分の愚かさを掻き消したくて塗り潰したくてしまいたくて、隠す代わりに消えてしまいたくなった。
けれど、消える術などどこにもない。
罪人を誅戮するのは騎士団の役目でもある。
あれほど死ぬのが恐ろしかったのに、今は求めてやまない。
侍女が入ってきた。
「ばあや、私はどうすれば良かったのだろうね」
夫に犯された怪我をしてから一気に老け込んだ侍女に声をかけた。
「受け様……ああ、なんとお労しい」
ハンカチに涙を吸い込ませ、細くなっていく受けを直視できずに俯く。
「先に謀ったのはこちらだ。旦那様に罪はない。私を嬲ることでそのお心が鎮まればと思ったが、もう辛いのだ。どうして私はあの方に心を寄せてしまうのだろうね」
なにも感じなければ辛くはなかった。
与えられる愉悦を貪るだけの存在になれた。
けれど愚かな自分は逃げるためか、心を欲してしまう。
好かれるところなどどこにもないのに。
また自嘲し遠くを見た。
侍女がすすり泣く。
涙を拭ってくださった。
抱き締めてくださった。
それだけで救われたような心持ちになったのだ。
もっと抱き締めて欲しくなった。
もっと話をしたいと願った。
けれど、自分は罪人だ。
あの人を謀った愚かな罪人だ。
許されるはずなどどこにもないのに、なぜ心地よいものを求めようとするのか。
馬車が門を出て行くのが見える。
今日も夫は出かけたのか。こちらを見てくれずに。
嘆息すらおこがましくて、息を飲み込んで堪える。
「詫びるのすら疲れるということがあるのだね、本当に私は愚かだ」
ギュッと細くなっていく身体を抱き締めた。
食事をまともに摂ることができず細くなっていくが、心が閊えれば食事など喉を通るはずもない。
どこに行くかも知らされぬようになっては、妻の務めなどどこにあるのか。
細くなって締まってからは疲れやすくなってしまった身体では領地運営もままならず、執事に丸投げだ。
これではただ寝台に転がる丸太でしかない。
もっと早く真実を告げたらどうなっていただろうか。
少なくとも、ここまで心が痛むことはなかっただろう。
夫を想うこともなかったはずだ。
自分がいる意味はどこにあるのだろうか。
判らず、ぼんやりと遠くばかりを見つめた。
夫はその日、帰っては来なかった。
とうとう嬲ることに飽いて意中の女性のところに訪うようになったか。
それも仕方ない。
いつでもこの部屋を明け渡せるよう荷物を纏め始めた。
侯爵家で自害などしては次の妻に申し訳ない。
死ぬのならばここを出てからだ。
受けは侍女に指示していつでも出られるようにした。
夫が帰ってきたのは、それから十日経ってからだ。
その間、苦しくて本当に食事が喉を通らなくなった受けは、窓辺の椅子に座るばかりの存在となってしまった。
階下では人の声がするが、赴くのすら辛くてできなかった。
ああ、出迎えなかったことを夫は怒っているだろう。
偽りでも妻としての責務を果たさないのだから当たり前だ。
けれど本当に身体が動かないのだ。
指一本動かすのですら億劫で、気を抜けばそのまま眠ってしまいそうになる。
言葉の意味すらわからず、ぼんやりと喧騒を聞いていると荒々しい足音が近づいてきた。
乱暴にドアが開く。
虚ろな目で眼球を動かしてその姿を確かめようとしたが、それにすら疲れて目を閉じた。
「なぜこんなことになっているんだっ!」
ああ、あの人の声だ。
今日も怒らせてしまった、どうすればその怒りは鎮まるのだろうか。
服を脱いで寝台に横たわれば良いのか。
けれどドレスを脱ぐのは容易くない。
侍女を呼ぼうとして声すら発するのが怠くなる。
「こんなに痩せてしまって……誰か医者を呼べ!」
周囲がざわめく。
逞しい腕に抱き上げられ、擽ったくなる。
結婚の時にこうして抱き上げられたのが酷く懐かしい。
あの時は殺されるのではないかと怯えたが、今はこのまま腕の中で死んでしまいたいと願ってしまう。
たった三年で。
自嘲しようとして、頬に力を入れることすらできなくなった。
寝台に横たえられる。
硬い指の腹が頬をなぞりかさついた唇を撫でる。
温かいものが唇を塞ぎ隙間から少量の水が流し込まれる。
受けはそれに咽せ身体を丸めた。
だが許さずまた唇を塞がれ水が与えられた、何度も。
水を飲むのすら億劫でできなかったのをぼんやりと思い出す。
「死ぬな……死なないでくれ」
死のうとは思っていませんと伝えたいのに、言葉が出てこない。
侍女が騒がし部屋を出たり入ったりしている。
「お前に死なれたら私はどうすればいいんだっ!……私が悪かった、だから死なないでくれ」
いえ、悪いのはこちらです、旦那様は何一つ瑕疵はないのです。
心でのみ伝えてそっと目を閉じた。
生きる気力をなくしてしまった自分をこのまま抱き締め続けて欲しいと願う。
そうすれば思い残すことなどないだろう。
肺いっぱいに夫の匂いを吸い込んで、意識を手放した。
「受けっ!目を覚ませ受け!」
「旦那様邪魔です、退いてください」
「なぜこうなるまで放っておいたんだ!!」
「そっとしておけと指示したのは貴方でしょう!ああ、邪魔だ。誰か旦那様を連れ出せ!」
「それが主に対する言葉遣いか!」
「貴方はなにもかもが間違ってるんですよ!ああ、言うことを聞くんじゃなかった」
幼い頃の兄貴風を吹かしていた時の喋り方になった執事の指示により、館の男達が抗う夫を力尽くで隣の部屋に連れ出した。
同時に硬く鍵をかけられ、ついでとばかりに開かないよう鎖まで巻かれる。
まるで猛獣のような扱いに憤って部屋の中で暴れ回った。
両家を集め説明を求めなんとかこの結婚をどうにかしようとしたのに、帰ってきたら受けはずっと食事を摂っていないと報告され冷静でなどいられるか。
憤って当たり前だろう。
しかも十日ぶりにあったその姿は今にも儚みそうで怖くなったのだ。
「頼む……受けを死なせないでくれ」
懇願を神に繰り返し、医師の報告を聞くまで正気ではいられなかった。
極度の栄養失調のため、水のようなスープを飲ませるしかないと言われ、夫自ら受けに食事を与えた。
下階で両家の親が待っているのも忘れ、ただただ受けの側にいた。
受けがぼんやりとだが目を覚ましたのは翌日だが、意識がはっきりしたのはそれから五日経ってからだった。
気が気でなく、一時も側を離れることができなかった。
受けの兄や父が寝室を訊ねてきたが、細くなった受けの姿を見て息を飲み顔の色を懺悔に変え出て行った。
自分達がどれほど愚かなことを彼に強いたかを思い知ったのだろう。
それは夫も同じだ。
自分に都合の良い言い訳をして受けを好き勝手してしまった。
後悔してもどうしようもない。
「離縁……しかないのか」
彼を助けるための選択肢はそれしか存在しない。
両家で賭をなかったことにして、受けにもう一度初めからやり直したいと懇願するつもりだった。
結婚の前から。
愚かな自分にはそれすら許されないと突きつけられたようで、夫は己を責め続けた。
浅かった呼吸が深くなり、毎日のように診療に訪れた医師からこのまま食事を続ければもう大丈夫だと言われ安堵したが、同時に受けと向き合わなければならない現実に怯えた。
離縁しかないと判っていても容易に受け入れられない。
身動きが取れなくなるほど受けを愛してしまった。
「私はどうしたら良いんだ……」
安らかな呼吸を繰り返す、少しばかり顔色の良くなった受けの寝顔を見つめながら自問した。
脅してこのまま……とまた彼を傷つける方法を思い浮かべては慌てて掻き消す。
ならばこの屋敷に閉じ込めて……ともっとダメな方に行こうとする思考にストップをかけ、落ち込んだ。
引き留める材料など最初から存在はしないのだ。
受けを怯えさせてばかりだった自分がどうやって縋れば良いのかすら判らない。
けれど、初めて会った時のように健やかに歩く姿を見たいと願う。
「すべてを最初から始めさせてくれと乞えば、お前は許してくれるだろうか」
返事がないと判って問いかける。
乾いたふくりとした唇が痛ましくて、侍女が用意した濡れハンカチを優しく押し当てる。
こんなにも力加減を考えて何かをするのは初めてで、どうしていいか判らない。
「早く元気になってくれ……お前が生きてくれるだけで満足しなければならないんだな」
自分に折り合いを付けるように口にする。
なにもできない自分がもどかしく、何を口にしても拒絶されそうで怖かった。
目を覚ました時、またその目が怯えを含んで自分を見つめたらと思えば、触れることすらできない。
諦めるしかない。
諦めるしかないんだ、手を離すしかないんだ。
きつく手を握り、その瞬間の覚悟をした。
何度かスープを口にした記憶を抱え、ゆっくりと瞼を押し上げた。
この三年、見慣れてしまった天蓋が飛び込んで、視界の端に大きな身体があるのに気付いた。
「……だ……なさ……」
「無理して喋らなくていい。起き上がることはできるか?」
珍しく夫の物言いが優しく、音がとても心地よい。
これほど美しい声を流す方だったのかと知り、自分がどれほど彼を怒らせ続けていたのかを知る。
「だ……じょ……」
声が上手く出ない。
夫が力ない身体を起こし、すぐにスープを救ったスプーンを口元まで運んできた。
僅かに唇を開けば、サラサラとしたスープが流れ込んでくる。
何度も繰り返し、けれど半分も減る前にもうお腹がいっぱいになる。
首を振って唇を閉じれば、夫はすぐにスープを下げた。
身体を横たえ、布団を掛けてくる。
「気分が良くなったら少し時間をくれないか。皆が集まっている」
皆とは誰だろうと首を傾げれば、ノックの音がした。
「受けが起きたと聞いたが……」
兄の声だった。
受けは慌てて起き上がろうとして、けれどそれだけの力がない。
ああ、とうとうこの時が来たか。
自分は離縁を言い渡されるのだ、兄がいるということは当然父もいることだろう。
断罪の時間だ、こんな所で寝ている場合ではない。
しかし起き上がることができない受けが何をすることもできず、縋るような眼差しを夫に向けるしかなかった。
すぐに気付いてくれ受けの身体を起こすと、ガウンを掛け抱き上げてくれた。
しっかりとした足取りで階段を下りてもふらつくことなく下階に連れて行ってくれた。
談話室へと入れば、父と兄だけでなく将軍までがソファに座していた。
「大丈夫か、受け……」
兄が近づいてきたがすぐに顔色を変え足を止めた。
見上げれば夫がじろりと睨めつけている。
ゴホンと将軍が咳払いをして顎をしゃくった。
嘆息して夫が側にある一人駆けのソファに腰掛けた。
膝に受けを乗せて。
父と兄が立ち上がり深く頭を下げた。
「嘘をついて済まなかった」
「いやいや。言ってくれれば良かったんだ、そしたら代案を出したのになぁ」
将軍が豪快に笑う。
「だが、阿呆息子が衝動のままにご子息を傷つけたことは謝らなければならない。申し訳なかった」
こちらに頭を下げるのが信じられず慌てた。
夫の膝の上から下りて自分も頭を下げないといけないはずなのに、夫の腕に身体を預けなければ座ってることもできない受けは視線だけを彷徨わせた。
「私からも詫びさせてくれ。酷いことをして悪かった、お前には何の罪もないというのに」
そんなことはない。
父に命じられ諾々と従った自分にだって罪はある。
緩く首を振れば、初めて夫の表情が和らいだ。
こんなにも穏やかな表情をするのかと驚き、ほんの少し期待が芽生える。
もしかしたらと顔をもたげ、だがすぐに心の奥底に押し込む。
謝ってくれたのはあくまでも嬲ったことにだけだ。
心を寄せてくれたわけではないと必死に心に言い聞かせる。
期待できるほど、自分が無実なわけではない。
本来であれば父や兄と共に頭を下げなければならないのだから。
下りようとしたが、夫が腕に力を入れ阻んでくる。
「まあこの結婚をどうするかだ。お前はどうしたいんだ?」
「私は……」
夫が初めて言葉を濁した。
再び厳しい顔をし始める。
ああやはりこの結婚を公開しているのだ。
当然だ、男を妻に迎えるのがどれほど恥ずかしいことか、幼い子供ですら知っている。
だからこそ、離縁を促したのだ。
自分は恥でしかないのだから。
今ですら女物の夜着を身につけている自分が恥ずかしくて俯いた。
悲愴な顔をしたのか、夫が席を立ち、受けをソファに下ろした。
そして床に膝を突いた。
「お前に随分と酷いことをして本当に済まなかった。もし許してくれるのであれば、もう一度私との結婚をやり直してはくれないだろうか。……嫌であれば、離縁してくれて構わない」
離縁を絞り出すような声にハッと顔を上げた。
なぜ夫がこんなことをいうのか判らない。
男の妻など恥でしかないはずなのに、なぜ再び結婚をと言うのだろう。
子供を産むこともできないのだ、妻として据える意味が分からない。
縋るように見つめれば、夫が手を取った。
優雅な仕草で手の甲に口付ける。
「お前を愛してしまったのだ」
言葉が信じられなかった。
驚きに目を見開き、視線を彷徨わせる。
自分は謀れているのではないかと慌て、けれどじっと見つめてくる夫の熱い眼差しに落ち着きをなくす。
また期待が芽生えてきては葉を伸ばしていく。
「離縁は……できればしたいくないのだ。私を選んではくれないか」
ああそうか、離縁の汚名を被りたくはないのかと納得する。
「りえ……は、み……つ……」
受けに密通の罪を着せればなにも穢れはしない。
三年も戦地を駆け回った夫の不在に心を移した妻を捨てたとなれば、同情を寄せられるのは夫の方だ。
けれど、夫は首を振った。
「私を慕って欲しいのだ、生涯を私と過ごして欲しいのだ」
ポケットに忍ばせた指輪を取り出し、枯れ木のように細くなった指に嵌めていく。
夫の瞳と同じ色の宝石が嵌まった指輪にキスを落とす。
「私の妻はお前だけだ。頼む、私を受け入れてくれないか」
ズクリと胸が疼く。
心を寄せていいのだろうか。
もう傾きすぎた自分の心を解放していいのだろうか。
皆がじっとこちらを見つめているのも忘れ、夫を見つめた。
指を握る手は熱く、血潮が巡っているのを教えてくれる。
流れ込んでくる熱が指先から伝わって心までをも温め、それを栄養にして期待の芽が育っていく。
指を折ってみた。
強く力を入れることはできないが、夫はハッと見上げ、また指を見つめた。
期待していいのだろうか。
もう一度指を折る、それだけで夫の顔がまた和らいだ。
「それは了承と取っていいのか?」
逡巡し、頷く。
「ありがとう、受け。もう決して傷つけたりはしないっ!」
大きな身体に抱き締められ、その温かさにうっとりと目を閉じた。
「いやいや良かった。もし離縁となったら代償としてお前を後添えにしてやろうと思ったのにな」
将軍が冗談を口にし、父が蒼ざめるのが二人の傍らで行われたが、もう受けの耳にも夫の耳にも入らない。
用は済んだとばかりに再び抱き上げられ、部屋へと戻される。
寝台へと横たえ、布団を掛けられる。
「元気になったらもう一度、最初から始めてもいいか。どこかへ出かけ愛を囁かせてくれ」
そんな言葉を貰っても良いのだろうか。
胸が熱くなるのを感じた。
またするりと期待の枝葉が伸びていく。
小さく頷くと、優しく口付けられた。
「今は回復に専念してくれ」
夫の掌の温かさを味わったままゆっくりと目を閉じた。
次に目を覚ましたら自分も伝えよう、もう慕っているのだと。
それから二人はデートを重ね再びプロポーズをして、こっそり二人だけの結婚式を挙げてと心を深める作業に専念する一方で、戦地から夫が贈ってきた数々の「妻に贈るに相応しくない物たち」をどうするか、屋敷の皆が顔をつきあわせて頭を悩ませるのであった。
しかしそんな使用人達の苦悩も知らず、二人は仲睦まじいまま年を重ねていくのである。
おしまい
隣には厳つい男が騎士団の礼服を纏って立っている。
腰に下げているサーベルは恐ろしく、受けは萎縮して、手が震えた。
ペン先にまで震えが伝わる。
「早くしろ」
小声で、だが厳しい音を纏った言葉に受けはびくりと肩が跳ね、名前を書き綴っていった。
自分ではない女の名前を。
事の発端は父親同士の約束だった。
賭に負けた受けの父は、借金のかたとして娘を差し出すと誓約書まで書いた。
しかし産まれたのはどれも男で、差し出すことができない。
末子に当たる受けが女の格好をして嫁に行くこととなった。
当然先方は知らない。
嘘をつくことに慣れていない受けはただただ怯えていた。
侮辱されたとあのサーベルで殺されるかもしれないと。
本名にちなんだ女の名前を綴り終わる頃には、手は汗に濡れていた。
この瞬間、隣に立つ男は夫となったのだ。
肘を差し出され、それに手をかけて教会を出る。
慣れないヒールは足元をふらつかせ、このまま倒れてしまうんじゃないかとすら思った。
教会の外には参列者が並びライスシャワーを二人に浴びせる。
「まあなんて美しい花嫁なの」
「一度も社交界で顔を拝見したことはないけれど、なんて儚げなお嬢さんですこと」
「跡継ぎの結婚相手がこれほど美しい令嬢ならば、将軍もさぞお喜びだろう」
「ヴェールを上げずに出てくるなんて珍しいわ」
参列者は口々に好き勝手を言う。
だが夫は顔色一つ変えず、真っ直ぐに二人を待つ馬車へと歩き続ける。
背が高い夫の一歩は受けには大きく、小走りで追いかけても遅れてしまう。
しかも慣れない高いヒールが動きを邪魔する。
遅い受けに小さく舌打ちをし、夫が止まった。
重い純白のウエディングドレスを纏った身体を軽々と抱き上た。
参列客からざわめきが起こり、驚いた受けは悲鳴を上げそうになるが、構わず夫は馬車に乗り込んだ。
「このまま屋敷に行く」
扉が閉まると夫はそれだけ言ってそっぽを向いた。
きっと好きな人がいたのだろう、もしかしたら心を寄せ合った人がいたのかもしれない。
受けは馬車の中で小さくなって、声を漏らさないよう必死に唇を噛み締めた。
申し訳なさと恐ろしさとで指は震えたままだ。
到着した屋敷は大きく、生家などとは比べものにもならないほど立派だ。
使用人も多く、果たしてこのまま隠し通せるのかと恐ろしくなって、怖じ気づいた。
それが身体に出たのか足が縺れ、転びそうになる。
すぐに夫が支え、また抱き上げた。
執事に案内されたのは夫人の部屋だ。
美しい丁度で整えられ、どの家具も古いが綺麗に磨き上げられていた。
これからここを居室にするとなれば、普通の令嬢ならば喜ぶだろうが、受けには大きな寝台が恐ろしく写った。
夫の腕の中で怯え続けた。
ソファに下ろされ、初めてヴェールを上げられた。
「不本意だろうが、お前は私の妻だ。逃げられると思うな」
容赦ない言葉に離縁は許されないと突きつけられたようで、一層夫が恐ろしく感じられた。
受けはポロリと涙を流したが夫はそれを見ても表情を変えず「晩餐までゆっくり休め」とだけ残し部屋を出て行った。
すぐさま侍女が入ってくる。
実家から連れてきた者ばかりだ。
「受け様、お着替えしましょう」
乳母だった侍女が優しく促し、クローゼットを開ける。
ずらりと並んだ豪奢なドレスに、これから自分はどうなるのだろうかと不安になった。
夫は受けの部屋の隣にある自分の部屋に戻ると、寝台に拳を打ち付けた。
「なんて可憐なんだ、私の妻は……!」
生まれた時からずっと男ばかりに囲まれ、剣の稽古に乗馬にと女っ気のない生活をしてきた上に今は騎士団に所属する夫は、儚く美しい受けの姿に一目で魅了された。
抱き上げた時の重さが残る腕を見つめてまたぽふっとそれを寝台に打ち付ける。
そうしなければいつまでその存在が腕に残ったまま、夜にもなっていないのに淫らなことをしそうになる。
これから結婚祝いの晩餐会があり、手を出すなど言語道断と判っているからこそ、理性を総動員しなければならなかった。
「それはぜひとも奥様に直接仰ってください」
執事が熱いお茶をティーカップに注ぎながら冷たく放つ。
「できたら苦労しないっ!」
なにせ女の扱いなど分からない朴念仁である、妻を迎えたからと言って喜びそうなことなど咄嗟にできるはずもない。
執事は嘆息してお茶を差し出す。
「くれぐれも奥様に乱暴だけはなさらないよう、重々お気をつけ下さいませ」
「分かっている!」
上品に飲むことなど知らない夫は一気にカップを傾け、熱いというのに飲み干してしまう。
はーっと息を吐き出し、教会での出来事を思い出す。
父に手を引かれ登場した受けの儚さにハッとし、それからというもの緊張で動きがぎこちなくなってしまった。
少しでも怖がらせては取りやめられるかもしれないと緊張に顔は強ばり、声も硬くなったように思える。
そのせいか受けは怯え、ペン先が見て分かるように震えてしまったのだ。
しまったと思っても時すでに遅し目も合わせてくれなくなった。
どうしていいか分からず、気にかけても何を話せば分からず、けれどずっと見つめては押し倒してしまいそうで、どうやって馬車での時間を過ごしたか思い出せないくらい緊張してしまった。
「きっと妻は私のことを恐ろしく感じてしまっただろう」
「でしょうね、お顔の色がよろしくありませんでしたからね」
「……他の言い方はないのか、もっと私を助けようとは思わないのか」
「それは夫婦のこと、私が口出しすることではありません」
幼馴染みとして育った先代執事の息子は、夫の性格を熟知しすぎて当たりが強い。
フォローも助言も貰えなかった夫はこれからどうやって受けと接すればいいかを思い悩んだ。
あっという間に時間は過ぎ、晩餐会。
受けを伴って広間に赴き、挨拶をして回る。
純白のウエディングドレスを脱いで淡い紫色のドレスを纏った受けの美しさにメロメロになるが、疲れた色を濃くしていくのが気になった。
愛そう笑いを浮かべるばかりで、ちらりとも夫を見てはくれない。
それが寂しくあった。
(いや、まだ緊張しているのだろう。これから家族になるのだ、時間は充分にある。私のことを知ってもらい、子作りについても話し合わなければっ!)
だが、こんなにも細くて妊娠などしたらどうなってしまうのだろうか。
いやいやその前に、こんなにも美しい人だ、すでに将来を誓い合った相手がいてもおかしくはない。
もしかしたらこちらを見ないのはこの結婚を嫌がっているのかもしれない。
親が勝手に交わした約束。
しかも二人が生まれる前のものだ。
(もしや……離縁を望んでいるのか?)
約束通り結婚し、すぐに離縁すれば良いと思っているのだとしたら……自分はどうすればいいのだろうか。
嫋やかで腕など掴んだら折れてしまうのではないかと思うほど細い受けを相手に、果たして自分は引き留めることができるだろうか。
夫は心で思いきり溜め息をつくのだった。
深夜まで続く晩餐会を早めに切り上げ、二人は妻のための寝室へと戻る。受けを実家から連れてきた侍女に渡し、湯浴みをする。
これから初夜だ。
自然と緊張と期待が一点に漲ってゆく。
その大きさを見て……心配になる。
あれほど細い受けの中に果たしてこれが挿るだろうか、と。
(急くことはない……はずだ。ああ、どうしたら良いんだ)
落ち着くためと、右手で一度絞り取るのだった。
初夜、どうすればいいか分からず受けは身体を小さくさせた。
薄い絹の夜着は柔らかく高級なのは分かるが、貧相な身体が浮き彫りにしている。
女性とは違うぺったんこの胸、これだけで男だと知られてしまうのではとガウンを羽織ったが、しとしとと降り続く雨に暑く感じてしまう。けれど脱ぐこともできない。
ベッドに腰掛け、どうすれば良いかを思い倦ねていると壁の中央にある扉が開いた。
夫のみが明けることが許されたその扉にびくりと肩が震えた。
騎士団に所属する騎士……しかも父親は将軍と武門の良家である夫が娶ったのが男と知ったら、どれほど矜持を傷つけられたと怒るだろうか。
怖くてあれほど暑いと感じていたのに己の身を抱き締めてしまう。
乳母からは「素直にすべてをお話ししましょう、受け様」と言われているが、恐ろしい夫を前にすると口を開くこともできない。
「……どうしたのだ」
恐ろしい声が下りてきて、またびくりと肩を震わせる。
「寒いのか」いいえ、寒くはありません。
それすら言えず、唇が戦慄く。
「初夜の務めを果たせるのか、そのような様で」
冷たい言葉が疲弊する受けの心に冷たいナイフを立てていく。
一家総出で騙そうとしているのだ、このような扱いを受けても当然だと思う一方で、どこまでも夫が恐ろしくて、声を上げることができない。
俯いて首を振った。
ポロポロと涙が飛び散る。
その一つが夫の手の甲に当たったとも知らずに。
「私が嫌か。分かった」
夫はそれだけ言うと、すぐさま部屋を出て行った。
「ああ……どうしたら良いんだろう。あの人を怒らせるばかりだ……私たちが悪いというのに」
真実を伝え許しを請えずに騙すようなことをしたばかりに、彼を傷つけてしまう。
どうしたら良いのか分からないまま泣き続け、受けはそのまま眠ってしまった。
翌朝腫れ上がった瞼と美しく纏ったままの夜着、そして共に眠った形跡のない寝台で乳母はすべてを悟ったが、何も言わず支度を受けの支度をした。
クローゼットにあるのはどれも豪奢なドレスだ。
まるで夜会に着ていくような華やかなものばかりで、日常的に着るには気が引けるが、それしかないのだからと袖を通す。
軽く化粧を施され髪を結われれば貴婦人のできあがりだ。
鏡に映る自分の姿にまた嘆息した。
「私はどうしたら良いんだろうね、乳母」
「皆様が素直に真実を口にするのが最善でしょうが、旦那様は頑固なお方。難しいでしょうね」
香水を振りかけ、できあがりと受けを立たせた。
「そうだね……けれどあの人は知ったらどうするのか私は怖いのだ。殺されてしまうかもしれない」
「騎士は気性の洗い方もいらっしゃると聞きます。このように名誉を傷つけられたのならばどれほどお怒りになるか……。けれどこれ以上隠すことはできませんでしょう」
その通りだ。
しかし、それを伝えるのが自分では恐ろしいのだ。
いつまでも部屋にいることもできないと食堂に行けばもう夫が座って待っていた。
「遅かったな」
「申し訳ございません」
頭を下げ、執事が待っている椅子へと向かう。
すぐに料理が運ばれたが、とても口にできず、少しだけ囓り、カトラリーを置いた。
「それだけで良いのか」
「充分でございます。あのっ!」
「なんだ」
顔を上げた夫の鋭い眼差しに怯え、決意はすぐに萎んでしまう。
「部屋に戻ります……」
「そうか」
素っ気ない言葉が恐怖を煽る。
ああ、やはりダメだ真実を知られては。
隠し通さなければ……もしくは離縁をして貰うしかない。
部屋に戻った受けはどうすればいいか分からないまま、寝台へと突っ伏すしかなかった。
そんな受けを助けるように、戦争が勃発し夫は戦地へと赴いたのは式を上げた10日後であった。
「なぜ新婚早々戦地に向かわなければならないんだ!」
「将軍のご指名です、しっかりと格好いい知らせを届ければ奥様も旦那様に惚れるだろうと」
「それでは私が苦しい!」
なにせ屋敷に戻ってから一度として受けに触れ合うことができなかったのだ。
夜も拒まれて部屋に戻ってはシクシク泣いていたくらいだ。
戦地から届く武勇伝などで果たして惚れて貰うことなどできるか。
「やはり他の男と心を交わしていたのだろうか、妻は」
「さあ、存じません。そうだとしても心変わりをして貰えばすべて済むと将軍はお考えです」
「あのくそ親父が……」
賭のかたとして出会わなければ一縷の望みもあっただろうが、過去を覆ることはできない。
「はあ。あれほど可憐な妻を残して戦地に赴かなければいけないのは心苦しい。できれば変な男が出入りしないかをしっかり見張ってくれ」
「はいはい、分かりました。さっさと行ってください」
「はいは一回だ!」
すごすごと戦地に赴くため屋敷を出ようとした夫を見送るために玄関で待っていた受けを目にして、またしても「行きたくない」と思ってしまうのだ。
こんな可憐で美しい妻ならばすぐに悪い虫が付くに決まっている!
ああああああ、執事は頼りにならないし、だからといって受けが屋敷から連れてきた侍女に懇願するなどみっともない。
どうしたら良いものかと思い倦ねて「行ってくる」と硬い言葉をかけて馬に乗るしかなかった。
素っ気なかったことを思いっきり後悔しながら。
夫が戦地へと赴いてから受けは女主人として家を切り盛りしなければならなかった。
屋敷にいる使用人達にどう接していいか分からないまま、執事からやってくる書類に目を通し、采配を下す。
将軍家は侯爵位を賜り、領地も広大だ。
実家で兄の手伝いをしていたが覚えなければならないことも多く、初めは疲弊して自分の無力さに落ち込むばかりだったが、三年も経てばそれなりにやれるようになった。
時折執事から夫に手紙を送ってくれないかと便せん片手に懇願される時間が恐ろしく、なにを書けば良いか分からず筆が止まってしまうが、乳母の進言で領地経営についてを書くようになってからは気も和らいだ。
夜会や茶会の誘いはひっきりなしに来るが、戦地の夫が心配で屋敷を出ることができないと返事をすればそれすらも次第になくなっていった。
だが、秘密にしたままの嘘は心に重くのしかかっていく。
何度も父や兄に手紙を出しては「なんとかしてくれ」と懇願するが、どちらからも色よい返事はない。
むしろこのままなんとかならないかと懇願されてしまう。
なんとかなるのであれば受けだってこれ程までに心を痛めはしない。
戦地からは素っ気ない返事と共に、必ず贈り物が添えられているのだ。
名産だという酒や、有名な刀鍛冶が作り上げた短剣、足が速く頑強な種類の馬と大金が使われていると一目で分かる数々に申し訳なさが募る。
男だと知ったら、夫はどうするだろうか。
戦地で死闘を繰り広げ戻ってきたら、妻が実は男だったと知ったらば、激高して当然だ。
考えれば考えるほど悪い結果にしかならず、食は細いまま、巧く眠ることもできない。
嫁いだ時よりも痩せていく受けを乳母は心配し、東奔西走するが、どうしたら良いかは三年が過ぎた今でも結論が出ない。
恐ろしい夫の印象がより強くなり、自分に剣を振ってくる夢まで見る始末だ。
心も身体も疲弊しきった頃、戦争が終結した。
自国の大勝という素晴らしい結果だが、社交界に顔を出さない受けは夫の活躍を知るよしもなく。
どうすればいいかと日ごとに顔色を悪くしていった。
戻ってきた夫は、変わらず恐ろしい顔をしていた。
受けをちらりと見ると「細すぎる」と叱ってきたのだ。
妻にまともな食事を与えていないと思われてしまうのを怒ったのだろうとすぐに謝罪したが、夫は執事に荷物を預けすぐさま部屋に戻っていった。
やはりすべてを告げて許しを得るしかない。
三年も居座ったのが男と知って殺されるかもしれないが、致し方ない、父に諫言せずに侮辱と分かることをしたのだから。
その夜、受けは部屋にやってきた夫に深く頭を下げた。
「離縁をしてくださいませ。私が密通をしたと教会に訴えてくださいませ」
密通は重罪だ。
夫以外の子を成すことも。
教会は受けと受け一家を断罪するだろう、そうなれば夫や侯爵家の体面は保たれる。
長らく嘘をつき続け妻の地位に居続けた罪滅ぼしのつもりだった。
「密通をしたのか」
血を轟かすような声が這い上がってきた。
恐ろしさに受けは震え、夜着を固く握りしめた。
「これは旦那様のためでございます。妻が男などと知られてしまっては、皆に笑われてしまいます」
「そのような戯れ言で私を謀るつもりかっ!」
夫は激怒し、受けを寝台に倒した。
殴られる覚悟をして奥歯を噛み締めた。
夫は受けの夜着を破り、その身体を余すことなく険しい眼差しで舐った。
「男というのは本当なのか」
「……申し訳ございません、申し訳ございません」
「男の身体で密通をしたのかっ!」
「いっ!」
男どころか女も知らない身体を組み伏せ密かな蕾を暴いた。
「そのようなところ……くっ……いたっ!」
指を挿れ嬲り始めたのだ。
「さすがに私が帰ってくるとなって控えたか。だが離縁は許さん。お前は私の妻だ!妻の務めを果たさせてやる」
恐ろしい声と共に、恐ろしいものが蕾に宛がわれた。
夫は怯える受けなど構いもせず窄まろうとする蕾にいきり勃った長大なものを突き挿れた。
そして容赦なく蹂躙した。
受けは悲鳴を上げ、泣き、拒む言葉を発しても、夫は止めてはくれなかった。
痛みばかりの行為に、身体だけではなく心までもが傷んだ。
けれど、当たり前だ。
先に酷いことをしたのは受けとその一家なのだ。
夫には何の罪もない。
受けは白布を握り絞め堪え続けた。
何度も夫の蜜を最奥に浴び身体を噛まれても、仕方ないと諦めた。
ようやく夫が受けの上から退いた時、繋がった場所から蜜に混じった血が流れ落ちた。
やっと終わったんだ。
受けはそのまま気を失った。
怒りにまかせて受けを抱いた夫は、赤く染まった白布と流れ出る白濁に混じる血を見て慌てた。
いくら騎士団では衆道が当然のように行われているからといって、準備もせず挿れれば傷つくのは当然だ。
「だ、誰か!」
声を張り上げればすぐに受けの侍女が入ってきた。
老齢な侍女は受けの姿を見て悲鳴を上げ、すぐさま手当を始めた。
責めるような眼差しにいたたまれず部屋に戻れば、飄々とした執事がお茶を持ってきた。
「……妻は男だったのか」
「さようでございますね。領地運営もしっかりしてくださって助かります」
「なぜお前はそれを知っているんだ!もしや密通相手はお前かっ!」
「……何馬鹿なことを言っているんですか。しっかりと喉仏があったではないですか……もしかして本当に女と信じていたのですか!?」
信じられない、屋敷の誰もが知っているのにと驚愕されて、夫も驚愕してしまう。
あれほど美しく嫋やかな男がいるなど誰が信じるか。
しなやかな手足に細い腰はどう見たって女だと……女遊びの一つもしてこなかった夫は愕然とした。
執事は深く嘆息した。
「あの大旦那様ですらすぐに男だと気付いたというのに……なにをなさっているんですか旦那様……もしや奥様に無理強いを……!」
「……私はどうすればいいんだ。嫉妬で妻に乱暴をしてしまった」
頭を抱え執務机に沈んだ。
これには飄々とした執事も天を仰ぐ。
「すぐに奥様に薬を届けます。あれほど口を酸っぱくして無理をさせてはならないと……ああしてしまってはもう遅いですね」
なぜそこで追い打ちをかけるんだ。
他の男に心を寄せていたのではないかとずっと疑念を抱いていたのだ。
戦地に赴いている間も逢い引きするのではないかと気が気ではなかった。
帰ってきて聞いた妻の第一声が「離縁してくれ、密通した」だったら憤って当たり前だ。
そう自分に言い訳をして、けれどと思う。
『娘を息子の妻にする』約束だったではないか。
反故にされただけでなく、騙されていたのだ、ならば……。
そこにつけ込んで妻を縛り付けるしか思いつかなかった。
卑怯な手と理解していても、他に引き留める手立てを持たない夫は次の日から妻を抱いた。
傷つかないよう、衆道の際に使う香油を繋がるための蕾に塗り、想いのまま妻を貪った。
男と分かっても手放せない程、想いが募って爆発寸前まで肥大してしまった。
だから自分の下で悶える受けの姿に興奮しては何度も抱いてしまうのだった。
次第に受けの身体は夫を受け挿れるのに慣れ、長大なもので蹂躙しても悦びの声を上げるようになった。
嬉しかった。
この手に堕ちてくれたのが。
「約束を違えたこと、その身体で詫び続けるのだ」
心にもないことを口にして、受けをこの家に、自分に縛り付ける。
だが気になることもあった。
夫に抱かれ悦び悶えても終わった後には涙を流し、その身体を抱き締めるのだ。
あれほどしがみ付いてくれたのが白昼夢だったのではと思うほどに悲愴な顔をする。
そして食事も減った。
啄む程度で下げてしまうのだ。
日に日に細くなっていく受けに労りたいのに、できなかった。
どこかで自分の存在をもっとその身に刻みつけたいと願っていた。
屋敷にいなくても忘れる暇がないほどに夫のことだけを考えて欲しかった。
執事は何度も夫を止めたが聞き入れはしなかった。
その日も妻の寝室を訪れた。
夜着を身につけ寝台に座っていた受けはビクリと細い肩を震わせ、同じように震える手でそれを脱いだ。
痩身が姿を現す。
浮き出たあばら、尖った肩、木の枝のような腕。
どれも痛ましいのに、美しい彼のすべては自分のものだと思えば滾り、それを愛おしいと告げる代わりに身体にぶつける。
騎士の体力をぶつければ相手が毀れると分かっていても、止められなかった。
夜毎確かめなければ発狂しそうだった、このすべては自分のだとただ確かめたかった。
受けは恭順に受け入れ、そしてすべてを受け止めてくれた。
無理をさせたと分かっていてもどう労れば良いか分からない。
ほろりと受けの眦から涙が零れ落ちた。
「……泣いても話してはやらぬ。お前のすべてが誰のものか刻み込んでやる」
違う、言いたいのはこんな言葉ではない。
初めてその姿を目の当たりにした時に心奪われたのだ。
世界にこれほど美しい存在がいるのかと、それが自分の妻になるのかと神に感謝したほど、惹かれてしまったのだ。
けれど、力でしか制することを知らない夫は、心の底にある本心を受けに向けて紡ぐことができずにいた。
すべてを告げたらこの手からすり抜けて逃げてしまうのではと不安に囚われてしまったからだ。
硬い親指の腹で涙を拭い、それを舐めた。
甘くてもっと欲しくなった。
もう一度受けを貪るために覆い被さったが、悦びの音楽を奏でるばかりだった受けの唇が歪み、何度も開閉した後、小さな音を転がした。
「お怒りのまま、誅戮してくださいませ」
また一粒涙が零れ落ちた。
それもまた指で掬い舐める。
「殺しはしない。お前は一生を私の元で過ごすのだ」
「……死ぬことすら許されないのですね」
受けは顔を寝台に埋め泣き声を殺して涙を敷布に吸わせた。
ぎりっと奥歯を噛み締めた。
「ああ、許さぬ。お前のすべては私のものだ。勝手にできると思うな」
死ぬなどと言わないでくれ。
側を離れると願わないでくれ。
祈りを込めて細い身体を抱いた。
ただ抱き締めた。
小さな頭を胸に抱き寄せれば、敷布に吸わせた涙が夫の胸を濡らした。
このままではダメだ、本当に受けが死んでしまう。
自分が追い詰めたというのに、あまりの細さに怖くなった。
なんとかしなければ……。
受けが泣き疲れ眠るまで抱き続けた。
結婚して緩やかに寝台に横たわるのすら初めてであると気付かないまま。
夫が夜、訪わなくなった。
夜毎罪を濯ぐように抱かれたが、とうとう飽きられたのだろうか。
自嘲して受けは窓から遠くを見た。
あれほど辛く死にたいと思ったのに、抱かれなくなれば寂しいと思うなど勝手だ。
元はと言えば一家で夫を騙したこちらに非があるというのに、蹂躙されて被害者面も甚だしい。
だが辛いのだ。
男と判って道具のように使われるのが。
自分もまた道具になれればこれほどまでに苦しみはしなかっただろう。
けれど貪られ身体中をまさぐられ、沸き立つのが悦びとなってしまった。
同時に求めてくれるのを勘違いしそうになる、罪があるから罰するのではなく、この身を欲してくれているのではないかと。
愚かにも夢想してしまうのだ。
自分の愚かさを掻き消したくて塗り潰したくてしまいたくて、隠す代わりに消えてしまいたくなった。
けれど、消える術などどこにもない。
罪人を誅戮するのは騎士団の役目でもある。
あれほど死ぬのが恐ろしかったのに、今は求めてやまない。
侍女が入ってきた。
「ばあや、私はどうすれば良かったのだろうね」
夫に犯された怪我をしてから一気に老け込んだ侍女に声をかけた。
「受け様……ああ、なんとお労しい」
ハンカチに涙を吸い込ませ、細くなっていく受けを直視できずに俯く。
「先に謀ったのはこちらだ。旦那様に罪はない。私を嬲ることでそのお心が鎮まればと思ったが、もう辛いのだ。どうして私はあの方に心を寄せてしまうのだろうね」
なにも感じなければ辛くはなかった。
与えられる愉悦を貪るだけの存在になれた。
けれど愚かな自分は逃げるためか、心を欲してしまう。
好かれるところなどどこにもないのに。
また自嘲し遠くを見た。
侍女がすすり泣く。
涙を拭ってくださった。
抱き締めてくださった。
それだけで救われたような心持ちになったのだ。
もっと抱き締めて欲しくなった。
もっと話をしたいと願った。
けれど、自分は罪人だ。
あの人を謀った愚かな罪人だ。
許されるはずなどどこにもないのに、なぜ心地よいものを求めようとするのか。
馬車が門を出て行くのが見える。
今日も夫は出かけたのか。こちらを見てくれずに。
嘆息すらおこがましくて、息を飲み込んで堪える。
「詫びるのすら疲れるということがあるのだね、本当に私は愚かだ」
ギュッと細くなっていく身体を抱き締めた。
食事をまともに摂ることができず細くなっていくが、心が閊えれば食事など喉を通るはずもない。
どこに行くかも知らされぬようになっては、妻の務めなどどこにあるのか。
細くなって締まってからは疲れやすくなってしまった身体では領地運営もままならず、執事に丸投げだ。
これではただ寝台に転がる丸太でしかない。
もっと早く真実を告げたらどうなっていただろうか。
少なくとも、ここまで心が痛むことはなかっただろう。
夫を想うこともなかったはずだ。
自分がいる意味はどこにあるのだろうか。
判らず、ぼんやりと遠くばかりを見つめた。
夫はその日、帰っては来なかった。
とうとう嬲ることに飽いて意中の女性のところに訪うようになったか。
それも仕方ない。
いつでもこの部屋を明け渡せるよう荷物を纏め始めた。
侯爵家で自害などしては次の妻に申し訳ない。
死ぬのならばここを出てからだ。
受けは侍女に指示していつでも出られるようにした。
夫が帰ってきたのは、それから十日経ってからだ。
その間、苦しくて本当に食事が喉を通らなくなった受けは、窓辺の椅子に座るばかりの存在となってしまった。
階下では人の声がするが、赴くのすら辛くてできなかった。
ああ、出迎えなかったことを夫は怒っているだろう。
偽りでも妻としての責務を果たさないのだから当たり前だ。
けれど本当に身体が動かないのだ。
指一本動かすのですら億劫で、気を抜けばそのまま眠ってしまいそうになる。
言葉の意味すらわからず、ぼんやりと喧騒を聞いていると荒々しい足音が近づいてきた。
乱暴にドアが開く。
虚ろな目で眼球を動かしてその姿を確かめようとしたが、それにすら疲れて目を閉じた。
「なぜこんなことになっているんだっ!」
ああ、あの人の声だ。
今日も怒らせてしまった、どうすればその怒りは鎮まるのだろうか。
服を脱いで寝台に横たわれば良いのか。
けれどドレスを脱ぐのは容易くない。
侍女を呼ぼうとして声すら発するのが怠くなる。
「こんなに痩せてしまって……誰か医者を呼べ!」
周囲がざわめく。
逞しい腕に抱き上げられ、擽ったくなる。
結婚の時にこうして抱き上げられたのが酷く懐かしい。
あの時は殺されるのではないかと怯えたが、今はこのまま腕の中で死んでしまいたいと願ってしまう。
たった三年で。
自嘲しようとして、頬に力を入れることすらできなくなった。
寝台に横たえられる。
硬い指の腹が頬をなぞりかさついた唇を撫でる。
温かいものが唇を塞ぎ隙間から少量の水が流し込まれる。
受けはそれに咽せ身体を丸めた。
だが許さずまた唇を塞がれ水が与えられた、何度も。
水を飲むのすら億劫でできなかったのをぼんやりと思い出す。
「死ぬな……死なないでくれ」
死のうとは思っていませんと伝えたいのに、言葉が出てこない。
侍女が騒がし部屋を出たり入ったりしている。
「お前に死なれたら私はどうすればいいんだっ!……私が悪かった、だから死なないでくれ」
いえ、悪いのはこちらです、旦那様は何一つ瑕疵はないのです。
心でのみ伝えてそっと目を閉じた。
生きる気力をなくしてしまった自分をこのまま抱き締め続けて欲しいと願う。
そうすれば思い残すことなどないだろう。
肺いっぱいに夫の匂いを吸い込んで、意識を手放した。
「受けっ!目を覚ませ受け!」
「旦那様邪魔です、退いてください」
「なぜこうなるまで放っておいたんだ!!」
「そっとしておけと指示したのは貴方でしょう!ああ、邪魔だ。誰か旦那様を連れ出せ!」
「それが主に対する言葉遣いか!」
「貴方はなにもかもが間違ってるんですよ!ああ、言うことを聞くんじゃなかった」
幼い頃の兄貴風を吹かしていた時の喋り方になった執事の指示により、館の男達が抗う夫を力尽くで隣の部屋に連れ出した。
同時に硬く鍵をかけられ、ついでとばかりに開かないよう鎖まで巻かれる。
まるで猛獣のような扱いに憤って部屋の中で暴れ回った。
両家を集め説明を求めなんとかこの結婚をどうにかしようとしたのに、帰ってきたら受けはずっと食事を摂っていないと報告され冷静でなどいられるか。
憤って当たり前だろう。
しかも十日ぶりにあったその姿は今にも儚みそうで怖くなったのだ。
「頼む……受けを死なせないでくれ」
懇願を神に繰り返し、医師の報告を聞くまで正気ではいられなかった。
極度の栄養失調のため、水のようなスープを飲ませるしかないと言われ、夫自ら受けに食事を与えた。
下階で両家の親が待っているのも忘れ、ただただ受けの側にいた。
受けがぼんやりとだが目を覚ましたのは翌日だが、意識がはっきりしたのはそれから五日経ってからだった。
気が気でなく、一時も側を離れることができなかった。
受けの兄や父が寝室を訊ねてきたが、細くなった受けの姿を見て息を飲み顔の色を懺悔に変え出て行った。
自分達がどれほど愚かなことを彼に強いたかを思い知ったのだろう。
それは夫も同じだ。
自分に都合の良い言い訳をして受けを好き勝手してしまった。
後悔してもどうしようもない。
「離縁……しかないのか」
彼を助けるための選択肢はそれしか存在しない。
両家で賭をなかったことにして、受けにもう一度初めからやり直したいと懇願するつもりだった。
結婚の前から。
愚かな自分にはそれすら許されないと突きつけられたようで、夫は己を責め続けた。
浅かった呼吸が深くなり、毎日のように診療に訪れた医師からこのまま食事を続ければもう大丈夫だと言われ安堵したが、同時に受けと向き合わなければならない現実に怯えた。
離縁しかないと判っていても容易に受け入れられない。
身動きが取れなくなるほど受けを愛してしまった。
「私はどうしたら良いんだ……」
安らかな呼吸を繰り返す、少しばかり顔色の良くなった受けの寝顔を見つめながら自問した。
脅してこのまま……とまた彼を傷つける方法を思い浮かべては慌てて掻き消す。
ならばこの屋敷に閉じ込めて……ともっとダメな方に行こうとする思考にストップをかけ、落ち込んだ。
引き留める材料など最初から存在はしないのだ。
受けを怯えさせてばかりだった自分がどうやって縋れば良いのかすら判らない。
けれど、初めて会った時のように健やかに歩く姿を見たいと願う。
「すべてを最初から始めさせてくれと乞えば、お前は許してくれるだろうか」
返事がないと判って問いかける。
乾いたふくりとした唇が痛ましくて、侍女が用意した濡れハンカチを優しく押し当てる。
こんなにも力加減を考えて何かをするのは初めてで、どうしていいか判らない。
「早く元気になってくれ……お前が生きてくれるだけで満足しなければならないんだな」
自分に折り合いを付けるように口にする。
なにもできない自分がもどかしく、何を口にしても拒絶されそうで怖かった。
目を覚ました時、またその目が怯えを含んで自分を見つめたらと思えば、触れることすらできない。
諦めるしかない。
諦めるしかないんだ、手を離すしかないんだ。
きつく手を握り、その瞬間の覚悟をした。
何度かスープを口にした記憶を抱え、ゆっくりと瞼を押し上げた。
この三年、見慣れてしまった天蓋が飛び込んで、視界の端に大きな身体があるのに気付いた。
「……だ……なさ……」
「無理して喋らなくていい。起き上がることはできるか?」
珍しく夫の物言いが優しく、音がとても心地よい。
これほど美しい声を流す方だったのかと知り、自分がどれほど彼を怒らせ続けていたのかを知る。
「だ……じょ……」
声が上手く出ない。
夫が力ない身体を起こし、すぐにスープを救ったスプーンを口元まで運んできた。
僅かに唇を開けば、サラサラとしたスープが流れ込んでくる。
何度も繰り返し、けれど半分も減る前にもうお腹がいっぱいになる。
首を振って唇を閉じれば、夫はすぐにスープを下げた。
身体を横たえ、布団を掛けてくる。
「気分が良くなったら少し時間をくれないか。皆が集まっている」
皆とは誰だろうと首を傾げれば、ノックの音がした。
「受けが起きたと聞いたが……」
兄の声だった。
受けは慌てて起き上がろうとして、けれどそれだけの力がない。
ああ、とうとうこの時が来たか。
自分は離縁を言い渡されるのだ、兄がいるということは当然父もいることだろう。
断罪の時間だ、こんな所で寝ている場合ではない。
しかし起き上がることができない受けが何をすることもできず、縋るような眼差しを夫に向けるしかなかった。
すぐに気付いてくれ受けの身体を起こすと、ガウンを掛け抱き上げてくれた。
しっかりとした足取りで階段を下りてもふらつくことなく下階に連れて行ってくれた。
談話室へと入れば、父と兄だけでなく将軍までがソファに座していた。
「大丈夫か、受け……」
兄が近づいてきたがすぐに顔色を変え足を止めた。
見上げれば夫がじろりと睨めつけている。
ゴホンと将軍が咳払いをして顎をしゃくった。
嘆息して夫が側にある一人駆けのソファに腰掛けた。
膝に受けを乗せて。
父と兄が立ち上がり深く頭を下げた。
「嘘をついて済まなかった」
「いやいや。言ってくれれば良かったんだ、そしたら代案を出したのになぁ」
将軍が豪快に笑う。
「だが、阿呆息子が衝動のままにご子息を傷つけたことは謝らなければならない。申し訳なかった」
こちらに頭を下げるのが信じられず慌てた。
夫の膝の上から下りて自分も頭を下げないといけないはずなのに、夫の腕に身体を預けなければ座ってることもできない受けは視線だけを彷徨わせた。
「私からも詫びさせてくれ。酷いことをして悪かった、お前には何の罪もないというのに」
そんなことはない。
父に命じられ諾々と従った自分にだって罪はある。
緩く首を振れば、初めて夫の表情が和らいだ。
こんなにも穏やかな表情をするのかと驚き、ほんの少し期待が芽生える。
もしかしたらと顔をもたげ、だがすぐに心の奥底に押し込む。
謝ってくれたのはあくまでも嬲ったことにだけだ。
心を寄せてくれたわけではないと必死に心に言い聞かせる。
期待できるほど、自分が無実なわけではない。
本来であれば父や兄と共に頭を下げなければならないのだから。
下りようとしたが、夫が腕に力を入れ阻んでくる。
「まあこの結婚をどうするかだ。お前はどうしたいんだ?」
「私は……」
夫が初めて言葉を濁した。
再び厳しい顔をし始める。
ああやはりこの結婚を公開しているのだ。
当然だ、男を妻に迎えるのがどれほど恥ずかしいことか、幼い子供ですら知っている。
だからこそ、離縁を促したのだ。
自分は恥でしかないのだから。
今ですら女物の夜着を身につけている自分が恥ずかしくて俯いた。
悲愴な顔をしたのか、夫が席を立ち、受けをソファに下ろした。
そして床に膝を突いた。
「お前に随分と酷いことをして本当に済まなかった。もし許してくれるのであれば、もう一度私との結婚をやり直してはくれないだろうか。……嫌であれば、離縁してくれて構わない」
離縁を絞り出すような声にハッと顔を上げた。
なぜ夫がこんなことをいうのか判らない。
男の妻など恥でしかないはずなのに、なぜ再び結婚をと言うのだろう。
子供を産むこともできないのだ、妻として据える意味が分からない。
縋るように見つめれば、夫が手を取った。
優雅な仕草で手の甲に口付ける。
「お前を愛してしまったのだ」
言葉が信じられなかった。
驚きに目を見開き、視線を彷徨わせる。
自分は謀れているのではないかと慌て、けれどじっと見つめてくる夫の熱い眼差しに落ち着きをなくす。
また期待が芽生えてきては葉を伸ばしていく。
「離縁は……できればしたいくないのだ。私を選んではくれないか」
ああそうか、離縁の汚名を被りたくはないのかと納得する。
「りえ……は、み……つ……」
受けに密通の罪を着せればなにも穢れはしない。
三年も戦地を駆け回った夫の不在に心を移した妻を捨てたとなれば、同情を寄せられるのは夫の方だ。
けれど、夫は首を振った。
「私を慕って欲しいのだ、生涯を私と過ごして欲しいのだ」
ポケットに忍ばせた指輪を取り出し、枯れ木のように細くなった指に嵌めていく。
夫の瞳と同じ色の宝石が嵌まった指輪にキスを落とす。
「私の妻はお前だけだ。頼む、私を受け入れてくれないか」
ズクリと胸が疼く。
心を寄せていいのだろうか。
もう傾きすぎた自分の心を解放していいのだろうか。
皆がじっとこちらを見つめているのも忘れ、夫を見つめた。
指を握る手は熱く、血潮が巡っているのを教えてくれる。
流れ込んでくる熱が指先から伝わって心までをも温め、それを栄養にして期待の芽が育っていく。
指を折ってみた。
強く力を入れることはできないが、夫はハッと見上げ、また指を見つめた。
期待していいのだろうか。
もう一度指を折る、それだけで夫の顔がまた和らいだ。
「それは了承と取っていいのか?」
逡巡し、頷く。
「ありがとう、受け。もう決して傷つけたりはしないっ!」
大きな身体に抱き締められ、その温かさにうっとりと目を閉じた。
「いやいや良かった。もし離縁となったら代償としてお前を後添えにしてやろうと思ったのにな」
将軍が冗談を口にし、父が蒼ざめるのが二人の傍らで行われたが、もう受けの耳にも夫の耳にも入らない。
用は済んだとばかりに再び抱き上げられ、部屋へと戻される。
寝台へと横たえ、布団を掛けられる。
「元気になったらもう一度、最初から始めてもいいか。どこかへ出かけ愛を囁かせてくれ」
そんな言葉を貰っても良いのだろうか。
胸が熱くなるのを感じた。
またするりと期待の枝葉が伸びていく。
小さく頷くと、優しく口付けられた。
「今は回復に専念してくれ」
夫の掌の温かさを味わったままゆっくりと目を閉じた。
次に目を覚ましたら自分も伝えよう、もう慕っているのだと。
それから二人はデートを重ね再びプロポーズをして、こっそり二人だけの結婚式を挙げてと心を深める作業に専念する一方で、戦地から夫が贈ってきた数々の「妻に贈るに相応しくない物たち」をどうするか、屋敷の皆が顔をつきあわせて頭を悩ませるのであった。
しかしそんな使用人達の苦悩も知らず、二人は仲睦まじいまま年を重ねていくのである。
おしまい
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