上 下
35 / 110
第二章

9-2

しおりを挟む
 一年後の自分はどうなっているだろうか。柾人の隣に立てる人間へと変わっているだろうか。どんなことがあっても動じることなく彼を支えられる人間になれるだろうか。

 家族の話よりもそちらのほうがずっと不安だ。本当はこんなところにいる余裕などない。あの日動揺してしまった自分を未だに見つめ直すことはできないし、話を聞いてくれない柾人の心が分からないままだ。何重にも絡まった糸のように解くことができずにいる。

 父と兄の話をぼんやりと聞きながら、ただただ気持ちは東京にいる柾人へと向かう。

 今頃はどうしているだろうか。大晦日の今も仕事をしているのだろうか。仕事が終わって家に帰って、一人だけの年末年始を過ごすのだろうか。

(逢いたいな)

 ここにいるよりもずっと柾人の側で共に過ごしたい。

 二人で料理をして、片付けて、テレビを付けなくても穏やかな時間が過ぎていくのを感じながらただ相手の体温を感じて……。

 その後に必ずするであろうことまで想像してギュッと下腹部に力が入る。こんな淫らな自分を必死に隠しながら、あまり美味しくない夕食を進めていく。満たされればそれでいいとばかりに実家の田んぼで作られた米を味わえば、少しだけ眉間に皺が寄った。

(おじいちゃんの頃と味が変わった?)

 もう少し甘みが強い米だったように思える。米の種類を変えたのだろうか。

 いつもと違う味わいに違和感を感じながらちらりと母を見れば、その目が険しくこちらを睨めつけてきた。黙っていろということと感じ、やはり味が変わったのだと理解する。何のために、なんて聞こうものなら殴られるだけだと分かっているから口を噤んでおく。元々家業を継ぐ気もないのだから黙っているのが得策だ。

 ただ静かに今年最後の食事を終え、当たり前のようにちゃぶ台から離れることなく新たな酒を飲み交わした彼らの汚した食器をまとめて台所へと持っていけば、食べるとき以外座ることのない母が当たり前のように洗い物を始めた。

「朔弥、あんたの大学すごいところなんだってね。婦人会で聞いてお母ちゃん初めて知ったよ」

「うん……」

 私立大学ではかなり優秀な部類に入るだろう。宮本が言うには私学最高峰らしいが、大学に進学できるかも分からなかった朔弥は、大学のランキングなど調べてはいないから自分が通っている大学がどれほどの学力かもよく分かっていない。

 ただ柾人や和紗が卒業した大学は誰もが知っている最高峰だということくらいしか理解できていない。

 テレビを見ていればもしかしたら理解していたかも知れないが、家長や跡継ぎ以外が好きにテレビを見ることすら許されない。だから朔弥はどんどんと世界から隔離されたような気持ちになった。

 高校がなければ完全になにも知らないままで、父と兄の傀儡となっていただろう。自我があることを否定するこの家で、ロボットのように農業に従事して、虐げられ。

 あのままここにいたらきっとこの心は死んでいただろう。

 そして半死の心に活力を与えてくれたのは、他でもない柾人だ。市川はこの心に新しい傷と慣れ親しんだ寂しさに与えただけだった。

(柾人さんに会いたい……)

 家族という形をなしても心を通わせることのないこの場所に、自分の安寧はない。

 どれほど婦人会に褒められる息子であっても、父も母も根底を変えることはない。

 朔弥はあくまでも兄がいなくなったときのスペアだ。

 兄がいなくなるまではただの道具でしかない。

「朔弥、ちょっと来い」

 居間から兄の大声が飛び、母は当たり前のように朔弥に背中を向けた。それは命令に従えと言っているのと同じだ。自分は関わりのないものだと告げるその背中はを見つめ、自分が幼い頃に戻ったような気がする。

 兄の横暴を訴えても今のように背中を向けるだけの母。それをどれだけ寂しいと思ったことだろう。

 聞こえないように嘆息して居間へと向かえば、片付いたちゃぶ台の上には何かの資料が散乱していた。

 この家の跡取りになるための修行だと県内の小さな会社に勤めている兄は意気揚々とその紙の束の一つを朔弥へと投げてきた。

「なに、これ」

「うちの法人化と事業拡大の計画書だ」

 たしかにそんなもったいぶったタイトルが書き連ねてある。

 自分の定位置に座って書類をめくっていく。

(なんだよ、これ……穴だらけじゃないか)

 だがこの企画書を見て父はとても満足げだ。

「凄いな、勝弥かつや。こんな方法があるのか、さすがオレの息子だ。地元の国立大を出ただけのことはある」

 農協に卸す価格が安すぎるため、直販しようというのはどこの農家でも簡単に思い浮かぶ方法だ。ネットの通販大手サイトを使いBtoCへと切り替えようとしているのも見飽きるほど当然のやり方。だが兄の企画書には大きな穴が存在していた。

「これ、初年度の利益がおかしすぎないか」

 贈答用の農産物を農協に卸す価格の倍以上に設定し、それが瞬時に売れると見積もってある。しかも初期費用は随分と安く設定してあり、初年度に回収し利益も出ると。

 そんなはずがない。贈答用とするなら化粧箱やラッピングは自分達で揃えなければならない。今以上に人手が必要だし、米だって農協が指定する袋に入れればいいのとは違い、精米など相応の準備が必要だ。

 なによりもすでにネットには数多の農家が登録している。その中で勝ち抜き、自分達が作ったものを買って貰う戦略がそこには存在していない。出せば確実に売れ、リピーターが新たな客を呼ぶことしか想定されていない。

 リスクが一切記載されていない企画書だ。

 とてもじゃないが、父と母の二人でできるものではない。

「なんだ、おい。まだ学生のお前が偉そうなこと言ってんじゃねーよ」

 その学生でも分かるほどの穴だらけの企画書なのだ。

 サーシングで目にする企画書はもっと綿密だ。必要な人員に工数、そこから生み出される利益想定と損益までが綿密に記載されている。その両方を天秤に測り、リスクを承知の上で行うかどうかをジャッジするのが柾人たち上層部の仕事だ。

 そこまで先を想定していない楽観的な企画書を自信満々に出し鼻を高くする兄、その違和感にすら気づかずに諸手を挙げて褒めそやす父。

 まだ学生で実際に仕事をしていない朔弥でもこれが失敗することくらい簡単に理解できた。

「ネットで新たな顧客を開発するのは悪くないと思うけど、初年度はここまで売れないと思う。もし誰も買わなかったらどうするんだ? その後の商品を農協は引き取ってくれないよ」

 熟し切った農産物を引き取るのは難しいだろう。傷があっても多少値段が下がっても引き取ってはくれるが、腐ってしまう直前のものを市場には回せない。今ある生産数の三分の一もネット用に確保して売りさばくのは難しい。

 なにより、競合する相手が数多いるネットでどこまで差別化ができるかまで考えているのだろうか。
しおりを挟む
感想 59

あなたにおすすめの小説

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

平凡な俺が双子美形御曹司に溺愛されてます

ふくやまぴーす
BL
旧題:平凡な俺が双子美形御曹司に溺愛されてます〜利害一致の契約結婚じゃなかったの?〜 名前も見た目もザ・平凡な19歳佐藤翔はある日突然初対面の美形双子御曹司に「自分たちを助けると思って結婚して欲しい」と頼まれる。 愛のない形だけの結婚だと高を括ってOKしたら思ってたのと違う展開に… 「二人は別に俺のこと好きじゃないですよねっ?なんでいきなりこんなこと……!」 美形双子御曹司×健気、お人好し、ちょっぴり貧乏な愛され主人公のラブコメBLです。 🐶2024.2.15 アンダルシュノベルズ様より書籍発売🐶 応援していただいたみなさまのおかげです。 本当にありがとうございました!

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

【BL】男なのになぜかNo.1ホストに懐かれて困ってます

猫足
BL
「俺としとく? えれちゅー」 「いや、するわけないだろ!」 相川優也(25) 主人公。平凡なサラリーマンだったはずが、女友達に連れていかれた【デビルジャム】というホストクラブでスバルと出会ったのが運の尽き。 碧スバル(21) 指名ナンバーワンの美形ホスト。博愛主義者。優也に懐いてつきまとう。その真意は今のところ……不明。 「僕の方がぜってー綺麗なのに、僕以下の女に金払ってどーすんだよ」 「スバル、お前なにいってんの……?」 冗談? 本気? 二人の結末は? 美形病みホスと平凡サラリーマンの、友情か愛情かよくわからない日常。

初心者オメガは執着アルファの腕のなか

深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。 オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。 オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。 穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

精霊の港 飛ばされたリーマン、体格のいい男たちに囲まれる

風見鶏ーKazamidoriー
BL
 秋津ミナトは、うだつのあがらないサラリーマン。これといった特徴もなく、体力の衰えを感じてスポーツジムへ通うお年ごろ。  ある日帰り道で奇妙な精霊と出会い、追いかけた先は見たこともない場所。湊(ミナト)の前へ現れたのは黄金色にかがやく瞳をした美しい男だった。ロマス帝国という古代ローマに似た巨大な国が支配する世界で妖精に出会い、帝国の片鱗に触れてさらにはドラゴンまで、サラリーマンだった湊の人生は激変し異なる世界の動乱へ巻きこまれてゆく物語。 ※この物語に登場する人物、名、団体、場所はすべてフィクションです。

社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈

めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。 しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈ 記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。 しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。 異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆! 推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。