上 下
120 / 139

120≪牛乳が切れていたので≫

しおりを挟む
新・ここは世田谷豪徳寺・23(幸子編)

120≪牛乳が切れていたので≫



「牛乳きれてるよ」

 亭主が平板な声で言った。若いころは落ち着いたバリトンに惚れたもんだけど、今はただの鈍いオヤジにしか見えない。

「さつきじゃないの? スコットランド人を助けたとかなんとか言いながら冷蔵庫開けてたから」

 今日は日曜だ……けど、亭主は図書館勤務なので仕事がある。今からコンビニに買いに行っては出勤に間に合わない……こともないんだけど面倒だ。

「……インスタントコーヒーにしとくか」

「ペットボトルのがあったわよぉ……」

「……ないぞぉ」
「え、ペットボトルのも空なの?」

「さくらだな。昨夜は遅くまで本読んでたみたいだから」


 あいかわらず平板な声でそういうと自分でスクランブルエッグを作り始めた。やや脂肪肝なので油を控えてレンジでスクランブルエッグを作っている。なるほど、これなら油使わずにすむけど、あとでドッチャリマヨネーズを入れたら同じことだと思うんだけど、男のこういうこだわりにはチャチャを入れない方がいいのは28年も夫婦やってれば分かる
 
「行ってきまーす」

 鉋くずのような平板声で亭主は出勤。娘たちは昼近くまで寝てるだろうから、ここからはあたしだけの時間。
 あんまり……ほとんど売れていないけど、これでも作家の端くれ。来月末までと期限を切られた短編のプロットを考える。洗濯はそれから、娘二人の目覚まし代わりにかけてやればいい。

 今日は宮沢賢治の命日……それだけで、いい話が……浮かんでこない。

 だいたい、この作家の大先輩の命日も、朝一番に見た新聞のコラムから。
 アイデアが浮かばないときは、やたらに他のことがしたくなる。たっぷりの牛乳が入ったカフェオレが飲みたくなる。で、先ほどの亭主の牛乳のことなど、すっかりとんで、お財布掴んで駅前のコンビニを目指す。

 コンビニの前で運命に出会ってしまった。

 直観で、ジョバンニだと思ってしまった。

 チノパンにカーキグリーンのシャツ。髪は自然な褐色で、憂いを湛えた横顔は、まさにジョバンニ。こんな朝っぱらから銀河のお祭りに行くわけでもないだろうけど、なんだか気になってあとを着けてしまう。
 ジョバンニは、路線図を見て切符を買った。豪徳寺に来て間もない子なんだろうか、不慣れな様子がとても初々しい。ついスイカを使って改札をくぐってしまう。

 で、けっきょく渋谷まで付いてきてしまった。

 まだ渋谷は9時をまわったところで、渋谷としては一番閑散とした時間だ。ジョバンニはぐるっと駅前を見渡すとハチ公の近くに寄った。あたしの中で妄想が膨らむ。これはカムパネルラと待ち合わせているに違いない。

 こういう追跡観察は、程よく距離を取って付かず離れずが大事だ。あたしは視野の端でジョバンニを捉えてカムパネルラが現れるのを待った。

 5分ほどして……現れた!

 男の子ではなかったけど、サロペットが良く似合う女の子だ。
 あたしは年甲斐もなく完全に銀河鉄道の世界に入り込んでしまった。

 そこに、洗いざらしのシャツのオッサンが二人に近寄って、一言二言。すると、とたんに二人はジョバンニでもカムパネルラでもない、ただの若者になってしまった。

 そして、あろうことか、あたしに近寄ってきた。

「すみません、僕たちテレビの撮影なんです。まわりの人たちに意識されないように、遠くから撮ってるんですけど、オバサン豪徳寺からずっと付いてこられたでしょ。すみませんけど、被っちゃうんで、ご遠慮願えませんか」

「え、テレビの撮影!?」

「はい、こういうの撮ってます」

 オッサンは、丸めた台本を見せた。『渋谷銀河鉄道』と書かれ、銀河放送のロゴが入っていた。

「どうもすみませんでした。良い雰囲気の子だったんで、つい……あ、あたし、こういうものです」

 普段めったに使わない名刺を出した。

「あ、作家の佐倉幸子さんだったんですか。おーいみんな、こっちこっち!」

 二人の役者さんの他にもカメラマンや音声さんなどが集まってきた。で、10分ほど立ち話して別れた。

「あーあ、なんだテレビの撮影だったのか」

 独り言ちて一瞬空を見上げ、視線を戻すと、撮影班の姿はどこにもなかった。全部で10人近くいた人たちが忽然といなくなった。

「え、ええ……?」

 冷静に考えたら銀河放送なんて聞いたこともない。念のためスマホで検索。やはり出てこない。だいいちあたしのことを作家だと知っている人などほとんどいないのに、あの撮影班は、あたしの作品をかなり読んでいる形跡があった。

 まあ、牛乳が切れていたからおこった奇跡だと、思えるほどの大人子どもなあたしです。

 そうだ、お洗濯しなくっちゃ! 

 急いで豪徳寺に戻るあたしでした。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...