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「そろそろ薬の量を減らそう、碧くん」
月に一度の診療で小学校からずっと通っていた病院を訪れた碧は、ずっとお世話になっている気心の知れた医師の言葉にぱぁぁっと顔を輝かせた。
「本当に!?」
「もう身体もしっかりしてきたからね。突然やめると大変なことになるから、少しずつ減らして、半年後を目標に薬のいらない生活に戻ろうね」
「ありがとう、医師!」
「結婚おめでとう。あの小さかった碧くんがもう結婚する年になったんだね」
「えへへ」
苗字が変わった碧のカルテを感慨深く眺めながら、医師が穏やかな表情で頭を撫でてくる。
「今日の結果を書いた紙を用意するから旦那さんに渡しておくんだよ。この病気は家族の理解が一番大事だからね」
「はい!」
今まで一錠だった薬を今日から半錠にし、それを一か月続けるよう指示され、碧は嬉しそうに診察室を出た。
(一輝さんの言ったとおりだ)
病気はよくなると言い続けてくれた一輝と結婚した途端、改善の方向にいってるなんて、結婚した時と同じくらいの喜びだ。薬を飲まなくなれば、これからもっと好きなことができる。行きたいところにも行けるし飛行機だって乗れるかもしれない。そうすれば半年後の新婚旅行はどこにでも行けるようになる。
嬉しくてスキップしたくなるほど浮かれた碧に、実家からわざわざついてきてくれた執事が会計を済ませ薬を受け取っている。
「いかがでしたか、碧様」
「薬の量を減らしていいんだって。嬉しい」
「それはようございました」
ずっと菅原家を取りまとめている執事が、自分のことのように喜んでくれるのを見て、碧も喜びが増していく。
「ではこちらを天羽様にお渡しください」
渡された封筒と薬を鞄にしまい、乗り慣れた菅原家の車に乗り込む。
通院の日だが、一輝が仕事を抜け出すことができないため、実家に連絡をしてくれ、通院のためだけに来てもらったのだ。
菅原家を実家と呼ぶのがちょっと照れくさいなと思いながらも、久しぶりに会えるのが嬉しかった。
「天羽様との生活はいかがですか?」
優しい執事の言葉に、急に碧の顔が曇った。
「僕……上手くできてなくて……今日も目玉焼き焦がしちゃった」
新米主婦あるあるを聞いた執事と運転手は、碧に気付かれないように相好を崩した。
「せっかくお手伝いさんに教えてもらったのに、全然上手くいかないんだ」
料理だけじゃない。掃除も洗濯も、どうしてか自宅のようにはいかなくて落ち込んでしまうと漏らす。
碧の家事の後を執事と家政婦がフォローしまくったからだとわかっているのに、実家に仕える面々はそれを口にしない。
「勝手が違うのでしょう。新たな家政婦をそちらに派遣しましょうか」
「それじゃあ申し訳ないよ。僕主婦なのに……」
「天羽様はなんとおっしゃってますか?」
「一輝さんは大丈夫とか美味しいとか、それしか言わないから。一輝さんは仕事で帰ってくるの遅いのに、一緒にやろうって頑張ってくれるから申し訳なくて」
本当なら自分が完璧に綺麗にした部屋で一輝を出迎え、美味しい料理でもてなして一日の疲れを癒して欲しいのに、実際は焦げてしまった料理を食べさせ、掃除まで一緒にさせてしまうほどの体たらくぶりだ。ワイシャツはとうとうクリーニング屋に任せようという結論になるしで落ち込んでしまう。
「では家事の先生を派遣しましょう」
「ごめんなさい……」
「謝ることはございません。では早速手配をし、明日からそちらに向かわせます」
「ありがとう。僕本当にダメだなぁ」
「新妻になられたばかりでいらっしゃるのですから、これから上達なさいます」
未だに実家に頼らなければ家の切り盛り一つ満足にできないのがもどかしい。
理想と現実とのギャップに落ち込みながら、マンションまで送ってもらう。
いつものように後部座席の扉を開ける執事に、またしばらく会えなくなるのかと少し寂しさを感じながら車を降りた。
「ではまた来月、お迎えに伺います」
「ありがとう」
自分がエントランスをくぐるまでは執事も運転手もそこを動かないとわかっているから、名残惜しいけれど別れを告げる。そして最上階にある一輝と二人で暮らす部屋に戻ると、流しに置きっぱなしにしていた嫁入り道具の焦げ跡の残るフライパンと格闘する。
「このIHのコンロがいけないのかな?」
実家のとは違うからきっと上手くいかないんだと思いながらも、もしガスコンロで失敗したらもう言い訳できない窮地に立たされている自分を恥じた。
結局今日も、焦げた目玉焼きと苦いコーヒーを出してしまったし、バケットもうまく切れなくていびつな形だった。上手くできたのは手でちぎって皿に盛るだけのサラダだけだ。
キッチンシンクに重ねた食器類を食洗機にいれ、スイッチを押すのだけは上達したが、家事をしている気にはなれない。
実家の家政婦のように手で洗ってみたら見事に割ってしまった過去を思い出す。
「あの時も一輝さんにフォローさせちゃった」
『碧くんが指を切って痛い思いをするくらいなら、文明の利器を活用しよう』
優しい言葉を思い出すと胸が締め付けられる。一輝は家事に不慣れな碧に怒りもしないし、どこまでも優しい。壊滅的な出来栄えの料理でも笑って食べてくれるから余計に情けなくなる。碧が人よりも上手にできることがあるとすれば、絵を描くことぐらいだが家事には全く役に立たない。
簡単に家を掃除して乾燥機にかけた服を取り出し畳んでいく。家政婦のようにきっちりできないが自分のできる精いっぱいをとにかくやってみる。
でももっと上達したいし、一輝のためにできることをもっと増やしたい。
せっかく病気がいいほうに向かっているのだから、もっとちゃんとした奥さんになりたい……。
「僕、一輝さんの奥さんなんだ……なんか夢みたい」
洗濯物を畳む手を止め、頬を赤くする。
執事に何度も新妻と言われてしまってこそばゆかったのを思い出す。
「ふふ、一輝さんの奥さんなんだ」
来月には挙式もする。母たちが張り切っていろんな演出てんこ盛りの式にしたと言っていたけれど、どんな内容なのかは碧も一輝も当日まで内緒にされている。だから詳細は分からないし、招待客リストすら碧の手元にはない。結婚式なんて参加したことのない碧にはわからないことばかりだ。果たしてどんな演出なのだろう。
やれる家事を終わらせると、碧は一輝が自分のために整えてくれたアトリエに入る。
今は実家の庭を最後に描いた風景画を仕上げているところだ。これが終わったら次はこのマンションの窓から見える景色を描くつもりだ。それと、内緒でカッコイイ一輝の姿絵を今制作している。
人物画はやはり難しくて、どうしても一輝のカッコよさがうまく表現できず、何度も描いては消している状態だ。せめて一輝の写真でもあれば上手く描けるのかな。
「そうだ、写真だ!」
ここは一輝の部屋だ。きっと写真だって何枚かあるだろう。
いつも彼が物を収納している寝室のウォークインクローゼットを開ける。畳んだ衣服を収納するついでに、写真がないかを探してみる。クローゼットに備え付けのタンスの横には段ボールが積まれており、いくつか開けてみる。
「ないなぁ」
ならリビングにあるチェストだろうか。
上から順に開けてみると一番下の収納容量が大きい抽斗に無造作に写真が入っていた。
「あった!」
カッコイイ一輝の写真だけちょっと借りようと写真の束を掴み、一枚一枚確認していく。
「ぁ……」
綺麗な女性や男性と抱き合う今よりも少し若い一輝の写真が何枚も出てくる。しかも裸のままだ。抱き合うだけじゃなく唇にを合わせている写真も出てくる。こんなこと、碧はしてもらっていない。抱き合うのだっていつも着衣のままだし、キスは相変わらず頬だ。
「この人たち……一輝さんの恋人さんたちなのかな」
過去なのだと思う。だってもう自分と結婚しているし、帰ってくるのは遅いが仕事だと言っていた。だからこれは昔だ。わかっていても金づちで頭を打ったような衝撃に動けなかった。
抱き合っている中には、一輝の手がスカートの中に入っているものもある。
(恋人同士って、こんなことするの? だったら夫婦は?)
一緒にいて家事して同じベッドで寝て、それで終わりじゃないのか。
「なにこれ……」
女性の豊満な胸を鷲掴みにしている一輝の手に釘付けになった。
ちらりと自分の胸元に視線を移す。
平べったく柔らかさなど全くない胸があるだけだ。当然だ、碧は男だからそこに膨らみなどありはしない。
「一輝さんもしかして……」
碧と写真と同じようなことをしないのはおっぱいがないからか。
それともこれは恋人にすることで妻は違うのだろうか。
どんどん写真をめくっていく。
一輝が裸で抱き合っているのは一人ではなく何人もいる。しかも相手が一人の時もあれば複数の時もある。しかも皆キスの写真は決まって唇だ。頬にキスをしている写真なんて一枚もない。豊満な胸にキスをする一輝もいた。
「ゃっ! なにこれ……」
舌を絡めた写真まである。
碧は慌てて写真をまとめ元の場所に乱暴に戻した。そしてその場から離れるためにアトリエに籠った。
一輝は過去の恋人とこんなことをしているのか。
もしかして、碧としないのは他に恋人がいるからなのか。
疑心が沸き上がってきて拭えない。同時にどうしてだろう、碧の身体の深い場所が熱くなってしまう。
「やだ……なんで?」
碧はイーゼルの前の椅子に座りながら自分の身体を抱えた。あの写真を見てから変な気持ちが沸き上がってくる。裸で抱き合っているのだけでも官能的でドキドキするのに……。
一輝が帰ってくるまで、碧は食事も作れずずっと部屋に籠っていた。
「碧くん、どうしたんだい?」
出迎えのないことを不審に思った一輝がアトリエを覗いてきた。
「ぁ……おかえりなさい」
顔を上げて一輝の顔を見た途端、数々の写真がフラッシュバックして顔が赤くなった。
「ずっと絵を描いていたのかい? キリが良くなったら休憩しよう。ケーキを買ってきたから」
それだけ言って一輝がアトリエの扉を閉めた。
もう一輝の帰ってくる時間になっているのに、あれからなにもしていない。その罪悪感に部屋から飛び出したが、チェストを目にするだけで固まった。
あの中には煽情的な写真がたくさんあるのを知ってしまったし、見てしまったから。
「どうした、碧くん」
「ぁ……なんでもない。ごめんなさい、僕ご飯の用意……」
もう月が昇っている空は暗く、建物には明かりが灯っている。いったい自分は何時間籠っていたのだろう、絵も描かずに。
「絵を描くのに夢中になっていたんだろう。だったら仕方ないよ。今日は早く帰って来れたから、どこかに食べに行こうか」
「でも一輝さん疲れているでしょ」
「今日はそれほど忙しくなかったからね。それにこの辺りは飲食店も多いから、たまには夜のデートをしようか」
デートという言葉に今朝までだったら胸が躍るくらいに喜ぶのに、気持ちが沈んだままだ。
「ごめんなさい」
項垂れたままの碧の髪を撫でる手はやっぱり優しい。仕事で疲れて帰ってくた一輝にまた気を使わせてしまった。家事もまともにできないのに気を使わせてばっかりだ。しかも、昔の写真で変な気持ちにまでなって、今も恋人がいるのではないかと疑ったりしてしまう自分が情けなかった。
こんなにも優しくしてもらっているのに。
涙ぐみ始めた碧に、一輝がキスをしてくれる。いつものように頬へ。
違う、あの写真のように唇にキスして欲しい。自分にもあんな風にして欲しい。だって写真の中の一輝がとても嬉しそうな顔をしていたから。碧だってあんな風に官能的な一輝を見てみたい。自分にキスをしてあんな表情をして欲しい。
でも恥ずかしくて口に出せない。
ただもやもやした気持ちだけが大きくなっていく。
写真を見てしまったことも口に出せず、一輝に肩を抱かれるままにマンションを出た。
「碧くんはなにが食べたい?」
「なんでもいいです」
「……今日は病院だったね。なにかあったの?」
「ううん、薬をね減らそうって言われました。病気もう良くなってきてるから半年かけて飲まなくてもいいようにしようって言われました」
「良かったじゃないか。半年後か……丁度新婚旅行の辺りだね。そうだ、新婚旅行先に希望はあるかい」
「特に……僕よくわからないから」
「では私の方で決めてしまうよ。任せてもらっていいかな?」
「お願いします……」
楽しい未来の話なのに、どうしても手放しには喜べない。
どうして?
何度も自分に訊いてみる。
一体どうしてここまで気持ちが沈んでしまうのだ。
一輝に恋人がいるのは当たり前だ。以前だって一輝の恋人に会ったことがあっただろう、とても綺麗な女の人に。だが一輝は自分の傍に戻ってきてくれた。それだけじゃない、その後に今まで関係のあった人たちと縁を切ったと知らせてくれたではないか。だから碧と結婚を前提の交際をしようと言ってくれ、今碧はその一輝の言葉通り結婚しているのに、なにが不安なのだ。
こんなにも優しい夫である一輝を相手に、どうして悲しい気持ちになってしまうのだろう。
わからない。
どうしていいのかも、自分の中をどう整理していいかもわからない。
でも、モヤモヤしたものが心の中をいっぱいにしている。
お洒落なレストランに連れて行ってもらい、大好きなパスタを口にしてもちっとも気持ちが晴れなかった。
翌日から執事が手配してくれた家事の先生について、一生懸命料理の仕方、掃除や洗濯の仕方を学びながらなんとか気を紛らわせるので精いっぱいだ。
そして迎えた結婚式、碧は式場側が用意した新婦の控室でぼんやりとしていた。女性のようにウエディングドレスや化粧が必要ないので白いタキシードを身に着け髪を整えればそれで終了だ。両親は来客の対応に追われ、ちょっと顔を覗かせるだけですぐにいなくなってしまった。
なにをしていいかわからないまま、ただぼんやりとするしかなかった。
重い気持ちのまま。
「どうしたんだ、碧」
「兄さんたち」
そんな碧を気にしてか、兄たちが控室へとやってきた。
「結婚式だというのに、随分と暗い顔をしているな。天羽となにかあったのか?」
「なにかあったらすぐに言うんだよ。僕たちはどんな時だって碧の味方だ」
二人の兄が傍にいてくれる、それだけで碧は少し元気になった。いつも味噌っかすな自分に優しい兄たちにそっと胸の内を打ち明ける。
「一輝さんの昔の写真を見て……そこにね、女の人と裸で抱き合ったり唇にキスをする写真があったの……でも僕、そんなことしてもらったことない……」
勝手にポロポロと涙が零れてくる。
梗はハンカチで碧の涙を拭きながら苦々しい表情をし、玄は天を仰いで目元を覆った。
あの野郎、なんて写真を撮ってやがるんだぶっ殺すと心の中で大発狂しながら。
「どうして……僕にしてくれないんだろう……」
まさか最愛の末弟の口からこんな言葉を聞くことになると思わなかった兄たちは言葉を失う。
碧のために優しいことを言うべきか、それとも今は心を鬼にして一輝を悪者にすべきか。頭脳明晰な兄たちでも瞬時に判断できなかった。
「それは……どうしてだろうな。天羽くんはなにを考えているんだろうな」
玄は言明を避け、梗にパスした。
梗は逃げ出した兄を睨みつけ、だが小さい頃から声を出して泣くことのない我慢強く可愛い末弟のいじらしい涙に手を拱く。
「泣かなくてもいいんだよ、碧。もしそれが嫌だったら結婚式が終わったら帰っておいで。僕たちはいつでも碧が帰ってくるのを待っているからね」
「でも……」
「いいんだよ。天羽先輩に『実家に帰らせていただきます』って手紙を書置きして来ればいいんだ」
「そうなの?」
「そうだよ」
梗に抱きしめられ、なんとか涙を落ち着かせる。
もうすぐ式が始まってしまう。
泣いた跡を隠すために冷たいタオルをしばらく目元に乗せられた。
視界を塞がれた碧から離れた場所で兄たちがこそこそとどうするかを密談していたが、彼らとて結論を出すことはできなかった。
出来ればなにも知らないままでいて欲しいが、それで傷ついた碧も見たくない。だからと言って一輝にいい思いをさせるのも業腹だ。もういっそのこと番となった後に毒殺するかとまで言い始めた兄たちだった。
結婚式が始まり、まずは式場内にあるチャペルで、親族のみが参加した挙式が始まった。
父に手を取られながらバージンロードを歩く。十字架が掲げられた祭壇の前に一輝が待ってくれている。同じ白いタキシードを身に着けているのに、やっぱり一輝のほうが華やかだ。その姿にぽうっとなってしまう。
挙式定番の神への誓いを口にし、指輪を交換し誓いの証のキスを促された一輝はじっと碧の顔を見つめたが、いつものように頬へキスを落とした。
(あぁやっぱり……)
唇へのキスはしてもらえないんだ。
泣きそうになるのを必死で堪えた。
泣くのを耐える碧の表情に兄たちは胸が締め付けられる思いで見守っている。だがそれは兄たちだけではなかった。一輝もまた碧の表情を見つめていた。自分のことだけで精一杯になっている碧は気付かないが。
挙式を終え、その後少し休んでから披露宴と場所を移す。
司会と会場の進行のまま言われるがままに歩き、座る。そして終わるまでずっと碧は人形のように座るばかりだった。
親の仕事関係者や政治家が多く集まった披露宴に、顔なじみは家族と親戚だけで、それも一番遠い席だ。
心細くて、世界で一人だけ取り残されたような気持になる。
粛々と進む披露宴で、お祝いに駆けつけてくれたという芸能人の歌などが披露されたが、テレビを見ない碧にはそれが誰だかわからないし、お笑い芸人のスピーチも政治家のスピーチもどうだってよかった。
ロボットのように頭を下げ、式場のスタッフに促されながらなんとか二時間耐え抜く。無理矢理笑顔を顔に貼り付けさせたまま。
「どうしたんだい、碧くん」
何度も一輝がそう訊いてきたが、そのたびに「大丈夫」と答えるので精いっぱいだった。それ以外の言葉を口にしたら泣いてしまいそうだ。
披露宴を終えたら次は二次会だ。
こちらは一輝の部下や友人が集まるという。
「体調がよくないのかい? 少し顔を出すだけにしようか」
「でも……それだとせっかく来てくださった皆さんに申し訳ないです」
タキシードを脱ぎ、母がこの日のためと誂えた煌びやかなパーティスーツへと着替えさせられる。まるで演歌歌手のようなスーツだが頓着しない碧は言われるがままに袖を通す。
「碧くん、本当に無理をしなくていいんだよ」
「大丈夫です……」
「……わかった。その代わり今日はここに泊まろう。このまま帰るのは辛いだろう。部屋を取ってくれ」
一輝の指示に二次会会場となっているホテルのスタッフが頭を下げる。
「……本当に大丈夫なのかい? なにかあったらすぐに私に言いなさい」
「はい……」
二次会会場の扉を開く前にまた、作った笑みを面に貼り付ける。
お祝いにわざわざ足を運んでくれた人たちに失礼のないように。
一通り挨拶を終え、一輝の親しい友人が壇上にいる二人のもとに祝いの言葉を述べに来る。
その中には写真に写っていた女性も多数いた。
(一輝さんのお友達……だよね。もう恋人じゃないよね)
皆一様に祝辞を告げてはじろじろと碧を見つめてくる。居心地が悪く、どんどん気持ちが小さくなる。このまま消えてしまいたい。もう帰りたい、菅原の家に。
泣きそうになる碧を一輝がそっと手を握ってくれた。
顔を上げると優しい笑みがそこにある。だから少しだけ碧も自分の手に力を込めた。
このまま消えたいという気持ちのまま。
月に一度の診療で小学校からずっと通っていた病院を訪れた碧は、ずっとお世話になっている気心の知れた医師の言葉にぱぁぁっと顔を輝かせた。
「本当に!?」
「もう身体もしっかりしてきたからね。突然やめると大変なことになるから、少しずつ減らして、半年後を目標に薬のいらない生活に戻ろうね」
「ありがとう、医師!」
「結婚おめでとう。あの小さかった碧くんがもう結婚する年になったんだね」
「えへへ」
苗字が変わった碧のカルテを感慨深く眺めながら、医師が穏やかな表情で頭を撫でてくる。
「今日の結果を書いた紙を用意するから旦那さんに渡しておくんだよ。この病気は家族の理解が一番大事だからね」
「はい!」
今まで一錠だった薬を今日から半錠にし、それを一か月続けるよう指示され、碧は嬉しそうに診察室を出た。
(一輝さんの言ったとおりだ)
病気はよくなると言い続けてくれた一輝と結婚した途端、改善の方向にいってるなんて、結婚した時と同じくらいの喜びだ。薬を飲まなくなれば、これからもっと好きなことができる。行きたいところにも行けるし飛行機だって乗れるかもしれない。そうすれば半年後の新婚旅行はどこにでも行けるようになる。
嬉しくてスキップしたくなるほど浮かれた碧に、実家からわざわざついてきてくれた執事が会計を済ませ薬を受け取っている。
「いかがでしたか、碧様」
「薬の量を減らしていいんだって。嬉しい」
「それはようございました」
ずっと菅原家を取りまとめている執事が、自分のことのように喜んでくれるのを見て、碧も喜びが増していく。
「ではこちらを天羽様にお渡しください」
渡された封筒と薬を鞄にしまい、乗り慣れた菅原家の車に乗り込む。
通院の日だが、一輝が仕事を抜け出すことができないため、実家に連絡をしてくれ、通院のためだけに来てもらったのだ。
菅原家を実家と呼ぶのがちょっと照れくさいなと思いながらも、久しぶりに会えるのが嬉しかった。
「天羽様との生活はいかがですか?」
優しい執事の言葉に、急に碧の顔が曇った。
「僕……上手くできてなくて……今日も目玉焼き焦がしちゃった」
新米主婦あるあるを聞いた執事と運転手は、碧に気付かれないように相好を崩した。
「せっかくお手伝いさんに教えてもらったのに、全然上手くいかないんだ」
料理だけじゃない。掃除も洗濯も、どうしてか自宅のようにはいかなくて落ち込んでしまうと漏らす。
碧の家事の後を執事と家政婦がフォローしまくったからだとわかっているのに、実家に仕える面々はそれを口にしない。
「勝手が違うのでしょう。新たな家政婦をそちらに派遣しましょうか」
「それじゃあ申し訳ないよ。僕主婦なのに……」
「天羽様はなんとおっしゃってますか?」
「一輝さんは大丈夫とか美味しいとか、それしか言わないから。一輝さんは仕事で帰ってくるの遅いのに、一緒にやろうって頑張ってくれるから申し訳なくて」
本当なら自分が完璧に綺麗にした部屋で一輝を出迎え、美味しい料理でもてなして一日の疲れを癒して欲しいのに、実際は焦げてしまった料理を食べさせ、掃除まで一緒にさせてしまうほどの体たらくぶりだ。ワイシャツはとうとうクリーニング屋に任せようという結論になるしで落ち込んでしまう。
「では家事の先生を派遣しましょう」
「ごめんなさい……」
「謝ることはございません。では早速手配をし、明日からそちらに向かわせます」
「ありがとう。僕本当にダメだなぁ」
「新妻になられたばかりでいらっしゃるのですから、これから上達なさいます」
未だに実家に頼らなければ家の切り盛り一つ満足にできないのがもどかしい。
理想と現実とのギャップに落ち込みながら、マンションまで送ってもらう。
いつものように後部座席の扉を開ける執事に、またしばらく会えなくなるのかと少し寂しさを感じながら車を降りた。
「ではまた来月、お迎えに伺います」
「ありがとう」
自分がエントランスをくぐるまでは執事も運転手もそこを動かないとわかっているから、名残惜しいけれど別れを告げる。そして最上階にある一輝と二人で暮らす部屋に戻ると、流しに置きっぱなしにしていた嫁入り道具の焦げ跡の残るフライパンと格闘する。
「このIHのコンロがいけないのかな?」
実家のとは違うからきっと上手くいかないんだと思いながらも、もしガスコンロで失敗したらもう言い訳できない窮地に立たされている自分を恥じた。
結局今日も、焦げた目玉焼きと苦いコーヒーを出してしまったし、バケットもうまく切れなくていびつな形だった。上手くできたのは手でちぎって皿に盛るだけのサラダだけだ。
キッチンシンクに重ねた食器類を食洗機にいれ、スイッチを押すのだけは上達したが、家事をしている気にはなれない。
実家の家政婦のように手で洗ってみたら見事に割ってしまった過去を思い出す。
「あの時も一輝さんにフォローさせちゃった」
『碧くんが指を切って痛い思いをするくらいなら、文明の利器を活用しよう』
優しい言葉を思い出すと胸が締め付けられる。一輝は家事に不慣れな碧に怒りもしないし、どこまでも優しい。壊滅的な出来栄えの料理でも笑って食べてくれるから余計に情けなくなる。碧が人よりも上手にできることがあるとすれば、絵を描くことぐらいだが家事には全く役に立たない。
簡単に家を掃除して乾燥機にかけた服を取り出し畳んでいく。家政婦のようにきっちりできないが自分のできる精いっぱいをとにかくやってみる。
でももっと上達したいし、一輝のためにできることをもっと増やしたい。
せっかく病気がいいほうに向かっているのだから、もっとちゃんとした奥さんになりたい……。
「僕、一輝さんの奥さんなんだ……なんか夢みたい」
洗濯物を畳む手を止め、頬を赤くする。
執事に何度も新妻と言われてしまってこそばゆかったのを思い出す。
「ふふ、一輝さんの奥さんなんだ」
来月には挙式もする。母たちが張り切っていろんな演出てんこ盛りの式にしたと言っていたけれど、どんな内容なのかは碧も一輝も当日まで内緒にされている。だから詳細は分からないし、招待客リストすら碧の手元にはない。結婚式なんて参加したことのない碧にはわからないことばかりだ。果たしてどんな演出なのだろう。
やれる家事を終わらせると、碧は一輝が自分のために整えてくれたアトリエに入る。
今は実家の庭を最後に描いた風景画を仕上げているところだ。これが終わったら次はこのマンションの窓から見える景色を描くつもりだ。それと、内緒でカッコイイ一輝の姿絵を今制作している。
人物画はやはり難しくて、どうしても一輝のカッコよさがうまく表現できず、何度も描いては消している状態だ。せめて一輝の写真でもあれば上手く描けるのかな。
「そうだ、写真だ!」
ここは一輝の部屋だ。きっと写真だって何枚かあるだろう。
いつも彼が物を収納している寝室のウォークインクローゼットを開ける。畳んだ衣服を収納するついでに、写真がないかを探してみる。クローゼットに備え付けのタンスの横には段ボールが積まれており、いくつか開けてみる。
「ないなぁ」
ならリビングにあるチェストだろうか。
上から順に開けてみると一番下の収納容量が大きい抽斗に無造作に写真が入っていた。
「あった!」
カッコイイ一輝の写真だけちょっと借りようと写真の束を掴み、一枚一枚確認していく。
「ぁ……」
綺麗な女性や男性と抱き合う今よりも少し若い一輝の写真が何枚も出てくる。しかも裸のままだ。抱き合うだけじゃなく唇にを合わせている写真も出てくる。こんなこと、碧はしてもらっていない。抱き合うのだっていつも着衣のままだし、キスは相変わらず頬だ。
「この人たち……一輝さんの恋人さんたちなのかな」
過去なのだと思う。だってもう自分と結婚しているし、帰ってくるのは遅いが仕事だと言っていた。だからこれは昔だ。わかっていても金づちで頭を打ったような衝撃に動けなかった。
抱き合っている中には、一輝の手がスカートの中に入っているものもある。
(恋人同士って、こんなことするの? だったら夫婦は?)
一緒にいて家事して同じベッドで寝て、それで終わりじゃないのか。
「なにこれ……」
女性の豊満な胸を鷲掴みにしている一輝の手に釘付けになった。
ちらりと自分の胸元に視線を移す。
平べったく柔らかさなど全くない胸があるだけだ。当然だ、碧は男だからそこに膨らみなどありはしない。
「一輝さんもしかして……」
碧と写真と同じようなことをしないのはおっぱいがないからか。
それともこれは恋人にすることで妻は違うのだろうか。
どんどん写真をめくっていく。
一輝が裸で抱き合っているのは一人ではなく何人もいる。しかも相手が一人の時もあれば複数の時もある。しかも皆キスの写真は決まって唇だ。頬にキスをしている写真なんて一枚もない。豊満な胸にキスをする一輝もいた。
「ゃっ! なにこれ……」
舌を絡めた写真まである。
碧は慌てて写真をまとめ元の場所に乱暴に戻した。そしてその場から離れるためにアトリエに籠った。
一輝は過去の恋人とこんなことをしているのか。
もしかして、碧としないのは他に恋人がいるからなのか。
疑心が沸き上がってきて拭えない。同時にどうしてだろう、碧の身体の深い場所が熱くなってしまう。
「やだ……なんで?」
碧はイーゼルの前の椅子に座りながら自分の身体を抱えた。あの写真を見てから変な気持ちが沸き上がってくる。裸で抱き合っているのだけでも官能的でドキドキするのに……。
一輝が帰ってくるまで、碧は食事も作れずずっと部屋に籠っていた。
「碧くん、どうしたんだい?」
出迎えのないことを不審に思った一輝がアトリエを覗いてきた。
「ぁ……おかえりなさい」
顔を上げて一輝の顔を見た途端、数々の写真がフラッシュバックして顔が赤くなった。
「ずっと絵を描いていたのかい? キリが良くなったら休憩しよう。ケーキを買ってきたから」
それだけ言って一輝がアトリエの扉を閉めた。
もう一輝の帰ってくる時間になっているのに、あれからなにもしていない。その罪悪感に部屋から飛び出したが、チェストを目にするだけで固まった。
あの中には煽情的な写真がたくさんあるのを知ってしまったし、見てしまったから。
「どうした、碧くん」
「ぁ……なんでもない。ごめんなさい、僕ご飯の用意……」
もう月が昇っている空は暗く、建物には明かりが灯っている。いったい自分は何時間籠っていたのだろう、絵も描かずに。
「絵を描くのに夢中になっていたんだろう。だったら仕方ないよ。今日は早く帰って来れたから、どこかに食べに行こうか」
「でも一輝さん疲れているでしょ」
「今日はそれほど忙しくなかったからね。それにこの辺りは飲食店も多いから、たまには夜のデートをしようか」
デートという言葉に今朝までだったら胸が躍るくらいに喜ぶのに、気持ちが沈んだままだ。
「ごめんなさい」
項垂れたままの碧の髪を撫でる手はやっぱり優しい。仕事で疲れて帰ってくた一輝にまた気を使わせてしまった。家事もまともにできないのに気を使わせてばっかりだ。しかも、昔の写真で変な気持ちにまでなって、今も恋人がいるのではないかと疑ったりしてしまう自分が情けなかった。
こんなにも優しくしてもらっているのに。
涙ぐみ始めた碧に、一輝がキスをしてくれる。いつものように頬へ。
違う、あの写真のように唇にキスして欲しい。自分にもあんな風にして欲しい。だって写真の中の一輝がとても嬉しそうな顔をしていたから。碧だってあんな風に官能的な一輝を見てみたい。自分にキスをしてあんな表情をして欲しい。
でも恥ずかしくて口に出せない。
ただもやもやした気持ちだけが大きくなっていく。
写真を見てしまったことも口に出せず、一輝に肩を抱かれるままにマンションを出た。
「碧くんはなにが食べたい?」
「なんでもいいです」
「……今日は病院だったね。なにかあったの?」
「ううん、薬をね減らそうって言われました。病気もう良くなってきてるから半年かけて飲まなくてもいいようにしようって言われました」
「良かったじゃないか。半年後か……丁度新婚旅行の辺りだね。そうだ、新婚旅行先に希望はあるかい」
「特に……僕よくわからないから」
「では私の方で決めてしまうよ。任せてもらっていいかな?」
「お願いします……」
楽しい未来の話なのに、どうしても手放しには喜べない。
どうして?
何度も自分に訊いてみる。
一体どうしてここまで気持ちが沈んでしまうのだ。
一輝に恋人がいるのは当たり前だ。以前だって一輝の恋人に会ったことがあっただろう、とても綺麗な女の人に。だが一輝は自分の傍に戻ってきてくれた。それだけじゃない、その後に今まで関係のあった人たちと縁を切ったと知らせてくれたではないか。だから碧と結婚を前提の交際をしようと言ってくれ、今碧はその一輝の言葉通り結婚しているのに、なにが不安なのだ。
こんなにも優しい夫である一輝を相手に、どうして悲しい気持ちになってしまうのだろう。
わからない。
どうしていいのかも、自分の中をどう整理していいかもわからない。
でも、モヤモヤしたものが心の中をいっぱいにしている。
お洒落なレストランに連れて行ってもらい、大好きなパスタを口にしてもちっとも気持ちが晴れなかった。
翌日から執事が手配してくれた家事の先生について、一生懸命料理の仕方、掃除や洗濯の仕方を学びながらなんとか気を紛らわせるので精いっぱいだ。
そして迎えた結婚式、碧は式場側が用意した新婦の控室でぼんやりとしていた。女性のようにウエディングドレスや化粧が必要ないので白いタキシードを身に着け髪を整えればそれで終了だ。両親は来客の対応に追われ、ちょっと顔を覗かせるだけですぐにいなくなってしまった。
なにをしていいかわからないまま、ただぼんやりとするしかなかった。
重い気持ちのまま。
「どうしたんだ、碧」
「兄さんたち」
そんな碧を気にしてか、兄たちが控室へとやってきた。
「結婚式だというのに、随分と暗い顔をしているな。天羽となにかあったのか?」
「なにかあったらすぐに言うんだよ。僕たちはどんな時だって碧の味方だ」
二人の兄が傍にいてくれる、それだけで碧は少し元気になった。いつも味噌っかすな自分に優しい兄たちにそっと胸の内を打ち明ける。
「一輝さんの昔の写真を見て……そこにね、女の人と裸で抱き合ったり唇にキスをする写真があったの……でも僕、そんなことしてもらったことない……」
勝手にポロポロと涙が零れてくる。
梗はハンカチで碧の涙を拭きながら苦々しい表情をし、玄は天を仰いで目元を覆った。
あの野郎、なんて写真を撮ってやがるんだぶっ殺すと心の中で大発狂しながら。
「どうして……僕にしてくれないんだろう……」
まさか最愛の末弟の口からこんな言葉を聞くことになると思わなかった兄たちは言葉を失う。
碧のために優しいことを言うべきか、それとも今は心を鬼にして一輝を悪者にすべきか。頭脳明晰な兄たちでも瞬時に判断できなかった。
「それは……どうしてだろうな。天羽くんはなにを考えているんだろうな」
玄は言明を避け、梗にパスした。
梗は逃げ出した兄を睨みつけ、だが小さい頃から声を出して泣くことのない我慢強く可愛い末弟のいじらしい涙に手を拱く。
「泣かなくてもいいんだよ、碧。もしそれが嫌だったら結婚式が終わったら帰っておいで。僕たちはいつでも碧が帰ってくるのを待っているからね」
「でも……」
「いいんだよ。天羽先輩に『実家に帰らせていただきます』って手紙を書置きして来ればいいんだ」
「そうなの?」
「そうだよ」
梗に抱きしめられ、なんとか涙を落ち着かせる。
もうすぐ式が始まってしまう。
泣いた跡を隠すために冷たいタオルをしばらく目元に乗せられた。
視界を塞がれた碧から離れた場所で兄たちがこそこそとどうするかを密談していたが、彼らとて結論を出すことはできなかった。
出来ればなにも知らないままでいて欲しいが、それで傷ついた碧も見たくない。だからと言って一輝にいい思いをさせるのも業腹だ。もういっそのこと番となった後に毒殺するかとまで言い始めた兄たちだった。
結婚式が始まり、まずは式場内にあるチャペルで、親族のみが参加した挙式が始まった。
父に手を取られながらバージンロードを歩く。十字架が掲げられた祭壇の前に一輝が待ってくれている。同じ白いタキシードを身に着けているのに、やっぱり一輝のほうが華やかだ。その姿にぽうっとなってしまう。
挙式定番の神への誓いを口にし、指輪を交換し誓いの証のキスを促された一輝はじっと碧の顔を見つめたが、いつものように頬へキスを落とした。
(あぁやっぱり……)
唇へのキスはしてもらえないんだ。
泣きそうになるのを必死で堪えた。
泣くのを耐える碧の表情に兄たちは胸が締め付けられる思いで見守っている。だがそれは兄たちだけではなかった。一輝もまた碧の表情を見つめていた。自分のことだけで精一杯になっている碧は気付かないが。
挙式を終え、その後少し休んでから披露宴と場所を移す。
司会と会場の進行のまま言われるがままに歩き、座る。そして終わるまでずっと碧は人形のように座るばかりだった。
親の仕事関係者や政治家が多く集まった披露宴に、顔なじみは家族と親戚だけで、それも一番遠い席だ。
心細くて、世界で一人だけ取り残されたような気持になる。
粛々と進む披露宴で、お祝いに駆けつけてくれたという芸能人の歌などが披露されたが、テレビを見ない碧にはそれが誰だかわからないし、お笑い芸人のスピーチも政治家のスピーチもどうだってよかった。
ロボットのように頭を下げ、式場のスタッフに促されながらなんとか二時間耐え抜く。無理矢理笑顔を顔に貼り付けさせたまま。
「どうしたんだい、碧くん」
何度も一輝がそう訊いてきたが、そのたびに「大丈夫」と答えるので精いっぱいだった。それ以外の言葉を口にしたら泣いてしまいそうだ。
披露宴を終えたら次は二次会だ。
こちらは一輝の部下や友人が集まるという。
「体調がよくないのかい? 少し顔を出すだけにしようか」
「でも……それだとせっかく来てくださった皆さんに申し訳ないです」
タキシードを脱ぎ、母がこの日のためと誂えた煌びやかなパーティスーツへと着替えさせられる。まるで演歌歌手のようなスーツだが頓着しない碧は言われるがままに袖を通す。
「碧くん、本当に無理をしなくていいんだよ」
「大丈夫です……」
「……わかった。その代わり今日はここに泊まろう。このまま帰るのは辛いだろう。部屋を取ってくれ」
一輝の指示に二次会会場となっているホテルのスタッフが頭を下げる。
「……本当に大丈夫なのかい? なにかあったらすぐに私に言いなさい」
「はい……」
二次会会場の扉を開く前にまた、作った笑みを面に貼り付ける。
お祝いにわざわざ足を運んでくれた人たちに失礼のないように。
一通り挨拶を終え、一輝の親しい友人が壇上にいる二人のもとに祝いの言葉を述べに来る。
その中には写真に写っていた女性も多数いた。
(一輝さんのお友達……だよね。もう恋人じゃないよね)
皆一様に祝辞を告げてはじろじろと碧を見つめてくる。居心地が悪く、どんどん気持ちが小さくなる。このまま消えてしまいたい。もう帰りたい、菅原の家に。
泣きそうになる碧を一輝がそっと手を握ってくれた。
顔を上げると優しい笑みがそこにある。だから少しだけ碧も自分の手に力を込めた。
このまま消えたいという気持ちのまま。
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