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26『バニラエッセンス』
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RE・友子パラドクス
26『バニラエッセンス』
後年言われた結衣のフェロモン騒動はひとまず収まった。
―― 普通で十分だ ――
昭二の心で結衣は思った。
やっと人並みの青春が取り戻せる。女子高生としてではあるけれど、七十年以上前にリアルの肉体は失っているので性別などはどうでもいいと思った。自分の足で立ち、自分の手で物を掴み、自分の肌で風を感じる。それがとても素晴らしい。それまでの幽体では何を見ても映画のスクリーンを通して見ているようだったし、なにに触れても軍手をはめて触っているように頼りなかった。それが、今は義体とはいえ感覚は生身の体と変わらない。それだけで十分だ。
そう噛み締めながら結衣は昭二の心で乃木坂を下った。
もう、それほど人も振り返らない。でも、これでいい。昼休みまでのわたしに向けられた関心は、宇宙戦艦に残っていたアテンダント義体の魅力でしかない。紀香と友子が、それを程よく抑制してくれた。これで普通。あこがれの普通!
結衣は駅まで三百メートルの乃木坂をスキップして下った。
パンケーキの店の前で信号に引っかかってスキップは止んだが、七十二年ぶりの生きた体はリズムをとることをやめなかった。
そして、そのリズムに弾む姿には、ついさっき走れるようになった幼子のような初々しい嬉しさと可愛さが滲み出て、パンケーキ屋の前の列は乱れ、マスターはパンケーキの鉄板でヤケドをしてしまった。
信号が青になり、結衣が地下鉄の駅に降りて、パンケーキ屋の騒ぎも、それ以上には大きくならずに済んだ。
「大丈夫かなぁ……」
友子はもう少し後をつけてみることにする。
地下鉄では運転手が見とれてオーバーランしかけて気をもんだ。初々しい感性というものは、多少の外形的な魅力を引き算しても溢れてきてしまうものなんだ。弟の一郎は生まれながらに風采のあがらない三枚目だったが、幼稚園の年長さんのころまでは人から可愛いと言われたものだ。
そう思い出してみると、向かいのデジタルサイネージが目に入った。
美粧堂(一郎の会社)のデジタルサイネージだ。一期前のもので、先日発表された若々しいルージュのものではなく、売り上げが芳しくなかった仏頂面の大人の魅力的なやつだ。どうやら、駅の構内広告の切り替えは始まったばかりで、乃木坂までは手が回っていない。
そうか、この仏頂面だ。
思念を電気信号に変えてデジタルサイネージ点滅させる。気づいた結衣は――あ、これだ――と真似をしてみる。
とたんに人の視線を感じなくなった。
住居を設定されている本郷三丁目で降りたところまではよかたっが、結衣は住まいとは反対の東京ドームの方に歩き出した。
「あれ?」
友子は後をつけた。
東京ドームの周辺には、東京都から「ヘブンリーアーティスト」という資格をもらって、路上パフォーマンスをやっている人たちがいる。美粧堂風の仏頂面にして人の視線が減った分、聴覚が敏感になり、かすかに聞こえてくるサウンドが結衣をひきつけたようだ。
結衣は一組のユニットに引きつけられている。
「バニラ」という風采の上がらないディユオの前で結衣の足が止まった。
結衣の様子から、興味があるんだろうと思って友子は聞いてみた。
《ぼくの おいたち》 作詞:岩崎広也 作曲:西川康志
潤んだヒトミ 最後の言葉が尻餅ついて震えるクチビルに
ぼくは キスキス キス キス ホッチキスー!
そのとき ぼくは知ったんだ キミのクチビルに付着したタコの焼き青のりにぃ! 零れた前歯の紅ショウガぁ!
キ・ミ・は ぼくのアルテミス ミスアルテミス! オ~オ アルテミス!
調子がいいだけのコミックソングにまばらな拍手が起こる。バニラの二人は、ひそかに――もうこれでやめよう――と気弱な笑顔で思った。まばらな聴衆も――そうしたほうがいい――と心の中で思った。
パチパチパチパチパチパチ!
そんな中、結衣は一生懸命、目を潤ませて拍手していた。
周りの人たちは、その拍手にも驚いたが、結衣のかわいさに見とれてしまい、バニラの二人は、なにかテレビ局がドッキリでAKRかどこかの子を仕掛けてきたのかと思った。
そして、結衣は口走った!
「コードをマイナーにして、わたしに歌わせてください!」
「え、あ、うん……」
そして、押されたように、結衣にスコアを渡し、マイナーで弾き始めた。
コミックソングである《ぼくの おいたち》が、とても情感のあるバラードになった。
観客はしだいに増えていった。
その様子は、SNSに投稿されて評判になり、翌週にはテレビの取材が入り、週末には中規模のプロダクションにスカウトされ、ユニット名もバニラエッセンスと改名し、夏の終わり頃には忙しいテレビ出演に追われることになった……。
☆彡 主な登場人物
鈴木 友子 30年前の事故で義体化された見かけは15歳の美少女
鈴木 一郎 友子の弟で父親
鈴木 春奈 一郎の妻
白井 紀香 2年B組 演劇部部長 友子の宿敵
大佛 聡 クラスの委員長
王 梨香 クラスメート
長峰 純子 クラスメート
麻子 クラスメート
妙子 クラスメート 演劇部
水島 昭二 談話室の幽霊 水島結衣との二重人格
26『バニラエッセンス』
後年言われた結衣のフェロモン騒動はひとまず収まった。
―― 普通で十分だ ――
昭二の心で結衣は思った。
やっと人並みの青春が取り戻せる。女子高生としてではあるけれど、七十年以上前にリアルの肉体は失っているので性別などはどうでもいいと思った。自分の足で立ち、自分の手で物を掴み、自分の肌で風を感じる。それがとても素晴らしい。それまでの幽体では何を見ても映画のスクリーンを通して見ているようだったし、なにに触れても軍手をはめて触っているように頼りなかった。それが、今は義体とはいえ感覚は生身の体と変わらない。それだけで十分だ。
そう噛み締めながら結衣は昭二の心で乃木坂を下った。
もう、それほど人も振り返らない。でも、これでいい。昼休みまでのわたしに向けられた関心は、宇宙戦艦に残っていたアテンダント義体の魅力でしかない。紀香と友子が、それを程よく抑制してくれた。これで普通。あこがれの普通!
結衣は駅まで三百メートルの乃木坂をスキップして下った。
パンケーキの店の前で信号に引っかかってスキップは止んだが、七十二年ぶりの生きた体はリズムをとることをやめなかった。
そして、そのリズムに弾む姿には、ついさっき走れるようになった幼子のような初々しい嬉しさと可愛さが滲み出て、パンケーキ屋の前の列は乱れ、マスターはパンケーキの鉄板でヤケドをしてしまった。
信号が青になり、結衣が地下鉄の駅に降りて、パンケーキ屋の騒ぎも、それ以上には大きくならずに済んだ。
「大丈夫かなぁ……」
友子はもう少し後をつけてみることにする。
地下鉄では運転手が見とれてオーバーランしかけて気をもんだ。初々しい感性というものは、多少の外形的な魅力を引き算しても溢れてきてしまうものなんだ。弟の一郎は生まれながらに風采のあがらない三枚目だったが、幼稚園の年長さんのころまでは人から可愛いと言われたものだ。
そう思い出してみると、向かいのデジタルサイネージが目に入った。
美粧堂(一郎の会社)のデジタルサイネージだ。一期前のもので、先日発表された若々しいルージュのものではなく、売り上げが芳しくなかった仏頂面の大人の魅力的なやつだ。どうやら、駅の構内広告の切り替えは始まったばかりで、乃木坂までは手が回っていない。
そうか、この仏頂面だ。
思念を電気信号に変えてデジタルサイネージ点滅させる。気づいた結衣は――あ、これだ――と真似をしてみる。
とたんに人の視線を感じなくなった。
住居を設定されている本郷三丁目で降りたところまではよかたっが、結衣は住まいとは反対の東京ドームの方に歩き出した。
「あれ?」
友子は後をつけた。
東京ドームの周辺には、東京都から「ヘブンリーアーティスト」という資格をもらって、路上パフォーマンスをやっている人たちがいる。美粧堂風の仏頂面にして人の視線が減った分、聴覚が敏感になり、かすかに聞こえてくるサウンドが結衣をひきつけたようだ。
結衣は一組のユニットに引きつけられている。
「バニラ」という風采の上がらないディユオの前で結衣の足が止まった。
結衣の様子から、興味があるんだろうと思って友子は聞いてみた。
《ぼくの おいたち》 作詞:岩崎広也 作曲:西川康志
潤んだヒトミ 最後の言葉が尻餅ついて震えるクチビルに
ぼくは キスキス キス キス ホッチキスー!
そのとき ぼくは知ったんだ キミのクチビルに付着したタコの焼き青のりにぃ! 零れた前歯の紅ショウガぁ!
キ・ミ・は ぼくのアルテミス ミスアルテミス! オ~オ アルテミス!
調子がいいだけのコミックソングにまばらな拍手が起こる。バニラの二人は、ひそかに――もうこれでやめよう――と気弱な笑顔で思った。まばらな聴衆も――そうしたほうがいい――と心の中で思った。
パチパチパチパチパチパチ!
そんな中、結衣は一生懸命、目を潤ませて拍手していた。
周りの人たちは、その拍手にも驚いたが、結衣のかわいさに見とれてしまい、バニラの二人は、なにかテレビ局がドッキリでAKRかどこかの子を仕掛けてきたのかと思った。
そして、結衣は口走った!
「コードをマイナーにして、わたしに歌わせてください!」
「え、あ、うん……」
そして、押されたように、結衣にスコアを渡し、マイナーで弾き始めた。
コミックソングである《ぼくの おいたち》が、とても情感のあるバラードになった。
観客はしだいに増えていった。
その様子は、SNSに投稿されて評判になり、翌週にはテレビの取材が入り、週末には中規模のプロダクションにスカウトされ、ユニット名もバニラエッセンスと改名し、夏の終わり頃には忙しいテレビ出演に追われることになった……。
☆彡 主な登場人物
鈴木 友子 30年前の事故で義体化された見かけは15歳の美少女
鈴木 一郎 友子の弟で父親
鈴木 春奈 一郎の妻
白井 紀香 2年B組 演劇部部長 友子の宿敵
大佛 聡 クラスの委員長
王 梨香 クラスメート
長峰 純子 クラスメート
麻子 クラスメート
妙子 クラスメート 演劇部
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