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 結婚の準備と一言で済ますにはやることが多すぎる。

 まずは親への挨拶だ。

 仲人を通してプロポーズした旨を伝え、挨拶へ赴く日程を伺うと、菅原家でもう話が通っているのかトントン拍子に進み、翌週にはきちっとスーツに身を包み、菅原家へとデートではなく訪ねることとなった。

 何度も訪れたことのある菅原家へこんなに緊張して赴くのは初めてだ。定番の「お嬢さんをください」は使わず、淡々と結婚への許しを求めた。隣で碧が緊張した面持ちで座っているが、スムーズに許可は下りた。難癖をつけてくると予想していた兄たちは二人とも仕事で家にいないと言われ、内心ほっとした。彼らがいたら絶対に反対してくるだろう。しかも面と向かってではなく、ねちねちと過去の出来事を引っ張り出して色々言ってくるだろう。それを恐れて昨夜は質疑応答予想マニュアルまで作ったほどだ。

 なにを言われても、碧と出会って変わったことを伝えるだけ、幸せにすると伝えるだけだと頭に叩き込んでいただけに拍子抜けもしていた。

 そんな一輝の過去など、菅原家の財力をもってすでに調査済みだとも知らずに。

 一輝の隣に座っていた碧は、自宅ではそれほど緊張してはいなかったが、一輝の両親に会った時は真逆でカチカチに固まっていた。

「そんなに緊張することはないよ、碧くん」

「わ……わかってます」

 と言いながら、右手と右足が同時に動きそうだ。そこまで緊張しなくてもいいと何度伝えても、返ってくる笑顔が引きつっている。正直、江戸から続く老舗製薬会社である菅原家に比べれば、上場したのは昭和に入ってからという天羽家のほうが格が低い。だから今回の結婚を昔に例えるなら伯爵家の令息を男爵家に迎えるくらいの格差があるのだ。

 そう伝えても碧はそんな大それた家の出身を笠に着るのではなく、ただの高校生として等身大の姿で向かおうとしている。その慎ましさが一輝の両親、特に父に好感を与えたようだ。制服で来たのも良かったようだ。

 普段は気難しい父親が、碧が挨拶をした途端、相好を崩し歓迎の言葉を伝えてきた。

「よく来たね。碧くんの話はよく一輝から聞いているよ」

 嘘だ。一度だって話したことはない。碧のことは見合いの釣り書きを見ただけで今まで興味も覚えていなかったはずだ。だが実物の碧を目にしたら気に入るとは感じていた。

 正直、天羽家は小動物系の人間に弱い。普段格好つけているが。

 一輝がそうであるように厳つい顔立ちの父もだ。目の前で仔猫が鳴こうものなら拾って帰ってしまうくらいだ。

 碧の纏う空気に触れればすぐに気にいると思っていたが、予想に反しはしなかった。

 一輝の隣に座らせるのが定石だが、なぜか父は自分の隣に招き、緊張しまくっている碧もそれに従う。

「あ、ちょっと!」

 一輝が止めるのも聞かずに自分の隣に置き、甲斐甲斐しく世話を焼こうとする。お茶を勧めたりお菓子を勧めたりと本題に入るまでに時間がかかる。焦れて話を切り出したのは一輝だった。

「父さん、碧くんは今日挨拶に来ているんですよ」

 穏やかな口調で、だがオーラで威嚇していく。オメガの碧には気づかないようだが、分かっていて父は笑い、いなしもせず一輝の存在を蚊帳の外に置こうと碧に向き合った。

(くそ親父がっ!)

 碧の前では決して口にしない罵りを心の中で叫ぶ。

「碧くん、父に話すことがあるんだろう」

「ぁっ、そうだ。あの……」

 碧は居住まいをただすと、一輝の父と目を合わせ勢いよく言葉を吐き出した。

「一輝さんを僕に下さいっ!」

「へ?」

「はい?」

 天羽家の男どもが揃って変な声を出す。

「碧くん……あの、私をくださいって……え?」

「結婚のご挨拶でこういうのが伝統だって兄さんに聞いたんですけど」

「いや、それは昔よく言っていたけど、今は違うんだよ」

 必死で説明する一輝の頭の中に、白いタキシードを着た碧とウエディングドレスの自分の姿が浮かびはじめ、慌ててそれを打ち消した。

 どう考えたってウエディングドレスが似合うのは碧の方だ。

 そういう事ではなく、こんなちまちまとした意趣返しを仕込んできたのか、あのバカ兄たちは!

 当然心の中で叫んで、おくびにも出さない。

「今どきは『結婚したいと思っています』とか『結婚を許していただけますか?』というのが主流でね」

「そうなんですか? 言わないんですか?」

「もう言わないね、元号二つ前くらいに使われていたものだから」

「ごめんなさい、僕知らなくて」

「いや、碧くんが悪いわけじゃないんだから謝らなくてもいいよ。もう一回やり直しをしようか」

 そのやり取りに一輝の父が豪快に笑う。

「菅原家にやれないが、碧くんにはこのバカ息子をやろう。なんだったら家と車も付けるぞ。ペットもいるか?」

「そんなっ、一輝さんだけで充分です! ペットは飼ったことがないので憧れるんですけど」

「ほう、どんなのに憧れるんだ?」

「綺麗な大型犬と一緒に住むのが夢なんです」

「ボルゾイやサルーキなどかな」

「一輝さんのお父さん、犬に詳しいんですね。凄い! 僕名前がよくわかってないんです。でもいきなり大型犬よりは小型犬のほうが良いのかな?」

「いやいや、トレーナーをつけておけば問題あるまい」

「そうなんですか? 僕、こういう感じの犬がいいんです」

 そして始まった犬談義は、別れる間際まで続き、その間一輝は一言も口を挟めなかった。

 最初から口を挟む気が全くない母親がぼそりと「こうなると思ったわ」と呟いただけだった。

 挨拶が済めば次は結納で、滞りなく進み、式場は自分たちで選ぼうと思っていたが、会社関係の兼ね合いで両家の母親が主導となり進められたため、一輝と碧は置いてけぼりになってしまった。元より式場にそれほど思い入れのない二人なのでそのまま任せることになった。

 一番面倒な部分を女性陣に任せてしまったのでぽかりと時間が空いてしまい、その間に二人の生活のビジョンを話し合った。

 一輝の部屋に招き入れ、碧の希望を訊いた。

「家はパパさんからたくさんパンフレット届きましたけど、どうしよう……」

 一輝の両親を「パパ、ママ」と呼ぶよう言われた碧は、素直に親しみを込めて「パパさん、ママさん」と呼び始めている。それを聞くたびに青筋が浮かんでしまうのを一輝は制御できないでいた。

 厳つい顔をしてなにが「パパ」だと毒づいてしまう。

「碧くんが住むんだから自分の理想の家にすればいいよ。どんなのが好みかな」

「僕あまり詳しくないんですけど、一輝さんに連れて行ってもらった都の庭園美術館の建物は好きです。二人で住むには大きいですけど」

「なるほど。ではあの建物をベースに必要な部屋数を考えよう」

 子供の数……と言いかけて慌てて口をつぐむ。まだ結婚していないからバースに関する話はできない。今まで話した限り、バース関係の知識は疎いどころか、無知だ。法律上、男同士で結婚できるようになっているから、結婚に対してはすんなりと受け入れているだろうが、いざ子供の話となると理解しているかが疑問だ。

 こんな状態で家の設計なんてまだ早い!

 きちんと家族計画を立ててからでなければ……。

 一輝はすぐにでも新居をと考えていたが一度その考えをリセットした。

「急がなくてもいいよ、碧くん。いい家は時間をかけて練っていくというからね。せっかくだから家具も凝った物にしよう」

「……でもそれまで一輝さんと一緒に住めないの?」

 それは絶対に嫌だ! 別居婚大反対。

 しかも碧が少し寂しそうな顔をしているのがまた可愛い。早く自分と暮らしたいと思ってくれているのがもういじらしくて、鼻の下が伸びるどころかこのまま押し倒したい。

 やらなくてもせめてキスだけ……。いやいや、まだ婚約段階だ。菅原家からは結婚してからすべて解禁と提示されているんだ。ここまで来て婚約破棄なんて悲しい結果だけは避けたい。

「新居が建つまでここに住むのはどうかな? 私は一日でも早く碧くんと一緒になりたいな」

 一緒の意味が様々あるのは内緒にして伺いを立てる。

「そうか! 一輝さん本当にすごいなぁ。僕、家ができるまで一緒に住めないと思ってました。急がなくていいんですね。パパさんにそれ、伝えます」

「……父に伝えるって連絡先を知っているのかい?」

「はい。これ貰ったんです」

 取り出したのは三か所だけ発信できる子供向け携帯電話だ。

「これ、自宅と父の会社とパパさんとお話ができるようになっているんです」

 その手があったが。

 だがなぜそこに一輝の電話が入っていないのか。どう考えても父の嫌がらせだ。挨拶以来、我が子以上に碧のことを可愛がり、欲しいものはないかとあれこれ気にしている。まさか、直接連絡するために携帯電話を渡すとは。

 菅原家からなにもクレームが出ていないところを見ると、周到に根回しをしているのだろう。

「その番号を教えてくれるかい。そうしたら私も碧くんに連絡ができるね」

「番号? これかな?」

「……それは型番だね。電話番号があると思うんだけど」

「これ、電話なんですか?」

 情弱とはわかっていたが、ここまでか。さてどうしようか。

 いやいやいや、今はとにかく婚姻届けを出すことを目標にしよう。

 心を落ち着かせてもう電話のことを忘れることにした。諦観の極みだ。そのうちあの電話を水没させてやると心の奥で誓いながら。

「碧くんは気にしなくていいよ。家のことはゆっくり詰めていこうね。ここに越してくるのは婚姻届けを出した日でいいかな。高校の卒業日にするかい? 提出するのに希望の日はあるかい?」

「そうですね……いつでもいいんですか?」

「平日や祝日でも大丈夫なはずだよ。入籍は結婚式と同日でなくてもいいしね」

「同じ日じゃなくていいんですね。なら卒業式の次の日がいいです。卒業式の日は家族と一緒にいたいから……」

 最後の子でいる時間を味わいたいのだろう。

 寛容な婚約者の余裕を見せる。

「そうだね。それがいいと思うよ。入ってすぐの部屋を碧くんのアトリエにしよう」

「ここで絵を描いてもいいの?」

「当たり前だろう。私は碧くんの描く絵が大好きなんだから」

「一輝さんありがとうございます!」

 嬉しさに抱き着いてくる碧に、健全な男子である一輝はいろんなところがむらむらしてくる。

 もう押し倒したい。

 そうでなくても出会ってから手を出さない記録を日々更新中だ。今までだったらちょっとでも抱き着いてきたらすぐに美味しくいただいていた一輝にとって、地獄だ。

 可愛いのに、愛おしいと思っているのに、なにもできない。

 これを生殺しと言わずになんだというのだ。

 だがこれもあと半年!

 あと半年でこの可愛い子を一生美味しくいただけるのだ。

 今は修行僧のように耐えるだけ。

 下半身の変化に気付かれないように碧を離し、笑顔を向ける。

「ベッドは私と一緒でいいね、夫婦になるんだから」

「はい!」

 満面の笑顔はやっぱりかわいい!

 人間、萌えだけでは死なない。死にそうになっても本当に死ぬことはない。本懐を遂げるまでは!

 着々と未来図を描いていく。

 婚姻の日が決まれば結婚指輪選びだ。

 絵を描くのに邪魔にならないようにとシンプルなものを、ハイジュエリーブランドを廻る。

 こうやって一つ一つ、二人の手で作り上げていくのが家族になるということなのだろう。

 碧と一緒に考える時間が長くなればそれだけ、距離が縮み心が近くなっていく。

 よく結婚する恋人たちがこの作業でケンカして別れると聞いていたが、碧となら全く苦にならない。むしろ嬉しいし、一つ決まるごとにそれを当たり前とせず、毎回嬉しそうに笑いかけてくれるのだ。可愛く幸せな表情ばかりを見せられるから、自分の中の碧がどんどん可愛くなっていく。麻薬のように彼の笑顔が見たくて、自分のことよりも碧の気持ちを優先してしまう。

 粛々と準備を進め、冬休みには様々なモデルルームをめぐり家のイメージを膨らませる。

 そして正月は最後の家族だけの年明けを過ごさせようとじっとしていたが、三日で耐えきれなくなりまたデートに誘う体たらくぶりを披露してしまうのだった。

 もう一輝の人生に碧がいないのが考えられない状態になっていた。

 ただただ可愛い彼をベッドの中で慈しむことばかりを考えてしまう。

 ダメだと自分を戒めても、妄想は止められない。

 淡い桃色の唇を塞いだらどんな表情をするんだろう。

 いつもきっちりと首元まで乱さない衣服を剥がし押し倒したらどうなるんだろう。

 白い肌を貪ったらどんな反応をするだろう。

 そして彼の中に己の物を収めた時の感触は……。

 一人でいるとそんなことばかりを考えてしまう己のケダモノっぷりに嘆息しながら、だが一日でも早くその日が来るのを待ち望んでいる。

 挙式の日取りも招待客も母親たちの采配で決まっているし、当日の服も勝手に決められてしまった。

 着るものに興味のない碧は母親の言う通りの白いタキシードに納得していたが、一輝としてはウエディングドレスを着せたかった。こっそり碧の母に打診したが、一応男の子だからと毒のない笑顔であえなく却下された。

 新婚旅行だけは一輝の長期休暇が取れないため、九月までお預けだが、行先ももう決まっているので、あとは碧の卒業を待つだけだった。

 既に証人欄までもすべて埋め尽くされた婚姻届けを届けるばかりとなった三月。

 卒業式に参加したいと切望していたが、三月の営業部は最後の追い込みで容易に時間を作ることができない。

 今年は前半期の営業成績が過去最高だっただけにあくせくする必要はないが、それでもみっともない数字で結婚などできない。

 とにかく仕事に打ち込み、卒業式の翌日を待つ。

 そしてとうとう、その日が来た。

 一輝は浮かれながら碧を迎えに行く。区役所に届けるための婚姻届けをしっかりと握りしめ、愛車へと乗り込む。

 日曜日でも婚姻届けを出すことができるのは有難い。碧をこの助手席に乗せたらもう、門限など気にせず彼とずっと一緒にいられるのだ。帰すこともなく、ひたすら自分の隣に縛り付けられる。一緒に食事をするのも寝るのも自分だけ。それが、夫の特権。

 嬉しすぎて鼻の下が伸びるのを止められない。

 あのいけ好かない菅原兄弟にこの脂下がった顔を見せてやりたい。

 そんな気持ちで向かった菅原家では、碧が大きなボストンバッグだけを持って待っていた。

「あれ、ご家族は?」

「みんな昨日休んでくれたので、今日はお仕事なんです」

 少し寂しそうだ。今にも泣きそうな碧に慌ててフォローする。

「近いしいつでも来ることができるんだから。寂しくなったら顔を出せばいいよ」

「そうだよね。いつでも帰ってきていいんですよね。良かった」

 さすがに生まれ育った家を離れるのは寂しいのだろう。それは仕方ない。だが彼がこれ以上寂しくないようにするのは自分の仕事だ。いくらでも寂しさを紛らわせてやろうじゃないか。

 下半身に意気込みを入れていると執事がそっと寄ってきた。

「天羽様、こちらが碧様の『病気』と『薬』に関する資料でございます。月に一度の受診をお願いします」

「……碧くんの『病気』だが、もう投薬の必要はないのでは……」

「そちらにつきましては主治医とご相談くださいませ。わたくしでは判断いたしかねます」

 もっともだ。彼は医師でも薬剤師でもない。

 資料だけを受け取り、碧を車に乗せる。

「では行ってきます」

 いつもと同じ挨拶をする碧に、彼が生まれた時から見守ってきた執事はしわの多い目元に僅かに涙を浮かべる。

「行ってらっしゃいませ、碧様」

 いつもと変わらないやり取りをする彼らの哀愁を振り払うように車を出発させた。

 まずは区役所だ。

 時間外窓口へと向かい、二人で書類を出す。記入漏れがないかだけをチェックされあっさりと受理される。

 想像していたよりもずっとあっさりしていて呆気にとられたが、これで晴れて彼は天羽碧で、自分の妻だ。

 これでようやく本懐を遂げられる。

 感慨にふけながら、一輝は慌てて車を自宅へと向ける。これからあんなことやこんなことをするぞ! と意気込むが、一輝のマンションに着くとその入り口に引っ越し屋のトラックが停まっていた。

「早い、もう着いたんだ」

「あれ、碧くんの荷物かい?」

「はい。家具は家ができるまでは家に置かせてもらう約束はしたんですけど、思ったよりも絵が多くて。入るかな?」

「……入らなかったらトランクルームをレンタルしよう。とにかくどれだけあるかわからないから運んでもらおうか」

 すぐには二人きりになれないのか。いや、彼らだって荷物を運び終えればすぐに帰る。早く終わらせようと玄関を開け彼らと荷物を迎え入れる。

 碧のために空けた八畳の部屋はすぐに絵で埋まり、イーゼルと椅子を置けばもう身動きが取れなくなる。

「思ったよりも絵が多くてごめんなさい。こんなにたくさんあったなんて自分でもびっくりです」

 入りきれなかったキャンバスはリビングまではみ出てしまい、急に部屋が狭く感じるようになった。

 いやいや大丈夫。新居の詰めを急げばいいんだ。

「大丈夫だよ碧くん。どれも綺麗な絵じゃないか。一部を飾ればいいんだよ」

「ダメ、恥ずかしいよ。そんなに上手じゃないから」

「いいじゃないか。碧くんの絵を見せてくれる?」

 キャッキャウフフと飾る絵を選んでいる間にもう夜だ。時間の経過の速さに愕然としつつ、気付かれないように余裕の振りをした。

 今日のために注文していたデリバリーディナーが到着して、初めての二人の夜を祝う。

「これからよろしくね、碧くん」

「はい……本当に結婚したんだ。全然実感がないです」

 碧の前で軽くアルコールを口にして、交互に風呂を済ませる。

 身体の隅々まで綺麗に洗い、歯も美しく磨き上げ、髪もすっかり乾かして部屋に戻ると、碧はソファで深く眠ってしまっていた。

「碧くん?」

 あの、今日は新婚初夜なんですけど。二人でイチャイチャして身体で語り合う夜なんですけど。

 声をかけても疲れすぎた碧の耳には届かないようだ。

 このまま襲ってしまうか……。

 いやいや、初夜だがこれから毎日一緒にいるんだ。焦るのは男らしくないぞ。

 それに、碧は今日初めて実家ではない場所で眠っているのだ。修学旅行すら行ったことのない碧にとって初めての経験なのだから慣れるまで無理をさせるのは可哀想だ。

 まだ少し濡れている髪を撫で、細い身体をベッドに運び、起こさないようにそっと下ろして布団をかける。

「ゆっくり休みなさい」

 穏やかに眠る碧の安らかな寝顔をたっぷりと堪能した後、執事から渡された書類のことを思い出した。

「どんなことが書いてあるんだ?」

 封筒には病院の場所と医師名、そしてしばらく性行為の禁止が大きく書かれた紙が入っていた。

「禁止!?」

 なんでだ。夫婦になったというのにやることやらなかったら意味がないだろう。

 だがその説明が明細まで書かれていた。

 碧が常用しているグルゴーファは発情抑制剤の中でも特殊な薬で、男性オメガだけに使用が許可された特異なものであった。ただ発情を完全に抑えるだけではなく性欲も生理現象もすべてをシャットアウトしてしまうため、服用中の身体はベータと全く変わらないものとなっている。突然服用をやめてしまうと身体が、大量に放出されるオメガ特有のホルモンに耐えきれず様々な不調を起こしてしまうため、医師の指導の下に少しずつ量を減らさなければならない。

 だから、ホルモンの分泌を促進させる性行為をしてしまうと、身体に負担をかけさせてしまうので『絶対禁止』と書かれていた。

 薬を完全に抜くにはおおよそ半年かけて行う、と。

「まさかの生き地獄か……」

 一輝は床に手をついて落ち込んだ。こんな現実なんて知りたくなかった。

 まさか全く手を出せない状況をあと半年も続けろというのか……。

「無理、絶対に無理!」

 だが抱いてしまえば碧の身体になんらかの負担がかかってしまう。それは避けたい。

 どうしたらいいのか……。

 簡単だ。あと半年我慢し続けるだけ。

 たった半年……半年も我慢できるか自信がない。もう楽しみにしすぎて下半身ビンビンにして風呂から出てきたのにまた長い時間右手だけで慰めなければいけないのか。しかも、今度は碧と一緒に暮らしながら、彼に気付かれないように自己処理を済ませなければならないなんて。

「これが因果応報ですか神様……」

 今まで信じたこともない神のいたずらとしか思えなかった。

 碧と会うまであんなところやこんなところで色々な人々と遊びすぎたせいだ。アルファのオーラを振り回して好き勝手やりすぎたツケが今になって回ってきたのだ。過去を顧みて深く反省しろと言われているような気持になる。

「反省します、本当にごめんなさい」

 一人の薄暗いリビングで土下座する姿を月明かりがそっと見つめているだけだった。
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